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『ひろしまのピカ』(小峰書店)を読んだ、あの日の思い

小学校一年生のときの担任S先生は、自身も戦争を経験した世代であったゆえか、反戦教育に熱心な方だった。そのS先生に、広島の原爆を主題とした一冊の絵本を勧められたことがある。

なにしろ40年前の話であり、もしかしたら間違えているかもしれないが、でも、たぶん、この本だと思う。

丸木俊 文・絵/丸木位里 協力『ひろしまのピカ』(小峰書店)

この絵本(おそらく)のなかで、「なぜそこが?」と、不思議に印象に残ったシーンがある。もちろん、原爆投下による惨禍を描いたおどろおどろしい光景も衝撃的だった。けれども、この本のことを思い出すとき、真っ先に想起されるのは、そうしたページではない。

子どもが、握った箸を、捨てることができないのだ。

なんのことか…と思われるだろう。

周知の通り、1945年8月6日の朝8時15分、広島に、原子爆弾が投下される。朝の8時15分であるから、当然、朝食をとっていた家庭も多かったろう。この絵本に描かれる子どももまた、箸を手にし、食事をしていた。

そこに、原子爆弾が落ちた。

家は押し潰され、なんとか外に出ても、周囲には炎が広がっている。母親は、子どもを抱きかかえ、迫りくる火の手から、必死に、ひたすらに、逃げてゆく。

ようやくたどり着いた火のない場所で、母親は、我が子がその手に箸を握ったままであることに気がついた。捨てるように言っても、子どものほうは、極度の緊張ゆえか、自らの意志で指を動かすことができない。母親は、そんな子どもの指を、一つずつほぐして、箸を手放させる。

なぜこのシーンなのだろう。

どうしてほかでもない、この光景が脳裏に焼きついたのだろうか。

一つには、そのあまりのリアリティゆえだと思う。こうした細部の描写は、実際に、それを経験した人の目が入らないことには、決して為しえるものではないだろう。そこにいなかった者には想像もできぬ世界が描かれることで、出来事の迫真性は一気に増す。まさに、真実は細部にこそ宿るのだ。

そしてもう一つは……おそらくは、こちらのほうがより決定的なことだったと思われるが、たぶん、僕は、この「箸」というものを通して、こう、感じたのだ。

絵本に描かれるこの地獄は、今の自分の日常と、はっきりつながっている

その絵本を読んだ日の朝、僕も、「箸」を使って朝食を食べていたはずだ。

いつか、その「箸」を、絵本のなかの子どもと同じように、手放すことができなくなる日がくるかもしれない。そうした可能性の潜む"日常"のなかに、自分もまた、生きている……。

この絵本のなかに描かれた「箸」は、さっき、つまりは絵本を読んでから40年後、僕が手にしたその「箸」にも、きっとつながるものであるのだろう。

だから、40年前、おそらくはこの『ひろしまのピカ』を読んだその時の思いを、今あらためて、言葉に残しておきたい。

世界から、すべての「ピカ」がなくなりますように。

〈了〉

*今回のブックレビューは遠い過去を思い出しての紹介なので、もしかしたら違う本だったかも知れず、あるいは、紹介した内容等に間違いがあるかもしれません。その点、何卒お許しください。原典を確認する余裕がなく…すみません🙇‍♂️

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