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神様にはなれないから/HSPの生き方

現代人、分類大好き

最近、やたらと「個人の特性」を表すのにアルファベットを用いる風潮がありますよね。

医療用語としてのADHD、ASDやPMS、PMDD、LGBTQ然り、性格や性質を表すMBTI診断やHSP診断然り。

人間、自分が一番自分のことよくわかっているように思ってしまうけど、本当はみんな自分が何者なのかわからない。

だから、分類されたくなるんですよね。ラベリングを通じて何者かを知り、いかにもそれらしいアルファベットの羅列に安心する。星座占いほどロマンチックじゃないし、血液型占いほど大雑把であてずっぽうでもない、「科学的根拠」が導き出したグループに配属されることで、孤独から解放され、モヤモヤが言語化されて腑に落ちる。

人ってなんで全然知らない人からでも自分のことをズバリ言い当てられると涙が出るんだろう。占いの本を読んで号泣したことがあるけど、やっぱりその時も、誰かにこの心が存在していることを知ってもらいたかったし認めてもらいたかったんだと思う。

自己理解とか自己分析ブームは、そういう「何者かに分類されたい」社会をよく反映していますよね。実際、私自身も自分の性格に名前が付いたみたいで(ENFJのHSS型HSPというハイパー外交的な個人主義)、いろいろ納得する日々ですが。

そんなに綺麗なものでは

最近はHSPなんて名前の病気っぽいニュアンスに怖気づいてか、「繊細さん」なんて呼ぶこともあるみたいだけど、私はそこまで自分の心を、クローバーや虹の似合う言葉で柔和にしてあげたくはなくて。

「弱い自分も肯定してください」みたいなニュアンスでHSP気質な自分を許したとして、そのせいで傷つけてきた人(自分含め)たちへの償いにはならないと思うから。「みんなとなかよく」なんてできないし、自分の中の差別的で卑近な一面を、「独創的」とか「繊細」みたいな勇気づけの言葉でおしゃれ化したくないわけで。

強いとか弱いとか

HSPとの向き合い方で、「弱いところを認めましょう」とかよく書いてあるけど、その「弱さ」は具体的な「からだの弱さ」「メンタルの打たれ弱さ」だけじゃないなと思う。

だってそもそも「強さ」って「頑丈」なことじゃないから。曲がったり折れたりしない屈強さっていうのは一種のポテンシャルであって、シンプルに「パワー」なの。私の思う人間の本当の強さとは、「誰かのために自分を曲げること」。

自分の非を認めて謝ること。怒りを鎮めて誰かを許すこと。自らの利益をなげうって時間や気持ちを捧げること。言いたいことをグッと飲み込むこと。

そう、暴力性を伴わない、本当の強さを「無償の愛」や「優しさ」、「許す気持ち」だと定義するのならば、ここで認めなくてはいけない弱さは客観的な性質の弱さではなく、「見返りを求めてしまう」「理由もないのに嫌悪感を抱く」「差別する」「許さない」といった自分の「醜さ」であって、
「強さ」とはそれを「いかに自覚し受容するか」
、だと思う。

この作業がなかなかしんどくて、できれば全人類から好かれていたいし誰にも嫌われたくないし、思い出すたび恥ずかしくなる黒歴史も、無垢な笑顔への憎しみも、いつまでたっても消えないし。

だから、「あ、なんだ自分全然優しい人間なんかじゃなかったわ」って気づいたもん勝ちなんだと思います。全然悪いし、小さいし、卑しいわって。

でも、優しくない人間は全員極悪人ですか?人を憎んだり、嫌いになったりするのって当たり前じゃないですか?じゃなきゃ神様か何かなんですか?

藤井風の「帰ろう」という曲に、

あなたは弱音を吐いて
私は未練こぼして
最後くらい 神様でいさせて
だって これじゃ人間だ

という歌詞があって。
弱音を吐くのも、未練たらしいのも全部人間だから。私たちは神様になれないから、許せなくて、愛せなくて当たり前なんだよ。

優しいから好き?

優しくなかったら嫌われるんでしょうか。確かに気が利かない人は好かれないかもしれないですけど、優しいあなたが少し自分のために動いたって、それで離れていく人は都合が良すぎるって話よ。

神様になれなくていいから、せめて自分にだけは嘘をつかずに、嫌なことは嫌と言ってしまえばいいのです。意外とみんなそうやって自分勝手に生きていて、もういいやって優しい人でい続けるのを諦めてるのかもしれない。私も諦めていいし、あなたも諦めていい。

HSPの人が認めるべき「弱さ」は、そういう自分の汚いところを「なんだか私、人間臭いなあ」とまるごと面白がってしまえば案外サクッと、自分のことを好きになれると思います。

いろんな才能を持ち、繊細な感覚を持つHSPはいつもだいたい「考えすぎ」。まずは神様になることを諦めて、泥臭い人間として生きてみませんか。



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