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170_EGO-WRAPPIN'「満ち汐のロマンス」

朝起きると、左手の薬指がなかった。朝、コップの水を飲もうとした時に気づいて、思わず声が出た。なんてこった、昨日の夜、どこかに落としてしまったようだ。

最近、出張とかが多くて仕事が忙し過ぎたせいだろう。久しぶりに飲んだ帰りだったので、注意力が散漫になってしまっていたが、そもそも家に帰ってからの記憶がない。もしかしたら、昨日飲んだ居酒屋のお店か、帰りの電車の中か。困ったことになった。

しかも指には結婚指輪をはめられたままときている。やれやれ、なんてこった、よりによって、指輪と一緒に消えてしまうだなんて。これじゃあ、妻にあわせる顔がない。しかし幸運なことに、妻はブランドの買い付けも兼ねてイタリアのカンファレンスに出席するため、2週間ほど家を空けている。まあなんとか、その間に見つかればいいな。

こういうことは、幼い頃にもあった。体の中の一部分、あると思っていたものが無くなっている。その度に親によく怒られた。見つかるまで、幾分か不便な生活を送ることになる。僕の場合は、特に足の指を失くすことが多かった。足の指なら、そこまで正直そこまで不便はない。あってもなくても生活に特段の支障はないからだ(足の指が聞いたら怒るだろうから、あまり大きな声では言えない)

ネットの記事とかを見ていると、人によっては、気づかない間に足首そのものまで無くしてしまったという人もいるらしい。そんなのに比べたら、僕なんてまだマシだろう。しかし足首なんてどうやって無くせるんだ。普通、絶対に気付くはずなのに。だが、その問いはそのまま僕に返ってくる。薬指を妻に知られたらこんな風に言われるだろう。
「なんで左手の薬指なんて無くせるの。あなた、そんなの、無くなった時点で絶対に気付くでしょ」
ああ。なんとも耳が痛いお言葉。

小さい頃に足の指はなくした時も、ある程度はなんとかなった(結局、家の近くの側溝で指を見つけた。ふざけて中に入って遊んでいた時に無くしたのだ)。しかし、手の指を無くしたのははじめてだった。しかも大人になってから、無くすだなんて。

足に比べて、普段から使う手の指の存在は特に重要だ。見た目にも目立つし、何より僕は事務仕事が多いから、一番困るのはキーボードのタイピングだった。朝イチで書いているブログがあるのだが、左手の薬指がないだけでいつもよりキーを打つ効率が落ちてしまう。

たぶんみんなどの指でどのキーを押しているかなんて普段気にしたことなんてないだろう。位置的には、W、E、R、A、S、D、Z、X、C、だいたいこのあたりのキーを押すのに左手の薬指を使っているのに気付く。仕方ないので、薬指でなくて中指で押すことになるのだが、どうにも普段より違和感があった。これも左手の薬指が無くなって、はじめて気付いたことだ。

考えてみると、両手の小指をまったくキーボードで使っていないことに気付く。そういえば小指って、日常生活でも全然使わないよな。ふと、代わりに小指が無くなればよかったのに、という考えが頭をよぎったが、僕は慌ててそれを打ち消した。そんなことを考えていると、小指にバレたりしたら大変なことになる。

ヤクザは小指を詰めることによって、ケジメの意味もあるのだが、物理的にドスを持つ手に力が入らなくなるらしい。どんな体の部位にもきちんと意味があるのだ。さっき、足の指を無くしても特段生活に支障はないといったことも、一応念のため取り消しておく。

不便な指でブログを書き終わった後、仕方ないので、いつも通り出勤することにした。電車に揺られながら、僕は左手の薬指のことについて深く考えを巡らせている。こんなにじっくりと彼(と言っていいんだろうか)のことを考えたことなどはこれまでない。

単純に落としたというのではなくて、実はこんな持ち主が嫌になって、彼の方が僕に愛想を尽かしてしまったのではないだろうか。それもこれも最近、自分の体を労ってあげていなかったせいだろう。みんなそれぞれ言いたいことがあるのに、一応は従ってくれている。いわば小さな中小企業みたいなものだ。

「俺ばかり働きすぎだ」と言わんばかりに、何も言わずストライキをかける体の部分がたまにある。うちの父は酒の飲み過ぎで、腎臓が一時期ストライキを起こした。今回の薬指は出社拒否の上で、連絡もつかず行方不明といったところだろうか。

だけど、そんなにこき使った覚えはないのにな。でもきちんと彼の思いを聞いたことなんてなかったから、自分だけの考えだけではなんとも言えない。部下の女の子は僕の左手を見ると、「えー。指無くしちゃったんですかぁ。友達でもたまにいますけどぉ」と言った。非常に恥ずかしい思いがした。上司は笑っていた。やれやれだ。

会社のPCでメールを打っている時も、やはりキーボードを指で打つ効率が落ちる。卓上の電話を取ろうとして、うまく受話器を抱えていられなかった。ああ、お前がいないといろいろ困ることが多いんだな、なんとか戻ってきくれないだろうか。泣き言が出てくる。妻に出ていかれても同じことを思うだろうな。本当に情けない男だ。

体の一部を無くしてしまったのだ。普段いるのが当たり前の存在で、ずっと一緒だと思っていたもの。そういうものを大人になってから無くすと、非常に堪えるものがある。最近も似たような経験をしたことがあったのを思い出した。幼馴染で、20年来の親友の存在。大人になってお互いの生活を抱えると、どうしても彼のやり方が僕も気に障るところがあった。

彼は法律に触れない程度だが、ネットでいわゆるカモになりそうな情報弱者的な人に商材を売りつけて羽振りのいい生活をしていた。彼と飲んでいたときに、あまりに彼が商材を売った人のことをあしざまに言うので、僕はそれはどうかと思うということを伝えると、彼は「俺はお前とは違う」と言われ、その時は微妙な雰囲気になった。

それから彼から連絡が来ず、もう会わなくなって1年が経つ。毎年、地元の神社に一緒に初詣するくらいの仲だったのに。ずっと一緒だと思っていたのに。大人になってから、そんな風に無くしものが多くなった。

昼休みになって、昨日行った居酒屋に何度か電話をかけてみたが出ない。夕方から店の準備をはじめるから、まだ店員もいないのだろう。念の為、使っているJRの駅の忘れ物センターにも電話してみた。探してみるとは言われてみたものの、どの車両かもわからないので時間がかかるだろう。僕はため息をついた。

家に帰って、シャワーを浴びるか湯船に浸かるか考えながら、風呂釜の中を覗くと、僕はあっと声をあげた。排水口にムダ毛と一緒に、僕の薬指が引っかかっていたのだ。

よかった、見つかった。僕は安堵の表情を浮かべる。愛おしそうに薬指を拾い上げて、ゴシゴシと石鹸で洗った。もう二度と無くさないよ、記憶を無くすほどまで飲み過ぎたりもしない。僕は薬指に語りかけた。家族でも親友でも社員でもないが、彼は文字通り僕の体の一部だから。



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