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「短篇集クリスマス・プレゼント」Ⅱ.another life


 二年前に家族や友人に手を振って、人生を変えるんだと意気込んで乗った飛行機と反対向きの飛行機の中で、ティミッドは彼らに再会した時にどんな顔をしていればいいのか分からず、出された機内食も手を付けて口にした覚えの無い内にいつの間にかすっかり食べ終えていた。食事の時間が済んだ機内は間も無く消灯され、目の前に備わったモニターから放たれる眩しい光に、過去の記憶が次々に映し出され思い起こされそうでティミッドは慌てて電源を切った。窓の外は薄暗く、地上で営まれる社会を遮るように雲が敷き詰められているばかりだったからまだ見ていられたが、ふとした拍子に目のピントが景色から窓ガラスに移る自分の顔に切り替わると、たちまち目を覆いたくなった。こうなったら全ての五感を閉じて眠ってしまおうと、アイマスクと耳栓を装着して世界を遮断してみても、しんとした暗闇の中では却って頭で考えている事が鮮明に映し出されてしまって簡単には眠れなかった。
 

 
 「三年間の職業訓練を終えて一人前のパン職人になるまでは絶対に帰って来ないんだ」
 
 そう意気込んだティミッドは家族や友人の期待や応援や心配を背に、単身異国の地へ移りパン職人になる為の修行をするという挑戦を志して飛行機へ乗った。突然の思い切った挑戦に驚き沸き立つ友人とは裏腹に、両親は生まれてこのかたこの町で育って来たティミッドが突然、言葉も文化も異なる外国へ行くと言い出した事に動揺を隠せなかった。第一、世界的に“パンの町”として有名なこの町に住んでいながら、そしてせっかく国内最古の歴史的なパン屋であるサンタ・バレーナが身近にありながら、どうしてわざわざパン職人になる為に外国に行かなければならないのか、と両親は最初ティミッドを説得しようとした。ところが意志の固かったティミッドは「新しい世界で人生を変えるんだ」の一点張りで、ついには両親が折れるより他に為す術が無かった。
 
 頑固な意志を持っていたティミッドだったが、それまでの人生で外国に行った事も無ければ飛行機に乗った事さえ無かった。また外国語を喋れるわけでもなければ、そもそも親元を離れる事もこの時が初めてだった。それだから親が心配するのは無理もなかった。そうした心配をよそにティミッドは異国の地での生活や修行に思いを馳せて情熱を蓄えていた。そして友人と会えばいつでも「人生を変えるんだ、一人前になるまでは帰って来ないからね」と気炎を上げては拍手喝采を浴びて得意になっていた。
 


 その時の威勢がまるで嘘の様に今飛行機の中で小さく眠るティミッドは、三年間の職業訓練を果たせず、すなわち一人前のパン職人になるという志半ばのところで生まれ故郷に帰っているところだった。彼は今、威勢よく飛び出しておきながら小さくなって道半ばで帰る自分を、故郷が、家族が、友人が果たして受け入れてくれるのかが不安だった。それと同時に閉じた瞼の裏に浮かんでは消えていく、意志の強い男だったはずの自分の幻影が苦しかった。しかし気炎を上げていた頃のティミッドにも、生まれ故郷に帰っていくティミッドにも理由や意思があった。「人生を変えるんだ」という理由の先に挑戦があったなら、断念の元にも彼なりの理由がなければいけなかった。そしてその理由が生まれるまでにも、いくつかの出来事がこの約二年の間に彼の元に起こっているはずだった。
 
 

 
 ティミッドが人生を賭けて移住した先はまるで絵本の様な街並みをしていた。彼の故郷である“パンの町”が古びて地味な石造りなのと比べるととても華やかだった。そんな“絵本の街”に単身飛び込んだティミッドにも、実は一人、移住をサポートしてくれる世話役がいた。ベアリンという女性だった。彼女は“絵本の街”の出身であり、なおかつ“パンの町”にも縁があったから両方の言葉が理解出来た。ティミッドが一人で外国へ行く事が心配でならなかった両親がベアリンをティミッドの世話役として雇っていたのだった。そうは言っても彼女は彼女で別の仕事もあったから、ずっとティミッドにつき切りでいるわけにもいかず、“絵本の街”の空港でティミッドを迎えると、それからのこの街での大まかな予定を書いた計画書を渡して説明をした。初めの六ヶ月は語学学校に寝泊まりして授業を受け、それからようやくパン屋に務め、三年間の職業訓練を開始するというものだった。外国語の出来ないティミッドにとってはとても親切に順序立てられた計画だった。そしてティミッドはベアリンと共に語学学校へ向かい、ベアリンのサポートで受講の手続きを済ませた後、自分が六ヶ月間寝泊まりする部屋に案内されて、その日はそこで彼女とは別れた。
 
