民主主義、行き詰まってない? ②埋まらない格差

民主主義って別に万能解じゃないよねっていう連載。

民主主義社会で何かを発案する場合、多数派を味方にする必要があるけれども、心がどんどん貧しくなっている現代日本ではなかなか同意を得られない、というのが前回の記事。


思いやりとか人の心だとか、そういう不定形なものをあてにしないとなると、あとは論理武装ぐらいしかありません。

要するに、思いやりには期待せず、感情は抜きにして論理的に、弱者を救うべき理由付けが出来れば、大多数の"困ってない人々"を説得できるはずだという考えです。


しかし困ったことに、論理的思考力のある人というのは、既に社会の上流階級にいる場合が多いのです(多少偏見はあるかもしれませんが)。

格差社会がいつまで経っても是正されない理由はここにあります。

つまり、社会の助けを必要としている側ほど制度を提案するための論理武装が必要なのに、助けの必要ない側の方が論理的思考力が高い場合が多いことが原因で、"いま困っていない多数派"を説得しづらく、結果として格差が是正されずにいると考えています。


もっというと、格差社会で搾取される側の人間にも課題(問題や責任と言う意図はありません)があります。

それは、現状を変えようという勇気を持てないこと。

心理学研究で、今の暮らしをどんなに不幸だと感じている人でも、では昔に戻って人生やり直したいかと言われるとそうでもなく、今の暮らしを続ける選択をするそうです。

厳密に言うと、現状に甘んじるとかいう話ではなく、むしろ今の暮らしを変化させることへの漠然とした恐怖を感じるとのこと。

それはそうです、人間は本能的に変化には恐怖を感じるのです。


しかし、誰もが等しく、幸せに生きる権利があるのです。

これは憲法でも保証されています。


「今まで努力して来なかったから、生活が苦しいのも当然だ」などと、自分で自分を責めるだけはもうやめて、改善思考へ勇気を持って踏み出しましょう。

助けを必要とする側から発信がないと、困ってない側の大多数は「なんで『助けて』とも願ってない奴らをわざわざ助けてやらなくちゃいけないんだ?」となるのは必然です。

そしてその発信は、助けろ助けろと権利ばかり主張するワガママと捉えられてはだめで、多数派の思いやりに訴えかけるか、極めて合理的である必要があります。


この説得を、論理思考が弱い側が強い側へするなんて、土台難しい話ですね。

だからこそ、この国の民主主義は行き詰まっているのです。

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