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ツバメ夫の北信田舎暮らし:俳句とエッセイ 007

信州標高800メートルの花々について感想

ノウゼンカズラ最後の花房看取りけり

ノウゼンカズラ散りたる朝のくしゃみかな

私の季節移住先、信州高山村の作業飯場であり、庵である古い民家の庭は、雑草が伸び放題で、花の数は少ない。

私の情熱は畑での野菜づくりの方に向かっているため、庭に花を植えようとする情熱が欠けている。

過去七年間に植えた花を観賞するための植物は、紫陽花とノウゼンカズラだけだ。どちらも、コメリの店頭で、買い手がつかずに値引き販売されていたものを購入したものだ。


それに加えて、この住居の最後の主であった老女が植えた真っ赤なツツジと、これまた真っ赤なつるバラがあり、また赤、白、黄色の昔ながらのシンプルなチューリップが突然季節を思い出したかのように顔を出す程度だ。

先代の老女が遺せし紅き薔薇

一人暮らしになった先代のおばあちゃんはよほど赤い花が好きだったようだ。

暇な時は庭に面している縁側にアウトドアチェアを置いて、ぼんやりと庭と花を眺める。そうして、私の冬季帰還先である千葉県の気候とここの気候の違いに思いを巡らす。

年二度の花見に胃もたれ山の里

まず、ほぼ例外なく、全ての花が千葉県に比べて一か月遅れて開花する。特にさくら!

千葉県で、3月中旬には咲き誇る河津桜、遅くとも3月末には満開になるソメイヨシノなどの桜を満喫し、それを合図に、長野県高山村の標高800メートル地点へと季節移住を開始する。

そして、こちらの生活に慣れ始めた4月末に年二度目の花見をする羽目になる。自宅から20メートルほど先にある集落の集会所の広場に見事な桜の巨木がある。縁側に置いたアウトドアチェアからもよく見える。

こんな見事な桜の花がほとんど見る人もなく咲いて散ってゆくのはあまりにも不憫だと思い、花見用のランチを作り、下戸であるためめったに飲むことのないワインなども持参して、桜の花の下で一人花見をする。

頭で考えれば、なんとも贅沢な花見のはずだが、なぜか心は食傷気味だ。

やはり桜の花は年に一度だけ、足早に散りゆくのを惜しみつつ愛でるところにありがたみがあるのではないだろうか?

ところが不思議なことにノウゼンカズラに関しては全く食傷感がない!

夏になると、食料買い出し先の須坂市や小布施町の民家の庭先に、早々とノウゼンカズラが開花する。それなのに、わが庭のノウゼンカズラは遅々として花を咲かそうとしない。そして、もはや忘れ去ってしまった頃に開花する。

真夏の暑いシーズンでも凛としているノウゼンカズラの花は、なかなかに良いものである。だが、標高800メートルの夏はあっと言う間に過ぎ去ってしまう。

盆が終われば、日に日に秋の気配が濃厚になっていく。ノウゼンカズラの花も散り始める。そのような季節の変わり目に作ったのが表題のニ句だ。

標高800メートルでは、開花が1ヶ月遅いのだから、開花期間が短いのは避けられない。だがひとつだけ、標高800メートルだからこそ長い期間目を楽しませてくれる花がある。

それはアジサイだ!私の本拠地の千葉県でも、他の多くの地域でも、梅雨が終わって本格的な夏になると、アジサイは一気に色褪せて萎びてしまう。

ところが標高800メートルを超える信州の地域では紫陽花は夏の日差しに色褪せることなく、条件が良ければ、9月半ばまでも青い色を保ってくれる。

紫陽花に秋冷えいたる信濃かな (杉田久女)

たまたま知人に紹介してもらった俳句だが、9月を過ぎても青い色を保つ紫陽花があり、盆を過ぎれば日に日に秋の気配が深まる信濃ならではの素晴らしい一句だと思う。

信濃の土地柄を知らない人はこの句に出会っても、季重なりの素人ぽい印象と違和感を受けつつ、軽くスルーしてしまうのではと危惧する。

だが、信濃はそこかしこで二つの季節が当たり前のように共存している土地なのだ。その面白さをとらえてこの句を作った杉田久女に大いなる敬意を表したい。




 







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