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“戦争”から2年が経って――『俳句が伝える戦時下のウクライナ』より一部公開。

2022年2月24日にロシアがウクライナへ軍事侵攻してから2年が経ちました。当初は「すぐ終わる」という声が聞かれましたが、いまでも「戦争」は終わっていません。
本書のもとになったのは、ETV特集「戦禍の中のHAIKU」。
番組では収録できなかった人たちのインタビューも含め、戦争からの距離ゼロメートルで詠まれた俳句とインタビューを『俳句が伝える戦時下のウクライナ』としてまとめました。
戦争反対!絶対反対!の気持ちを胸に、キーウに暮らすアンナ・ビズミチノバさんの俳句とインタビューを公開します。


馬場朝子編訳『俳句が伝える戦時下のウクライナ』は、こちらから!

画像をクリックすると現代書館storesに。


家を失った友、物資の消えた町

春の日に
家なき友の
花語り

—この俳句についてお話を聞かせてください。
 戦争の最初の数か月でとてもひどい被害を受けたキーウ郊外に、友人が住んでいます。私は彼と、たまにしか会いません。ですが、インターネットではよくメッセージをやり取りしますし、バーチャルでもよく会います。彼は長いことウクライナ語で詩を書いていますし、タンゴにも熱中しています。でも本業は庭師で、自身で花や植物を育てています。
 彼はローカルテレビ局で番組を持っていて、花や植物について話をしています。その番組で彼は、植物の名前やその歴史、世話の仕方について話しています。私はときどきこの番組を見ていましたが、彼は視聴者が興味を持つように、ユーモアたっぷりに面白く話をするのです。陽気な人で、いつも万事順調といった、まるで太陽のような人なのです。
 その彼が、戦争のはじまった最初の数日で家を失いました。ミサイルか弾丸が—私はその違いをよく知りません—彼の家を半分吹き飛ばしてしまったのです。彼は住む家を失って、キーウ市内の友人のところに身を寄せることになりました。それから前線でボランティアとして働き、ウクライナ軍の兵士の手伝いをし、お金を集めたり、物資を集めたり、それらを送付するために郵便局に通ったりしていました。
 私がそのことを知ったのはずっと後になってからのことです。彼は一度も不満を言わないどころか、「みんな、ごめん。僕は家がないんだ、誰か何か助けてくれないか」とさえ言いませんでした。彼は、冗談を言い、笑い続け、軍を手伝ってばかりいました。正直に言いますが、そのことを知った後では、彼の冗談で笑ったよりずっとたくさん泣きました。いまはもう大丈夫です。彼は自宅に戻りました。壊れた窓を新しい窓に交換して、吹き飛ばされた壁にレンガを積み、少しずつですが、再び自然の中で生活を整えています。
 彼の話に、私はとても衝撃を受けました。戦争がはじまって最初の数日、人びとはよく不満を言い、戦争になって何が大変か、そればかり話していました。ですが彼は、楽観主義精神を持ちつづけていました。私が、「何か手伝えることはない?」と尋ねても、「君は軍に寄付して」と言うのです。私はお給料が出ると、もちろん軍に寄付しています。私のお給料は特に多くないのですが、可能な額は出しています。

