命を包み笑顔を届ける/東京魚類容器株式会社/原周作
働く若者と社会にとって希望となる「HOPE COMPANY」を巡るスタディツアー、今回は東京魚類容器株式会社を訪問。社長の原さんにお話を伺いました。
東京魚類容器株式会社の紹介
東京魚類容器株式会社は、1948年に設立された包装資材販売の専門企業です。事業内容は仲卸が魚を解体し集荷する際に使用する容器や包装資材の販売と配達を行っています。2018年に築地から江東区の豊洲に移転し「包装資材を通じて信頼と笑顔をつなげる」という経営理念のもと、食の安全・安心を守ることで地球の未来に貢献し、共に学び成長し感謝しあえる会社を目指しています。
写真を撮る時に笑わない子ども
―こんにちは!本日はよろしくお願いいたします。まずは原さんご自身のことについてお聞かせください。
こんにちは、原です。東京魚類容器は、祖父が創業した会社で私が4代目です。祖父は新潟県長岡市の小国という地域の出身なんですが、その地域は、苗字が角山さんと原さんが多いんですよ。10人中4人が角山さんで10人中3人が原さんという感じ。本当にそうなんです(笑)。私自身は、神奈川県川崎市の出身で昭和53年生まれの45歳。社長になったのは、34歳の時なので、この会社を経営して12年になりますね。
―幼少期や学生時代はどんなお子さんだったのですか?
小さい頃は、写真を撮ると笑わない子でした(笑)。「はーい、写真撮りまーす」ってカメラを向けられると、急にムスっとした顔をする、そんな子どもでした。人と比較されることが嫌いで、よく兄と比べられてたのですが、そいう環境がすごい嫌だったことを覚えてます。
それと、祖父と父親が仲良くなかったんですよね。そういうのもあったのか、中学高校時代は父親とほとんど会話してなかった。食事も別々でしたね。でもちゃんと学校には行ってたし、別に非行に走るわけではない。親からすると何考えてるのか分からない子どもだったんだろうなと思いますね。
大学は東京工業大学に入りました。でも大学で何かをやりたいとかはなくて、英語が苦手で数学が得意だったので選んだみたいな感じです。その頃は、何のために生きてるのか分からなくなってて、本をめちゃくちゃ読んでましたね。ニーチェとかドストエフスキーとか読んで、生きる意味をものすごく考えてた時期でした。
卒業後は保険会社に就職しました。名前も知れた会社だったので世間体がいいのと収入がいいというのが選んだ理由ですね。でも、そんな感じで入ったからやっぱりうまくいかなくて、ものすごい外的コントロールのある会社だったんですよ。要は、ノルマ行かないとものすごい怒られて、契約取れない人はどんどん追い込まれて、同僚の中には数字を作るために自分で保険に入ってる人もいましたね。
苦難と挑戦の連続だった会社の立て直し
―会社を承継するまでのお話を伺ってもいですか?
もちろんです。保険会社を辞めて東京魚類容器に入社したのが2008年です。入社当初、会社の状況は非常に厳しかったです。平均年齢は60歳以上で、3期連続で赤字を出していましたから、社内の雰囲気も悪かったですね。どんどんトラブルが起きるんですよ。例えば、お酒飲んで会社にくる社員がいたり、気性が荒い人も多かったのでしょっちゅうぶつかり合ってました。
本当にいろんなトラブルが頻発してて、そんな状態をなんとかしたくて、とにかく働きましたね。月の残業が200時間くらい、前職の時より働いてたと思います。とにかく自分がやらなければという思いが強かったので、そんなに働いていても不思議と体はおかしくならなかったですね。
―そこからどうやって会社を立て直したのですか?