 
 殺風景な部屋を見回す。ベッドと小さな冷蔵庫の付いた棚、簡単なクローゼットと勉強机があるだけのシンプルな部屋だった。ティミッドは、思い描いていた異国での生活が、ベアリンと別れた途端急に現実味を帯びて来て少し心細くなった。そして寂しくなった。この部屋に入ったはいいが、扉の向こうは自分の知らない言葉が飛び交う見知らぬ世界。お腹が空いている事に気が付いたティミッドは、待っていても食事が運ばれてこない状況に戸惑いを見せた。
「自分で外へ出て買わないといけないんだ」
 そう思った時によりいっそう扉の向こうが恐ろしくなった。この時すでにティミッドの心にはホームシックの種が生まれていた。
 

 
 翌日からさっそく授業は始まった。朝目を覚ますと見た事の無い天井が目に飛び込んでたちまち心細くなった。前日にベアリンを介して聞いていた指定の時刻に指定の教室へ入ると、あらゆる国籍の人がすでにコの字型に設置された席に着いていた。その中に一人、ティミッドと同じ国の出身と思われる見た目をした男がいることに気が付いたティミッドは、静かに教室へ入っていってその男の隣の席に着いた。
 「もしかして」と男に声を掛けたティミッドは、口から出たその言葉が無意識に母国語であった事に気が付いてそこで一度言葉を止めた。そうは言ってもこれから習う言語もまるで予習もしてきていなかったティミッドに向かって男は「やっぱり」と、同じ言語で答えた。
 
 彼はロムという名前で、町こそ違ったがティミッドの思った通り同じ国の出身だった。ティミッドはとても安心した。ロムは、ティミッドがパン職人を目指すのと同じように、靴職人になる為にここへ来ていた。ロムの方がティミッドよりも十歳くらい年上で、人生経験や国外経験も豊富だった。ティミッドにとってはそれも含めてロムの存在がとても心強かった。こうして異国の地で出会った同郷の人間である二人の関係は、同じ言語に苦戦し、辛い時には互いに支え合える存在として日に日に深まっていくかに思われたが、実際はどんどんとすれ違っていった。
 
 
 これから取得を目指す言語のみで進められていく授業は、ティミッドにとってとても苦痛だった。先生の言葉も教科書の文字も外国語だったから、ティミッドがそれらを理解する前に授業はどんどんと進んで行った。顔を歪めながら授業を受けるティミッドの隣では、先生の言葉の一語一句を聞き逃すまいと鋭い眼差しで前を向くロムの姿があった。眼差しは鋭いがどこか楽しそうな表情を浮かべているロムが、やはりティミッドにとっては心強く思えた。ティミッドは自分が授業の中でいまいち理解出来なかった部分を休憩時間にロムに尋ねる事が多かった。ロムはいつでも教科書を見せてくれた。ティミッドはロムのその寛大な優しさに救われてばかりだった。
 
 授業は午前中の三時間のみの週五日だった。授業の始まったばかりの頃はよくティミッドがロムを誘って昼食や夕食を共にした。ティミッドにとってロムは唯一の心の拠り所になっていた。ところがいつからか、ロムがティミッドの誘いを断る事が増えるようになっていった。ティミッドは次第に、自分が何か悪い事をしてしまったんじゃないかと疑い始めた。授業に加え、ロムとの関係にも頭を悩ませる事が増えたティミッドは授業の無い午後の時間に一人街を散歩したり、部屋の中で気晴らしに音楽を聴いて過ごしたりしていた。
 
 
 一方ロムは、授業が終わっても部屋に籠って教科書を眺めることが多かった。一刻も早く言語を身に付ける事がこの街で生きていく上で、ひいては職業訓練をする上で最も自分を助けてくれると考えていたロムは、寝食を惜しみ語学学習に励んでいた。余暇と呼ばれる時間のほとんどを勉強に費やした。ティミッドとの食事を断るようになった理由も全くこれだった。知り合って間もない内はロム自身も母国語での会話に安心を感じていたが、授業を受ければ受けるほど覚える事が増えていって、とても食事に何時間も費やす事が出来なくなっていった。そしてまたロムは「きっと皆はもっと勉強をしているに違いない。置いて行かれないように頑張らないと」と考えて勉強に励んでいた。ロムからすれば、ティミッドも例外ではなく陰で努力しているのだろうと考えていた。
 