—戦争の最初の数日、あなた自身はどんな状況でしたか?
 最初の数日ですか?
 かなり普通です。私は、これは何かの夢ではないかと思いました。夜に見る悪夢か何かで、目を覚ましたらすべてがいつものとおりになっているんだ、と思いました。でも実際は……。私の母はとても心配性で、戦争がはじまる前からさまざまな怖いニュースを信じていて、「アンナ、防災バッグを用意しなさい」と言っていました。医薬品、食品、それからあと何を入れるでしょう……防寒具、それからもちろん身分証明書です。私はため息をついて、防災バッグを用意しました。私は、「自分がもっと安心できるようにこれをやっているんだ。あとでリュックサックをほどいて、自分たちがこのすべてを信じたことを笑うんだ」と自分に言い聞かせていました。
 そして二十四日、爆撃があったとき、私たちはこのリュックサックを持って駆け出し、地下室を探しました。地下室は、正直なところ、書類上ではすべて完璧になっていますが、実際はすべてが開いているわけではありませんし、稼働しているわけではありません。避難地図に書かれていたものはすべて、どちらかというと報告用の地図であって、開いていて避難民を受け入れられる状態になっていたのは、これら地下室全部のうち十か所に一か所しかありませんでした。
 私たちは運良く隣の集合住宅の地下室に避難できました。しばらくそこに隠れていましたが、とても不安でした。ニュースは矛盾したことを報じていましたし、近所では戦闘が起きていました。二日間、外に出たり地下室に戻ったりして過ごしていました。地下室には小さな子どものいる家族もいました。地下室は快適なわけではありませんでした。起こっていることは非現実的に思われました。これは終結するし、すべてが元どおりになると思っていました。ですが、そうはなりませんでした。
 それから、正直なところ、私たちは警報が鳴るたびに地下室に駆け込むのに疲れてしまいました。後には、防空警報が鳴ると、私たちは家に入り、二枚の耐力壁の背後の廊下に座りました。廊下には備蓄した食糧や医薬品の入ったリュックサックが置いてあります。
 私たちはすべての医薬品を備蓄していたわけではありませんでした。こういうときに備えて全部を準備しておいたつもりでいたのですが、忘れていたものがありました。こういうことは起こるものです。
 医薬品を買い足さなければなりませんでしたが、最初の数日は薬局がひどいことになっていました。第一に、すべての薬局が営業していたわけではありませんでした。第二に、薬局には長蛇の列ができていて、せっかく店内に入れても在庫がなかったりしました。もう終わりだ、もう町には何も入荷しないんじゃないかと思われました。でも実際には、そうではありませんでした。一、二週間もしたら、状況はずっと安定し、薬局に医薬品がたくさん並ぶようになったのです。ですが当時は、私たちはとてもいらいらして、一つの列に六時間くらい並び、さらに別の列に三時間並び、家に帰ってくると、まるで足がなくなってしまったみたいに感じました。とにかく私たちは医薬品を購入できました。これに関しては運が良かったです。
 そこまで運が良くない人たちもいました。糖尿病患者の薬はとても不足していました。精神安定剤も不足していましたし、血圧の薬も不足していました。三月は爆撃音が間断なく聞こえてきました。座って仕事をしていると、ババババッと音がしてきて、頭上でもババババッと音が響くのです。その後、半日は両手が震えて、水の入ったコップを持つことができませんでした。近くで砲弾が飛び交うこともありましたが、私の住んでいる地区に直接落ちることはなく、三つか四つ離れた地区に落ちました。
 しかし、これはもちろん、東部の街ハルキウで起こっていることとは違います。ハルキウは日常的に砲撃されています。ですが、三月は毎日とても不安でしたし、怖かったです。

心臓の音が聞こえる

夜間警報
鼓動の間に
静寂を聴く

 夜間警報は戦争開始から何か月も、ずっと続いています。防空警報のサイレンは、一日中どの時間帯でも鳴るのですが、夜間に響く警報は特に怖いです。ロシア軍は朝の三時や四時、夜中の二時頃に砲撃をはじめるのです。防空警報が鳴りつづけ、たくさんの人たちが町から避難していき、人影がなくなって、町は死んでしまったように見えました。人はおらず、暗くて、住宅は……灯火管制なので住宅の窓もすべて暗いのです。一つでも二つでも灯りがついていればまだ良いのですが。
 この死んだような静けさはとても不気味でした。私はこんなふうになるなんて思ってもみませんでした。いつも、夜は暗いけれど、怖いことなんて何もないと思っていました。この静けさの中で警報が鳴りはじめるのです。長いこと鳴っています。人びとに警告するために一定の時間作動することになっているからです。
 「もしミサイルが飛んできたらどうしよう。私は仕事をやり終えただろうか?—やり終えた」。これは、私の雇用主と話すときによく言う言葉です。「私は母に大好きだよと言っただろうか?—うん、たぶん言った」。こんなことをずっと頭の中で考えていると、もし家が砲撃されたら早く死んだほうがマシだと思ったりします。正直なところ、横になっていると、さまざまな怖いことを考えてしまいます。
 あるいは、「ミサイルは私の家に落ちるとは限らないのではないか? もしかすると、私の身近な人や知り合いが亡くなるかもしれない。朝になったらメッセージを書こう、忘れないようにしよう」と思ったりもします。こんなことはこれまで一度もありませんでした。

