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尾瀬ヶ原

 その年、わたしは初めて尾瀬に行った。今から五年前のことである。
   その日、数日前までの雷雨の予報が、突然晴れに変った。朝から、雲一つない真っ青な空がどこまでも続いていた。日差しは強いが風は爽やかだった。
    それまで天候不順が続き、冷え冷えとした真冬のような寒さの後に、ぎらぎらとした太陽が照りつける真夏のような暑さが交錯していた。なかなか五月晴れと言えるようなすがすがしい日がなかったが、六月になって初めて、そう呼べる日が来たように思う。

    わたしは現役時代から「雨男」と呼ばれていた。よく大きなイベントで大雨に泣かされていたからだ。リハーサルまでは快晴だったのに、本番になると必ずと言っていいほど雨に見舞われた。不思議なものである。個人的な旅行なら、雨もまた風情だと負け惜しみを言って楽しめばよいが、公式な行事ではそうはいかない。特に、屋外のイベントでは雨に祟られると、それまでの準備が台無しになったり、当日の急な対応を迫られたりと、散々な目に合う。やはり晴れるに越したことはないのだ。
    今は退職し、天気に気を遣う必要もない身分だが、できれば旅の道連れには、雨はご遠慮願いたいことに変わりはない。その願いが通じたのだろうか、退職後に出かけた旅では、毎回のように好天に恵まれている。この分なら、もう雨の心配はなさそうだ。退職を機に雨男の汚名も返上できたと思いたい。

    朝七時、横浜駅近くの集合場所で、わたしは友人と落ち合った。日帰りのバスツアーだった。山登りが好きな友人から、よく尾瀬の素晴らしさを聞かされていたわたしは、退職を機に、あちこち出かけようと企画していた旅の一つに、尾瀬を加えていた。友人が、「いつか連れて行くよ」と約束したからでもある。
    友人はようやくその約束を果たせると、笑顔を見せた。未だ現役の彼はそのために、二日間も休みを取ってくれていた。緊急の案件で来られなくなるといけないからと、前日から休むことにしたのだという。なんとありがたいことか。しかも、彼はそのころ体調があまりよくなかったのだ。わたしのためにそこまでしてくれる友に、感謝の言葉が見つからなかった。

     その日は、平日だったにもかかわらず、バスはほぼ満席だった。やはり年配者が多かった。水芭蕉の時期は、尾瀬は人気のツアーコースだ。有名な「夏の思い出」のメロディーが、頭に浮かんでくる。わたしにとっての初めての尾瀬は、水芭蕉抜きには考えられなかった。その尾瀬ヶ原には、わずか四時間の滞在予定だったが、贅沢は言えない。
    ところが、友人は添乗員の話を聞いて、愕然としていた。その四時間には、尾瀬ヶ原に向かう鳩待峠からの往復の時間も含まれていたのだ。多少は余裕を持ったスケジュールであるにせよ、それでは、肝心の尾瀬ヶ原には、一時間半ほどしかいられないことになる。
    車内で配られたマップには、鳩待峠からビジターセンターのある山の鼻まで、下り六〇分、上り九〇分とあった。その先は、牛首分岐につながる道の途中まで、グリーンのラインマーカーが引かれていた。つまり、山の鼻から牛首分岐まで、上田代と呼ばれるエリアの途中から引き返すように、と指示されていたのだった。
    マップではその先に、中田代、下田代と、尾瀬ヶ原が続き、さらに西には尾瀬沼、北には三条の滝が描かれていた。今回はどうやら、尾瀬ヶ原の三分の一程度しか行かれないのだと、わたしはそのとき覚悟した。尾瀬はわたしの想像以上に広かった。

「ごめん、尾瀬ヶ原でまるまる四時間いられると勘違いしてた」

 と、友人はいかにもすまなそうに言った。

「いや、尾瀬に来られただけで幸せだよ。気にしなくてもいいよ。でも、水芭蕉は見られるよね?」

 その年は、桜もチューリップも、花々はみな咲き急いでいるかのようだった。四月の第二週、期待に胸膨らませながら桜見物に出かけた京都では、満開のはずのソメイヨシノはとっくに散って、遅咲きの枝垂桜や八重桜でさえも、かろうじて最後の花を留めているにすぎなかった。