 
 そんな事とは露知らず、ティミッドは来る日も来る日もロムの事で頭を悩ませていた。いつしか二人のクラスも別々になってしまっていた。ロムはティミッドよりも二つもレベルが上のクラスに進級してしまったから、ティミッドは授業中に分からないところがあっても母国語で質問の出来る心強い存在がいなくなってしまった。それがさらにティミッドの心を苦しめた。彼は授業が終わると安心を求めてゲームをしたりしていた。ゲームを荷物に入れてきて本当に良かったと心から思った。そして心を落ち着かせて元気が出てくると、共同のキッチンへ行って昼食か夕食か分からない時間に料理を作った。作っていると毎日誰かしらがキッチンに入って来たから、そこでティミッドはクラスも出身国も違う様々な人と習いたての拙い言語で会話をした。ティミッドにとってその時間は居心地が良く、会話が弾めば初対面だろうが自分で作った料理を振る舞って、日が暮れるまで食事に会話に楽しんだ。そうすると部屋に戻ってぐっすり眠れた。
 
* 
 
 六ヶ月間の語学学校が終わった八月の終わりには、ティミッドとロムの語学力には大きな差が生まれていた。ロムは学校が終わる頃に実施されていた語学力テストを腕試しとして受験し、ぎりぎりながら見事に合格した。ティミッドは受験しなかった。
 
 六ヶ月間、同じ語学学校で勉強をした者同士という縁だからと、八月末にロムがティミッドを食事に誘った。ロムからはすっかり嫌われてしまったものだとばかり思っていたティミッドは素直に喜び誘いを受けた。学校期間はどうだったかという話題が上ると、「大変だったけど楽しかった」と言う意見で一致した。ティミッドは辛かった日々も、過ぎてしまえば胸の内で誇らしかった。
 
 
 
 間もなくしてあるパン屋での職業訓練が始まった。ティミッドの研修先となるこのパン屋もベアリンが探してくれた。面接にも二人で行って、言葉の面でティミッドは大いにベアリンの世話になった。しかしせっかく探してもらったパン屋をティミッドは第一印象からあまり気に入らなかった。世界的に“パンの町”として有名な生まれ故郷の老舗パン屋“サンタ・バレーナ”の、歴史深くこじんまりとして飾らない姿を見て育ったティミッドにとって、研修先として連れられたパン屋があまりに規模が大きく、パン工場と呼んでも差し支えないほどに大型機械が並んでいたのが気に食わず、正直なところ落胆していた。彼が渡航する以前に思い描いていたのは家族経営の様な小規模の工房で、何から何まで手仕事でパンを作っていくようなパン屋だった。思い描いていた理想とは違ったが、手配をしてもらった手前、またそれ以外のパン屋を自力で探すことも出来ないと思ったティミッドは、満足のいったような顔でベアリンに感謝を伝えた。
 
 
 研修が始まるのと同時に語学学校のゲストハウスから新しいアパートに引っ越した。この部屋もベアリンに見付けて貰った。この国では職業訓練中の三年間も給料を貰えるがとても満足とは言えない額だった。それだからベアリンが見付けてくれた部屋も、安い給料でもまかなえるような安い部屋だった。古く重たい木の扉を開きギシギシと鳴く階段を上った所にあるその部屋は、薄汚れた白塗りの壁に階段と変わらない材質の古い木の床、扉は開閉する度にきーきーと音がして、どことなく埃っぽいこもった臭いが充満している様な部屋だった。それでもベッドや机や冷蔵庫といった簡単な家具はついていたからベアリンは「家賃のわりに良い部屋でしょう」と得意げに紹介したが、肝心のティミッドはこれにもあまり満足がいっていなかった。安い給料に加えてほとんど殺風景でどこか寂し気な部屋の中にいて、どうして生活が充実させられるかと心配でならなかった。語学学校に住んでいた頃は共同のキッチンで人との交流がはかれたから保たれていた安寧も、ここでは一人かと思うとせめて自分の住む空間くらいは心安らげる場所であってほしかった。しかしやっぱり本音を言う事が出来なかったティミッドは「探してくれてありがとう」とだけベアリンに伝えた。
 
 

 
 かくして始まった職業訓練も、ティミッドが覚悟していたよりもずっと大変だった。まずティミッドが思い描いていたよりもパン屋はずっと肉体労働だった。二十五キロもある粉袋を背負って歩く必要があったり、大きな生地をミキサーから作業台へ移したり、重たいラックワゴンをあっちへこっちへ押し運ぶ必要があったり、そしてまた素早く動く必要もあったからその重労働ぶりに面を食らった。それがまた深夜の労働だった事もティミッドにとっては辛かった。
 
