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「タンノイのエジンバラ」から考える大人像

読書会で教わった、長嶋有「タンノイのエジンバラ」という短編集を読んで、考えたことを書きます。あらかじめお断りしておくと、「タンノイのエジンバラ」の本筋とはほとんど関係のない内容です。

この文章の内容は、ざっくり言うと「自分たちは「大人」というものに、かなり過大な期待を持っているんじゃないか?」ということです。読者の方が考える「大人」の定義をなんとなく思い浮かべながらお読みください。


作中の一節が示す「大人」のヒント

さて、「タンノイのエジンバラ」は、30歳前後の男女が、唐突に子供を預かることになったり、半年前に離婚した姉と海外旅行にでかけたり、バイト先のパチンコ屋で知り合った男性と関係を深めたり……といった日常をたんたんと描いた短編集です。たんたんとした文章でありながら、共感したり身につまされたりする場面がちょくちょくありました。

特に自分のアンテナに引っかかったのが、短編のうち「夜のあぐら」という章です。この章で、主人公の姉が「子供のころに漠然と考えていた三十歳って、もっと大人だと思ってた」と語るシーンがあります。

「子供のころは三十歳くらいになったらスナック菓子とか買わないような気がしていた」
「ワイングラスでワイン飲んだり」
「それに、なんだろう、もっと落ち着いていて、分別があって」
「恋愛や仕事でじたばたしたりしないんだと思ってたなあ」

このシーンで、主人公の姉は「子供の頃に思い描いていた大人像と、大人になった現在の自分の姿が一致しない」と考えています。両者を比べると、いかにも現在の自分は、大人に手が届いていない、大人になりきれていない、子供を脱しきれていない何者かに見える、と。

主人公の姉のこうした心理を見て、自分の心を読まれたような気がしました。

自分は20代後半で、もう大人と言っていい年齢の人間ですが、大人ってもっと堂々としていて、じたばたせず、物事をそつなくこなしていくイメージがありました。しかし現状では、自分の思い描いていた大人の姿には到底手が届いていない自覚があります。

この、思い描いていた大人像に手が届かない現象は、なぜ起こるのでしょうか。考えられる原因は2つあります。

ひとつは、自分が子供時代から、大して成長していないということです。これは、そう言われればそれまでのことで、否定しようもないので、いったん脇に置いておきます。

もうひとつは、自分たちが「大人」というものに、かなり過大な期待を持っているということです。こちらが本題です。

自分たちの頭のなかには、自分の考える「大人」を定義した大人像があって、それは普通に生きている等身大の大人に比べて、かなり美化されているんじゃないか。かなり美化された大人像と、現実の自分を比べるから、現実の自分がだらしなく見えるんじゃないかと私は考えています。

大人だって、美点もあれば欠点もあるのに、なぜ大人像は美化されるのでしょうか。そこのところを説明するために、子供から見た大人像を以下の2つの視点で考えてみます。

大人像が美化される2つの理由

①子供から見た第一印象

小さい子供から見た大人の第一印象は「自分にはできないことを、簡単にできる凄い人」というものでしょう。

大人は、子供に比べて腕力も経済力も勝り、色んな経験を積んでいるため、大人にできて子供にできないことは、数え切れません。子供を高く持ち上げたり、車を運転したり、見ず知らずの大人とコミュニケーションを取ったり。個人的に、子供にできないスキルの代表格が「値引き交渉」なんじゃないかと思っています。

そうした、子供にはできないことを容易くやってのける大人の姿は、子供に「大人は凄い」という第一印象を残すのではないでしょうか。

人間はけっこう第一印象に引きずられる生き物ですから、子供のころに「大人は凄い」と思い込むと、その思いこみはなかなか消えず、大人になっても残っているんじゃないかと考えます。

②子供の観測範囲の狭さ

子供の、大人に対する第一印象(=大人は凄い)は、あくまでも大人の一面的な姿に過ぎません。実際には、大人は子供には見せない顔をいくつも持っています。

大人にだってだめなところはあります。仕事でへまをしてその対処に追われることがあれば、人間関係でしょうもないトラブルに巻き込まれることだってあるでしょう。その結果、居酒屋で飲んだくれて、くだをまくこともあるでしょう。

