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1068_米津玄師「さよーならまたいつか!」

朝の連続ドラマ小説が、日本初の女性弁護士をモデルにしたものらしい。米津玄師の主題歌も気に入っている。春の朝、早足に桜の木々の通りを通って、出勤してきた職場で聴く彼の歌声に心が踊る。

さて、私は4月に親族のツテで法律事務所に事務職に転職することになった。

おかげで、仕事柄、弁護士だとか、法曹関係者と話す機会が増えた。言うまでもなく、法律にめちゃくちゃ詳しい人たちである。

私は経済学部卒で法学部でもないし、法律や条文と聞くと、「堅苦しいなあ」と思って、ナンチャラ法第マルマル条とか条文を持ち出されれると、まだ慣れなくて「うっ」となってしまう。

これまでの人生で、そんな方々と接触する機会がなかったので、最初はおっかなびっくりだったが、まあでも、話をするにつれて、この人たちが頭が良い悪いの前に、だんだんとどこにでもいる割と普通の人なんだなということはよくわかってきた。

だけど、なんだろう。急にスイッチが入る時があるので、「あ、やっぱり弁護士の人なんだな」と思う時がある。一般的な世間話は全然問題ないのに、法律の解釈やら深い話になると、その人それぞれに独特の「こだわり」がニョロっと顔を出すようだ。

そうなると「うわあ」って顔をしながら、私はとりあえずうんうんと頷きなら、話を聞き続けるしかなくなる。そこら辺のツボを刺激してしまうと、話がいつまで経っても終わらなくなるので、踏み込んではいけないということを学んだ。

あと、弁護士さんは「そもそも論」が好きな人が多いようだ。先輩は「ナンチャラ先生は特に原理主義者だからなあ」とつぶやいていた。つまるところ、原理原則が大好き。

「前提を揃える」という言い方をよくするので、「まず前提、まず前提」と私も頭の中で繰り返すようになった。この前提を揃えないと、法律も含め、議論が成り立たなくなるからだと。

例えば「AさんはBさんが好き」だとする。ここで「BさんはCさんが好き」だとする。これだと一見、恋の三角関係が成立か?と思いきや、実はAさんはBさんのことを恋愛対象として好きであることに対して、BさんはCさんを友人として好きだということが判明した。つまり、この「好き」という言葉の前提が3人の間で揃っていないということだから、当然にここで三角関係は成立しない。

言われてみると、単純な話である。でも、この前提を揃えて、「ロジックを立てる」とか、「論理的に話す」って、言われても。そんなことできません、って笑っちゃうくらい、私はいつも感情的かつ感覚的に話をしている。

よくよく考えてみれば、きちんと道筋立って話すということが、私は苦手なのだ。

友達と話しているときなんて特にそうで、「てかさあ」とか「ねえ、知ってる?」とか話を振って、それで自分の知っていることや感じていることをそのまま言うわけで。

一瞬一瞬で話すこともコロコロと変わってしまって、それで、よく話が脱線して横道に反れちゃったりと、そんなことはもう日常茶飯事で。ひとしきり、話続けて「私達、なんの話してたんだっけ」とかなっちゃう。

だから人前で話すとか、面接のときとか変なことを言っちゃうんじゃないか、心配していた。

好きだ、嬉しい、つらい、悲しい。そんな言葉ばかり使って、それで相手に伝われば、それでいいじゃないかと思っていたが、そんなことは友達同士という「前提が揃っている」関係でしか通用しないものであって。私たちが取り扱っている、こと揉め事、つまり裁判の場でそれは許されない、というわけである。

条文の内容をそらんじながら、ている弁護士さんの話を聞いている時、いつのまにか窓に映る桜舞い散る中空に意識が飛んでいってしまう。

「それで、あの、えっと」
「はい」
「で、どうしたら、よろしいのでしょうか」
「ええっと、いや繰り返しになりますが、いずれにせよ、この件の進め方に関しましてはですね…」

話が堂々巡りになってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。法律に慣れなくて恐縮している私に気を使ってくれる人、そんなこともわからないのかと横柄な態度の人、冷静でドライな人。先生の反応も様々である。

