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『呪われた詩⼈たち』『アムール・ジョーヌ』刊⾏記念対談(前編)

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ルリユール叢書から、ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』とコルビエール『アムール・ジョーヌ』の同時刊行を記念して、2020年2月19日(水)、下北沢のB&Bにて、翻訳者の倉方健作さんと小澤真さんのトークイベントを行いました。そのイベント模様を前編・後編の二回に分けてお伝えいたします。

倉方健作(くらかた・けんさく)
1975年東京生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程退学後、同研究科で博士号(文学)取得。現在、九州大学言語文化研究院准教授。専門はヴェルレーヌを中心とする近代詩。共著に『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』、『あらゆる文士は娼婦である――19 世紀フランスの出版人と作家たち』(ともに白水社)、共訳に『知の総合をめざして 歴史学者シャルチエとの対話』(藤原書店)がある。ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』の紹介記事はこちら。

小澤真(おざわ・まこと)
1977年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程単位取得後満期退学。現在、早稲田大学ほか非常勤講師。主な論文は « « Rondels pour après » - Berceuses pour demain ». Les Cahiers Tristan Corbière. No 1, Paris : Classiques Garnier, 2018. 専門はフランス文学および社会福祉学。コルビエール『アムール・ジョーヌ』の紹介記事はこちら。

はじめに

倉方 本日は私と小澤真さんで、「ヴェルレーヌとコルビエール~呪われた詩人とは何者か」ということで、幻戯書房の〈ルリユール叢書〉から刊行した二人の訳書について話をさせていただきます。まず自己紹介がてら、どういう訳書を刊行したかということを、私の方からお話しします。
 私はふだん九州にいるのですが、実家が吉祥寺なので、大好きな井の頭沿線のこのような素敵な場所で皆様とお会いできることを非常に嬉しく思っております。
 刊行したのは『呪われた詩人たち』――ポール・ヴェルレーヌという詩人が1884年に初版、88年に新版として出したもの――の訳書で、完訳としては一応日本で初めてということになります。のちほど、ヴェルレーヌという詩人がどのような詩人であるか、『呪われた詩人たち』がどのような作品であるか話をしたいと思います。

小澤 よろしくお願い致します、小澤と申します。私はトリスタン・コルビエールの『アムール・ジョーヌ』――『黄色い恋』というタイトルで呼ばれることの多い作品ですが――という、19世紀の詩集の翻訳を今回させていただきました。私はふだん早稲田でフランス語を教える非常勤の仕事をしております。文学研究に関しましては、ここ最近少し遠のいておりまして、ご縁があって十年来『アムール・ジョーヌ』を単行本化したいと大学院時代から思ってました。その機会を与えていただきありがとうございました。
 この『アムール・ジョーヌ』というのは、初版を全訳したものです(「死者たちのカジノ」という散文詩、これも面白いものなんですが、そういったものや、詩集に含まれない韻文の詩篇などは、紙幅の関係もありまして、残念ながら入れることができませんでした)。

ランボー〝じゃない方〟の詩人、ヴェルレーヌ

倉方 ヴェルレーヌとコルビエールという詩人がどのような人だったのかという話からしたいと思います。ヴェルレーヌという名前はみなさんお聞きになったことがある……といいんですが(笑)、日本だと上田敏の『海潮音』が昔、教科書に載っていたと聞いています。《秋の日のヴィオロンのためいきの……》っていうやつですね。それ以降も、堀口大學が訳したりとか、比較的名前は知られている詩人なんですが、他にどのようなことをしたか、どのような作品を書いたかという話になると、ちょっと朧気になってくるというのが、ヴェルレーヌという詩人だと思います。

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 ではどういう人だったかというのを説明するときに、15年くらい前までは非常に便利だったのが、『太陽と月に背いて』という映画なんですけれども、皆さんご覧になったことはあるでしょうか。「私は 妻のカラダよりもランボーの才能に 欲情した。」というキャッチがあります。この映画の〝じゃない方〟がヴェルレーヌです。ディカプリオ〝じゃない方〟(会場笑)。

