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人類の叡智が宇宙に飽和する。未来の人間の幸せとは何か?【2023年6月4日】


『今日』


6時50分に起きて、朝食にシリアル、リンゴ、バナナを食べる。動物園のサルみたいだ。
午前中は近所のドラックストアで簡単に買い物を済ませたあと、パソコンの前に座って、色々と思索にふける。
そして午後はほとんど、本を読んでいた。


『人類の叡智が宇宙に飽和する。未来の人間の幸せとは何か?』


最近、動画制作の傍らでAIに関する創作に取り組もうと考えていて、何冊か本を買った。
(この創作について細かい内容をnoteで扱うつもりは、今のところない。)
今日はその最初の一冊として、Googleで人工知能開発を指揮するレイ・カーツワイル氏の「シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき(エッセンシャル版)」を読んだ。
今の僕にとってはかなり難しい本で、50p読むごとに脳みそがオーバーヒートして休憩が必要だった。

近い将来においては、AIが自らのソースコードを修正したりして人類の知能を凌駕し、やがて「非生物的な知能」が生物的な知能を圧倒するようになるらしい。
人体や脳の機能が拡張されたり、老化や死といった生物的な問題が解決されたりする。多くのSFモノがそうであるように、人間のコピーだって、おそらく可能になる。
そしてやがて、「人類の叡智が宇宙に飽和する」そうだ。
初見でこの言葉だけを聞いて「そうか、そうなるのか!」と納得する人は居ないかと思う。僕ももう、書いていてサッパリ意味が分からない。
知能が地球の質量を超える、という現象なのか…?なんか、知らんけど。
興味がある人は読んでみてほしい。

一般的で陳腐な意見として、「生命が美しいのは、死があるからだ」とか、「人生を楽しめるのは、それが有限だからだ」とかいう意見があるかもしれない。
僕も一般的で陳腐な人間だから、そう思う。
テクノロジーの発展で「死」というものが無くなり、人生がほとんど無限のものになったら、僕は一体何をするだろう。

人間の脳みそがウェブのように繋がりあうようになれば、僕という生物個体が持つ知識や経験は、僕の特有のものとは言い切れなくなる。
僕という人格は保たれるにしても、他人の知識や経験をダウンロードするように無尽蔵に得ることが可能になれば、そこに成長の喜びはあるのだろうか。
スポーツだって、AIやナノ技術によって機能拡張された人間が行うのであれば、その意味合いはずいぶん違うものになるかもしれない。
芸術だとか、文学だとかの楽しみは保たれるんだろうか。
そういう未来の中で、人間の幸せとはなんなのだろうか。
もしかすると、幸せと苦しみは、表裏一体のものなのかもしれない。

以前から漠然と、人間はもっと動物的な幸福を重視するべきではないかと感じていた。
SNSでの過剰な他者とのコミュニケーションを離れ、そういったテクノロジーを意識的に制限し、「空がきれいだなあ」とか「コーヒーがおいしいなあ」とか「今日も布団で眠れるなあ」とかいう幸福を重視した方が良いのではないかと思っていた。
しかしこの本を読んだ後にふと思ったことは、全ての人が動物的な幸福を享受するにはこの地球は小さすぎるし、今の社会システムでは効率が悪過ぎるのではないかということだ。
となると、全ての人類が先進国レベルの豊かさを享受して保っていくためには、本書のタイトルの通り、テクノロジーが急速に発展して「人類が生命を超越する」ことが一つの条件となるだろう。
しかしそもそも、豊かさを保つことが幸福につながるのかどうかも、僕には良く分からない。
「保つ」という発想そのものが、失うことへの恐怖を含んでいる気がするからだ。
進歩させる、とでも言い換えればいいんだろうか。
そんな言葉遊びの問題では、ないか。
次はマーティン・フォードという人の「AIは全てを変える」を読む。
世の中の人の頭が良すぎて、びっくりする。

こういうことをnoteで書いたのは、上述したような感想を持ったことが、この後の僕の創作にどう関わってくるのか、あるいは関わってこないのか、興味があるからだ。
それゆえに、未来の僕のために書き残しておくことにした。
未来の僕はきっとこの文章を読んで、「いや~ん、中二病!」と思う。

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