 当然言葉の壁もあった。語学学校でせっかく習った言葉が役に立たないほど、人によってアクセントも口調も違ったから指示を聞き取るだけで大変だった。全部で十人以上の職人が働いていたこのパン屋では、ティミッドにとって十通りの言葉を理解しなければいけないも同然に思えた。それから専門用語にも苦戦した。一般会話で使われる様な言葉しか習ってこなかったティミッドが、パン屋で飛び交う専門用語を理解出来るはずがなかった。指示を聞き取れない、理解出来ないティミッドは研修の初日から職人たちに冷たくあしらわれた。時には「これくらいは理解してくれよ」と露骨に呆れられた。ケルーという筋骨隆々の大男は常に苛々している様な顔で、冗談か本気か分からない強い当たりをティミッドに浴びせた。またスーデンという耳にピアスをした男は平気で「こいつは駄目だ」とティミッドを前にして言った。
 
 実社会の生きた外国語に加え専門用語という壁を目の前にしたティミッドはまた出鼻を挫かれた。その上追い打ちをかけたのは、週一回通う職業学校の授業だった。職場での専門用語よりもより学問的な用語が次々と飛び出し、その上クラスの中で唯一人の外国人という状況にストレスを感じるなと言う方が無理な話だった。学校にいても職場にいても心細かった。さらに家に帰っても寂しい部屋が待っているばかりで、贅沢な食事をしようにも給料が少ない状況のティミッドは、家に帰ってもますます気力も体力も奪われるようで、とても仕事後や授業後にまで語学や専門用語や仕事の予習復習に出す精など残っているはずもなく、硬いベッドに倒れ込んでは苦しい現実を紛らわすように音楽やゲームにのめり込んだ。そうでもしなければティミッドの気持ちも体も持たなかった。
 

 
 そんなティミッドに嬉しい話がベアリンによってもたらされた。彼はあまりに生活環境や労働環境が苦し過ぎるという悲痛な相談をベアリンにすると、彼女の口から「あなたの母国のコミュニティがあるかもしれないから調べてごらん」とアドバイスを受けた。それまでのティミッドの頭の中にまるで思い浮かびもしなかったアイデアを貰った時、ふとロムの顔が浮かんだ。もしかしたらロムにも会えるかもしれない様な気がしたティミッドはすぐに同郷コミュニティを探すと、案外簡単に見付かった。そして職業訓練を開始してから間もなく二カ月が経とうとしていた十一月の下旬頃に、その集まりに初めて顔を出した。
 
 
 その集まりでティミッドは沢山の人と知り合った。ダンサーのベネディック、仕立て屋のマイランド、舞台俳優を志すフローレンツ、“絵本の街”出身の夫に嫁いで主婦として滞在しているネアペールなど、様々な環境に身を置きながら異国の地で頑張っている同郷者が想像以上に沢山いる事に驚いた。特にバリーやルヴェッロ、マテラの三人は“パンの町”の隣町の出身で一層会話が弾んだ。ティミッドは自分の居場所を、自分の心が安らげる場所を見付けた様で嬉しかった。言いたい事の伝わらないストレスも、言われた事が理解出来ないストレスも無いただそれだけで、どれだけ息がしやすいか身を持って感じた。そんな中にロムの姿は見当たらなかったが、ティミッドはそんな事もまるで気にならないほど楽しい時間を過ごした。
 
 そのコミュニティの仲間入りを果たしてからのティミッドは少し元気になった。相変わらず言語の面で職場でも職業学校でも苦労を強いられていたが、それも週末になれば誰かしら同郷の者と集まって会い、話す事でストレス発散が出来ると思えば耐えられた。皆ティミッドと同様に言葉の面で苦労をしているという声を実際に聞けるだけで、ティミッドも自分一人ではないんだと感じられて心強かった。
 
 
 彼らとの親交が深まるにつれて、付き合いも増え、それから時に大きなイベントに参加したり旅行に出掛ける事も出て来たティミッドは、言語面でのストレスや不安が減る代わりに新たな問題が浮き上がって来た事に気が付いた。それは金銭面だった。見習い期間中は少ない給料で働かなければいけなかったティミッドは、そこから家賃を差し引いた金額ではとても満足に付き合っていけないという不安に駆られた。そんな不安をダンサーのベネディックに相談した時、副業という選択肢が浮上した。ダンサーの彼は本業のダンスだけではとても食べていけないからと言う理由で、二つの副業を掛け持ちで忙しく働いていた。ティミッドの目には、自分のやりたい事の為にがむしゃらに働くその姿勢がとても眩しく見えた。するとその時、集まりに参加していたトゥーリンが「うちの店で良ければ働いて見るか」とティミッドに声を掛けた。トゥーリンは彼らにとっての郷土料理を振る舞うレストランを経営していた。「この店なら言葉の面での不安はないし、まかないで懐かしの味も食べられるよ」という売り文句にすっかり魅了されたティミッドは、ほとんど二つ返事で「働きたい」と伝えた。するとそれを聞いていたピーザが「見習い生の身で副業なんかして大丈夫なのか」とティミッドに聞いて来た。
 