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さまざまな事情があってこのDVDが出てなくて、あまり学生も知らない。ランボーをディカプリオが演じているんですが、まず学生に話すには、ディカプリオが昔、美少年だったという話からしないといけなくて(会場笑)、そのへんが非常に辛いので、この映画の神通力も消えてきたなという感じです(笑)。
 ちなみにこの原題は《 TOTALl ECLIPSE (皆既食)》で、邦題とは全然違うんです。日本だとディカプリオ中心になってますが、英語版の方は真ん中にヴェルレーヌが来ています。

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ヴェルレーヌという詩人と10歳年下の詩人ランボー、それにヴェルレーヌの妻の、ある意味で三角関係を描いた作品で、ヴェルレーヌを演じているのはデイヴィッド・シューリス。学生には『ハリー・ポッター』でルーピン先生を演じてた人だよと言うと比較的反応があると最近わかったんですが(笑)、いずれにせよ、ランボーとの関係がよく取り沙汰される詩人ではあります。たぶんアルチュール・ランボーという詩人のほうが、天才少年詩人だとかっていうことで名前を聞く機会が多いと思います。
 ヴェルレーヌの人生をざっと言うと、詩人として出発して、その後にランボーという10歳年下の、10代の詩人と出会って、ランボーはパリにやって来るんですけれども、そのあと、妻と生まれたばかりの子供を捨てて、ランボーと一緒に逃避行――ベルギー、イギリスを転々として、最終的にブリュッセルの地で、ランボーを銃で撃って怪我をさせて、殺人未遂というかたちで2年間モンスで収監される。後半生、パリに戻って来てからは、自分の実人生をやや露悪的に作品にしたり、その前にはキリスト教に回心する形でキリスト教的な詩を書いたりもしたんですけども、晩年はなんだかんだで名声がやや高まって、裕福な暮らしとまではいきませんが、少なくとも文壇ではある程度の地位を獲得したのがヴェルレーヌという詩人です。
 今回訳した『呪われた詩人たち』は、ちょうどその後半の人生の始まりと言ってもいい。1844年生まれで、1896年に52歳で死んでるんですけども、ランボーを撃ったのが70年代の前半。その後パリに戻ってきて、1884年ちょうど40歳のときに初版が出てます。晩年の名声――文壇で確固たる知名度を築くきっかけになったのが、この本です。

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 ヴェルレーヌに関しては、一冊、前に少しだけ触れたことがありまして、石橋正孝さんというジュール・ヴェルヌの研究をしているほぼ同年輩の文学研究者と一緒に、『あらゆる文士は娼婦である――19世紀フランスの出版人と作家たち』というちょっとおかしなタイトルの本を書きました。

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石橋さんはジュール・ヴェルヌという小説家が専門ですから散文、私は詩を比較的やってますので、石橋さんが小説家と出版社、作家だとかの、私の方は詩人と出版社のかかわりを、つまりヴェルレーヌがいかにして出版にこぎつけて、後半生で書店とうまくやりながら、もしくは書店の人にうまくやられながら、人生を送っていったかという、ちょうど『呪われた詩人たち』以降のヴェルレーヌを、研究書と読み物の中間くらいで書いたものです。
 日本では堀口大學訳などが、まだ新潮文庫で生きているんじゃないかと思いますけども、ただそんなに読まれない作家であって、知名度もランボーに比べて低い。そう思わされたのは、新潮文庫が新装になったときに、帯に「ランボーを撃ったもう一人の天才」という非常に微妙なコピーがあって、「もう一人」か……と(笑)。いつも「じゃない方」扱いをされているなっていうのが私の印象です。ただ日本では比較的同時代の詩人たち、たとえばマラルメというのは研究界では非常に大きな名前ですが、一般的な知名度で言えば、まだヴェルレーヌの方があるかなくらいの気持ちで、人に説明する時に、聞いたことあると思ってもらえるくらいの作家だというふうに私は感じております。

ブルターニュ生まれ、仮装好きのコルビエール

小澤 コルビエールは、「ランボーのもう一人」くらいの知名度もない詩人なんですね。『呪われた詩人たち』というヴェルレーヌの本で広く知られるようになった詩人です。最近はようやくフランスでも評価が高まってきまして、先ほど倉方さんと楽屋でお話ししていて、アグレガシオン(大学教員資格試験)のテーマになったりもした。アグレガシオンというのは大学の教師になるための、割と大事なものなんですね。

