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ジョウゼフ・コンラッド『放浪者 あるいは海賊ペロル』訳者解題(text by 山本薫)

 2022年4月1日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第20回配本として、ジョウゼフ・コンラッド『放浪者 あるいは海賊ペロル』を刊行いたします。ジョウゼフ・コンラッド(Joseph Conrad 1857–1924)はイギリスの小説家ですが、元はポーランド出身の作家です。今日、ロシア軍の侵攻により大変な戦禍に見舞われている現ウクライナ北部のベルディチェフ(ベルディチウ。当時はポーランドの領地でした)の地主貴族の一人息子として生まれ、早くに両親を亡くし、後見人となった母の兄ボブロフスキのもとで育ちました。
 コンラッドの母語はポーランド語でしたが、ロシアが支配する生地ではウクライナ語やロシア語が話され、父アポロ・コジェニョフスキは英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語に堪能な詩人であり、複数の言語に囲まれる環境にありました。父アポロが翻訳したヴィクトル・ユゴーのナポレオン小説に早くから親しんだコンラッド少年は、同じくユゴーの『海に働く人々』に刺激を受け実際に船乗りになろうと思い立ち、フランス・マルセイユへ旅立つことになります。
 マルセイユ時代を過ごし船乗りとなった青年コンラッドは、のちに英国商船隊に入隊し、その後作家へと転身。船乗りの経験を活かし、世界を股にかけた海洋小説や政治小説などを手がけまさに世界文学の小説家となりました。本作『放浪者』は、そうしたコンラッドの船乗りの出発地である南仏を舞台とした歴史小説です。早くに故郷を離れ、半ば亡命者のごとく越境しながら生きてきたコンラッドの、人生の帰着の物語としても読めるのかもしれません。
 以下に公開するのは、ジョウゼフ・コンラッド『放浪者 あるいは海賊ペロル』の翻訳者山本薫さんによる「訳者解題」の一節です。

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『放浪者』について
 『放浪者』は、海の上を長く放浪した男の帰還の物語として解釈されてきた。船乗りの帰郷の物語を書くことは、コンラッドの「長年の念願」であり(1924年2月22日小説家ジョン・ゴルズワージー宛書簡)、批評家たちは本作に亡命者コンラッドの祖国への郷愁が投影されていると考えた。確かに物語は、主人公が長年の放浪の末に祖国に戻る場面で始まっている。恐怖政治(1793‐94)のあと革命の熱もおさまり、英仏の戦争状態が続いていた1796年、掌砲長ペロルの私掠船は軍港トゥーロンに到着する。50年に及ぶ海の上での生活に終止符を打ち、故郷でひっそりと静かに暮らそうと思っていた老人は、彼の経歴を怪しむ政府の役人の目を避け、足早に町をあとにして人里離れた農場に辿り着く。元海賊は、革命のトラウマを抱えて生きる人々とともにその寂しい農場で暮らした後、トゥーロンのフランス艦隊にイギリスの海上封鎖を突破させるための作戦に身を投じる。囮として封鎖をすり抜けようとしたペロルの小船は、英国艦隊の追跡を巧みにかわすも、最後には一斉砲撃を受けて海に沈む。こうして要約すると物語の多くの要素が抜け落ちてしまうのだが、もともと『放浪者』には省略や空白(謎)が多く(例えばナポレオンは名指されるだけで登場しない)、出版当時も写実的な歴史小説としては理解されず、むしろ冒険小説として受容された。中でもとりわけ大きな謎は、やはり主人公ペロルであり、この老人が、そもそも長年祖国から離れた海の上を放浪することによって、さらに、陸に上がって隠遁生活を送ることによって避け続けた祖国の政治になぜ最後身を投じる気になったのか、ということだろう。
 小説を読む時に、人物(個人)がいかに「リアル」に描けているかに注目して作品の良し悪しを判断する読者は多いかもしれない。実際、従来コンラッド批評でも、人物の行動に一貫性があり、心理や動機がその行動の説明として説得力があるかどうかを基準として、傑作か駄作かが決められてきたと言っても過言ではない。このような判断の根底には、芸術を現実(リアリティ)の模倣ととらえる西欧のミメーシスの伝統があり、その伝統の中で言うところの「人間らしさ」は、意志的に自分の行動を選び取り、それに対して責任を負う(西欧の)近代的自我という考え方を前提にしている。そういった観点で見るなら、登場人物の「行動の背後の心理が十分説明されていない」コンラッドの後期から晩年までの作品のほとんどにおいて、人物は「うまく描けていない」ことになり、事実それらの作品群は長い間「駄作」とされてきた。『放浪者』はその典型例である。しかし、以下に見ていくように、後期以降の作品において、登場人物は「うまく描けていない」というよりは、基本的に詳しい内面描写がほとんどされないので、個人の人格がいかに十全に描かれているかという点を基準に後期以降の作品を評価しようとすること自体が実はあまり有効な手段ではない。
 主人公ペロルには、「闇の奥」や『ロード・ジム』を愛する読者がコンラッドの典型的なヒーローに期待する、あの内省的性格が欠けている[★09]。ペロルは内省の人というよりは行動の人であり、憂鬱は、彼には「馴染みのない感情」なのである。この物語の一見伝統的な非個人的語り手によると、海賊として危険で不安定な生活を送る中で、ペロルには「内省に充てる時間」などなかったという。激しい怒りや喜びなら、「外からやって来て一時的に爆発」する感情として知っていたが、「すべては空しいというこの深い内なる感覚、自らの内なる力を疑うあの気持ち」(178頁)を味わったことは彼には一度もなかった――と語り手ははっきり言っている。マーロウは、つかみどころのない個人的経験に何とか意味を見い出そうとして物理的にも精神的にも「闇の奥」に分け入ったが、この元海賊は、いろいろなことを経験し過ぎたために「一切の驚きの気持ちを押し殺す癖を幼少の頃から身につけてしま」い、何も感じなくなってしまったらしい。ペロルは、