 彼は塗装屋の見習い生だった。ティミッドがパン屋の見習いであるのと同じで塗装屋の職業訓練を始めてすでに三年目だった。そんな彼からの質問だったから説得力があった。「基本的には見習い生は副業禁止のところが多いと思うけど。もししたいなら一回社長に聞いてみた方が良いかも」というピーザの説明に対して、トゥーリンは「そんなの大丈夫だよ、黙って働いてたってバレるもんか」と笑って一蹴した。それを聞いてピーザも愛想笑いをしていたが、渦中のティミッドは内心どうしたらいいのかが分からなくなっていた。と言うのも社長に質問するという壁が一つ、今の自分にとって物凄く高く思えたからだった。下手な言葉で社長に質問をしても、ただでさえ工房の中での評価も低いであろう外国人の自分の言葉など聞く耳を持って貰えるだろうかと考えてしまった。そういう観点でも考える必要があったティミッドは「近い内に決めるよ」と言ってその日はそれ以上副業の話は進めなかった。
 

 
 結局その後ティミッドは職場のパン屋に内緒で副業を始めた。正攻法では無く、また自身でも「苦渋の決断」と解っていたが、自分の生活を良くする為の乗り越えるべき障害だと胸に言い聞かせて思い切った。店主のトゥーリンはティミッドを大変気に入った。それからというものティミッドは夜中からパン屋で見習いとして働き、午前十時頃に仕事を終えると、正午から午後六時までトゥーリンの店で働き、へとへとで帰って眠るとまた夜の十一時に起きるというハードな生活になった。ハードではあったがティミッドの心は充実していた。それまでの異国生活では毎日毎日言葉のストレスと、頼れる存在の無さに心を擦り減らせてしまっていたが、今はとても活動的な日々を送り、副業の郷土料理屋で母国の空気に触れられるのも安心できた。それだから仕事にも精を出せるようになり、失いかけていた当初の目標を思い出す余裕も出て来た。
 
 
 一人前のパン職人になる為に“パンの町”を飛び出し“絵本の街”へと来たティミッドは、目標を果たす為なら他人にかまっている暇など無いんだと思い直した。母国語の通じる心強い仲間が出来た今、職場の人間と外国語で関係を深めようとして余計なストレスを感じてしまうくらいなら、そこに固執せず、パン職人としての技術だけを磨けば良いじゃないかと考えた。
「パン作りの仕事は体があれば出来る。考える頭だってある。僕だって言葉が出来なくたって馬鹿なわけじゃない」
 
 そうしてティミッドは職場の同僚達を胸の内でそっと切り捨ててしまった。「駄目だこいつは」「話にならない」そういう言葉が降りかかってもティミッドは相手にしていない様子を見せ、黙々と与えられた作業をこなした。そして副業の職場へ行くとそこにいる同僚には母国語で不満を吐き出した。皆、わかるわかる、と理解してくれてティミッドの心は軽くなった。ティミッドはみるみる自分を強くしていった。
 

 
 中間試験の話を聞いたのが、職業訓練も始まって一年と経とうとしていた翌年九月の授業だった。職場や職業学校でよく耳にする言葉を少しずつ覚えていったティミッドは、それでもまだクラスメイトや同僚とは馴染めず授業の内容にもついていけていなかった。授業を受けるだけでは理解が追い付かないからと自分の部屋で復習をしようにも、パン屋での本業と郷土料理屋での副業に追われていて物理的に出来るはずが無かった。それでも隙間時間を見付けては復習に励もうとしたが、外国語のテキストを見ている内に睡魔に襲われて一向に進まなかった。「修行の道はやっぱり過酷だ、大変だ」と度々地元の友人との電話で漏らす事もあった。これまでの授業や小テストも決して良い成績を貰えずにいたもののそれでもなんとか乗り越えて来られたが、中間試験となるとさすがに「まずい」とティミッド自身も感じた。
 
 この中間試験とは三年間の職業訓練の文字通り折り返しの時期に行われる実力試験で、実技試験と筆記試験とで構成されていた。職業訓練修了時に行われる最終試験の予行演習とも言える試験だったから、訓練生にとって大事な腕試しの場所になった。
 
 ティミッドは当然、筆記試験についてまず不安に駆られたが、実技試験についても不安がよぎった。実技試験の練習を職場でさせて貰えるかどうかということだった。仕事時間中に練習用に時間を設けて貰えるのか、あるいは仕事後になるのか、いずれにしても練習が出来なければ試験合格も何もあったものじゃないと思ったティミッドは、中間試験までまだ半年とあったが早めに同僚に質問してみようと思った。
 
