源氏物語の色 17「絵合」 ~赤と緑~

「絵合」のあらすじ
―――光源氏と藤壺の間に生まれた皇子、冷泉帝の御代になった。冷泉帝の後宮には弘徽殿の女御がいたが、六条御息所の娘である前斎宮も藤壺の支持を得て入内した。斎宮女御は絵に堪能で、同じく絵の好きな冷泉帝は彼女にひかれていく。後宮全体で絵画熱が高まり、左右に分かれての絵合わせが行われたーーー

平安貴族の間では、左右に分かれて優劣を争う「物合わせ」がよく行われていた。和歌を競い合う「歌合せ」が多かったが、「絵合わせ」「貝合わせ」など、さまざまなものを題材としていた。「絵合」の帖では、冷泉帝を前に左右に分かれて絵合わせが行われたのだが、その時の衣裳の色合いの描写が素晴らしい。

「左は、紫檀の箱に蘇芳の花足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染の唐の綺なり。童六人、赤色に桜襲の汗衫、衵は紅に藤襲の織物なり。姿、用意など、なべてならず見ゆ。右は、沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、花足の心ばへなど、今めかし。童、青色に柳の汗衫、山吹襲の衵着たり。」

左方、つまり斎宮女御の側は赤系統でまとめられている。「蘇芳の花足」は、蘇芳の木で作られた机の脚という解釈も多いが、蘇芳の木は家具には不向きのようで、蘇芳色(くすんだ赤)に着色された机の脚、という解釈もある。紫の敷物や葡萄染(赤紫)の織物が童によって準備されている。その童たちはというと「赤」「桜」「紅」「藤」の衣裳を身に着けており、春の景色が目に浮かぶようである。

一方の右、弘徽殿の女御の側は、緑系統。(この時代、緑という色相も青という概念だったので、青系統としたいところだが。)打敷は青地。童の衣裳は「青」「柳」「山吹」と、こちらは同じ春でも、目にあざやかな新緑の緑の配色となっている。

さて、この左方が赤系統、右方が緑系統というのはただ適当に配したものではないようだ。現代でも舞楽の衣裳は、左方が赤で、右方が緑。これは、赤い衣裳の中国系の唐楽が左舞、緑の衣裳の高麗楽が右舞として平安時代に定着し、日本独自のものへとなっていったものだという。

また、雛人形の「左近の桜に右近の橘」は有名だが、これは平安京の内裏を模している。雛飾りを思い浮かべると、左近の桜は満開の桜の赤系統であるのに対し、右近の橘はみずみずしい緑の葉から黄色い実が見え隠れする緑系統となっている。

平和な時代、競争するといえば、天皇の前で左右に別れて行っていた。その際には、左方が赤で、右方が緑と決まっていたのだろう。

現在では、運動会を始めとし、年末の歌合戦なども「紅白」と相場が決まっている。これは、源平合戦において、平家が赤い旗を掲げ、源氏が白い旗を掲げていたところから始まったとされる。もしも悲しみにくれる戦争というものがなかったならば、日本は今でも赤と緑で平和に競争をしていたのかもしれない。

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