しかし、そうしただめな行動はきっと、子供の観測範囲の外で行うことが多いのではないでしょうか。年齢を重ね、大人だけが参加できるコミュニティ(会社など)に参加できるようになるたびに、大人のだめなところを見る機会は増えていくように思います(統計をとったわけではありませんが)。

大人の駄目な行動をいましめる言葉として「子供の前でそんなことするな」みたいな言い方があります。大人のみっともない姿、赤裸々な姿は、子供に見せないようにする傾向があるのではないかと思います。

大人は、全体として見れば、凄いところもだめなところもあります。しかし、子供は大人の凄いところを見る機会が多く、だめなところを見る機会が少ないため、「大人は全体として凄い存在なのだ」と思い込んでしまいます(例外的に、小さい頃に、大人のだめなところを散々見てきた人は、大人に幻滅しており「大人は凄い」などとは思わないでしょう)。

こうして、子供の大人に対する第一印象、それから観測範囲の狭さゆえに、小さい頃に「大人は凄い」と思い込んだ子供は「自分も大きくなったらあのくらい凄い人間になれる」という幻想からなかなか抜け出せません。

幻想がもたらすもの

この幻想は、きっとかなり大げさで、もし世間一般の大人の能力が100だとしたら、幻想のなかで大人の能力は300くらいになっているんじゃないでしょうか(数字は適当です。個人差があります)。

だから、自分も大人になったら300の能力を持つ人間になれると、過大な期待をしてしまう。大人になった自分が、もし100という十分な能力を持っていたとしても、300という期待とのギャップを感じてしまう。「この歳で、300の能力がない自分はだめだ」と感じてしまう。

冒頭で記載した、「夜のあぐら」の主人公の姉のように「子供の頃に思い描いていた大人像と、大人になった現在の自分の姿が一致しない」と感じる大人がいるとしたら、それはきっと、この100と300とのギャップのせいではないでしょうか。

このギャップを理解して、受け入れることは重要だと思います。いつまでも幻想を追い続けていては、その幻想と自分の間に差がありすぎて、きっと苦しくなってしまうでしょう。

もちろん、このギャップを理解した上で、尊敬できる大人を手本にしたりして、150とか200を目指すのは素晴らしいことだと思います。

幻想を追い求めて、自分の能力を果てしなく高め続けるのも一つの生き方でしょう。ただし、「お前はもう○○歳でいい大人なのにこんなこともできないのか」「300を目指せ」などと、他の人にもその生き方を押し付けるのは、窮屈な考え方だと感じます。

等身大の「大人」へ

きっと、大人になることとは「300の能力を持つ大人ばかりじゃないんだな」「100の能力でも 大人としてやっていけるんだな」「大人って意外とこんなもんなんだな」ということを徐々に確認して、大人に対する過大な期待を、等身大のものに修正して行くプロセスなのでしょう。

そのプロセスを経たうえで「いま自分は100の能力で、余裕があるから、120を目指してみよう」とか「いましんどい時期だから、90にセーブして低空飛行な生活をしていこう」とか「自分はもう歳だから、今は80でもいずれ200に化ける可能性のある若者を育てよう」などと現実を渡っていくことが、大人に必要なことだと思います。

実際には、現実世界は複雑怪奇で、そんな簡単に数値化したり比較したりすることは不可能です。それでも、もし「自分はもう年齢的には大人になったのに、思い描いていた大人像に手が届いていない」と感じる方がいらっしゃったら、「自身の持つ大人像は過剰に美化されていないか?現実とかけ離れていないか?」と考えてみることで、多少なりとも、幻想を追うしんどさから解放されるのではないのでしょうか。

……以上、「タンノイのエジンバラ」を読んで考えたことを書きました。「タンノイのエジンバラ」の本筋とまったく関係ない内容で恐縮ですけれど、こういう「自分がもやもやっと考えていたことを引っ張り出される」体験は、小説を読む効用の一つだと思います。

※今回の記事は、以前に「彩ふ文芸部」に投稿したものを転載した内容です。この記事は特に気に入っていたので持ってきました

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