【JASSOの矛盾】なぜJASSO奨学金が苦学生のやる気を削ぎ絶望させるのか
JASSO(日本学生支援機構)は、多くの日本人学生や留学生に奨学金を支給している団体です。
今回は、このJASSOの奨学金が学生を金銭的に支援するためにある反面、学生に心理面でかなりネガティブな影響を与えているということを、私見も交えつつ、『実力も運のうち (The Tyranny of Merit)』を書いたマイケルサンデルの理論を取り入れて主張したいと思います。
まず、JASSOの奨学金にはいろいろな種類がありますが、その大半は手続きがものすごく煩雑です。
応募したことのある人なら分かると思いますが、何度も同じことを書かされる上、前年度収入や今年度収入を細かく記載して、その証明書類も添付しないといけません。
大学院学位取得型の貸与奨学金について言えば、書類の書き方の手引きは50ページ以上あります。留学先大学の推薦人の推薦書は『直筆』で原本を提出する必要があるので、留学先国から推薦書を紙で送って、それを国内からJASSOへ送らないといけないという2020年代とは思えないような手順を踏まなければなりません。
こんな応募手続きをできるのは、それなりに手続きが得意な人か相当時間がある人です。
しかし、JASSOの奨学金に応募する人は金銭的に苦労しているから応募しているのであって、心にも時間にもそこまで余裕がないのではないでしょうか。
僕も何種類かのJASSOの奨学金に応募したことがありますが、申請作業中はその煩雑さに怒りさえ憶えました。気力があるうちは怒りで済みますが、気力がない状態で(例えばコロナ渦)JASSOの申請手続きをしたときは、絶望と自己否定を感じました。
これは、僕が個人的に感じたものではありますが、他の人にとっても同様に感じられるかもしれません。
なぜかというと、能力主義的な考えが強調されている現代社会では、
であり、
だからです。
この究極の自己責任論的な考えを個人がある程度内在化してれば、若しくはこれが社会に蔓延していれば、JASSOの煩雑の手続きをしているときに何を感じるでしょうか。
『自分がお金がないのが悪いから、こんな大変なことをしないといけないんだな』
ではないでしょうか。
困っているのに、大変な思いをしているのに、その責任が自分にあると感じなくてはならない。しかも、学生がお金がないことは、自分の責任と言えるでしょうか。
この能力主義的な社会の功罪についての議論は、サンデルがしているので置いておきます。むしろここでは、日本社会の現状が自己責任論を強調する社会だという認識に立った上で、JASSOの矛盾を批判したいと思います。
JASSOは経済的に恵まれない学生を支援することが目的なのに、そういった学生を煩雑すぎる手続きによって絶望の底に落としていませんか?
もちろん、今まで僕もJASSOにたくさんお世話になりました。
色々なルールがあって、手続きが煩雑にならざるを得ないのも想像できます。
でも、
●50ページ以上の応募の手引き必要ですか?
●今の時代に直筆サインの書類を外国から郵送する必要ありますか?
●そもそも応募書類を郵送する必要ありますか?
●名前や住所を何回も書かせる必要ありますか?
●進学先大学のありとあらゆる情報やスクリーンショットをエクセルに貼らせる必要ありますか?これらは大学のwebサイト見れば全てわかります。
JASSO関係者の方がいれば、是非一応募者/学生の意見として受け止めてください。
よろしくお願いします。
参考
Sandel Micheal, 2021. The Tyranny of Merit. What's Become of the Common Good?. Penguin Books.