—その静寂の間に、自分の心臓の音が聞こえたのですね?
 はい、自分の心臓の鼓動が聞こえるような不気味な静寂です。しかも、こんなときには当然、心臓はいつもより強く速く打ちますし、まるで世界の中でこれが唯一残った音のようです。……この静けさはますます不気味に、ますます深くなります。

人との関わりが支えに

生きている
煩わしかった
SNSも嬉し

—この句について説明していただけますか。
 これはインターネットのことです。私は生活時間の大半をインターネットの中で過ごしています。人と会って話をすることはそんなに頻繁にありません。SNSではいつも誰かが自分の考えを書いてますよね。「あなたの考え方は間違っていると思う。こう考えるべきだ」とかって。そして、そこではさまざまな論争が起きています。SNSで起きている論争を見ていると、永遠に続くんじゃないかと思えてきます。二十個、三十個ものコメントが書かれることもあります。いまも、ページを閲覧していると、人が書き込みをしています。東部のハルキウ市民からもさまざまな投稿が届きます。不満を持っている人もいますし、いらいらしている人もいます。ほかの誰かに悪態をついている人もいます。
 私も以前は、彼らと同じように不満や異論を書きたくなることもありましたし、コメントを読んで、この人は怒っているなと思ったりしていました。でも、いまでは喧嘩しているのを見ると、「ああよかった、喧嘩している。健康で、生きているんだ」と思うようになりました。この人はどこにいるんだろう、何があったのだろう、家は無事なのかと想像して、「とてもよかった、どうぞ喧嘩してください」と思うのです。もっと喧嘩したらいいのです。映画や本が良くなかったとか、作家の書き方が間違っているとか、もっとたくさん言えばいいのです。戦争になる前は怒っていましたが、いまでは、「書き方がおかしいのか。よかったね。この人たちは全部うまくいっている」と思います。
 誰も彼もを好きになったとは言えませんし、嘘は言いません。そうではありません。多くの場合に私たちが普段口論する原因はとても些細なことだとわかったのです。


思い出さえが破壊されて

春を待つ
掌で散りぬ
焼けた本

—これも戦争を詠んだ句ですね。
 はい。キーウ郊外に住む知り合いの話です。彼女は一時期、歌手としてとても有名でした。いま彼女は、刺しゅう入りのブラウスや、絵画や、小さな彫刻を作っています。彼女の家にも砲弾が飛来しました。
 その町ではかなり有名な人ということもあって、その様子はニュースでも放映されました。崩壊した自宅を歩いている彼女を見るのはとてもつらかったです。なぜなら、この人は単に自宅を失ったのではなかったからです。ここでの問題は家ではありません。彼女は自分の人生をすべて失ったのです。たくさんの自分の作品を失いました。絵画も何もかもです。彼女は、カメラの前では泣くまいと決意したように歩いていました。背を向けたり、壁に空いた灰色の穴を見つめたりしていました。とても言葉で伝えることのできない表情を浮かべていました。
 彼女の手には焼けた本がありました。そして次の瞬間、その本は彼女の手の中でただ散っていったのでした。まるで軽い灰のように、ページの詰まった大きな分厚い本が散ったのです。私はとても衝撃を受けました。私はその先を見ることができず、あとになってから最後まで視聴しました。
 この本は、なんと言うか……私の心を引き裂きました。私はそもそも本が好きで、自宅にとてもたくさんの本があります。本というものは—これをなんと説明していいかわかりませんが—、ミニチュアの世界のようなものです。そしてその世界はもうありません。私は、世界を破壊するのはこんなに簡単なのだということがわかりました。でも、何か思い出は残るかもしれません。物質的な物だけが大事なのではないようにも思われます。

—その人の思い出や記憶なのですね。
 はい、その人の思い出です。これはシンボルなのです。シンボルが燃えて消されるとき、シンボルがもうなくなってしまうとき、これは……なんと言ったらいいのかわかりません。

