199_Joy Division「Unknown Pleasures」
「ねえってば、聞いている?琢磨、来週は学校の行事で…」
「え、ああ、ああ、琢磨の、なんだっけ?」
「だから、琢磨のクラスのね、劇での出し物の練習で」
聞き取れない。正確には、そこから妻から息子の琢磨の何かを聞いたはずなのだが、それもまったく記憶にない。今日は朝から妻から話しかけられても、こんな風に上の空だった。意識的に何をすることもできない。精神的にも物理的にも前に進める気がしなかった。
ただただずっと家の中でぼおっとしているか、携帯をいじっているかしかできなかった。今は妻がキッチンで包丁でまな板の野菜を切る音だけを、無感情に聞いているだけ。正常な生活から、何かが欠けてしまっている。ピースが抜け落ちてしまっていた。いつからこうなってしまったのだろう。いつまでこんなことを繰り返すのだろう。
原因は午前中にかかってきた真島からの電話だった。
「また金がいるんだ。わかるだろ」
「もうやめてくれ、これで何度目だ。今度という今度は、いつか会社にもバレちまう」
「お前の会社儲かっているんだろう、俺はわかっているんだ。経理やってりゃ、ちょっとばかし、くすねても誰も気付かないだろ」
「俺ももう子供も2人いて、今の会社クビになっちまったら…」
「お前の都合なんぞ知るか、いいか、来週までに200万だ。どんな手段でもいいから準備しろ、お前がこれまでやってきたことに比べればはした金だろうよ。今、お前の住んでいるマンションの前にいるんだ。いいとこ住んでやがる。あの時、2人で稼いだ金で買ったんだろ?」
「違う、これは妻と2人で働いてコツコツ積み上げた頭金で…」
「どんな金であろうが、構いやしないよ、だが学生時代に2人でやったんだ。あれは帳消しにはならんぞ、あの時、2人でいい思いしたよな。お前だけ、一抜けたってやつか?ああ?」
「わかった。金は用意する。だから、もうこの時間帯は家族の目があるから、電話はやめてくれ」
ツーツー。電話はすでに切れていた。
真島と俺は大学2年生の頃に、学校をやめた悪い先輩のツテで2人で大規模な投資詐欺の片棒を担ぎ、2人でそれぞれ400万もの大金を手にした。その先輩の行方は今はもう知れないが、逮捕されたとか海外で逃亡生活をしているとか、そんな嘘か本当かわからない噂を聞く。そして俺は何もなかったように一部上場企業の経理職として何不自由のない暮らしをしているか、こうやって真島から定期的に金の無心の電話が来る。
なんでこうなっちまった。一体どこでどう選択を間違えてしまったのか。後悔をしているとか、馬鹿なことをしたとか、そんなあまっちょろい過去ではないことはわかっている。確実に檻の中に入れられざるを得ないことをやっておいて、のうのうと何食わぬ顔で真っ当な人間のように生きている俺という人間はいったい何者だろう。真島が俺の足元で獣のように這い回りながら、呻いている。
「俺のようになるんだ、お前は。それ相応のことはやってしまっただろ、俺とお前は分け前は一緒だったんだ。わかるだろ?」
わかっている。だから消すしかない。お前も俺も、泡みたいに消えてなくなっちまっていい存在なんだ。この世の中で。仕方ない。だが、俺がいなくなっちまったら、何も知らない家族だけは。こんなクズの俺だが、それでも罪のない俺の家族だけはなんとかならないだろうか。そう考えて、俺はある計画を実行に移すときがきた。
次に、真島に会う時、その時、あいつはそのまま、どこか闇の中に消えてもらい、そして俺も消えることにする。何も痕跡は残さずに、なんの禍根もないように、ただまっさらで真っ当な未来に生きていってもらいたい、息子と娘よ。頼むから、この無垢なる魂だけは連れていってくれるなよ、頼む、後生だから。
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