本当に無関心になってしまった―あるいはおそらくただ単に全くもって無表情になっただけなのかもしれない。あまりにも多くの奇妙な、あるいは残虐な出来事を目撃し、あまりにも多くの衝撃的な話を耳にしてきたので、新たな経験を前にした時のいつもの心理的反応を言葉にするならば、たいてい「こんなのまだいい方だな(ジャンネ・ヴ・ビヤン・ドートル)」だった。(36頁)

 英国人の船乗りマーロウは、「新たな経験」を前にした時の「心理的反応」をどうにかして言葉(英語)にしようとしていた。一方、『放浪者』のペロルはある種経験の飽和状態にあり、「新しい体験」を前にしても、その先へと突き進もうとすることはなく、英語話者にとって外国語(フランス語)で、その経験が最悪のものでないこと、つまり、まださらにその向こう(奥)があることを暗示するだけで、それ以上は追究しようとしない。このように、描かれる対象としての主人公ペロル自身が、自らの内面を覗くことに関心がないだけではない。「あるいはおそらくただ単に全くもって無表情になっただけなのかもしれない」という語り手の、どこか他人事のような口ぶりには、語り手もまた語りの対象であるペロルの心の闇の奥を徹底して覗こうとしているわけではないことがうかがえる。
 マーロウのような個人的な語り手ではなく伝統的な非個人的語り手が国家や共同体の絆の価値を一見素朴に肯定しているかに見える『放浪者』は、個人の心理的葛藤を描く「闇の奥」などの中期作品を高く評価してきた従来のコンラッド批評では軽視されてきた。主流の批評家たちは、想像力の枯渇した老作家が慣れ親しんだ海に再び舞台を戻して仲間の絆というお馴染みの題材を再利用しているだけだと考えた。『放浪者』の一作前の『黄金の矢』からコンラッドが本格的に始めた口述筆記も、後期作品における想像力衰退説をさらに補強することになった。先述の通り、コンラッドは全盛期の頃から妻や秘書に口述筆記をさせることがあったが、晩年には痛風で手が腫れて筆記が困難になり、いっそう口述筆記に頼らざるを得なくなっていた。確かに、前期と比較すると、晩年の文体は概して平易であり、例えば『ノストローモ』のような中期の傑作に見られる複雑なプロット構成は影を潜めているように見える。『放浪者』の物語の構成もコンラッドにしては単純であるが、それだけに、次に見ていく時間の操作は際立っており、その操作がペロルの人物描写と関係する時なおさら無視できない。
 第三章の終わりで語り手は、農場に落ち着いたペロルが屋根裏部屋でくつろごうとしていることに触れるが、その後彼が実際にその部屋でくつろぐ様子は描写せず、八年経過して同じ部屋で「すっかり頭の白くなった」彼が今度は髭を剃っている様子で第四章を始めている。これまで言われてきたように、祖国に戻って農場の人々の間で暮らすことが海賊の心境に変化を起こし、彼を愛国的な自己犠牲的行動へと導くのなら、農場での八年の描写はその変化の説明となったはずだ。ところが、この8年の描写は、第三章と四章の間ですっかり抜け落ちている。この間歴史の上では1803年から英国の海上封鎖が始まり、第四章ではネルソン提督の海上封鎖艦隊の見張り船がイエールに停泊し、フランス艦隊とにらみ合っている。この八年をわざわざ「ナポレオンが(1802年に)終身統領として宣言されたことで終結した政治的変革の年月」(50頁)と呼んでいる語り手は、その間に起こったかもしれないもう一方の変化――「ほとんど白髪になってしまった」ペロルの個人的・精神的変化――を確実に意識しているに違いない。それにもかかわらず、ペロルの「魂」(心)の奥への探究の代わりに読者に与えられるのは、例えば、青春時代の恋を含めたこれまでのすべての経験が「帰還者ぺロルの魂」という「妙な混合物〔…〕に、万物への軽蔑という一滴の薬をすぐれた鎮静剤として注入した」(37頁)という大仰な表現である。このようなもってまわった言い方は、ペロルという人間(個人)に対する読者の「理解」をいったいどれだけ助けるだろうか。時間の操作による省略と合わせて考えても、やはり『放浪者』において「個人」を十全に描くことは語り手の(そして作者の)第一の関心事ではないように思われる。