—魂がなくなってしまうということですか?
 そうです。そのためには、何か物質的な物があるべきなんです。デジタル化したり、電子的なデータとして保存したり、写真を撮影したりするのはとても簡単です。ですが、どうして人は物を保存しているのでしょう。手で触れることは魂に触れることです。手で触れることのできる何かは、作った人や所持していた人が残した証ともなります。これを破壊してはいけません。ですが、これはたった二分でなくなってしまったのです。


砂浜に兵士
勇ましく鳴く
蛙あり

—これは面白い句ですね。
 はい。近くの湖の砂浜には、運良く砲弾は投下されませんでした。その砂浜は、私の住んでいる集合住宅のすぐ近く、湖の反対側にあります。夏になると、人びとはそこで泳ぐのです。砲弾が落ちた可能性もあるので、市内のすべての砂浜では不発弾の調査が行われました。実のところ、調査の前も後も関係なく、みんな泳いでいたのですが、注意されるようなことはありませんでした。
 朝の六時か七時だったのですが、朝の静寂の中で、工兵が一人きりで金属探知機で調査をしていました。その横では人びとが泳いでいました。そのとき、一匹のカエルが鳴いたのです。その声は静寂の中で、勇敢な命の叫びのように響きました。私は気が楽になりました。まるで、灰色の羽根布団が落ちてきたようでした。再び生活が元のペースに戻ったように感じ、私は、これで終わった、これでもうすべては良くなるんだ、ここには地雷は一切ないし、泳いでも大丈夫なんだと思えました。かなりバカげていますが、いずれにしてもこの小さなエピソードは私に元気をくれました。

—泳いでいいと、カエルが許可をくれたのですね。
 そういう感じですね。

燃える平原、寒さへの恐怖

地味な夏
スモッグの中
子ら遊ぶ

—この夏はどのような感じでしたか?
 ここでは、夏は……あったようななかったような感じでした。各自が気分転換をしようとしましたが、戦争のことをいつも考えていますし、ついつい戦争の話をしてしまいます。そして路上での話はどれも、どこで何を買ったらいいかとか誰に何が起きたといった生活上のことか……。あるいは戦争のことで、プーチンはひどいとか、私たちの政権はいいとかあまり良くないとか、そういった話ばかりしていました。
 この夏は、暑さのせいでよく森林火災が起きました。泥炭も燃えていました。スモッグが立ち込めていたのですが、多くの人はこれにあまり注意を払わず、自分の日常的なことをいつもどおり続けていました。私は閉めてある窓から外を見ました。スモッグが見え、そこに陽が差しました。夕方の太陽で、スモッグは少し金色がかっていて、その光景はとても美しかったです。そのスモッグの中で子どもたちは遊び、人びとはおしゃべりしているのです。ちょっと特別な感じがしました。生命は躍動しているようでいてなんだか日陰にあるような、何かの重しの下になっているような感じがしました。重しが人びとを圧迫し、いつ解放されるのかわからないという感じがしました。

—市内にスモッグが立ち込めることはよくありますか?
 そんなに頻繁にはありませんが、スモッグが発生したら少なくとも数日間は続きます。

—森林や平原は、爆撃で燃えているのですか?
 泥炭が燃えるほうが多いです。どうしてこれが発火するのかわかりませんが、かなり頻繁に発火しますし、今年はほとんど消火されませんでした。
 一方で、砲撃のせいで平原が燃えています。消防隊は砲撃を受けた平原まで消火しに行きますから、泥炭に対処できる人はあまりいません。

長き冬
古い教科書
捨てずにおく

—この句は秋に詠まれたものですね。
 言っておかなければいけませんが、私は都会で生まれ育ったこともあって、農村での生活—例えばすべてを薪で暖めるような場所での生活—はあまりイメージできません。もし、私たちのところで発電所、つまり市に熱を供給している施設が爆撃されて冬に暖房が入らなかったらと考えると、何か燃料を備蓄しておかなければと不安になるのです。ですが、都会にある何が燃料になるでしょうか? 板、紙、本くらいです。私の蔵書や古い本を燃やすことにならなければいいなと思っています。
 卒業してもう何年も経ってしまったので、カリキュラムも教科書もすっかり変わってしまいました。ですが私は、古い教科書をずっと手元に置いたままにしてきました。これを燃やすことにならなければいいのですが……。
 自分でも、なんてバカなことを考えているんだろうと思います。だって、紙はどのくらいあれば足りるのでしょうか? 実際にどの程度燃料となりえるのでしょうか? ですが、せめて何かを備蓄しておかないと……。気分は良くないですし、やりたくないのですが。

