佐伯啓思の「反・幸福論」をもう一度読んでみた
私は、初めて本書を読んだときに非常に違和感を感じた。今の社会を揶揄しているだけのへそ曲がりな評論家が書いた論評であると感じたのである。
ところが、彼が投稿している朝日新聞の「異論のススメ」を読んで、その違和感がないことに気づき、もう一度本書を読んでみることにしたのである。
本書の概要
本書は「新潮45」*1)の2010年12月号から2011年8月号までの連載に加筆し、2012年1月に発行されている。
「新潮45」とは、新潮社が発行していた45歳以上の中高年の読者を対象にした月刊誌で、1982年に創刊され、2018年の10月号を以って休刊した。
9章から構成されており、世間で言われるところの「幸福論」とは、別の観点で「幸福とはなにか」を語っている。
それぞれに扱う題材は異なるが、全体を大きく分けると書かれている内容は、「人生観」、「死生観」、そして「自然観」を通しての「幸福」である。
その中で、「人生観」に関して私が個人的に理解した「佐伯啓思がいうところの『幸福とは何か』」について、述べることにする。
人生観と幸福
私たちは一般的に「利益を増やすこと」と「権利を得ること」によって、幸福が得られると考えている。
そして、そのあくことなき「利益」と「権利」の追求のためには、「抑圧からの解放」を意味する「自由」の実現が必要である。
しかし、個々人の自由な利益と権利の追求には際限がなく、結局、個々人は幸福になるどころか、どんどん幸福から遠ざかることになってしまう。
要するに望む幸福には追いつけないのである。そして不幸だと感じるようになる。
そして、そこで必要なものが「徳」あるいは「善」である。
ここで、筆者の言葉を以下に引用する。
今読み返してみると、至って当たり前のことである。そして、その当たり前のことを私たちは忘れているのではないか、と改めて感じた。
自分が勝手に幸福を定義し、「幸福にならないといけない」とその実態もわからないままに幸福を追い求めている状況ではないかと。
人新世の「資本論」(著:斎藤幸平)
2020年に発行されて大反響を呼んだ、斎藤幸平の「人新世の『資本論』」の中ではこの論調がさらにグローバルな問題として展開される。
現在日本をはじめとする先進国は「成長のための成長」を続けている。
現在の経済や技術力の妥当性を検証することもなく、ただ、今よりもさらなる経済、技術の進歩が必要であるとして、結果的に世界の共有財産である地球を破壊し続けている、というのが斎藤幸平の主張である。
最後に
佐伯啓思は自らをコミュニタリアン、共同体主義者と称している。そして、斎藤幸平は脱成長コミュニズム(ロシアのような共産主義とは異なり、生産者たちが生産手段を共有し、共同で管理、運営する社会)を訴える。
これらの思想には大いに共通点があり、非常に共感できる。
このような感じられるのは、私が第一線を退き、今の民主主義と資本主義の社会を冷静に俯瞰できる立場になったからなのかも知れない。
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