倉方 大学教員って日本は無免許ですけども、フランスは資格が必要で、文学系の人には、作家の作品のお題が出るんです。それについて受験勉強したり論説の準備をする。そのお題にコルビエールの『アムール・ジョーヌ』が選ばれた。だからその時期には関連本だとか注釈付きのテクストが出たりするので、やや地味目の作家が出たりすると、ありがたいことだなと思うわけですね。

小澤 そんな感じで、ようやく最近、名を知られるようになった。十年くらい前だと、フランス人にも「誰?」って訊かれてしまったりするような詩人でした。人生としては、主にブルターニュで活躍した人です。

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ブルターニュと聞いて、何を皆さんご存知か、たとえばアーサー王伝説を育んだ土地として……知っている方もいるかもしれないし。

倉方 クレープじゃないですか(笑)。

小澤 クレープ、ガレットとかですかね、あと最近はクイニーアマン……(笑)。コルビエールが生まれたのはモルレー近郊にあるコート・コンガールというところです。
 私がコルビエールと出会った時の話をちょっとだけさせて頂いてもいいでしょうか。私、リサンス(フランスの学士課程)に入ったことがありまして、アンドレ・ギュイオーさん(André Guyaux)というランボーなんかを研究している先生がリサンスで教えてらっしゃった。その時の授業でコルビエールのテキストを使っていて、それで初めて知りました。
 その大学の学士課程に関しては単位を全部落としまして、どうすることもなく、モルレーに行ってみようと思い、コルビエールの生まれた家に行ってみようといきなり思ったんですね。なんとか見つけますと、コルビエールの子孫の方が快く迎えていただいて、以降、親しくお付き合いさせていただいています。モルレー近郊の凄く静かな街で、街の上をTGV(新幹線)が通る立派な橋があって、谷間の小さなブルターニュらしい街です。コート・コンガール、コルビエールが生まれたところは今は乗馬センターになっています。

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 この写真は、30で亡くなってますんで、25歳くらいの写真でしょうか。

倉方 ヴェルレーヌの1歳年下ですね。

小澤 はい。父親が海洋作家エドゥアール・コルビエールという人で、作家として、またビジネスでも成功して、資産がかなりあった人です。彼が年のかなり離れた女性と結婚しまして、コルビエールが生まれます。コルビエールは身体が弱く痩せっぽちで、寄宿学生としてサン・ブリウという都市の高校に行ったりしています。

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 これも25歳の時の写真で、仮装をしていた時の写真なんですが、仮装をするのが趣味で、司教の仮装、物乞いの仮装だとか、女装なんかも好きだったみたいです。そんな感じで突飛な行動をしてた人なんですが、家族への手紙を見ると、家族との関係は良好だったようです。友人関係はというと、学生時代はわりといじめられたり馬鹿にされたりしたみたいですが、学業を断念した後は友人に恵まれたようです。その友人関係の中で、ロドルフという男に出会います。その人の愛人であったジョセフィーヌ――マルセル、とコルビエールは呼んでいますが――という女優さんに恋をしていたのではないかと言われています。
 その後コルビエールはリウマチの発作に苦しめられながら、それでも絵画を描いたり詩作をしたり、それから船遊びなんかも好きでした。お金はありますので、船を買ってもらってそれに乗ったり、イタリアに旅行したりで、かなり悠々自適に暮らしていました。その後パリに出まして、30直前に肺病の発作が出て、ほとんど棺を作るような状態で母親に故郷モルレーに連れ戻されます。そして亡くなってしまう。
『アムール・ジョーヌ』という韻文の著作はパリにいた時に出版しています。

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倉方 それが生涯唯一の詩集で、生前はほとんど知られなかったということですね。

小澤 その通りです。ええ、これは……

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倉方 2011年に出た切手みたいですね。一応切手になるくらいの人物ではある、ということでいいですか(笑)。

