本当にやりたいこと ~損回避思考とゲーム依存~

まだ見つかっていませんが、もう少しで五里霧中が晴れて開けた場所に出られるような、そんな気がしています。

以前の記事の話。
僕の異常なほど損したくないという気持ちをより詳しく分析すると、
損したくない=無駄がイヤ
なのではないかと思ったので、じゃあ幼少期に無駄でイヤだった強烈な体験があるのか? というのを催眠療法を使って紐解いた結果、「勉強なんかやりたくない」で大泣きすることができ、催眠療法としては一旦ここで止まっていました。

https://note.com/genki_saimin/n/n3bc7e77df08c


ここで厄介なのが、「じゃあやりたくないことは置いといて、やりたいことは何なの?」という自問に、腑に落ちる答えが全く浮かんでこないのです。
勉強したくなかった幼少期のその時点ですでに、やりたいことと言ったらもうゲームで、それはいまだに続く依存的な触れ合い方なので、"本当にやりたいことと"は違うと思っています。

ここで、じゃあなんでゲームがやりたくなるのか、ゲームをやりたくなるのはどんな時か、分析してみました。

僕がゲームをやりたくなるのは大きく分けて2つ。
①損しないため
 ソシャゲの時間回復スタミナが溢れると損した気分になる
 ポケモンGOを起動せずに歩いたら損した気分になる
②現実世界で思うようにいかないことがあったときの逃避
 ゲームは、良くも悪くも自分が操作した通りになる世界だから

ここでもやっぱり、損したくなさが根っこの部分にあるようです。
そして2つ目、思うようにいかなかった現実世界のフラストレーションをゲームの世界で晴らそうとする行為。
ここは割と、核心に近い感じがしています。

幼少期からゲームに依存していた理由もおそらくこれです。
僕は末っ子で、上兄弟は6個と8個も離れていたので、鬼ごっこやってもケンカしても何もかも圧倒的な力の差でねじ伏せられ、何一つ思うようにいきません。
それを覆せるのが、ゲームだったのだと、30年以上経ったいま、ようやく気付きました。

(今でこそ、ゲームはe-sportsとかもてはやされていますが、本当に評価できるポイントとして、子供からお年寄りまで老若男女、健常者でも障がい者でも(設定次第で)対等に戦える点があります。
これは現存するどんなスポーツにもない素晴らしい性質でしょう。)

つまりゲームは、か弱い存在だった末っ子の僕を優しく守っていたのだと、今なら思えます。

で、あるならば、「勉強なんかしたくない」、やりたくないを越えた先にある、僕が本当にやりたいこと、それはゲームという外壁の中にある、「対等に遊びたい暮らしたい」あるいは「自分が優位でいたい」という思いなのかもしれません。

かつてこのブログで紹介したか忘れましたが、前田先生の安心学®でも、優位安心は動物の持つ最も基本的な欲求の一つだと言われています。

すごい。

物事の本質を理解するってえのは、こういうことなんですね。

人類の持つ普遍的な悩みというのは、根本的な部分で共通していたり、本質理解ワード一つで色んな物事の解決にハマったりするのです。


以上、途中で話がとっ散らかって、ブログタイトルから逸脱しつつあるなーと思わせてからの、すっと着地した(つもりの)記事で~した。

頂いたサポートは、僕のプロテイン代となり、文字通り血となり肉となります。 そうやってエネルギーを充足させられれば、きっとよりよい連載が続けられる気がします。