 ところが仕事中、拙いながらも成長した言葉でいざ同僚に聞いてみても、誰一人まともに取り合ってくれなかった。ハンブルという工房のリーダーは「人手も足りないってのに無理だろう」とあしらい、ブレムという若手の職人も「仕事中に隙間時間を見付けてやるしかないんじゃないか」と冷たかった。ティミッドは正確には何と言われたのか全てを理解はしていなかったが、難色を示されているという事は表情や声色から容易に分かった。余りにもひどい対応に見えるかもしれないが、この国ではそれほど珍しい事でもなかった。その上でこれまでのティミッドの労働態度が、己の目標達成の為に同僚との関係作りを切り捨ててしまったティミッドの言動が、なおさら同僚の冷たい態度に拍車を掛けていた事は間違いなかった。
 
 
 工房で働く同僚が取り合ってくれないのであれば社長に直接言おうと考えたティミッドは、ついに勇気を振り絞って仕事の後に事務所へ上がると社長の部屋のドアをノックした。室内から声が掛けられて中に入ると、既に別件か何かで渋い顔をした社長が席に座ったままティミッドの方を見上げた。「ああ、君か」と言って何の用事だか催促された時、ティミッドはただでさえ覚束ない言葉が緊張でさらにこんがらがり、なんとか「中間試験」と言う単語と「工房」「練習したい」という単語を捻り出し、後はジェスチャーを交えて伝えた。社長はある程度理解したようで、その上で「もう少し先だから、まあその時になったら調整するよ」と言った。ティミッドはその言葉の全てまでは理解出来ておらず、しかしはっきりした答えが返って来ていない事だけはわかったから、追加でいくつか言葉を足した。するとあまりにも拙い言葉で元々の不機嫌が悪化したのか、途中でティミッドの話を遮るようにして口を開いたかと思うと「そう言えば君はレストランでアルバイトをしているようだね。私の娘がそのレストランを利用した時に君を見掛けたらしいんだが、決して良い事ではないね」と、淡々とティミッドに伝えた。「私に無断でアルバイトをするのは原則禁止だ。君、そんな時間があるなら言語の勉強や仕事を覚えるのにあてなさい」と言って、そのまま部屋から出るように促した。
 
 社長の表情や雰囲気や「レストラン」「アルバイト」「禁止」という単語から、副業の事が社長にばれている事実が容易に想像のついたティミッドは、社長室を出た所から膝や手が震えた。急にそのパン工房の中に自分の居場所が無いように感じられてきた。ティミッドは急いで郷土料理屋のトゥーリンの元へ電話を掛けた。この日は副業を休んで部屋の中で一度冷静になりたかった。トゥーリンは「具合が悪いのか」と気にかけてくれたが、それ以上は詮索する事なくティミッドの要求を飲んだ。
 

 
 その時を境にティミッドは副業を辞め、同郷者の集まりにも顔を出さなくなった。連絡もつかないようにした。仕事と職業学校は当然続けていたが集中力はぐんと下がってしまった。仕事が終われば真っ直ぐ家に帰って、もっぱら食事に力を入れるようになった。スーパーでもファーストフードでも、低い給料と生活費のバランスなどまるで考えずに好き放題に買い好き放題に食べるようになった。副業も辞めた今、稼いだお金をなかなか貯金まで回せなかった。相変わらず語学や製パン知識の勉強には精が出なかった。精が出ないと言うよりも、沢山のストレスを感じながらの仕事をするだけですでに心身ともに疲弊する毎日だった。
 
 
 それから三ヶ月と経ち、パン屋にとって最も忙しい繁忙期であるクリスマスの時期にティミッドは社長に退職を申し出た。つまり中間試験を控えた職業訓練もそれと同時に打ち切る事を決断した。もうこれ以上、この辛い挑戦の日々を、険しい修行の道を突き進むのは体と心が持たないと、ティミッドはそう判断した。社長や同僚からは、人手の欲しい繁忙期に差し掛かっているにも関わらず引き止められる事は無かった。その時になって初めてティミッドは寂しくなった。
 

 
 退居する事や銀行を閉じる事や住所登録を外す事など初めての事ばかりで、ティミッドはベアリンに手伝ってほしいという連絡を入れた。本当はベアリンにさえ黙って帰国しようかとも考えていたが、それをするには自分があまりに無力過ぎた。ベアリンは「帰っちゃうの、残念ね」と言いながら各種手続きの手伝いを請け負ってくれた。最も街がきらきらと輝くクリスマスの日に、そのきらめきから逃げるように帰国の飛行機を取っておいたティミッドは、残された日数の中で“絵本の街”でのやり残しはないかと考えた。同郷の集まりに今更顔を出して最後の挨拶をする勇気のなかったティミッドは、それでもロムにだけは会っておきたいような気がした。語学学校に通っていた時以来、連絡さえも取る事の無かった、この街へ来て一番最初の心強い存在であったロムにだけはもう一度会っておかなければいけない様な気さえしたのは、きっと語学学校の頃に抱いた“嫌われているかもしれない”という疑念をはっきりさせておきたかったのかもしれなかった。