小澤 この横顔の絵は、モルレー市のレリーフで使われています。結構この絵は好まれていて、よく使われるコルビエール像となっています。

倉方 ヴェルレーヌの訳では上田敏、堀口大學の名前が出ましたけれども、コルビエールはまず中原中也の名前が挙がりますか。

小澤 そうですね。中原中也といえば、何をさしおいてもランボーを訳した人で、自身も素晴らしい詩を書いているし、僕も大好きです。

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中也は「ランボー詩集」を3回くらい訳しているはずです。でもそれだけではなくて、フランスのいろんな詩人の訳をしています。たとえば、ボードレールもそうですし、ヴェルレーヌも訳しておりますし、その中でコルビエールも訳しているんですね。コルビエールに関しては、倉方さんが今回訳した『呪われた詩人たち』のコルビエールの章を中也自身が――昭和4年くらいだったと思いますが――訳して書き下ろしています。昭和8年くらいにはコルビエールの詩篇を2つを翻訳しています。
 後ほど翻訳の話題になるとその話になってくると思いますが、コルビエールの韻律、韻文というのは、ランボーと近い感じのところがありますんで、ひょっとしたらランボーを訳すある種のプロトタイプ、練習として、中原中也はコルビエールを訳したのかも知れないな、というふうに思ったりしています。

倉方 二人とも30歳くらいで死んでるのかな(コルビエールは29歳歿、中原中也は30歳歿)。

小澤 ランボーの『地獄の季節』と『アムール・ジョーヌ』が出た年も、奇しくも同じ1873年ですね。

初版『呪われた詩人たち』は
作品とビジュアルで三人の詩人を紹介


倉方 小澤さんありがとうございました。ざっと二人の紹介をしてみました。二人は同時代の詩人なんですが、生前はまったく関わることはなくて、コルビエールの生前は、ヴェルレーヌはその存在を知らなかったということです。もちろんヴェルレーヌもフランスから離れていた時期もありますし、何しろコルビエールはパリの文壇とは全然関わりがなかったと言っていいんですね。

小澤 そうですね。カフェなんかには出入りしていたようですが、特に付き合いのある文学者はいなかったようですね。

倉方 その二人をつなぐ結節点となるのが、この『呪われた詩人たち』という本なんです。

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これはどういう本なのかと言うと、1884年に刊行されるんですが、その前年1883年から雑誌に掲載されたものです。初版は上のような感じで、『Les Poètes maudits(レ・ポエット・モディ)』というのがタイトル、その下に《トリスタン・コルビエール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメ》と書いてあって、この三人の詩人を紹介してる本なんですね。紹介してる、というのが大事なことで、どうしてこの本が文学史に残っているかと言えば、一つはトリスタン・コルビエールという「ほぼ無名の人」を紹介したということ。それからアルチュール・ランボーという「完全に未知の名前」ですね。つまりそれまでは、ほとんど誰も知らないと言っていい、かつての友人であったアルチュール・ランボーを紹介したということと、どちらかと言うと軽視されていたというか、文壇で名前は知られていたけれども、その真価というのは今ひとつ分かっていなかったマラルメという人、この三人のほぼ未知の詩人たちを世に知らしめたということで、この本が文学史的な意義がかなりあるんですね。
 これは今回の翻訳書の帯にも記された言葉ですが、『呪われた詩人たち』初版の、一番最後(「Ⅲ ステファヌ・マラルメ」の章)に締めくくられている言葉です。

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 つまりこの本で当時、彼らを世に知らしめたということなんですね。当時まったく未知の名を世に知らしめる本というのはいつの時代もあると思うんですけれども、『呪われた詩人たち』に関して言えば、紹介した三人の詩人がどれもその後、少なくとも文学界においては非常な名声を獲得したというのが非常に大きなことで、その意味で、この本によって文学史が塗り替えられたとまでは言わないまでも、非常に大きな意義を持った、つまりこの後の文学志望者たちがこの本を読んで、それらの詩人に興味を持ったりとか、新たな文学を目指したりしたということにおいて、一つの契機になった。それが、この『ポエット・モディ』という本です。

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 これは初版に置かれている図像です。コルビエールの顔はほとんど誰も知らなかったわけですけれども、どこかで手に入れた写真を元にこの絵を作ったんですね。

