中世の本質(22) 荘園制と領地制

 

 平等主義は中世に誕生しました。それは双務契約の開発がきっかけでした。武士たちが安全保障を求める過程でギブアンドテイクの、他者との対等な関係を編み出したのです。
 一方、平等主義は古代には存在しませんでした。古代が不平等主義の世であった理由は古代王が国家のすべてを掌握していたからです。古代王は国民との間に決して超えられない高い壁を設けていました。そして国民は安全を求めて壁の前にひざまずき、古代王に絶対服従する。それは専制主義です。
 それではこの不平等な古代と平等主義の芽生えた中世との相違を別の角度から照射してみましょう。別の角度とは荘園制と領地制との比較です。
荘園制は古代の土地制度の一つです。それは古代の専制主義を揺るがす画期的な制度でした。というのは古代王が占有すべき国土がついに国民に分割、分与されることになったからです。国民が土地を所有する、それは未曽有の大事件でした。
 荘園制の誕生は古代王朝の財政難がきっかけです。王はいろいろの手を打ってきましたが、それでも財政難は好転しません。そこで彼は止む無く王土を開放し、貴族や寺社や農民、そして武士たちに農地として提供したのです。
 それが荘園制の始まりでした。税収を増やすための政策です。いわば自分の手足を切り離し、国民の前に餌として提供したのです。つまり国民がそれに食いつき、そこで農耕に励み、そして税を納めることを想定したのです。
 しかし残念ながら徴税は上手く機能しませんでした。そして荘園制は変質します、すなわち荘園のほとんどが貴族への給与の代替物と化したのです。つまり貴族は王朝から給与をもらうのではなく、所有する荘園からの上りを給与としたのです。それは多くの場合、給料以上の収入となるものでした。   その結果、一種の財政改革が成立し、王朝は支出を大きく減らすことに成功します。同時に貴族たちは荘園の造成に熱中します。
 土地の分割、分与は勿論、中世にもありました。むしろ中世においてこそ土地ばかりではなく、国民も国家権力も分割され、細分化され、分割主義が本格的にすすんだのです。その点、古代と中世は連続しているように見えます。
 それでは古代の土地分割と中世の土地分割はどのように違うのでしょう、あるいは二つは同じものなのでしょうか。それは歴史的に重要な問題といえます。そしてこの相違を精確に認識するかどうかが歴史区分の検証に深く影響します。
 さて荘園制は土地の自立を意味します。つまり荘園は王土から半永久的に切り離された土地であり、さらに決定的なことですが不輸不入の権をも備えることになっていました。荘園は(貴族の圧力により)免税の地と化し、荘園領主は納税義務から解放されていたのです。それは治外法権の地です。荘園は王朝からの自立を意味しました。
 それは歴史的なことです。すなわち荘園は<自立した土地>です。それは古代の専制主義が一部分ではありますが、欠落したことを表します。この点だけを採れば、平安時代は最早、古代ではないかのように思われるかもしれません。
 しかし問題は荘園領主です。貴族は荘園領主となり、土地の所有者です。しかしそれでも彼は依然として古代王に使える従業員です。彼は王朝の役職につき、古代王から官位を受け、古代王のために働き続ける.
 土地は自立しても荘園領主は未だ服従者です。つまり土地の自立と荘園領主自身の自立とは結び付いていません。古代王と貴族との間には依然として絶対的な差別があり、不平等主義は揺らぐことなく存在していました。
 一方、領地制は中世の土地制度です。封建領主も土地を所有する。領地は封建領主の忠誠と戦功に基つき、中世王から恩賞として封建領主に安堵されるものでした。この時、中世王は封建領主を一つの人格として認めています、そして彼に土地を与えるだけではなく、その地を支配する領主権をも与えました。
 領地は単なる農地ではありません。領主はその地で農民を使役し、農耕に励みますが、同時に商人や職人をもその地に招き入れ、にぎやかな市場を形成し、一大生活圏を形成します。そして封建領主は富を増やす。
 しかし基本的なことですが、封建領主は中世王に納税しません。領地も治外法権の地です。中世王は領主権を尊重し、封建領主の領地経営に介入しません。(封建領主はある程度の協力金を幕府に支払うこともあります)
