神人A - アクセスの権限

テレパシーは全体に話す事があると多方向的、拡声器的になる。そういった話し方は個人的な事情を問わずコミュニケーションが生じる危険を孕む。一般的に多方から1人に照準を絞ると多方はそれぞれの指向性を持つ。狙われた方はその場合、指向性を持つ事で回避する。自分はこの人に話している、自分は目の前のものに向かっている等、身体的な感覚で物事に向かう事が大事だ。意識が散漫すぎていることに気付き孤独になる毎に問題性を孕む現状はひとつづつ解決を求めてやってくる。そこからが問題解決。よく幻聴に困っている人が居るが、多くは読心術と言って心を読む事を自然にやっている事で言われている様な感覚で勘違いしている。
自分から読んでいるのだ。
その場合対象は散漫で、聞く事に対し聞かれる。覗くに対し覗かれる、事と同じにして話す事に対し話される。という相反する影響を個体が受ける。つまりは対象を作らない代わりに指向性を持てば孤独に戻れる。大勢の人間の声ならず声や意思に鑑みているのなら聞く事の幅が広すぎるのだ。個人と話して個人の意見を聞きたい、そう思う事と自らの体勢の向きを意識すること。
霊能力は視られる行為を40年されると、視る事ができる様になる。それは霊が見えるではなく観相としての視る。ビジョンを見る行為で、人の生活を覗く事に使うと覗かれることから逃げられない。その40年は一切視る事も許されない。霊能を無かった事にしてひたすら地道に生きるという事が必要。一切手を出さないで耐える。なのでその事を知っていると耐えられない可能性はある。千里眼の概要だ。
視られるという事をされる理由も自分には必要なのか、相手の必要性なのか、そう言った事をされる人間自体は普通に存在する。
視られる事が飽和まで上限に達すると視る事ができる。要するに霊能者はつくれる。
しかしながら、幽霊を見るというのは才能だ。
見るでなく現れる、と説いた方が良い。
通常、神様や悪霊、精霊は見る事ができない。現れない。その人本人に視られることのみ出来る。つまりはこちらが視るのでなく向こうが視られる。視る人間を限定して選ぶのだ。神様の指向性の問題。あなたの前に現れたんだよ、あなたにだけ視られるんだよ、という神様の意思。よく金龍が神社で見れた、というブログを目にするが本当に見れるのだとしたら私も見たい、が私は見えない。代わりに蟲や幽霊は見える。見える霊能師が見える霊能師を視界に捉えているとして、その空間に幽霊が2人の視界にいる。その時その幽霊が片方に興味を持つと、その霊能師は世界に引っ張られて消えたりする。高位霊能師ほどそうなる。
次元が異なるものを包含する空間とは。
自分の目の前の身長ほどの矩形空間で例えよう。
その空間に霊が入ると自分は消えるとする。
2人を確認するものがお互いしかいないから。
街中だとどうだろう。要は目の前の空間を占拠する特別な人と言うのは霊であっても人であっても構わない。つまりは飲み屋であれば飲み屋の主人が消えたらおかしい。だから消えない。
でも客なら消える。目の前の空間の主人は自分だが、その空間に霊がいる以上自分には見えていないとおかしい。でも消えてもおかしい。つまり2人がお互いに確認される関係なら2人の存在論はセットで同じ。霊は本来自分以外には見えない。だから2人だけの時は消える。
大勢の前では現れる、主人が主人の世界に引っ張る。だから霊能者本人には至って普通の関係にしか思えない。いつもいる彼女だったりする。あれ?、と不思議に思える事が増えていくかもしれないが。
聞かれる事が極まると、聴く事ができる様になり、重要な幻聴、神の声などが実際の耳に届く。知られる事が極まると知る事ができる。
千里眼の次は、霊聴、透視、未来予知。
更には悪霊に憑かれる果てには何があるか。
悪霊に憑かれないことは勿論のこと、
悪霊の支配権を得る事になる。
悪霊に命令してあいつに憑け、あれをしろなどの黒魔術が使えるようになる。
魔術とは思い通りにする力の事。代償や生贄など必要なく使役する事ができる様になる。
魔導士だ。
言われる、という事が果てると言われない能力、権限を得る。話しかけられるが果てると話を無視できる、無かった事にできる、聞こえない能力を得る。つまり文句言われたく無かったら言われて忍耐して40年黙って言い訳せずに生きよ、という事になる。
それらの行為を40年施されると極まる。

世界にアクセスする権限は相手と自分の間にある。つまりは自分以外の要素、世界以外の要素のふたつがキー。運命ともいうべきか、自分の判断で変えられないものともいうべきか。
見えない世界にアクセスしたくてキーを得たいなら、逆に普通に生きる必要がある。
それでもそちらに引っ張られる、そういう力こそが鍵なのだ。現れるはずの幽霊が現れなければ、視て欲しい神様が現れなければ、覗かれなければ、聞かれなければ。そういう事をする、またはされる必然性が生じなければ開かれない世界の扉。問題がなければ通常の世界だが、問題があるのが普通の世界ではない。その問題の果てにキーがあって、アクセス自由な世界に到達する。そこが世界の果てだ。

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