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鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ちくまプリマー新書)を読んで

 翻訳家の鴻巣友季子による、文芸翻訳のレクチャー本。「名作」の英文から“これぞ!“という箇所を引用し、様々な角度から原文の持つ構造や意味、イメージを分析する。その上で、“翻訳“という極めて高度な“読解“の実践について、具体的かつ明瞭な解答を示してくれる一冊。

テクストという概念

 文学理論では、僕たちが一般に「作品」とか「文章」と呼ぶところのものを、しばしば「テクスト」と呼ぶ。
 では、この「テクスト」とはいったいどのような概念なのか。なぜそこにおいては、「作品」ではなく「テクスト」と表現されるのか。
 この問いについて詳細を述べるだけの余裕はないが、それについて考える上で、やはり思想家ロラン・バルトに言及しないわけにはいかないだろう。
 バルトは、僕たちが「作品」と呼ぶところのものを、「引用の織物」という意味で「テクスト」と呼んだ。「テクスト」とはそもそも、「織物」に由来する語なのである。
 それならば、「作品」が「引用の織物」であるとはどういうことか。
 どのような「作品」も、無数の言葉の連なりによって成り立っている。そしてその言葉は、語彙レベルでも文法レベルでも、決してその作品を書いた作者による独創の産物などではあり得ず、必ず、“どこかで誰かが使用した言葉“であるはずだ。ということは、作品を書くという行為は、ある意味で、“どこかで誰かが使用した言葉“を「引用」し、それらを“織り直す“という営みであると言える。したがって、書かれた作品は、「引用の織物」としての「テクスト」であるというわけだ。

間テクスト性

 さて、仮に僕たちが「作品」と呼ぶところのものが、〈“どこかで誰かが使用した言葉“を「引用」し、織り直した「織物」すなわち「テクスト」〉であるならば、そこに記されている無数の言葉には、“どこかで誰かが使用した“際のコンテクストやコノテーション等が刻印されているはずだ。言うなれば、古着に元の持ち主が使っていたときの汚れや色褪せやクセが付いているのと同じように。
 そして、「テクスト」を構成する個々の言葉が、それらが以前に他の「テクスト」で用いられていたときの”クセ”を痕跡として刻印しているならば、さらに、読み手がその痕跡に気づいたならば、その言葉、あるいはそれを含む「テクスト」は、その痕跡を通じて、それがかつて使われていた他の「テクスト」へと連接していくことになるだろう。
 たとえば、『徒然草』に、「無常の来(きた)る事は、水火の攻むるよりも速(すみや)かに、遁(のが)れがたきものを」という叙述がある。これを読む際、そこに用いられた「無常」という語に『平家物語』を想起したなら、どうだろうか。この『徒然草』の叙述に義仲の最後や壇ノ浦の悲劇のイメージを付与しながら読むことは、読み手にとって、もはや抑えがたい衝動となるのではないだろうか。
 このように、一つのテクストが他のテクストへと開かれ、連接してゆくあり方を、文学理論では、「間テクスト性」と呼ぶ。

 *間テクスト性は、実際にはよりアグレッシブでアナーキーな読みの実践となり得ます。それについてもっと深く学びたいという方は、土田知則『間テクスト性の戦略』(夏目書房)等をお読みください。

文学理論としての『翻訳ってなんだろう』 

 鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう』は、その第一章で、モンゴメリ『赤毛のアン』を素材に翻訳を実践する。そしてそこで引用したアンの心中描写のなかの〈the comfort and consolation〉という表現に着目するのだが、この表現は、アンがトマスおばさんの家に住んでいた頃に「仲良し」にしていた空想上の友だちーーイマジナリー・フレンドーーである「ケイティ・モーリス」について回想する叙述に現れる。当時の自分にとって、ケイティが「わが人生の安らぎであり慰めであった」と振り返っているわけだ。
 この「わが人生の安らぎであり慰めであった」は、筆者である鴻巣自身の訳例であるのだが、読み手はこの訳に、少々違和感を覚えるかもしれない。なぜなら、そう回想するアンは、まだ「十一歳の女の子」であり、それにしては「わが人生の安らぎであり慰めであった」は、「いささか気張った表現」と感じられるだろうからだ。
 しかし、筆者がこのような硬い訳をしたことには、理由がある。
 実は、この〈the comfort and consolation〉に、筆者は『聖書』での使用の痕跡を見出しているのだ。筆者は『聖書』の詩篇一一九編五〇節を、筆者自身による訳出を付しながら、以下のように引用する。

This is my comfort and consolation in my affliction: that Your word has revived me and given me life.
苦悩のさなかでさえ、これがわたしの安らぎとなぐさめとなっている。主の御言葉がわたしを生き返らせ息吹を与えてくださることが。

 そして、アンもこの言い回しを「聖書かなにかで覚えたのだろう」とした上で、それをいかにも少女らしい噛み砕いた表現に訳すのではなく、あえて硬質に訳すことの大切さを説くのだ。それは、「子どもが覚えた言葉を得意げに使ってみている感じ」を出し、アンの「ませた」性格を表現するためでもあるが、それと同時に、筆者自身、その意図を以下のように語るのである。

アンの頭のなかでは、言葉に出さずとも、まさに詩篇の「苦悩のさなかにあってさえ」「わたしを生き返らせ」という言葉が響いていたかもしれません。ずばり詩篇からの引用でないにしても、the comfort and consolationが必要なところには、必ず苦悩や苦しみがあるものです。この言い回しでも、明るく元気なだけではないアンの屈折が感じとれるかと思います。

 まさに筆者は、『赤毛のアン』というテクストのなかに『聖書』という他のテクストの痕跡を見出し、そして、『聖書』でのその表現の用いられ方を参照しながら、『赤毛のアン』というテクストには明示されていない、アンの「苦悩や苦しみ」や「屈折」を解釈したわけである。ここには文字通りの「間テクスト」的な読みの実践があり、そしてこの「わが人生の安らぎであり慰めであった」という翻訳は、そうした解釈を読み手に示唆するためのものであったのだ。

 『翻訳ってなんだろう』は、もちろん翻訳者を目指す人たちが、翻訳という営みの凄まじさ、あるいはその豊穣性を知る上でも素晴らしい一冊だろう。しかしながら今回は、同書を、このように翻訳そのものとは少し異なる視点から紹介してみた。それは本書が翻訳を志す人たちだけの独占物になってしまうことを、とても口惜しく思ったからである。本書は、上に紹介した「間テクスト性」以外にも、文学理論に基づいた実践が多く見られる。しかも、それを、いかめしい術語ではなく、噛み砕いた言葉で説明してくれる。つまり読者は、本書を読むことを通じ、知らず知らずのうちに文学理論の基礎を学んでいることになるわけだ。“翻訳入門書“としてのみならず、“文学理論入門書“としても、強く推したい一冊なのである。

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