    まさか水芭蕉まで……。

わたしは、いやな予感に襲われたのだった。

「水芭蕉の群落は上田代にあるから、そこで引き返しても大丈夫」 

    とわたしには答えたものの、友人は不安になったのだろう。添乗員に花の咲き具合を確かめた。

「最盛期は過ぎましたが、まだなんとか間に合うでしょう」

 添乗員からは、頼りない答えが返ってきた。

「ひょっとしたら、もう終わっているかもしれないな」

 そう言いながら、友人はがっくりと肩を落とした。

    これは、京都の二の舞かもしれない……。

 わたしはまたも、密かに覚悟したのだった。

     バスは横浜を出ると、東名高速を経て、海老名ジャンクションから圏央道に乗った。関越自動車道までつながるこの道路が開通したおかげで、混雑する都心を避けることができ、横浜から北関東や東北方面への時間は大幅に短縮されていた。
    バスは軽快に飛ばしていた。車内はこれから訪れる地への期待からか、静寂の中にも、弾むような空気で満たされていた。

「ところで、毎日はどんな風なの?」

 友人がぽつりと聞いた。退職後の生活を心配してくれたのだ。

「うん、それが自分でも驚くほど、一日があっという間に過ぎていくよ。書き物をしたり、本を読んだり、バイオリンを弾いたりしていると、すぐに時間が経ってしまうんだ」

「そうか。それならいいね」

 友人は同じ職場の同期で、もう四十年以上の付き合いになる。二人とも定年退職した後、それぞれ別な第二の職場で働いていたが、わたしは大病を患ったこともあり、その年の三月で辞めていた。

「でも、生活はきついんじゃないか?」

 六十五歳から年金が満額出るには、二年あった。まだ十分働ける歳だった。

「たしかにきついね。預金がどんどん減っていくよ」

 覚悟の上とはいえ、実際に預金通帳から現金が消えていくのを見るのは、心穏やかではない。贅沢さえしなければ何とかなるとは思いながらも、わたしは初めて、生活の不安を肌で感じていたのだった。
    その頃、「老後破産」などという言葉がはやっていた。生活保護水準以下の収入にもかかわらず、保護を受けていない高齢者が、当時、すでに二〇〇万人もいたのだという。友人も、まさかそこまで心配していたわけではなかっただろう。

「でも、われわれはまだ恵まれている方だと思うよ」

 と言ったわたしに、彼は首を傾げた。

「そうかな。退職して飲み会にも顔を出さなくなった人が多いのは、健康状態もあるだろうけど、金銭的に厳しいからじゃないのか」

「そうかもしれないな。それでもまあ、元気なうちは好きなことをして暮らすよ。自分で思っているほど、健康寿命は長くはなさそうだし。そのうち文学賞でも取って、賞金稼ぎでもするさ」

「君はいつもポジティブでいいね。僕はどうしても悲観的に考えてしまう」

 これから観光地に向かうというバスのなかで、二人の周りの空気だけが、どんよりと淀んでいるようだった。わたしの頭の中の水芭蕉は、ますます萎れていった。

    バスが尾瀬戸倉に着いたのは、十一時過ぎだった。そこで大型の観光バスから小型の路線バスに乗り換える。尾瀬の環境を守るため、鳩待峠までは、マイカー規制が行われているからだ。     マイクロバスは右に左にと、曲がりくねった狭い山道を登っていった。そこまで行くと、新緑の森が左右の車窓にぐんと迫ってくる。わたしは木漏れ日に光る若葉の美しさに、思わずため息が出た。頭のなかで萎みかけた水芭蕉が、また少しばかり開いたようだった。

 鳩待峠に着くと、それまで快晴だった空が、急に曇りだした。そこは標高一、五九一メートルだ。山の天気は変わりやすい。
    添乗員から弁当を受け取り、いよいよ尾瀬ヶ原に向かった。帰りの集合時間は、午後三時五〇分と告げられた。 
    まず登山道の入り口で、靴底をマットにこすり付けて泥を落とす。外来種の進入を防ぎ、尾瀬の植生を守るためだ。そこでも環境への配慮がなされている。
    始めは急な坂道を下った。登山靴を履いていても、濡れた石に足を取られそうになる。慎重に足の置き場所を選びながらゆっくりと進む。狭い登山道はたちまち人で埋め尽くされた。これでは追い抜くこともできない。友人は急げば時間を稼げると踏んでいたようだが、下りの六〇分は、短縮できそうもなかった。
    途中からは、木道が整備されていた。傾斜も緩やかになり、だいぶ歩きやすくなった。人の流れもスムーズになり、前の人との間隔も空くようになった。友人はすかさず隣の木道に移って、ひとかたまりの集団を追い抜いていく。わたしも後に従った。二本ある木道は右側通行だが、追い抜くときは左側を歩くという決まりらしい。高速道路とは違って、追越し車線ならぬ追越し歩道は、左側というわけだ。

