この頃思っていたこと

この件に関して、私はもう長い間
ずっとモヤモヤしている。

つい先頃大きなニュースになった
某高校サッカー部での暴行事件

いわゆる体育会系でよくある事件・・・
のように見えるのだが、相当根深い
日本人の一番ダメなところ
今経済も技術力も総崩れで
かつての輝きを失っている
この眼を覆いたくなる惨状にも
深く関わっているのではないかと思う。

この事件に関する外国人サッカー選手や
コーチ・監督経験者の結論は
子供を暴力で支配するのはダメだ、
ということに尽きる。

それはなぜか?

教育だから、そもそも暴力だから。

甘い甘い!

違う。

サッカーの指導に暴力を否定すのは、
唯一、それが結果を生まないからだ。

有望な子供をサッカー嫌いにさせてしまう。
大人の代表者であるコーチや監督への
信頼も尊敬も根こそぎにしてしまう。
子供の自由で壁を飛び越える発想の代わりに
使い古した大人の常識を詰め込む。

そして、自分でモノを考えなくさせる。
さらに、見て見ぬふりとバレなければ
自分達も同じようにしていいという
自律性が低い、道徳的にも問題がある
おとなを再生産させてしまう。

あの高校の生徒がどうかは知らない。
かつて普通だった、同じような教育を
受けた自分自身のことです。

自分の一番奥の隠してある欠点

上意下達・先輩への口答えは許されない
という議論ができない我々の欠点が横たわる。

誰しも感じているはずだ。
なぜ、Yesしか聞きたくないのだろう?
どうも安保世代の敗北からそうなったようだ。
彼らは理論武装し議論をした。
しかし、現実の前に彼らの議論は
単なる空理空論だった。
理論が未熟だっただけなのに、
彼らは議論することそのものが
間違いだったと思ったのかもしれない。

今一つは日本人の美徳:「寡黙」。
よくしゃべる人間は信用されない。
口重く、黙って作業をする人が尊ばれる。
これ、使う側からすると便利な人である。
人を批判するなら己は完璧であれ、と
批判を封じるものもいる。
自分の技術・技量を言語化せず
見て覚える、技は盗むものとする
考え方も一般的である。

この全てが間違いではないのか?
監督は、コーチは、暴力ではなく
徹底的に話し込むことで選手の信頼を獲得し
その指導が技術のみならず理念や精神性まで
時間をかけて選手の内面におのずと
醸成されるのではないのか?

公的な場での議論は政治家から企業家
小は自治会やPTA、会社内のごく普通の
ミーティングさえ、嫌われる。
「沈黙は金」である。

なぜこれほど議論は嫌われるのか。
ウザイ、そんなアツくなることじゃない。
言い負かされるの嫌だし時間かかるし。
ここでも時間をかけて何かするのは
無駄だと言う考え方だろうか?

半沢直樹的な世界観なら
議論=相手を粉砕し組織の中で抹殺すること
だから、根回しや飲み会ではよくしゃべる。
会議のあと、仲間内では話す。
でもそれは、公式な場での議論にはならない。
しかしここでも、上のものが意見を言えば
まず皆が畏まる。

上のものがみんなの意見を聞きたいと言う。
手を上げるよう司会者がうながし
しぶしぶ手が上がる。
反論をするのはオオバカモノである。
賛成、さすが素晴らしいお考えです、と
誉めちぎる時間帯だ。

なぜなら、上のものは反論に
耳を貸さない上、反論したものを
徹底的にいびる可能性があるからだ。

下が全員そう思っている。

洋の東西問わずだろうが、限度がある。
これほど封建的な国は珍しいと思う。

昔からこうなのだ。
これがうまくはまるのは、旧軍だけだろう。
その残骸に民主的な制度をかぶせただけの
組織もいいだろう。

そのような組織が造り出すものが
最早世界に、開発の速度でも内容でも
相手にされなくなった。

それだけの事だ。だから日本は衰退している。

すごいと思っていた国が、
世界に何の哲学も提示できず
精神的には明治時代と同じ。
こんな失望は例がない。
明治時代とおなじなのは、
まず教育界であろう。
最も色濃く残っているのが
体育だから、運動部で問題が
起こりやすい。


でも実際は日本中どこでも一緒。
そりゃそうだろう?そういう教育を
受けた人ばかりなんだから。

議論を嫌い、政治力で決着をつける
論理性や整合性は合意の根拠とならず
論理的な結論に感情論で反対する。

合意形成したことの、内実を骨抜きにする。

ここまで分かっていてなお
明日も意見を言わないであろう自分に
いささか絶望する次第。

乱筆乱文すみませんね。

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