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1.シナプスの会話

 沖縄の地方紙「琉球新報」に「琉球詩壇」という詩のコーナーがあります。著名な詩人の方が選者を務め、沖縄に関係する方々の詩が掲載されています。かつては投稿欄でしたが、2015年9月に市原千佳子さんが選者となって現在の形の連載がスタートしました。「詩の轍(わだち)―平成・令和編―」では現在の形式になってからの掲載作を紹介します。

初回は下地ヒロユキさんの「ある喫茶にて」という作品です。

再スタートした「琉球詩壇」。冒頭に「市原千佳子・選」とあります

ひかりの速度で会話すること。
 透明なコップに一杯の真水が注がれる時、水はアメーバ状の滝となり、先端の一部は球体の水滴としてコップの底に落下し破裂する直前、つまり瞬きした瞬間、僕とキミの会話は、太陽系を飛び出しているだろう。そこに地球上のどんな煩わしさや淋しさや倒錯や屈折も追いつくことなどできない。そんな会話を書きとめるどんな文字も手も、この世には存在しない。だからこの文章は数千年後に死海の汚泥とともに見つかることを夢見る。
 脳内でニューロンとシナプスが発火した瞬間、すべての会話は終わっている。だから、僕とキミはいつも無口だと言われる。沈黙のなかでコップ一杯にはりつめた水の表面に、名前の知らない小さな花びらの青紫が映えている。その光景にどんな言葉もあてはめず、すみずみまで噛みしめているのは二人ではない。奪い合い、だまし合い、殺し合う、肥え太ったソドムとゴモラの住人たちでもない。今、はるかな他国で、死にかけている飢えた少女の、神のように透明な瞳だ。
 地上で一番おいしいものは水だ。体に必要なものも水の潤いだけだ。他はすべて、心という不安定な速度の砕け散る残像だ。だから今、僕が書きとめたいことは唯ひとつ。
 「ごちそうさま」
その瞬間、僕とキミはもうどこにもいない。ゆれ動く粒子の海に微かなうねりの痕跡をとどめ、それもやがて消える。

「琉球新報」2015.9.5

もはや驚くほかない作品です。
喫茶店に入れば、まず提供されるのが水です。その水がグラスに注がれると、この詩の主人公の視点は、ミクロの水滴から壮大な宇宙空間までを自在に行き来します。
人生の悲喜こもごもも小さく見えるような大きな宇宙に目を転じたかと思えば、数千年後の死海の汚泥の情景も浮かびます。つまり空間だけでなく、時間をも超越した視点が広がります。
人類が数千年を掛けて築き上げた文明を俯瞰するような視点から、飢えた少女の透明な瞳を見ています。

これほどまで壮大な情景を描き、感動を伝えるほどのいったい何が、この主人公に起きているのでしょうか。
答えは、水がおいしいということです。
水を飲んだだけなのです。
しかし最もシンプルな水という飲み物が人間の身体にとって最もすばらしいものであるという一つの真理に、この主人公は触れています。
その感動を描くために、これらすべての壮大な情景は必要だったというわけなのです。

この人、どこまで覚醒しているのでしょうか。大丈夫でしょうか。
恐ろしくなる一方で、この詩に込められた言葉のパワーは並大抵ではないと感じます。
「水がおいしい」ことはただ「水がおいしい」だけではない、宇宙を俯瞰し、時空を越えるほどの発見、誰もが気づくことのできる発見ではありますが、そこに真理があるということなのだと思います。
コップ1杯の水は海であり、人類であり、文明であり、地球であり、宇宙であり、命である。
そんなことを考えさせられる詩です。

下地ヒロユキさんは1957年生まれ、宮古島出身の詩人です。2011年に山之口貘賞を受賞しています。歯科医師でもあるそうです。詩集に「それについて」「アンドロギュノスの塔」などがあります。

力強い言葉で読者の想像を超える世界を描いてくれる詩人です。このほかの詩も読んでみたいと思わせる作品です。特に「ニューロンとシナプスが発火した瞬間、すべての会話は終わっている」という一節に引き込まれました。「琉球詩壇」が再スタートを切った初回の掲載作として、強烈なインパクトをもって読みました。

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