 以上のことと関連して、「(誰々は)〜と言った」という伝達節の欠けた話法――「自由間接話法」――がこの物語で頻繁に使用されていることは注目に値する。これは小説ではよく使用される話法であるが、それにしてもこの物語の登場人物たちにはひとり言が多く、それぞれが一人で考えていることを「声に出して」いる。そして、それらの考えは語りの地の文に埋めこまれている。語り手は、はっきりとした輪郭のある一人ひとりの「個人の意識」を描出しようとしているというよりは、人物の内と外を行き来しながら個人の発話以前の(言葉にならない、あるいはしづらい)「思考」を辿ろうとしているかのようだ[★10]。しかも、次に見るペロルの場合はとりわけ、どこまでが作中人物の考えや気持ちで、どこまでが語り手のものなのかが判別しがたいことが多い。日本語に訳すと、自由間接話法であることがわかりづらくなる場合があるので、少々長くなるが、以下に原文と日本語を併記しよう。

The way she had taken to dressing her hair in a plait with a broad black velvet ribbon and an Arlesian cap was very becoming. She was wearing now her mother’s clothes of which there were chestfuls, altered for her of course. The late mistress of the Escampobar Farm had been an Arlesienne. Well-to-do, too. Yes, even for women’s clothes the Escampobar natives could do without intercourse with the outer world. It was quite time that this confounded lieutenant went back to Toulon. This was the third day. His short leave must be up. Peyrol’s attitude towards naval officers had been always guarded and suspicious. His relations with them had been very mixed. They had been his enemies and his superiors. He had been chased by them. He had been trusted by them. The Revolution had made a clean cut across the consistency of his wild life—Brother of the Coast and gunner in the national navy—and yet he was always the same man. It was like that, too, with them. Officers of the King, officers of the Republic, it was only changing the skin. All alike looked askance at a free rover. Even this one could not forget his epaulettes when talking to him. Scorn and mistrust of epaulettes were rooted deeply in old Peyrol. Yet he did not absolutely hate Lieutenant Réal. Only the fellow’s coming to the farm was generally a curse and his presence at that particular moment a confounded nuisance and to a certain extent even a danger. “I have no mind to be hauled to Toulon by the scruff of my neck,” Peyrol said to himself. There was no trusting those epaulette-wearers. Any one of them was capable of jumping on his best friend on account of some officer-like notion or other. (pp.103-104)
彼女〔アルレット〕はよく髪をおさげにして幅の広い黒いベルベットのリボンで結び、アルルの帽子を被っていたが、いつものその格好はとてもよく似合っていた。今彼女はたんすいっぱいに残された母親の服を着ていたが、もちろんそれらは彼女に合うようお直しされていた。エスカンポバール農場のかつての女主人はアルル出身だったな。それに裕福だった。そうだ、女性の衣服に関してさえ、エスカンポバール農場で生まれた人間は外界とのやりとりなしですますことができるんだ。もうそろそろあの忌々しい大尉がトゥーロンに戻る頃だ。今日で三日目だ。やつの短い休暇はもう終わるはずだ。海軍将校に対するペロルの態度はいつも用心深く疑念に満ちていた。両者の関係は非常にあいまいだった。将校は敵であり上官でもあった。彼らには追われたことがあり、信頼されていたこともあった。革命が、何にも縛られない自由な人生――「沿岸の兄弟」でありフランス海軍の掌砲長でもある人生――の調和をすぱっと切り裂いてしまったが、それでも彼はいつも同じ人間で変わりはなかった。将校もそうだった。王に仕える将校がいれば、共和国の将校もいるが、単に皮膚一枚の違いだった。みな一様に自由な海賊を疑いの目で見た。この男だって話している時は自分の肩章(エポレット)を忘れることはできない。肩章に対する軽蔑と不信は、老ペロルの胸に深く植えつけられていた。しかし彼はレアル大尉のことを完全に嫌っているわけではなかった。ただこの男が農場にやって来ることはだいたいにおいて大いに迷惑であり、今のこの瞬間に彼がここにいることは非常に厄介で、いささか危険ですらあった。「襟首をつかまれてトゥーロンに引きずり戻されるのはごめんだ」とぺロルはひとり言を言った。肩章(エポレット)をつけているやつらを信じちゃいけない。やつらは誰だって将校特有の理由を何かと持ち出して親友にすら襲いかかりかねない。(本書111‐112頁)