 
 勇気を振り絞ってメッセージを送る。彼から割とすぐに返信が来た。その文面から当時の彼の面影が容易に浮かび上がった。早速ティミッドは食事に誘った。語学学校にいた頃にはよく断られていた食事の誘いも、ロムは二つ返事で承諾し、すぐの週末に会う事になった。ティミッドはドキドキするとともに少しほっとした。
 
 
 一年半以上ぶりに会ったロムは、殆ど当時と変わらない見た目をしていた。そしてティミッドと比べても堂々として元気な様子だった。「職業訓練の方はどう?」という話題が出て、ロムはあの日と同じように「大変だけど楽しい」と言ったが、ティミッドは「大変だけど」から後が出て来なかった。
 
 ロムとティミッドはまるで異なる一年半を過ごして来ていた。ロムは職業学校でも優秀な成績を収めていた。言葉だって「日常会話位なら詰まらずに喋れるようになったかな」と謙遜こそしていたが、料理の注文一つとっても堂々としていた姿には謙遜以上のレベルの語学が伺えた。ティミッドの語学は、一年半前とほとんど変わっていなかった。職業学校でも成績は悪かった。ロムは職場でもどんどんと新しい作業をさせて貰え、挑戦と失敗の繰り返しで刺激的な毎日だった。職場の仲間と仲睦まじそうな写真もティミッドは見せて貰った。一方ティミッドはと言えば、同僚との関係も悪く、親睦を深める事より大事だと言って仕事に一生懸命だったはずが、与えられる作業もいつも同じ簡単な雑用の様なものばかりで、パン職人らしい作業を任される事は最後までほとんど無かった。
 
 またティミッドはロムに「安い給料での生活は大変だよね」と聞いてみた。ロムは「そんなに苦しいって事もないかな」と答えた。ロムの日常はほとんど仕事と勉強の繰り返しだった。仕事から帰ってきた後の時間は専門知識や語学を学ぶのに当てた。睡眠時間もなるべく削り、食事もいつも簡単に作れる同じ物ばかりを食べていた。それだからお金をあまり浪費する事も無かった。全ては職業訓練で技術を身に付ける事と、最終試験に合格する事の為に。これもティミッドとはまるで違った。
 
 
 一通りお互いの近況を報告し合った後、ティミッドはロムに嘆くように言った。
 
 「僕には職業訓練は辛かった。僕は君みたいに賢くないから言葉も専門知識もまるで覚えが悪くて成績はいつも低かった。勉強したくても深夜の重労働の後じゃ体がへとへとでまるで何も出来やしなかったし、どんなに真剣に働いているつもりでも職場の同僚からは結局最後まで認めて貰えなかった。生活にだってお金がかかったし、その為にパン屋での仕事の後に体に鞭打ってまで働いてさ。それだって結局、人からそそのかされて社長に無断で始めたんだけど、それがばれちゃって。本当に運が無かったよ。運も才能も無かった。君が羨ましいよ。」
 
 ティミッドは自分を責めるような、哀れむ様な言い振りで言葉を紡いだ。深層心理では慰めを待っていたのかも知れなかった。それをずっと黙って聞いていたロムは、少ししてから口を開いた。
 
 「まあ、ここに来たのも、外国で職業訓練をしようと決めたのも、それを辞めて帰国するっていうのも、全部君の意思で決めているはずだからね、君がそう決めたのならきっとそれが君にとって正しい選択だよ、全部。全部、僕らが自分で起こした事が未来であり、人生になっていくんだから」
 
 ロムはティミッドの背中を押したつもりだった。ティミッドにはその言葉が背中を貫いたように思えて胸が痛かった。そしてなんとも返せなかった。ロムは言葉を続けた。
 
 「選択をする、決断するって事は目的があるはずだから、それさえ見失わなければきっとこれから先も大丈夫だよ。僕のクラスメイトにこんな人がいたんだけどね、靴職人になりたいって言って職業訓練をしてるのに、毎日毎日遊んでばかりいるらしくてまるで真面目じゃないんだ。それで成績が悪くて仕事や学校の不満を言ってるのを見たらおかしくってね。したい事があるならその為のするべき事っていうのが必ずセットなのに、その目的さえ忘れちゃってるんじゃ困ったもんだよね」
 
