中世の本質(2) 古代王の国家支配

 古代、中世、現代というそれぞれの歴史は人の一生のように誕生、成長、確立、衰退そして死から成ります。そしてそれぞれの歴史は当然のことながら固有の性格を備えています。そしてそれぞれの歴史の始まりはその固有の性格が初めて現れた時であり、そしてそれが消滅する時がその歴史の終わりとなります。そうであればそれぞれの歴史の性格を知ることが先ず、すべきことです。この中世論は先ず、古代、中世、現代を定義することから始まります。
 それでは中世論の検証を開始しますが、先ず、古代から説明を始めます。何故なら、中世の歴史的な役目は古代を清算することにあるからです。古代を否定する、そして古代を超克することで中世の新世界が現れるのです。従って古代をあらかじめ知っておくことは必要なことなのです。
古代日本は飛鳥時代から室町時代までの約1000年間です。始まりは飛鳥時代です、古代王が日本の統治を始める頃です。そして終わりは室町時代です。古代王朝が崩壊し、古代王が日本国の象徴と化す時です。それが古代の一生です。
 古代国の支配者は古代王です。彼は絶対者であり、彼に代わりうる者はいません、古代王は国土、国民、国家権力のすべてを一元的に掌握しています。従って、国土は王土(公地)であり、国民は王民(公民)であり、そして国家権力は絶対王権です。
 但し、古代王が幼い時などは彼の義父である摂政、あるいは彼の実父や祖父である院が実質的な支配者となります。すなわち古代においては王家のみが王権を所有し、揮うのです。摂政として有名な人物は藤原道長です。彼は四人の娘を四人の天皇に嫁がせました。つまり彼は四人の天皇の義父となったのです。
 古代では古代王が法です。彼の一存で王民は動くのです、そして止まるのです。王に逆らう者はいません、逆らう者は朝敵とされ、賊軍、賊徒として討伐されます。従って古代における安全保障とは古代王への絶対服従です。自己主張や自己表現はある程度許されますが、それは決して古代王に対立するものであってはいけません。
 さて古代王は国家支配をするにあたり、先ず固有の国家体制と政治形態を決めます。それは支配の本質に基付くものであり、古代王が国家の全権を掌握し、そして全国民を一元的に支配するために必要不可欠なものだからです。
 古代王は古代王の代理人である貴族たちを都から派遣し、一定期間、地方を統治させる支配体制をとります。代理人の主な仕事は治安の維持と徴税です。古代王の政策は代理人を通じて全国津々浦々に届けられます。そして全国の税は代理人を通じて都の古代王の下に集まります。このように唯一者の下にすべてが集中する体制を中央集権制と呼びます。
 そして古代国の政治は古代王の独裁です。彼を補佐する者は勿論、いますが、それはあくまでも補佐に過ぎない。古代では古代王の言葉がすべてです。その独裁政治は専制政治と呼ばれます。この政治形態も古代特有の政治形態であり、中世にも現代にもありません。
 <古代王、中央集権制、専制政治>は古代支配の三種の神器です。それが古代国の支配主体です。ですから古代とはこの主体が存続する期間を指します。そして日本において古代とはそれが古代王の登場から古代王が国の象徴と化すまでの約1000年間です。(日本の古代は古代王が殺害されて終焉を迎えたのではありません)
 古代王、中央集権制、そして専制政治をひとまとめでいえば、それは専制主義といえます。すなわち専制主義の始まる時が古代の始まりです。そして専制主義の破綻する時、そして清算される時が古代の終わりです。
 そしてこの支配主体の下に各種の制度や組織が整えられます。古代王が支配体制を維持し、発展させるための諸制度です、例えば土地制度や税制度です。古代の土地制度は公地公民制、三世一身法、墾田永年私財法と幾度も変転し、最終的に不輸不入の権を備えた荘園制として成立しました。このように土地制度や組織は古代王の意向の下で幾度も変わります。
 重要なことですが、土地制度や税制度などは国家支配のための支配手段です。それは手段ですから幾度も変わりうる。一方、歴史の支配主体は支配者や国家体制や政治形態です。それは不動のもの、堅いものであり、数世紀に渡り、変わることなく、国民を支配する体制です。そしてこの支配主体の下で土地制度や税制度などは造られ、設置され、廃止され、あるいは変更されるのです。
 従って土地制度などのような容易に変転するものを軸にして歴史を画期することは大きな間違いです。それでは不精確な歴史区分が生まれ、歪んだ日本史が形成されてしまいます。
 つまり支配主体は支配手段に優先しています。従って歴史を画すものは支配主体です。歴史を区分するとは支配主体の出現と消滅を見極めることであり、しかし土地制度をもってするのではありません。
 古代では公地、公民制など少なくとも三つの土地制度が設置され、そして廃止されました。もしも土地制度をもって歴史を区切るのであれば古代は土地制度が変わるたびに古代史は切断されなければいけません。たとえば古代、新古代、後古代などと三つに区切られます。しかしそんな歴史区分などありません。古代は古代の一言です。歴史は土地制度の変化をもって区切られてはいません。それは歴史学において常識ですから。
 従って荘園制という土地制度の崩壊をもって歴史を区切るという中世論は問題です。上記の三つの論は問題です。それは日本史の歴史区分を歪めてしまう、そして古代や中世の真の姿を隠してしまいます。この問題を指摘し、その誤りを証明し、そして本来の日本史を精確に区分することが本論の目的です。
 ところで既存の三つの中世論は古代が鎌倉時代の成立期に終焉を迎えた、あるいは平安時代にすでに終焉を迎えていたと主張しています。平安時代の中期や末期に古代は終わっていたという主張です。
 しかし古代はそれほど早い時期に消滅していたのでしょうか。というのは例えば古代王は鎌倉時代に承久の乱を起こし、武家政権を潰そうと企てました。あるいは古代王朝は室町時代、南北朝に分裂し、二人の古代王は武家を巻き込んで、その勢力を競い合っていました。つまり古代政権は衰えたといっても消滅していたわけではなく、日本支配において相当程度の影響力を持っていたのです。
 これらの歴史事実は無視しても良いのでしょうか。古代王の日本支配は依然として室町時代初期においても(寺社などを支配するわずかなものですが)機能し続けていました。ですから古代はすでに平安時代に消滅したと結論つけることはあまりにも乱暴で、一方的ではありませんか。一体、古代は何をもって定義されているのでしょう。

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