 この引用の冒頭で語り手は、母のおさがりのアルルの伝統的な衣装に身を包んだアルレットの姿に魅了されるペロルの心情を、おそらく彼の心の中に入りこんで内側から伝えている。ここで非個人的な語り手はペロルにほぼ一体化しており、自らもアルレットに魅了されているかのようだ。しかし、引用の中盤で、彼女をめぐる恋敵であり、元海賊からすれば信用ならない海軍将校レアルを疎んじる態度を「ペロルの」態度とわざわざ明言している語り手は、対象(ペロル)から離れて彼の外に出ていると思われる。それから海賊と将校の関係に触れるうちに語り手は徐々に再びペロルの側に立って、革命に翻弄される海賊の両義的であいまいな立場に理解を示し、海賊を疑いの目で見る将校に対してまるで自らも苛立っているかのように、レアルを「こいつ(this confounded lieutenant )」呼ばわりしている。そうかと思うと今度語り手は将校に対する不信感を内側から伝えるのに「老ペロル(old Peyrol)」の「胸の奥深く」まで入りこみ過ぎたことにはっと気づいたかのように、彼をより親しげな「老ペロル」ではなく「ペロル」と呼び、その「ひとり言」を外から報告する。ところが、またすぐに語り手はペロルの内側に入って、将校に対する不信感を共有している。レアルに対するペロルの嫉妬は、将校への不信感と複雑に絡み合っているが、どうも語り手もアルレットをめぐってレアルに対する嫉妬をペロルと分かち合っているようだ。このように、語り手は作中人物の「外」に出ていわば客観的にペロルを眺めている、といつもはっきりと断定できるわけではなく、『放浪者』の自由間接話法には、作中人物に帰すべきか、語り手に帰すべきなのかがよくわからないあいまいさがある。自らもまるで「自由な海賊/放浪者(a free rover)」のようにペロルという一人の人間の内と外を行ったり来たりする語り手の、「発話主体」としての帰属を同定することは容易ではない[★11]。
 こうして語り手に関しても登場人物に関してもはっきりとした輪郭を持つ個人が想定されていないのだとしたら、この物語で個人対個人の「対話」が通常通りにはうまく成立していないことは不思議ではないのかもしれない。登場人物がよくひとり言を言うことについてはすでに触れたが、彼らは誰かと一緒にいてもほとんどの場合、目の前の相手と対話するというよりは、それぞれが一人で考えていることを「声に出して」いるだけである。しかしながらそれでいて全く意思疎通できていないわけではなく、不思議とどこか通じ合ってもいる。ペロルはアルレットのエキゾチックな美しさを前にしてよく言葉を失いながらも、今まで知らなかった(性的とも保護者的ともつかない)親密な感情をかき立てられてもいる。アルレットも彼とだけは初対面の時から打ち解けており、彼を父親(恋人?)のように慕っている。カトリーヌやスケヴォラは誰に対しても時代錯誤的な信条を一方的にまくしたてるだけだが、農場の女たちはスケヴォラをどこか哀れんでおり、ペロルにはカトリーヌが自分を農場の住人として受け入れていることは何となくわかっている。見張り台のベンチに無言で並んで座り、一緒に英国船の動向を眺めている海軍将校レアルと元海賊は「つかず離れずの」(113頁)関係で、いつしか二人の間には「妙に疑い深く、けんか腰の無言の共感」(81頁)が生まれている。さらに語り手は、これらのフランス人だけでなく、英国人の内側にも潜りこみ、そこで起こっていることを我々読者に伝える。語り手は、人格の境界線を自由に飛び越えて人物から人物へと「放浪」する。例えば、ネルソンの艦隊の艦長ヴィンセントと彼の部下ボルトの「対話」において、自分たちが気づかないうちにフランス軍が海上封鎖を突破してしまうのではないかと心配するヴィンセント艦長の以下のような胸の内は、部下ボルトの前では明かされない。艦長の不安を知るのは語り手と読者だけだ。