「危ない!」

 突然の友人の声に驚いて前を見た瞬間、集団で歩いていたお年寄りの一人が、木道から足を踏み外して、下の湿地に落ちてしまった。どうやら柔らかい土の上だったのだろう、幸い、けがはなかったようだ。お年寄りはすぐに仲間に助け上げられた。

「よそ見をしていると木道から落ちるので、気をつけてください」

    と、バスの添乗員が言っていたことを思い出した。その時は冗談だろうと受け流していたが、まさか本当に落ちる人がいるとは思わなかった。われわれも気をつけなくてはいけないね、と言おうとしたが、友人は何事もなかったかのように、歩くスピードを落とすどころか、ますます速足になったのだった。
    おかげで時間は十五分ほど短縮できたようだ。これで、少しはゆっくりと弁当を広げられるだろう。しばらく前から、お腹は鳴りっぱなしだった。

 ちょうど昼時と重なったせいか、山の鼻の無料休憩所は、人でいっぱいだった。外のベンチにも空きがない。二人でうろうろと探し回っていると、広場の奥のほうに、ポツンと一つだけ、空いているベンチが目に入った。だが、その周りは水浸しだった。どおりで空いていたわけだ。しかたがないなと、二人で顔を見合わせた。
    しかし、何が幸いするか分からないものだ。爪先立ちでそこまでようやく辿りついてみると、なんと、休憩所からは見えなかった水芭蕉の群落が木々の間から、目の前に広がっていたではないか。まさにそこは水芭蕉を観賞するための特等席だったのだ。弁当を広げるのに、これ以上の場所はなかった。
    近くで鶯が鳴いていた。遠くから、カッコーの声も聞こえてきた。時折、高原の爽やかな風が頬を撫でていく。 
    ついに尾瀬と出会うことができたのだ。諦めていた水芭蕉の尾瀬が、そこにある。
    わたしは上機嫌で弁当の蓋を開けた。質素な舞茸ご飯の弁当が、最高級の弁当に早替りした瞬間だった。

 その特定席で、もっとゆっくりしたかったのだが、そこはまだ尾瀬ヶ原のほんの入り口でしかなかった。そこで時間を使っては、いかにももったいない。友人はすでに腰を浮かせていた。
   わたしもしかたなく、急いで昼食をすませて、出発前にトイレに行くことにした。
    車内で案内されていたとおり、そこは有料トイレだった。入り口に置いてある箱に、一〇〇円玉を入れると、中から鈍い金属音が返ってきた。けっして少なくはない額だが、みんなきちんと入れているのだろう。有料トイレのお金は、尾瀬の水質を守るために使われているそうだ。山小屋とは思えないほど、トイレは清潔に保たれ、水洗化もされていた。

 わたしは、現役時代に一緒に仕事をした、あるシンクタンクの研究員のことを思い出していた。かれこれ四半世紀以上も前のことになる。「トイレ博士」の異名を持つその人は、ごみ問題の専門家として、尾瀬の自然保護運動にも深く関わっていた。
    以前から多くの観光客で賑わっていた尾瀬は、ごみの散乱や、トイレ不足など、さまざまな問題を抱えていた。自然の許容量をはるかに超える人々が入り込むために起こる、いわゆるオーバーユースの問題である。その頃、トイレ博士はごみの持ち帰り運動や有料トイレを設置する取り組みについて、熱く語っていた。 
    尾瀬は日本の自然保護運動の原点とも言われている。彼が携わっていた運動のほかに、木道整備やマイカー規制など、各地の自然保護運動のさきがけとなるような、さまざまな取り組みがなされてきたからだった。
    尾瀬はこれまで、何度も開発の危機にさらされてきたという。今の尾瀬は、彼のような自然を愛する多くの人々の、長年に亘る努力の結晶としてそこにあるのだ。今も美しい水芭蕉を見ることができることに、心から感謝したい。

    山の鼻からは牛首分岐に向かって、ひたすら木道を歩く。念願の尾瀬ヶ原だ。細い二本の木道が、広大な湿原にどこまでも続いていた。木道の両側には「池塘(ちとう)」と呼ばれる大小さまざまな池が点在している。尾瀬ヶ原にはこうした池がおよそ一、八〇〇もあるという。本州最大の湿原と言われる所以だ。