 従って一見、荘園領主と封建領主は似たような立場にいるように見えます。両者ともそれぞれの盟主から免税の地を得て生計を立てているからです。しかし両者は決定的に違っています、それは前者が自立せず、しかし後者が自立していることです。
 先ず、封建領主から説明します。主従関係を結ぶ中世王と封建領主は互いに契約義務を誠実に果たすことが求められています。特に中世王が戦功に見合う公正な報酬を封建領主に与えることが絶対に必要です。公正な恩賞が得られなければ服従もありません。場合によっては抵抗権が発生する。封建領主の抵抗権は自らの意見を主張し、そして自らの権利を守るためのものです。
 封建領主は中世王の奴隷ではなく、中世王に絶対服従していないのです。恩賞(土地)の如何によって彼は中世王と対立し、そして争うことさえあるのです。実際、封建領主の服従は古代の服従(絶対服従)と区別するためにあえて忠誠(相対服従)と呼ばれます。すなわち封建領主は自らの生存権を所有する自立者です。その点、中世王と封建領主とは対等な立場にあります。それが中世の平等主義です。二者の平等です。
 一方、古代にそんな平等主義は存在しません。貴族にとって古代王に逆らうことなどあり得ない。彼は古代王に絶対服従する従者です。どのような理由であれもしも貴族が中世王に対立すればその貴族は間違いなく左遷され、追放され、あるいは朝敵として討たれます。貴族は抵抗権を持ちません。
 ですから荘園の所有者であっても荘園領主は自立者とは言えない。国家権力は古代王のみが掌握する、しかし貴族は権利、権力を持ちません。貴族がその役職において揮う権力は王権であり、彼は王の代理人としてそれを一時的に預かって行使しているに過ぎない。当然、貴族には自立権も抵抗権もありません。古代には<他者を認める>という思想が存在しないのです。不平等主義は依然として岩盤の如く堅く、古代日本を覆っていました。
 鎌倉時代に入りますと、つまり中世に入りますと分割されるものは国土だけではなく、国民と国家権力も分割されるようになります。本格的な分割主義の始まりです。その結果、人の自立が始まる。そして分割は室町時代、桃山時代、江戸時代へと連続し、様々に展開されていきます。
 従って平安時代は王土が削られ、素朴な土地分割の芽が吹き出た、いわば専制主義の衰退の始まる時代です。古代が中世へとじりじりと接近していた時代です。実に興味深い歴史の流れです。
 従って平安時代は中世を準備していたといえます。それは室町時代や江戸時代が現代を準備していたように、です。しかし室町時代や江戸時代が現代ではないように、平安時代も中世ではなかった。平安時代はあくまでも古代です。
 何故なら、人種が違うからです。同じ土地所有者といっても貴族は依然として服従者であり、一方領主は自立していました。奴隷的な貴族と自立する武士とは根本的に違います。それは歴史的な、そして決定的な違いです。
 従って荘園制(平安時代)を中世の始まりと主張する中世800年説や500年説は誤りです。これらの中世論は人が自立しない平安時代を中世と主張しているからです。致命的な過ちです。
 抵抗権の有無は人類にとって核心的なものであり、抵抗権を獲得したからこそ日本人は専制主義を粉砕し、中世へと歴史の階段を大きく一歩上がることができたのです。すなわち平等主義の誕生こそ歴史を変革したのです。
 中世800年説や500年説は土地制度をもとに組み立てられた中世論です、しかし人をもとにしたのではありません。ですから歴史区分を誤った。荘園制がどちらにも存在するから平安時代と鎌倉時代を同一な歴史(中世)に属すると評価してしまったのです。それは日本の歴史を曲解することでした。
 繰り返しますが、歴史は人が造るものです、しかし土地が造るものではありません。歴史は深く、深く掘り下げて、表層ではなく、底層まで掘り下げて検証されるべきです。従ってこれらの歴史論は一掃されるべきです。
(この書<中世の本質>はアマゾンから出版されている歴史論<中世化革命>からの引用です)

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