 ああ、トゥーロン港の入り口を昼も夜もじっと見張る双眸(そうぼう)があれば! ああ、フランス船のまさにその様子を見てフランス人の精神のまさしく秘密を覗く力があれば! 
 だが、ヴィンセント艦長はこうしたことを一切ボルトに言わなかった。彼はただ、フランス政府の性質が変化したことや、宗教活動が再開されたから農場の王党派の人々も心変わりしたかもしれないとだけ述べた。ボルトの返事はこうだった―私は、若い頃、トゥーロン撤退以前も以後も、ハウ卿の艦隊の船の上で王党派とはずいぶん密会を重ねました。男女問わずあらゆる人々、理髪師に貴族、船乗りに商人、考えうる限りのほとんどすべての種類の王党派です。〔…〕王党派は決して寝返りません。農場そのものについては、実際閣下にご覧いただければと存じます。そこは、何があっても変化しない場所なのです。失礼ながら、農場は百年後も今と同じで全く変わらないでしょう。(66‐67頁)

 先述の通り、我々読者は、フランス人ペロルとレアルの「双眸(そうぼう)」がトゥーロン港の入り口を昼も夜もじっと見張っていること、そして彼らの心の中に入りこむことができる語り手に「フランス人の精神の秘密を覗く力」があることをすでに知っている。別の箇所(149頁)で、英国人は本当のところ鈍いのか鋭いのかわからないと言う語り手が、この引用の冒頭でヴィンセントのこうした嘆きを報告する時、この英国人にはフランス人の精神の「秘密を覗く力」がないということを読者に暴露し、また強調してもいるのであって、ヴィンセントの側に立って彼に共感しているわけではないだろう。「秘密を覗く力」の欠如からくる不安を部下の前では隠して体面を保とうとする英国の高官の自尊心を、語り手はそれこそ冷めた目で見ている。次にヴィンセントの外に出て部下ボルトの内側に入りこんだ時も、語り手は、王党派は変化しないと信じこんでいる彼の愚鈍さを浮かび上がらせている[★12]。このように語り手は、フランス的精神と英国的精神のどちらにも精通しているばかりでなく、イギリス人の間で職階の上下を行き来する。フランス船とフランスの船乗りを称賛する語り手の共感は限りなくフランス側にあるようだが、彼は同時に英国の内情にも通じている。そもそもこの物語の舞台が、革命の最中一七九三年に王党派がその支配をイギリス海軍にゆだねた、いわば「裏切りが目論まれ」た町(184頁)トゥーロンに置かれていることをここで思い出そう。この物語において「密通」は、語りの舞台で起こったこと(歴史的事件)であるばかりでなくまさに語り手によって演じられてもいる。
 「闇の奥」のマーロウは何度か語りを中断して、とりとめのない自分の話が聞き手に理解されているかを確認していた。相手にうまく伝わらないマーロウの語りが、当時流行の冒険譚の形式――へき地(植民地)からの帰還者が本国の人々に向けて尋常ならざる体験を語るという設定――を踏襲しているように見えて、「私とあなた」の二者の間で合意を前提として行われる対話への懐疑をすでに実演しているのなら、晩年コンラッドが、対話を対話として単純に提示しない非個人的な語りへ移行することは、従来言われてきたような唐突な変化でも、想像力の衰退による伝統への回帰でもなく、むしろまさに「一人称でもなければ二人称でもなく、人称の言語によって前提されるあらゆる二分法を逃れる」、「主体なき行為[★13]」としての語りの実践として考えられるのではないだろうか。