—薪は手に入りにくいのですか?
 いいえ、薪が手に入りにくいということはありません。基本的に郊外で注文できます。薪を注文しようかとも考えましたが、正直なところまだ注文していません。おっしゃる通り、そうしたほうがいいかもしれませんね。こんなバカなことを考えていないで、薪を買ったほうがいいですね。紙は燃えますが、燃料にはならないでしょう。

ロシアの俳人たちへの思い

—あなたは当初、この戦争はもっと早く終わると思っていましたか?
 はい、こんなことは一か月以内に終わると思っていました。ですが……早くは終わらないでしょう。もしかすると二年かかるかもしれません。

—ウクライナ軍が巻き返しているというニュースも報じられていますね。
 そうでもありません。勝利まではまだ遠いです。ですが、いくつかの領土は実際にウクライナ軍が取り戻し、住民をロシア軍から解放しています。特に東部のハルキウ州ではそうです。これは、祝日のようなものです。インターネットを立ち上げると、あの町が解放された、この町も解放されたと報じられています。心がとても楽になります。ですが、なんでも起こり得ますから、解放するだけでなく、さらにロシア軍を食い止められればいいと思います。

—将来はどうなると思いますか?
 将来ですか? もちろん、最終的な勝利を見たいですし、戦ってすべての領土を取り戻すのを見たいです。その可能性が低いことは理解しています。いま一番重要なことは、すでに戦って取り戻したものを定着させて、これをロシアに砲撃させないようにすることです。ですがこれはとても難しいです。なぜなら、私たちはロシア領を砲撃してはならないことになっているからです。私たちはこのような義務を国際的なパートナーに対して約束しました。
 ですが、ロシア領からの砲撃は禁じられていません。砲弾がなくなるまで砲撃してくる可能性があります。この問題はとても大きくて、どのような結末になるのか、私には想像できません。ロシアの砲弾がなくなって帝国的な計画が終焉を迎えるか、あるいは縮小することを信じたいです。そしてロシアがとにかくもっと適切に政治にアプローチして、独裁者という立場からではなく、責任能力のある対話相手という立場から交渉に臨むことを信じたいです。

—ロシアには知り合いはいますか? いまは連絡を取っていますか?
 いますし、連絡を取っています。私はずっと前から、ロシアの詩人や俳人たちともリモートで交流していました。東部のドンバスですでに局地的な紛争が行われていた間も交流していました。
 ですが、今年[二〇二二年]二月の全面戦争のあと、詩人のグループ—そこにはロシアの人もウクライナの人もベラルーシの人もいるのですが—は、異なる意見や異なる立場が表面化して、とてもひどい口論が起こってしまいました。ロシアを支持する人もいて、その人は、「ウクライナ人は我々によってこのようにされなければならない」と言うのです。「私たちによってこのようにされなければならない」というのは、一体どういう意味なのでしょうか。
 この人たちとは、いつかどこかで会えたらいいと思っていましたし、バーチャルではほとんど抱き合わんばかりに仲が良かったのです。ですがいまでは……。その人たちは私たちが死ねばいいと思っているのでしょうか? いまでもこのグループは残っていますが……なんと言うか、とても分断された形になっていて、今後なんらかの相互活動をしたり、友好関係が築けるのか、私にはわかりません。
 ウクライナにもロシアにも知り合いや友人がいますし、関係を維持しようと努力しています。彼らが戦争に反対し、私たちを支持し、なんらかの形で私たちを応援したり心配してくれているなら、私たちは口論しないように努力できます。口論するのは簡単なことですからね。
 でも、いつかこの戦争は絶対に終わります。もし私たちが生きていたら、また集まって、再びこの友情をもっと大きく復活させるように頑張ろうと思います。

—ロシアでも反戦の俳句を詠んでいる俳人がいます。
 ですが、彼らは名前を匿名化して、ペンネームで隠そうとしています。自分の顔を見せないようにしています。

—実名で書いている人たちもいるようですよ。
 それはよかったです。それを聞けて、本当にうれしいです。そのせいで、その人たちに悪いことが起きないことを願っています。

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