至極当たり前だが、「弁護士だから」とか「検事だから」といって、皆一様に同じ方向性を向いていたり、考え方が一緒だということも全然なくて、人によってだいぶバラツキがあるのだと知った。

ある弁護士さんから、こんなことを言われた。

「弁護士なんて、本当にピンキリですよ。真っ当な人から、思想が偏った人、ヤクザまがいな悪徳弁護士まで、本当にバッチだけはつけてますが、っていう人はいくらでもいるんです。もちろん、立派な方もいっぱいいらっしゃいますがね」

当たり前の話ではある。会社でも、同じ会社にいるというだけで、中にいる人間はてんでバラバラである。人の分母が大きければ大きいほど、その度合いは大きくなるように思える。

「弁護士によっては、黒を白と言い切ってしまう人もいらっしゃいますからね」

そんな言葉を口にする弁護士の先生の話を聞いて、なぜ、善悪の判断の仕方まで変わっていってしまうのだろう。皆同じ、六法全書を見ているのに。みんなが正しいと思って、作り上げてきたルールのはずなのに、なぜこんなに解釈に幅が出てしまうのだろうと不思議に思っていた。

「法律って、そのまま書いてある内容読んで、それでみんなすっぱり解決するものだと思っていました」
「それは、どういう?」

ポロッと思っていることを、清水先生に言ってしまう。清水先生は一番話しやすくて、歳が近かったので、この何ヶ月かで少しフランクに接することができるようになったのだ。

「だって、この法律のこの規定はこういう解釈はできるからこうだっていう先生もいるし、いやこの規定はそもそもそんなことを想定していないんだ、とか言って、同じ法律なのに、全然違うことを言う先生もいらっしゃるんですもん」
「確かに、なかなか争いがある論点というのは、なかにはありますからね」

「みんながちゃんとわかりやすい明確なルールにしておけばいいのに」
「確かに法律って独特の読み込み方や解し方があって、どう解釈するかで全然方向性が変わりますもんね。でもね、それは法律をどう解釈するかは、その法律とどう接するかによるものでもあるんですよ」

「よくわかんないんです、どういうことですか?」
「つまり法律って、実は相手を攻撃する武器にもなるし、自分を守るための防具にもなる。言ってる意味わかりますか」
「なんとなく」

「その法律をどう適用するのか、仰るとおり、それを解釈する者の認識によらざるものであるところは大きいんです。例えば、民法の規定に沿えば、もし仮に私が事務所の名前を勝手に使って、依頼者さんから仕事を受けたにもかかわらず、契約通りの働きをせず違法に金銭を騙し取ったとします。そうなると、単純に私が罪に問われるのみならず、使用者責任の観点から事務所もその責任は免れない」
「はい、そうですね」

「単純に私が騙したから私が悪いという見方だけじゃなくて、依頼者さんからすれば、私が悪いだけじゃなくて、この事務所で私が雇われていることでそれを信用して仕事を依頼したのだから、この事務所自体も同罪だというわけです。そこで事務所は「いや、うちは何も悪くない。悪いのは清水だから関係ないですよ」とは法律上、主張し得ないわけですね」
「うーん」

「いわばこの使用者責任の民法の規定は被害者である依頼者さんにとって、武器でもあり防具でもある。誰に都合よく解釈するかによって、法律の姿がコロコロ変わるわけです。そこで誰のための法律なのか、というのが重要になる。被害者のための法律です、という弁護士もいるし、いやこれは加害者のための法律です、という検事さんもいらっしゃるでしょう。両方の主張を並び立てて、結局それを最終的にジャッジするのが、裁判官ないし裁判の場ということなんです」
「なるほど」

「いや、まあなんというか。法律っていうのは奥深いですね」
「私もつくづくそう思いますよ。私はこの仕事に就いて、さまざまな人を見てきましたが、仰るとおり、同じ法律であっても解釈はまさに千差万別、人それぞれなんです。それはその人が、その法律と照らし合わせて、どう自分の人生を折り合いをつけているのかによるような気がしています」

「はえー。よくわからないですけど、でも、本当、法律って知ってると知らないじゃえらい違いですね、人生」
「ええ、そのとおりです」

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