 こうして内容と形式の両方が「放浪」性に貫かれていることを確認したところで、そろそろタイトル「放浪者」に戻ろう。この物語が、内容の面でも語りの面でも「個人的な主体」という概念に完全に拠りかかっているとは言えないとしたら、この物語のタイトルが、放浪する自己の「個性」(=フランス人としてのアイデンティティ)への回帰を意味すると単純に言い切ってしまうことは難しくなるのであり、『放浪者』を海賊の帰郷の物語とする従来の解釈自体が揺らぐだろう。もちろんタイトルは、第一義的には放浪者ペロルのことを指すのだろうが、一方でそれは、むしろ「個性」からの永遠の放浪を意味しているとも考えられないだろうか。
 「闇の奥(heart of darkness)」のように、コンラッドの物語のタイトルの多くは、単純に一つの意味を指し示すというよりは、むしろそれが何を意味するのかを読者に考えさせる。あいまいなタイトルは、何かを常にわかりやすい意味に回収しようとする行為そのものを疑問に付す。作中で主人公ペロルを指して「放浪者(the rover)」という表現が使用される場合の多くが、政府から認可を受けて略奪行為を行う「私掠船の船長(privateer)」を意味しているのだけれども、英語の‘rover’は、「放浪者」と「海賊」という二つの意味を同時に表すことができる言葉で、コンラッドはおそらく英語のこの両義性を利用している。フランス語やドイツ語では「放浪者」と「海賊」は別の単語で表現せねばならず、コンラッドの最初の伝記作家ジャン゠オーブリによるフランス語版のタイトル「沿岸の兄弟」(つまり、海賊)(Le Frère de la Côte、1927)(原註003を参照)、ドイツ語版「私掠船の船長(privateer)」(Der Freibeuter、1930)は、「海賊」の意味の方を採用しており、本作がジャンルとしては歴史小説としてよりも冒険小説として出版当時受容されていたという事実を反映している。日本語の「放浪者」という言葉も、同時に「海賊」を意味することはできない。「放浪」は、洋の東西を問わず古来より芸術の伝統的なモチーフであり、確実に「伝説上の放浪者」オデュッセウス(『海の鏡』あるいは、本編の註004を参照)を意識していたであろう作者自身は、「放浪者」という使い古された言葉をタイトルにすることでもしかしたら作品の「個性」すら消そうとしていたのかもしれないが、拙訳ではこの「放浪者」を選ぶことによって、すでに世に数ある放浪の文学の中に本作を埋没させてしまわないように(こうした考え自体が作品の「個性」に対する信奉を露呈しており、ここで書いていることとやや矛盾するかもしれないことは意識しつつも)、タイトルはあえて「放浪者 あるいは海賊ペロル」とした。このことによって、『放浪者』は大衆娯楽小説の一ジャンルとしての海洋冒険物語であり、また、個性や人格は一個の人間に住まうというよりは永遠に放浪するのではないかという思索をも誘う「シリアスな純文学」でもあるということが暗示でき、ジャンル間を「放浪」するこの物語の横断性も暗示することができるのではないかと考えた。


[★09]『放浪者』の関心が個人よりも「奇妙な友愛」にあることは、拙書Rethinking Conrad’s Concepts of Community: Strange Fraternity (London: Bloomsbury, 2017)第九章で詳細に論じた。
[★10]自由間接話法については、平塚徹編『自由間接話法とは何か』(ひつじ書房、2017)、特に58‐59、75頁を参照。コンラッドの後期から晩年の作品の非人称の語り手を考える上で重要なこの話法の問題については、紙幅の都合上ここでは深入りできないが、別の場所で論じる予定である。
[★11]自由間接話法における発話の帰属のあいまいさについては、前掲書、58‐59、75頁を参照。
[★12]英国人に対する非個人的語り手の冷めた目線は、例えば「台風」の語り手のマックワー船長の愚鈍(あるいは愚直さ)に対する皮肉な調子を思い出させる。
[★13]ロベルト・エスポジト著、岡田温司監訳『三人称の哲学』、講談社、2011、30頁。
【目次】
 第一章
 第二章
 第三章
 第四章
 第五章
 第六章
 第七章
 第八章
 第九章
 第十章
 第十一章
 第十二章
 第十三章
 第十四章
 第十五章
 第十六章

  註
  ジョウゼフ・コンラッド[1857–1924]年譜
  訳者解題
【訳者紹介】
山本薫(やまもと・かおる)
大阪府大阪市生まれ。大阪市立大学文学研究科博士課程単位取得満期退学後、同大学にて博士号(文学)取得。現在、滋賀県立大学准教授。専門はジョウゼフ・コンラッド。主著はRethinking Joseph Conrad’s Concepts of Community: Strange Fraternity (Bloomsbury 2017)。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『放浪者 あるいは海賊ペロル』をご覧ください。

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