自分がわからなくなるとき
もうテーマの通りである。なんで悩んでるのかは分からないけれど悩んでる時があって。
自分の根底にあるいつも抱えてるモヤモヤってやっぱり人間関係のものだけれど、
それが落ち着いているときでもどこかモヤモヤというか悩んでるというかそんな時がある。
幸せ過ぎると怖くなる、手にした幸せを奪われる気がして
僕の好きな曲にこんな歌詞がある。幸せとは言わないまでもこんな気持ちなのかなと思ったり思わなかったり。
自分のなやみ、悩み続けることそれ自体がもう自分の一部というか、アイデンティティみたいなものなのかなっておもってる。
だからこそ悩みが明確でないときもなんかモヤモヤするようなそんな気がしてしまうのかな。
悩み続けることがアイデンティティって受け入れづらいし、だいたい僕自身だってそんな自分辛いだろうし嫌だと思うけれど
そう思うことで悩んでる自分を肯定できるっていう一面もあるから一概に否定することもできなくて。
アイデンティティの確立とかゆらぎとか言われるけれど、そもそも僕のアイデンティティってゆらいでることそのものなんじゃないかなっておもいはじめてて。
もちろん、大枠的なものはあるとはおもうし自分でもこうありたい、こうだろうというのはわかっているつもりで。
そのうえで自分っていうものを考えたときの自分とそうでない部分との境界線みたいなものがゆらいでるきがしている。
なんていうかスライムみたいな、変幻自在なものなイメージ。
だからある時にはこうであったものが、またある時には違う形に変わる時もあるし。それが人によっても変わるかもしれない。
人に対して変わるとか、八方美人の正当化みたいに思われるかもしれないけれど、そもそも八方美人のなにが悪いんだろう。
これも僕の好きな人(身近な人じゃないよ)に言わせると八方ブスよりいいじゃんって。
そう!ずっとそうおもってた。でも世間とか社会では八方美人は良くないみたいな風潮もあるからダメなのかなともおもってたし。
いまでは八方美人を受けいれてるし、むしろそれすら自分の一部、アイデンティティなんじゃないかなっておもうようになった。
これがさっきのアイデンティティがスライムみたいなものっていうことにつながる。
ぼくみたいなひと、実際にはたくさんとは言わないまでもいるんじゃないかなって思ってる。
ぼくはこれに悩んでなやんで、結果的にそういうことを勉強したい、そういう人が他にいるならばそういう人にとって生きやすい世界にしたい
そんなふうにいまおもっている。
アイデンティティってとてもセンシティブで触れづらいことだけれど、自分について考えるってとても大事なことだから。
まずは自分、僕自身が自分についてもっとちゃんと考えていきたい。
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