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 またランボーというまったく未知の、つまりそれまで誰も知らなかった人が、顔と一緒にその詩が初めて明らかにされて、このような少年詩人がいたのだ、ということが明らかになったんです。

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ちなみにこの絵の元となっている写真はこんな感じです。こっちのほうがちょっといいですね。

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 マラルメはこんな感じです。これは業界では有名なマネの絵がありまして、その絵を元に作られたものです。

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『呪われた詩人たち』は詩人の作品だけでなく、ヴィジュアルでも、ほとんど未知の人たちをこの世に知らしめたということですね。だから非常にインパクトのあったものだと思います。

新版『呪われた詩人たち』では
自分を最後に追加したヴェルレーヌ

倉方 『呪われた詩人たち』は初版が好評を博したということで――といっても大したことはないんですけれども(笑)――、初版の4年後の88年に新版が出ています。

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新版ではもう3人の詩人が足されています。その3人とは、まずマルスリーヌ・デボルド゠ヴァルモール。これは一世代前の女性詩人(1786-1859)です。そんなに無名というわけではなかったんですが、彼女のことを紹介した。

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このように初版とは違うイラストレーターの絵があって、下のメダルを元に描いたものですね。
 あと、名前を聞いたことがある方もいると思いますが、ヴィリエ・ド・リラダン(1838-89)。

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日本だと単に「リラダン」と呼ばれたりしますけれども、実際にはヴィリエ・ド・リラダンというのがひと繋がりの名字です。これも同世代の詩人・作家。どちらかと言うと作家ですよね、いまだに新訳が出たりして、『未来のイヴ』などの作品が手に入ると思います。だから残念ながら、新版の方は、どちらかというと未知の名前を紹介するというのとは少し違っているというのが、少なくともこの二人の詩人に関しては言えると思います。
 ただ面白いのは、最後の6人目の詩人。それが誰かというと、「Pauvre Lelian(ポーヴル・ルリアン)」という名前の詩人なんですけれども、これは架空の詩人なんですね。「pauvre」は英語のpoorと同じで「可哀想な」という意味で、これは実は「Paul Verlaine」という自分の名前をアナグラムにしたものなんです。つまり自分も呪われた詩人の一人としてカリカチュアして、戯画のようにして紹介したんです。

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 ちなみにこういう写真が載っています。

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 どこを見ているのか(笑)。先ほどの写真は晩年のものなので、これが当時のヴェルレーヌの年齢に近い写真です。だから新版の方は経緯や書くモチヴェーションがやや違うのかも知れませんが、いずれにしてもその6人の詩人にどれもハズレがなかった、というのが非常に面白いところだと思います。

ルリユール叢書『呪われた詩人たち』新訳版の意義

倉方 次に、この本が日本で、どのように紹介されてきたかという話をしたいと思います。一応全訳は初めてなんですけれども、単行本で一回出ています。

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創元選書(創元社)から『呪はれた詩人達』という題で、鈴木信太郎という昔の偉い人が翻訳しています。1957年に出たものですが、これにはヴェルレーヌが紹介した詩人6名のうち4名しか入っていない。つまり初版の3人とポーヴル・ルリアンを足した4人で、デボルド゠ヴァルモールとヴィリエ・ド・リラダンは入ってなかった。あとは後ろにヴェルレーヌが書いた他の紹介文が少し入っている。そういう翻訳がありました。
 その後1962年に筑摩書房から出た「世界文學大系」――このあと表紙・番号を変えて再販がありましたけれども――この中にも、「呪はれた詩人たち」とあります。

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これに収める時に、鈴木信太郎の弟子筋に当たる人が残りの2人も訳して入れたんで、一応これは全訳かなと思うんですけれども、実は原文が、プレ・オリジナル(雑誌掲載)と初版と新版で結構違ってるんですね。で、翻訳はどれも新版の方に拠っている。ただ、先ほど見た口絵の肖像写真に関する序言(「緒言 掲載の肖像について」)は初版にしか収められていないんですけれども、それは今まで日本語に訳されたことがなかった。それからヴェルレーヌがどこを加筆したか、どういうふうに変わったかを対照したものは、少なくとも日本ではなかったので、それも含めて註などで示したということが、今回の翻訳の意義だと思っています。

