能力主義についてテキトーな意見

ハーバード大で空前絶後の人気を誇る哲学の講義を受け持つマイケル・サンデルさんが "能力主義は分断を生む"と主張していて共感したので、ここでは能力格差についてのまとめと考察を綴りたい。

現在世界中で物議を醸しているLGBTQや黒人差別、アジア人差別等がありますが、日本人で日本に暮らしていると殆どの方はあまり関係ないことだとして違う世界の話という扱いです。

しかし、私達ももしかすると差別をしているかもしれません。

近年の医学的な研究では遺伝子単位で各能力の項目で優秀な能力を持っているかが解明されてきています。
よく言われていますが、学力は半分親からの遺伝でもう半分は家庭の収入・環境で決定すると。
そのため、人によって1000時間何かに費やして成果を0から100にできる人も居れば、0から10にしか成長できない人もいます。

しかし、世の中で成功を収めた人の中には努力をすれば誰だって成功できると主張しています。

果たして本当にそうなのでしょうか?

実際は、運も実力のうちであるとサンデル氏は主張します。
たとえ遺伝的にも優れていて能力があったとしても、それを評価してくれる社会が存在しない限りは成功はしません。
仮にソフトウェア開発に特別な才能を持った人が明治時代以前に生まれていたり、現在に生まれたとしても極度の貧困地域で暮らしていたらコンピュータにふれる機会もないでしょう。

そのため、成功することが社会的に認められる結果を残すことだとすると、自身の才能と環境が揃ってやっと成功できることです。

サンデル氏はこれらの理由から、エリートこそ謙虚であるべきだと主張しています。
高収入な家庭に生まれて名門中高一貫校に通ったら、普通に東大とか海外名門大うかってエリートを世襲するのがほとんどです。もちろん努力して世の中で価値を生み出すのはこういったクリエイティブクラスの方々たちなので社会で必要とされています。

ただ、こういったエリート層は低所得者の実態を全く理解していません。
努力したら東大・ハーバードに誰でも行ける。低所得なのは自分の努力が足りていないだけ。貧乏人はこういう考えの人ばかりだ。 
このような考えをいくつかの人は考えを持っています。

人間の存在価値は、決して仕事の生産性が高くて価値を生み出す人が高いのではなく、いかに他人に貢献できたか、自分らしく生きられたかだと思います。
心理学者のアドラーは人の価値を機能価値と存在価値に分類しました。
職業が自由に選択できて市場経済に生まれたときから組み込まれる私達は、自分が社会で果たす役割があるかどうかを機能価値として考えます。
しかし、私達自身は家族・恋人・友達から必要とされているという存在価値もあります。
幸福感が100で満たされるとして、機能価値 : 存在価値が80:20でも80:20でも人それぞれ能力によって異なります。

能力主義によって仕事ができる人・有名企業に務めている人・経営者が価値のある存在として分断が起きている現代では、自分自身が本当に大切にしたいものを見つけて、他人に左右されない幸せを感じることが分断を生まないアクションではないだろうか。





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