源氏物語の色 29「行幸」~ハレの日の色~

「行幸」のあらすじ
―――冷泉帝の大原野の行幸の折、見物していた玉鬘は冷泉帝の美しさに惹かれた。光源氏は玉鬘を尚侍としての入内を進め、その前に玉鬘の裳着の儀式を挙げようと玉鬘の実の父である内大臣に腰結の役を依頼し、親子の対面が実現したーーー

現在の京都市西京区に大原野神社があるが、紫式部はこの神社を氏神と崇め、大原野の地を愛していたという。この近隣の野で行われる冷泉帝主催の鷹狩りのために、冷泉帝始め錚々たるメンバーが着飾って行列した盛大な儀式が大原野の行幸。世をあげての大騒ぎだったようで、見物客でごった返し、もちろん六条院の女房たちも物見車で出かけていた。六条院の女性たちの衣裳はさぞかし華やかであっただろうが、「行幸」に記述があるのは女性陣の衣裳ではなく行幸に参加している男性陣の衣裳。これが非常に興味深い。

「青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり」
私たちの生活に青色は溢れているので読み過ごしてしまいそうなのだが、この「青色の袍」とは天皇の日常着である麹塵(きくじん)の袍のこと。麹塵は淡黄に青みを帯びた色。普段は天皇以外は着用できないのだが、行幸のような晴れの儀式のときには諸臣が着用し、天皇は「赤色の御衣」を身に着けたという。

王朝時代は律令制からの流れで位階によって着用できる色が決まっており、天皇以下、濃紫、淡紫、緋、緑、縹と続く。非常に興味深いのは、「縹」は現代では青と表現するべき代表的な青い色なのだが、王朝時代は決して「青色」とは呼んでいない。あくまで「青色」は天皇の着用する麹塵のことであるのだ。普段は着用できない「青色の袍」を大原野の行幸では殿上人たちは晴れがましく着ていたに違いない。

また、親王たちは「めづらしき狩の御よそひども」を身に着け、イベントの立役者である鷹飼は「世にも目馴れぬ摺衣」だった。鷹飼の「摺衣」は、山藍や紫草などの汁で種々の模様を摺りだした狩衣だというから、青紫系のまだら模様、もしかしたらカモフラージュ柄のような感じだったのではないかと想像する。

紫式部は、その当時の100年前の物語として源氏物語を書いているのだが、行幸の際の衣裳は「吏部王記」に書かれたものと一致し、これらをもとに忠実に再現したのだろう。「摺衣」も伊勢物語に「春日野の若紫の摺衣 しのぶの乱れ限り知られず」などあるように、どうやら紫式部の100年前に流行していたもののようだ。

そして、この伊勢物語の和歌から私が思い出したのが、百人一首の源融「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに 乱れそめにし我ならなくに」の歌。この歌は、陸奥の按察使だった源融が都へ戻る際に女性に詠んだもの。

「しのぶもぢずり」とは、福島県信夫(しのぶ)地方に伝わっていた染色技法で、石に衣を擦り付けて染めた乱れ模様が特徴だ。源融の都入りとともに歌がはやり、王朝貴族たちは見たことのない「しのぶもぢずり」に思いをはせて「摺衣」を再現したのかもしれない。

源融と同年代の在原業平。どちらも世が世ならの悲劇の貴公子。そして光源氏も……。源氏物語を読んだり聞いたりしていた当時の人々は、このようなキーワードを見つけては言葉には見えない世界まで見ていたのではないかと思う。

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