小澤 ヴェルレーヌの訳はコルビエールからしたら羨ましいくらい、いっぱい出ていて(会場笑)、(今回の翻訳も)たぶん逆の悩みがあったんじゃないかな、と。僕は先達がいなさすぎて困った。倉方さんは先達がたくさんいるので困った、ということもあるかと思いますね。

倉方 既訳があるのが良いのか悪いのか、という話ですよね。あと既訳があった時に、その中で新訳としての意義をどこに見出すかという話なんですけど、少なくともさっきお話ししたように、口絵に関する序文(「緒言 掲載の肖像について」)の翻訳がなかったということと、ヴェルレーヌの研究は以降も蓄積されてきたので、半世紀翻訳が出なかった間に変わっているもの、日本語が変化したものもありますから、その中でどういうことができるかということなので、新訳とはいえ、まあ……既訳があって良かったかな(笑)。
 今からお話し頂くと思いますけれども、ほとんど今まで訳がなかったコルビエールという詩人の作品を訳される苦労というのは大変なものがあったんじゃないかなと思います。

『アムール・ジョーヌ』出版の経緯

倉方 では小澤さんに『アムール・ジョーヌ』についてお話しいただきます。

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小澤 この初版本は1873年に出ています。当時詩集を発表するんであれば、たぶんルメールか、ヴァメルか、有名書店で出したいものなんですが、なぜかグラディ・フレールという凄く小っちゃい、誰も知らないところから出してるんですね。ちなみにこのグラディ・フレールはポルノ関係だとかを出していた書店だと言われています。有名書店から出さずに、なぜあえてここから出したのかっていうのはよくわかりません。が、このへんはコルビエールのポーズなんじゃないかな、と思います。
『アムール・ジョーヌ』の初版本は誤植がひどくて、後世のエディション(版)を作る人たちはだいぶ困ったりしたみたいです。草稿自体も残っていないので、コルビエールが出した唯一の本が基本的にこれしかないということなんですね。ただ、コルビエールの子孫であるバシェ・コルビエールさんという人が、コルビエール自身が持っていたこの初版本を持っていまして、そこには書き込みとかがあって、それでいくらかはわかる。あるいは足そうと思っていた詩だとかもわかる、ということになっています。

倉方 コルビエールの伝記的なことはよく知らないんですけれども、子孫というのは……直系じゃないですよね?

小澤 兄弟が何人かいますので、その兄弟の子孫という形になります。僕の友達も、その兄弟の子孫です。

倉方 先ほど私の前著(『あらゆる文士は娼婦である――19世紀フランスの出版人と作家たち』)を紹介しましたけれど、この詩集は自費出版ですよね。自費出版を引き受けてくれる出版社って当時少なかったんですね。だから先ほど出たルメールは当時まだ大書店ではないと思うんですけども、あそこは結局、自費出版を引き受けてくれる。ヴェルレーヌもそこで最初の、つまりランボーと一緒に国外に行く前は、ルメール書店から三冊の詩集を出しています。どれも自費出版です。当時、詩集というのは経済的に何の価値もないというか(笑)、自費出版が基本で、どんな大作家でも、新聞に掲載される時にもほとんど掲載料がなかった時代だった。そのエピソードなんかは先の共著に書いてあります。
 ランボーを撃ってパリに帰ってきた後は、ルメール書店とかそこに集っていた昔の仲間からも爪弾きにされてしまう。つまり問題を起こした人というふうに見られるので、ヴェルレーヌはどこからも出版ができなくなって、最終的に1880年に『Sagesse(サジェス) 叡智』というキリスト教的な詩集をキリスト教系の出版社から出してもらう。でも印刷させるところまではできても結局、それを誰が流通させるか、どういう人に届くかというのは凄く難しいんですよね。記録によるとその『サジェス』という本は、当時8部しか売れなかったと。8部ってなかなかすごいですよね。
 だから『アムール・ジョーヌ』というのも全然流通していなくて、ヴェルレーヌも友人に教えてもらうまで知らなかったんですね。こういう詩人がいるっていうので、みんなで回し読みをして、凄く面白がったというエピソードがあります。『呪われた詩人たち』の初版で紹介したコルビエール、ランボー、マラルメのうち、ランボーとマラルメは昔からの知り合いなんですけども、コルビエールだけはヴェルレーヌにとってもついこの間まで完全に未知の詩人であって、読者の発見の喜びを先取りして、その喜びを共有するという感じがあるので、その初版の3人の中、もしくは新版の6人の中でも、コルビエールの存在だけは特別だったというか、コルビエールを自分が発見した、こんなに凄い詩人が、詩の世界で生きている自分もまったく知らなかったし、一歳下にこういう人がいて、死んでいるのも知らなかった、というのがやっぱりあったと思う。だから世に認められなかった詩人、「呪われた詩人」の契機になったのが、この『アムール・ジョーヌ』だったと思いますね。ちなみにその後ヴェルレーヌは、友達に見せてもらうだけじゃなくて、自分の分も本を欲しがったんですけれども、なかなか手に入れられなかったらしくて、連載中にどうにかぞっき本で一冊見つけたと聞いています。