やはり簡単ではなかったですね。社員教育が大事だからということで、外部の研修に参加してもらおうとしたんですけど、誰が参加するかをじゃんけんで決めてるんですよ。負けた人が罰ゲームで参加するみたいな。「教育にお金を使っても無駄だ」「だったら給料を上げろ」と言われて、影ではバカ社長って呼ばれてました。
今だから客観的に振り返ることができるんですけど、自分では良かれと思ってやっていたことが、社員から見たら必要ないと映っていた。それに気付けなかったんです。私も人間的に未熟でしたから「なんでこんなに一生懸命やってるのに分かってくれないんだ」と思ってました。今では申し訳ないことをしたと感じています。
―そんなことがあったんですね。
それからは、理念を大切に経営をしていくことにしました。外部の経営者団体にも積極的に参加しそこで得た学びを取り入れて会社の体制を整えようとしたのです。そんな中で『笑顔で100年存続』という言葉が生まれました。しかし、ある日妻に「 笑顔で100年存続とかって言ってて、あなた自身が笑ってないわよ」と言われ、笑顔体操をしなさいと。笑顔体操とは口角や顔の筋肉を動かす体操で、例えば「ウイスキー」と言うと口角が動きますが、普段から顔の筋肉を使ってない人はなかなか動かないんです。
この笑顔体操の話をある日の朝礼でしました。正直どこまで伝わったのか、どう感じたのか分かりませんでした。これまでのような受け取られ方をするのかと思っていました。しかし、次の日の朝礼である社員が「皆さん、聞いてください」と切り出し、「私は、昨日の社長の話を聞いて学んだことがあります」と笑顔の大切さを話してくれました。そして、その社員が先頭に立って笑顔体操をしてくれたんです。自発的にやってくれたことが本当に嬉しく、真っ暗闇の中にいるような感覚だった私にとっては大きな希望でした。諦めずに続けていたら、うちはいい会社になると思えた瞬間でした。
仕事の意義に気付いた忘れられないお客様
―今でも忘れられない出来事があると伺いました。そのお話を聞かせていただけますか?
以前、ラグビーワールドカップが日本で開催されたのを覚えてますか?日本対スコットランド戦の前日に大きな台風来たんです。結局ラグビーの試合は開催されましたが、その前日に年配の方が発砲スチロールを買いに来られたんです。私はその時いなかったんですが、近くの魚屋さんで箱を探したものの見つからず、豊洲で売っていると言われて当社に来られたそうです。
うちは必ず「何を入れるのですか?」と聞くんですよ。そうすると、どれくらいの大きさがいいかイメージしやすいので。するとその年配のお客様が泣きながら、「生まれて1週間の孫が亡くなって、台風で火葬場が預かってくれないから、発泡スチロールを探しに来ました」と話されました。
この話を聞いて、ものすごい考えさせられました。私たちが扱う発泡スチロールや包装資材に包まれるものは、元々命があったものです。そして私たちはそれを食べて、つまり命をいただいて生きている。今回のことはとても悲しい出来事ですが、人を笑顔にする命を包むためのものを提供するのが自分たちの仕事なんだと考えました。
その後、私はそのお客様にお電話をして、「豊洲で発砲スチロールを販売した会社の社長です。とても大事な気づきをいただいたので、お線香を送らせてください」と伝えると、相手も泣きながら「ありがとう」と言ってもらえました。だから、自分たちも笑顔で、お客様も関わる人も笑顔にする。これが自分たちの仕事だし、こうした事を考えられる、大事にできる会社になりたいと思いました。
100年企業への挑戦
―これからの目標を教えてください。
これからの目標は、『笑顔で100年続く会社』を実現することです。最近、森の木々が根っこを通じてコミュニケーションを取り、栄養を分け合うという話を耳にしました。この話に感銘を受け、人との繋がりも同様に大切だと感じました。もし自分が魚に生まれていたら、今日出荷されていたかもしれません。しかし、人間に生まれ、この時代、この場所で同じ空間を共有できることは非常にありがたいことだと強く思います。社員との出会いも縁、この縁を大切にして一人ひとりとの関係を築いていくことが、会社の成長に繋がると考えています。皆で一丸となり、お互いを支え合うことで、より強い組織を作り上げていきたいと思います。
スタディツアーの学び
原さんのお話を聞いて、自分の仕事や人生に意義を見出すことの大切さ、それと諦めずに粘り強く関わり続けることで道は開けることを学びました。人の縁を大切に笑顔で100年続く会社を目指し進んでいる東京魚類容器は、まさに働く若者や社会にとっての希望となる「HOPE COMPANY」でした。
主催:ボーダレスキャリア株式会社
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