スタァライトと幾原邦彦作品が繋がってしまう理由を考えた


私が最初にスタァライトに出会ったのは、TVアニメ版から。
初見で「なんじゃこれ!!??変身(?)シーンオシャレすぎる………………きらめき……………」という感情で、背中から沼へ落とされました。

今から考えると、こんなに刺さるのも無理もない。
私は幾原邦彦作品が大好きなのですが、
スタァライトの演出や、スタァライトの「よくわからないけどすごいおおきな感情の波で物語が終結する」というところが、めちゃくちゃ幾原邦彦を思い出させるものになってます。
(監督はユリ熊で副監督をされている等、幾原さんの直弟子といわれています)

とはいえ、監督自身はイクニを意識したわけではないようですし、実際別物ではあるのですが。
多分、監督はこういう物語の作り方を許せるタイプだったんじゃないかな


ストーリーやその説明を不要とする考え方。結構アニメとかマンガとか読んでるときに、物語の終盤に何が起きてるのか理解できず、ついていけなくてそのままその作品から手を引いてしまう人っているじゃないですか。
古川監督は、そういうのと正反対のタイプの人なんじゃないかな。完全に憶測でしかないですけど。


上記の点から、スタァライトを布教している人たちが「イクニ作品は好きぷり?なら大丈夫ぷり!(比喩)」と言ってるんだと思う。
確かにだいたい刺さると思う。イクニ作品好きぷり。


ただ、もうひとつ、刺さる理由があると思っています。

それは、スタァライトもイクニ作品も、どちらも私たち人間が取るべき「生存戦略」をテーマとしているということ

ウテナも、ピンドラも、ユリ熊も、さらざんまいも、どれも「こんな時代でどう生き抜くべきか」を模索して、それに結論を出してるお話なんです。

ウテナは、子ども染みた勇気一つで、世界を革命できるかもしれないということを教えてくれたし、
ピンドラでは、愛を失っていても、与え合ったり繋がろうとしたりすることで、生きていけるということを学びました。
ユリ熊やさらざんまいでは、自分の愛や欲を貫くこと、手放さないことが生きることだと受けとりました。

ではスタァライトは?
スタァライトでは、「失くしてもきらめきは消えない。何度でも再生産する」というフレーズがあるように、過去を燃焼して、立ち上がり続ける姿を、舞台少女が示してくれています

劇場版ではさらに、未完成でも、下手くそでも、未来へ進まなければ(人生が)死んでしまうと、補完してくれています。


他の作品だって基本はそうなんだけど、やっぱりスタァライトは可愛いだけじゃないんです。
視聴者や観客の「人生の在り方」を揺るがすような、強いメッセージがあるんです。

人生を揺らされてしまうのに私は弱い。
そして、多分そういう人間は死ぬほどいる。

つまり、人生や価値観を揺るがされるような作品に弱い人間は、イクニ作品はもちろん、スタァライトも劇薬っちゅー話なんです。

だから「ピンドラ好きな人はスタァライトが好き!」とよく言われるんです。

本当に劇薬だった。情緒が壊れる。
人生で同じ映画を劇場で三回以上見たのは、スタァライトがはじめてなんです。

スタァライト大好き。
生まれてきてくれて、ありがとうございました。

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