「晴れていると、正面に燧ケ岳(ひうちがたけ)が見えるんだけど、今日は残念だな」

 友人はそう言いながら、後ろを振り返った。

「あっちは至仏山(しぶつやま)」

「あの山もいいね」

 とわたしが言うと、彼は、

「燧ケ岳はもっと綺麗なんだけどなあ」

 と、なおも残念そうな顔をした。
    天気は曇り空のままだが、風はなかった。暑くもなく寒くもなく、歩くにはちょうどよかった。わたしはこのまま、どこまでも歩いて行きたい気分になった。
    しかし、鳩待峠の集合時間を考えると、牛首分岐のかなり手前から引き返さないといけなかった。バスの中で、友人が残念がったのも無理はない。
    歩き始めてすぐに、また水芭蕉が見えてきた。大群落とは言えないが、点々と白い花が群がって咲いていた。絵葉書にある景色ほどではないが、尾瀬ヶ原に来たという実感が湧いてくるには十分だった。
    それでも、

「やっぱりもう終わりだね。こんなに成長してしまっている」

 と、友人がまたも残念そうに言った。たしかに、しっかりと成長した花は、可憐というには立派過ぎた。近くで見ると、白い花が朽ちて、茶色に変色しているものもあった。

「とうが立っているわ」

 通りかかった見知らぬ女性が、そう皮肉った。

「われわれもいずれ、ああなるんだよな」

 友人が寂しそうに言った。
    せっかくの水芭蕉も散々な言われようだが、わたしには、まだ咲いていてくれただけでもありがたかった。白い顔をこちらに向けて、優しく微笑んでいるように見える。
    実は、その白い花のように見える部分は葉が変形したもので、仏炎苞(ぶつえんほう)と言うのだそうだ。形が仏像の背にある光背(こうはい)に似ていることから名付けられたという。本当の花はつくしのような姿で、苞の前にすっと立っている。まるで光背を背にして立つ仏様のようだ。そう言えば、つくしのような花の頭は、お釈迦様の螺髪(らほつ)の頭とそっくりではないか。
    じっと見つめていると、こんな歌が浮かんできた。 

    尾瀬ヶ原友と見つめる水芭蕉
               白いお顔がほほえみ返す

    しばらく行くと、小川のほとりに、黄色い可憐な花が群生していた。水芭蕉の白と、この花の黄色のコントラストが美しい。

「あの黄色い花は何と言ったっけ?」

 と、わたしが尋ねると、 

「あれはリュウキンカ。茶色い方はザゼンソウ。坊さんが座禅をしているように見えるだろう」

 と、友人が教えてくれた。よく花の名前を覚えているもんだ、と感心する。
    ザゼンソウは水芭蕉ほど目立たないが、なるほど、静かに座禅を組む仏様がそこにいらっしゃるようだ。背後には至仏山が鎮座している。尾瀬には仏様がよく似合う。
    木道はまだ遥か先まで続いていたが、この先にはもう水芭蕉はないだろうと友人が言った。わたしは後ろ髪を引かれる思いをなんとか断ち切って、そこで引き返すことにした。

    山の鼻まで戻り、しばしの休憩を取る。そろそろ帰り始めたハイカーの列を眺めながら、売店のテラスのベンチに座って、二人でソフトクリームを頬張った。甘く冷たいクリームが、疲れた体を癒してくれる。これから鳩待峠まで、上り九〇分の山道が待っていた。
    友人は山登りには慣れていた。歩くペースはかなり早かった。木道では集団をどんどん追い越していく。ペースが遅いと、かえって疲れるのだそうだ。わたしも遅れまいと後を追いかけるのだが、少しずつ間が開いていった。すると友人は、後ろを振り返ってわたしを待った。
    わたしは運動不足にならないように、できるだけ歩くようにしていた。一日一万歩とまではいかなくても、毎日、一時間程度は歩いた。マンションでもエレベーターは使わず、階段を上り下りしていた。歩くペースも早い方だと自認していた。それでも、山歩きの習慣が身についていた彼には、まったくかなわなかった。
    そんなわたしを気遣ってか、友人は途中から、少しペースを落としてくれた。歩きながら熱心に植物を眺めている。すると前方でまた一人、ハイカーが木道から落ちた。なんと、それが五人目のことだった。

