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老人というダイバーシティ権利保護から漏れた人々

森喜朗氏の辞任劇が話題となっている。

森喜朗氏は確かに発言について以前から脇が甘い節があるが、果たして辞任に追い込むべきほどの悪事を働いたと言えるのだろうか。

老害と非難する人が多いが、適切な判断なのか。


近年ダイバーシティの機運の高まりもあり、女性やLGBTに対する発言にはとても敏感な風潮がある。

一方で「今流行りの」ダイバーシティの権利保護主張の対象から漏れている層は逆に冷や水を浴びせられる機会が増えてさえいるように思える。


特に瀬戸際に立たされている代表が老人だろう。

老害という言葉が定着して久しく、老人が失敗をしたり、口煩く主張したりすると老害として片付けられる。

更に、かつて姥捨山という概念があったように、このコロナ禍で再び老人は死んでも社会的負担が減るのでむしろ減るべきであるため自粛をせずに経済を優先すべきという意見も多い。

物品のように人間の思考力も経年劣化するので、若年に対して老人が劣ることは間違いない。

しかし、誰しもがいずれ老人になるし、その時に自分が社会的に受け入れられない存在であるとするならば、なんとも絶望的な未来である。

老人の思考力の低下による失敗をケアしてあげられる社会的なコンセンサスとしての心の余裕が欲しいものだ。


老人は社会的に負債だからとぞんざいに考える人も、果たして若年層はもれなく社会的負債ではないかどうかを考えてみて欲しい。

例えば、日本の所得税の納税額総額の約半分は年収1,000万円以上の人達が負担している。

その人達は社会全体の5%弱しかいない。

つまり、一部の人達が中心となり社会は支えられているので、ほとんどの人は見ず知らずの他人による恩恵を受けている側なのだ。老人を社会的コストと責めることができる人はごく僅かであるはずだ。


このように、一部の日本のリーダーが多くの人を支え、ほとんどの人は他人により支えられている中で、「今流行りの」ダイバーシティの保護対象外の人を叩くというのはとても浅ましいことだ。

何も自分の立場よりも持ち上げろと言うわけではない。

ただ、自分も他人の助けにより生きていることを忘れ、失敗した人を老害という型にハメて存在を否定するのはいかがなものかと思える。

コロナ禍で溜まっているストレスの捌け口として、叩けるものを見つけたら叩くというスタンスであるのだとしたら、なんとも残念なことだ。

老人に対しても、老人の特性を踏まえた上でのケアをして対等に付き合っていくことが「本当の」ダイバーシティなのではないだろうか。







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