怪奇小品 蛇
※この作品は夏目漱石の「永日小品」の中の「蛇」の二次創作です。
僕は時々瞼の裏に焰が見える。目を閉じると、朱とも橙ともつかない火影が絶えず揺らめいている。その焰はちっとも熱くない。幻想的な色彩を帯びながら、静かに、規則的に、冷酷に、揺らめいている。
これは一体何なのだろう。
僕の眼底に刻まれたその焰は、間違いなく僕に何かを告げている。次はお前の番だと警告している。僕はその焰の色彩を感じるたびに、ああ、なんて美しいのだろうと思う。
目を開けると僕は神社にいた。ここは僕の祖父母の家の近所にある、何が祀られているのかもさっぱりわからない古びた小さい神社だ。太陽は高い位置にあり、強烈な陽射しを降り注いでいる。僕はまるで生きながら炙られているようだ。季節は夏なのだろう。けれども全く暑くない。
僕は参道の中央に弟と並んで立っていた。弟は白いTシャツに黒い半ズボンを履き、野球帽を被っていた。右手には虫籠を抱えている。これは二つ歳下の、小学生の頃の弟だ。
正面には拝殿が見える。拝殿の奥には雑木林があり、さっきまで蝉がけたたましく鳴いていたのに、今は何も聞こえない。参道の両脇に並んでいる杉の葉音だけが耳元で響いていた。
弟はじっと何かを見つめている。僕は弟の視線の先を見た。すると、拝殿の前に白くて長い、紐のようなものがうごめいている。蛇だ。
「蛇だ」と僕は言った。
僕達はこちらに向かってくる白蛇を瞬きもせず凝視した。蛇は蛇行しながらゆっくりと僕達に近づいてくる。それでも僕達は一歩も動けない。蛇の黄色い目は鋭い殺気を孕んでいた。するとその白蛇は弟のすぐ足元まで近づき、勢いよく鎌首を持ち上げた。
噛まれる。そう思った瞬間、弟は右足で蛇の頭を踏み潰した。それと同時にぐしゃりという生暖かい音が響いた。弟の足の下で白蛇は動かなくなった。
どれくらい時間が経過したのかわからない。一時間かもしれないし、一分にも満たない短い時間だったのかもしれない。
僕は弟の横顔を見た。弟は足元を見つめながら「覚えてろよ」と言った。間違いなく弟の声だった。
僕は大学生になり、車を運転するようになった。ある日自宅付近を車で走っていると、道路の真ん中に白い蛇がいた。
こんな市街地の道路に蛇……?
目を凝らしてみると、それは蛇ではなく風にはためくビニール紐だった。
家に帰ったあと、僕は高校生の弟に訊ねた。
「小学生の時、じいちゃんの家の近くの神社に二人で行ったよな。覚えてるか?」
弟の目に畏怖を含んだ鋭い光が浮かんだ。
「覚えてるよ」
「お前、そこで白い蛇を踏み潰しただろう?」
「はあ?」
弟は目を見開いて大声で言った。
「何言ってるんだよ。踏み潰したのは兄ちゃんだろう?俺じゃねえよ」
弟の言い分はこうだ。夏休みに祖父母の家に遊びにいった僕達は、あの日蝉を取りに神社へ向かった。参道の真ん中に白蛇がいて、それが突然襲いかかってきた。僕はとっさにその蛇の頭を踏み潰したということだ。そして二人で走って逃げた。
「俺はやってない。やったのはお前だ」「違う。やったのは兄ちゃんだよ」
そんなはずはない。僕はやっていない。僕はあの日の情景を今でもありありと思い浮かべることが出来る。
それからその蛇について弟と話すことはなかった。
僕は大学を卒業して就職した。ある日、会社の三階の窓から白い蛇が落ちていくのが見えた。ぎょっとしてよく見ると、それは蛇ではなくて白いハンカチだった。
翌日、僕は会社の飲み会に出席した。その時、隣に座っていた先輩に神社での出来事を相談した。酔っていたのだろう。その先輩は「面白いなあ」と言って笑った。
するとその翌週、先輩は会社の階段から落ちて右足首を捻挫した。僕はその一部始終を見ていた。幸い先輩の怪我はニ週間ほどで完治した。
相変わらず瞼の裏には美しい焰が浮かび上がる。静かに、規則的に、冷酷に、燃え上がる。
僕は再び弟に訊ねた。
「蛇を踏み潰したのはお前だよな」
すると弟は「俺じゃない」と言って妙な顔をした。
了
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