「われわれが六人目にならないようにしないといけないな」

 というわたしの言葉に、友人は苦笑いをしていた。

 ペースを落としたために、周りがよく見えるようになった。足元を見ると、木道の階段の板に「TEPCO2017」という文字が刻印されていることに気がついた。TEPCOは東京電力のロゴマークだ。
    ほかにもう一つ、木のデザインの下にFSCというマークもあった。FSCは環境に配慮した森作りを示す認証マークだ。とすると、その木道は、FSCの木材を使って、東電が整備したものなのか。尾瀬でなぜ、東電なのだろう。
    わたしは気になって、帰宅してから調べてみた。当時のホームページによると、東電は尾瀬にある木道の約三分の一、およそ二〇キロメートルを敷設し、定期的に維持管理をしているという。
    また、尾瀬ヶ原の南側に隣接する尾瀬戸倉山林を所有し、その管理のために、二〇一〇年に、国際的な森林管理の認証制度である「FSC認定」を取得したとのことだった。
    さらに、東電は尾瀬国立公園全体の約四割、特別保護地区の約七割の土地を所有しているとも書かれていた
    東電が土地を取得した経緯は、大正時代にまでさかのぼる。尾瀬の豊富な水を発電に生かそうと、前身の電力会社が水利権を取得したが、尾瀬の自然を守るべきだという声が強く、計画は実現しなかった。
    その後、一九五一年に東電が設立された時に、前身の会社から土地を引き継いだのだという。
「尾瀬と東京電力の出会い」というページには、「国立公園の土地所有者に、その保護活動まで行う法的義務はもちろんありません。…… しかしながら、東京電力は『企業の社会的責任』という観点から、尾瀬の保護に長年取り組んでいるのです」とあった。 
    わたしは木道を歩いている時、すれ違ったハイカーの一人が、

「福島の原発事故の後、東電が保護活動をやめてしまうんじゃないかと心配したけど、続けてくれて安心した」

 と、言っていたことを思い出した。その言葉の背景にこれだけの事実があったのだと、このとき初めて知った。何も知らずに、のんきに歩いていた自分が恥ずかしくなった。

「忘己利他(もうこりた)」という、伝教大師最澄の言葉がある。自分のことは後回しにして、まず他人のことを考えなさいという教えだそうだ。
    福島の原発事故は、東電という会社が「己」の企業利益を優先する余り、国民や従業員など「他」の人々の安全を二の次にした結果だと言えないだろうか。言うなれば「忘己利他」ではなく「忘他利己(もうたりこ)」とでも言うべき傲慢さが招いた悲劇ではなかったか、とわたしは思う。 
    むろん、企業である以上、利益の追求を否定するつもりはない。今の東電は、原発事故の処理費用で、利益を上げることすらおぼつかないだろう。それでもなお、いや、だからこそ、東電は今「忘己利他」を実践することが重要なのではないだろうか。そうすることでしか、失われた信用を回復することはできない。
   そうした意味で、東電が尾瀬の自然保護の取り組みを継続しているのは、すばらしいと思う。

    尾瀬は今もオーバーユースの問題を抱えているという。近年は、鹿が貴重な植物を食い荒らす食害も増えているそうだ。水質の悪化や水量の減少など、尾瀬の自然そのものを脅かす深刻な問題もあるという。このままでは、早晩、尾瀬が過労死するのではないかとさえ危惧されている。
    さらに、地球温暖化は、この先、尾瀬にどんな影響をもたらすのだろうか。
「忘己利他」は、単に人間社会に限ったことではないだろう。人間と自然との関わりにおいても、そろそろ人間は「己」を忘れ、「他」としての自然を利することを第一に考えるべき時ではないだろうか。それこそが、われわれ人類がこの地球で生き残るための唯一の道なのだと、わたしは思う。
    尾瀬のために、わたしにできることは何だろうか。ごみの持ち帰りに協力することや、一〇〇円玉をトイレに払うこともその一つだろう。小さなことでも、できることから始めることだ。
    木道の下の小さな命を守るため、足を踏み外さないように注意することも、その一つかもしれない。わたしが六人目の転落者にならなくてよかったと、つくづく思う。

    帰りのバスは、なんとか座ることができた。すっかり重くなった瞼を閉じると、水芭蕉の白いお顔がすーっと浮かんできた。そんな仏様が見守る尾瀬も、人間の所業次第では消滅しかねない。わたしはこれから先もずっと、尾瀬ヶ原で白いお顔が微笑み続けてくれることを願わずにはいられなかった。
    やがて、遠ざかる意識のなかで、そのお顔もぼんやりと薄れていった。

    今年、二〇二三年五月、福島の原発事故以降、最長六〇年とされてきた原発の運転期間を、実質的に上限を超えて運転できるようにする、原子炉等規制法などの改正案が可決・成立した。
    福島の教訓は、いったいどこに消えてしまったのだろうか。
    一方、ドイツは、今年四月、稼動していた最後の三基の原発を停止し、「脱原発」を実現している。

 
   参考文献

『尾瀬の博物誌』
田部井淳子監修、大山昌克著(NPO法人尾瀬自然保護ネットワーク副理事長)、(世界文化社、二〇一四年)



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