小澤 ポル・カリクという人が、コルビエールという忘れられた詩人をヴェルレーヌに教えたいということで、シャルル・モーリスに話を通して、ヴェルレーヌに教えたといいますね。そのポル・カリクは、コルビエールの従弟です。

倉方 シャルル・モーリスという名前が出てきましたけれども、ヴェルレーヌがパリに帰ってきた後、昔の仲間達から爪弾きになって、つまりヴェルレーヌ自身も主流から外れていた。後で「呪われた詩人たち」の中に自分を入れるのもそういうことであって、逆にそういうのを面白がる若手の詩人たち、文学青年たちがいて、その中の一人がシャルル・モーリスで、コルビエールをヴェルレーヌに教えたり、モーリスやその友人たちがやっていた雑誌に「呪われた詩人たち」が連載されたりする。ヴェルレーヌの前半生は、つまりランボーを撃つまで、もしくはランボーと会うまでは、比較的「呪われ」ていなかったんですけれども、その後パリに帰ってきてからの後半生は「呪われた詩人たち」に入るようなものだった。これを書いた経緯にはそういう背景があったと言えると思います。

コルビエールはどのように受容されたか

 ユイスマンスの『さかしま(À rebours [ア・ルブール])』――日本では澁澤龍彦が訳していることでよく知られる作品ですが、それも『呪われた詩人たち』と同じ84年に出ていて、その中にコルビエールがあるんですね。

小澤 デゼッサントの蔵書の中でコルビエールが言及されています。

倉方 デゼッサントは『さかしま』の主人公ですね。84年を世紀末と言っていいか微妙なところですけれども、当時の知的で頽廃的な生活を送っている主人公デゼッサント、その蔵書の中にマラルメだとかヴェルレーヌだとか、あとコルビエールが入ってるんですね。ユイスマンスは『呪われた詩人たち』を読んで知ったのかなと思ったらそうじゃなくて、最近になってコルビエールの研究書が出るようになったんですけれども、それによると、全然ちがうルートでコルビエールのことを知っていたみたいですね。

小澤 むしろヴェルレーヌよりも早くユイスマンスは知っていたようですね。

倉方 もちろん『呪われた詩人たち』の連載と出版がなければ、その後の知名度を獲得することはなかっただろうと思いますが、ただ『呪われた詩人たち』の文学史的な意義と同時に、ユイスマンスという作家の『さかしま(さかしまに)』に出たことでマージナルな詩人たちがやや注目されるということがあって、それから1880年代以降、20世紀初めを通して、そういう詩人たち、マラルメとかランボーが非常に影響を与えるようになる。
 コルビエールは、その後に影響を与えたというのはあるんですか。

小澤 たとえばイギリスではエズラ・パウンドやT・S・エリオット。フランスでは、たとえば(ジュール・)ラフォルグだとかもある程度影響はあるだろうし、トリスタン・ツァラですね。レーモン・クノーはコルビエールに捧げる詩を書いたりしているので、好きだったんじゃないかな、影響はあるんじゃないかなと思います。

倉方 以上が、『レザムール・ジョーヌ(Les Amours Jaunes)』という詩集と『呪われた詩人たち』の作品が文学史の立ち位置ということになります。

(後編につづく)