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157_Shing02「歪曲」

さっきから、信吾が俺の方をチラチラ見ている。たぶん授業に集中していないのだろう。町田ちゃんが真面目そうな顔で黒板に日本の歴史を書いて、授業をしてくれているというのに。たぶん、だるいから授業抜け出そうぜ、ということを言いたいのだと察する。

目でわかる。「けものがれ」同士だと普通のことだが、視線を合わせただけで大体お互いの思っていることを感じ取れる。普通の人同士だとそういうことはできないらしい。それはそれで不便だろうと思う。

僕は割と町田ちゃんの授業が好きだ。彼女自体も普通の人間にしてはすごく親切だし、(好き好んでこの島に教師として俺たちと接しようとする自体、相当な変人なのだろうが)人間の歴史とかも面白いと思うし、人間の書く小説とか漫画とかもよく読んでいる。信吾はそんなのくだらねーよと言うけれど、youtubeでアニメを見るのも大好きだ。僕はこの島以外の人間の世界に漠然と憧れを持っている。

信吾は季節がらによるのか、どうしても自分の獣性を持て余す時があるようだ。たぶんまた島の高台にある灯台まで2匹でかけっこして、一番乗りした方が勝ちという簡単な勝負をしようと持ちかけてくるんだろう。「けものがれ」の僕らにとっては、単純で一番おもしろい遊びだ。

僕は悪いなと思いつつ、黒縁眼鏡をした近眼の町田ちゃんが黒板に板書してこちらを見ていない隙を見計らって、そそくさと教室を抜け出した。どうせこの島では生徒は信吾と僕の2人しかいないんだ。授業はまた午後からでいいでしょ。階段を降りながら、信吾は軽口を叩く。

僕らは誰もいない校庭に2人で駆け出した。町田ちゃんが教室を抜け出して僕らが校庭にいることに気づいて、窓から声をあげている。「ちょっとあなたたちー 授業中よー」町田ちゃんが叫んでいるけど、声はそこまで怒っていない。しょうがないな、という感じだ。こんなのは僕らにとっては日常茶飯事だと言うこと。僕らは校庭のど真ん中で町田ちゃんに手を振りながら、信吾と共に狼の声を上げる。

ウオオオオオオオオーン
ウオ、ウオ、ウオオーン

瞬間、僕らの姿形は狼に変わっている。僕らは「けものがれ」。この島で他の人間と離れて暮らす、獣と人の交じり物。狼となった信吾と僕らは、飛び跳ねながらじゃれ合ったり、地面に体を擦り付けたり、お互いを甘噛みしあう。己の獣の体を確かめあっている。ウォーミングアップとばかりに校庭を何周かして慣らしてから、1、2の3で、そのまま学校の裏山に全速力で駆け出していった。後ろから、町田ちゃんの「昼までには帰ってきなさいよお」と言う声が聞こえる。ごめんよ、やっぱりこっちの方が楽しいんだ。

獣となって走ることは、僕ら「けものがれ」にとって何事にも優先される瞬間だった。獣性(これも人間が勝手につけた言葉だが)というものがある程度高まると、こうやって僕らは獣となって走り出す。別に狩とかをするわけではない。人も襲って取って食おうとも思わない。(もちろんそういうことは好む「けものがれ」も昔いたらしいが、そういう輩は早々に人間たちに駆逐された。僕らはそういうものを取り除かれた方だった)

人の姿になって、人間の食べ物も普通に食べられる。だから、島から出て普通の人間のように生活している人も少数だが存在している。でも、島の外じゃこうやって人間の目も気にすることなく、狼になって好きに走り出せない。この島は「けものがれ」の特別保護区として国に指定されているから、好きに獣になって走り回ってもとやかく言われないのだ。

だから、こうやって授業を抜け出して獣になって走っても、町田ちゃん含め周囲からある程度大目に見てもらえる。獣性というものは人間の言葉ではどうにも説明し難いが、それ自体が僕らが「けものがれ」たる由縁だ。獣になって山の木々の間を走っている間は、それ以外のことを何も考えなくて済む。人間にはこういったものが無いらしいが、これなくして、どうやって生きているんだろう。

2匹の狼となった僕らは競い合いつつ、山の灯台を目指して4本足で疾駆していく。途中の山あいの果樹園で女性が僕らの獣の姿を認めてか、「あ、信吾ー!学校はー?」と後ろから甲高い声が上がった。信吾の母親だ。信吾は後ろを振り返りつつ、オウと軽く吠えた。よくないところを見つかってしまったものだ。母親の存在に気を取られた信吾を横目に、僕が一歩リードする。そのまま灯台までラストスパートだ。

灯台には僕が一番乗り。やった、今日は僕の勝ちだ!これまで信吾との勝負は125勝131敗。灯台のもとで、ウオオンと獣の僕は雲ひとつない空に向かって勝利の雄叫びをあげた。後から、信吾が悔しそうに上がってきて、灯台の周りをまわった。僕ら2匹は獣の姿で、この小さい島を高台から見下ろしている。僕らはずっとこの島で特に何不自由を感じることなく育った。好きに獣になって走り回れることが「けものがれ」にとって最上の自由なのだ。この島以外ではそれは許されていない。すべて人間たちの都合で。

僕らは人間の姿に戻って、灯台の下のベンチで座っている。
「お前、やっぱり島を出たいのか」
「うん」
「そんなに、見たいものでもあるのか?走ってみたいところとかあるとか?それとも、島の暮らしが嫌になったのかよ」
「いや、そんなんじゃない。島は好きだよ、こうやってこの灯台から見る景色とか」
「島以外じゃ、好きに走れなくなるぜ」
「わかってる」
「やっぱり、お前の親か」
「それもあるけど、でもそれだけじゃないよ」
僕の親は普通の人間なので、この「けものがれ」の島には住んでいない。非常に珍しいのだが、僕だけがいわゆる先祖返りだったのだ。この島に住む遠縁の関係にあった「けものがれ」の定男おじさんに、両親は物心もつかないうちに僕を預けた。たまに手紙だけが来るが、しばらく読んでいない。

島を出た時にはこの両親を頼ろうかとも思ったが、この島に僕だけを残したという時点で子供としての愛情なんてないのだろう。どうやら「けものがれ」ではない普通の人間の弟もいるらしい。そいつに僕はなんて顔をしていいかわからない。

信吾は僕の気持ちを察してか、それ以上、何も言わなかった。信吾は母親だけが「けものがれ」で、父親のことはよくわからないらしい。それでも血が繋がった家族が傍にいてくれる信吾が僕は羨ましかった。定男おじさんも僕に対してよくしてくれるが、ずっと島にいろとは言わない。

だが、わかっている。一回島を出たとしても、最終的には僕はこの島に戻ってくるしかない。結局のところ、「けものがれ」はこの島以外では生きてはいけないのだ。人間と同じ生活をし続けることはできないし、決してこの自分の獣性というものには抗えない。

ウオオオオオオオオーン

僕は立ち上がって、人間の姿のままで、海に向かって遠吠えをした。信吾はそのまま座ったままで、僕の存在を見上げている。「寂しくなるな」信吾が囁くように、一言呟いたようだった。

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