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『マトモだから、狂ってしまう』という逆説的結論 映画『アメリカン・サイコ』

アマプラで『アメリカン・サイコ』というサイコスリラー英語を見た。


主人公は、イケメン、マッチョな高収入のウォール街の金融マン。資本主義社会の強者にして、雄としても魅力的な人物である。

彼は、日常生活に行き場のない虚しさを覚えて、殺人に取り憑かれている。

殺人という行為をしている時のみ、生きている実感を得られるようで、その中毒性に取り憑かれていく様を描いた映画だ。

異様なのは、彼を取り巻く環境だ。


彼の同僚は、みな高級スーツを着こなし、同じような容姿で、自分の名刺がいかに優れているのかという話をする。

印象的なのは、彼らが実務をするシーンがまったく出てこない点だ。仕事をしていないのでは、と思わされる。

金融マンであれば、手に汗握る市場との攻防、クセのある顧客との丁々発止のやりとり、一度の失敗で含み益が全て吹っ飛ぶ恐怖など、仕事に生臭い局面は幾らでもある。

でも、彼らは若くして役職についていて(主人公は、父親が社長を務める証券会社に勤めている)、実務は行わない。

代わりに、群れて、酒を飲んで、どこのレストランを予約するか、といった話ばかりしている。にもかかわらず、彼らは自分が社会の上層に位置する、ということを何の罪悪感も持たずに、当たり前のこととして、享受している。

僕には、すごく異様な光景に見える。


だから、主人公が狂うのは当たり前で、むしろこんな異様な環境で、狂わない主人公の友人たちの方が、狂っているように見える。

ブラック企業でもまともな人間から、狂っていく。

精神的なバランスを崩す。最悪、自死を選んでしまう。

一方で、頭のネジが二、三本外れているような奴が、その環境にあっさりと適応したりする。

『マトモだから狂う』という逆説が成立してしまう、その一端を見させられる映画だった。


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