 ロムは楽しそうにクラスメイトの話をしていた。ティミッドは、自分の中で痛む部分がある事に気が付いてそっと手を当てた。或いは、そっと手で隠した。ティミッドは手で覆った部分に言い聞かせるように頭の中で考えた。
 
 「いや、僕は毎日遊んでなんかいなかったよな、僕なりに頑張ってきたよ。仕事も真面目にして、たし、でもあれだけの重労働だったからその後帰ってから勉強するっていうのも体力的に難し、、、副業、は、、してたけど、、、。してたけどあれはだって、お金の為に必要だったからしょうがなくて、お金が無かったら生活だって苦しくなるし、友達と遊ぶのだって、、、。いや遊んでるって言ったって週末に集まるくらいなら、別に毎日遊んでたわけじゃないもんな、うん、毎日じゃないよ、、、。それにああいう楽しみが無かったら駄目だよ、楽しみは誰にだって必要だ。それが無くちゃただ頑張るばっかりでストレスに押し潰されて、、、捌け口が、、、無くて、、、。僕は、頑張っていた、、、のかな、、、。いや、頑張っていたよきっと、だって辛かった記憶も、、大変な思いも、、、あったけど、、、何が辛くて、、何が大変だったんだっけ、、、。言葉、、、仕事、、学校、、、。人間関係、、、。あれ、僕は何をしにここまで来たんだっけ、、、。同郷の皆と集まって、日頃の不満を持ち寄って母国語で喋る時間は楽しかったけど、、、その為にはパン屋の給料だけじゃ少なかったから毎日のようにトゥーリンのところで働いていたけど、、、だから仕事や職業学校の為の語学や専門知識の勉強に割く時間も取れなかったけど、、、それがしたくて、、、わざわざ来たんだっけ、、、。それで何が辛くて、、、辞めたんだっけ、、、。パン職人、、に、、、なりたくて来て、、、人生を、変えたくて、、来て、、、それをしたかったなら、、その為にすべき事が、他にもっと、あった、、、。僕も、、目的をすっかり忘れてしまっていたんだ、、、。」
 
 
 

 
 空港から“パンの町”まではバスが走っていた。ほとんど空のバスの中でティミッドは過ぎていく景色をボーっと眺めながら、いつまでもどんな顔で家族や友人に会えばいいのか考えていた。彼らが自分を見送ってくれた日の顔が次々に浮かぶ。
 
 ティミッドを乗せたバスは約五十分の道程の末に、“パンの町”の南門の前で停まった。バスから降りてティミッドは懐かしい町を囲む防御壁を見上げる。ティミッドはその昔「こんな古くて汚い壁に囲まれただけの小さな町に居続けるなんてまっぴらごめんだ」と思っていた。今見上げた防御壁も相変わらず古くて汚かったが、今までに感じた事の無い安心感があった。夢半ばで帰ってきた自分さえも、拒まずに両手を広げて迎えようとしてくれている様に見えた。ティミッドは重い足取りで南門を潜った。空は薄暗かった。
 
 
 相変わらずの石造りの町並みに華やかな装飾が輝いているのを見て、今日がクリスマスだという事を思い出した。飛行機の中でもバスの中でも過去の回想やあれこれで頭が一杯になっていたティミッドは、気付かない内に日付の感覚も時間の感覚もすっかり失っていた。田舎臭くて好きになれなかったオレンジの街灯が続く道も、あの頃と変わらずにティミッドの体重を受け止めた。クリスマスのもう時刻は夕方で、道に人通りが無いのがティミッドにとっては幸いだった。そんな事を考えながら歩いていると、広場の辺りに人だかりがあるのが見えた。足がさっきよりも重たくなった気がした。あの人だかりに飛び込む勇気は持っていなかったが、家へ帰るにはどうしても広場を抜けなければならなかった。どこか人目の付かない場所で人だかりがほどけるのを待とうかとも考えたが、そう簡単にほどけるような賑わいにも思えなかった。
 
 「クリスマスのこんな時間に、何があるんだ」
 
 普通ならもう家族で集まってクリスマスのお祝いが各家庭で行われているであろう時間帯に出来ていた人だかりだったから、ティミッドには不思議な光景に思えた。それも少し気になったから、ティミッドは意を決して広場の方へとまた歩き始めた。
 

 
 広場には想像していた以上に人が集まっていた。知り合いに気付かれない様、帽子やコートで極力自分の姿を隠しながら広場を見渡すティミッドの目に、見慣れない小屋の様な出店が映った。看板を読むと“サンタ・バレーナ”の出店だった。それからサンタ・バレーナの出店の反対側にステージの様なものも設置されていた。何かイベントが行われる事は間違いなさそうだった。サンタ・バレーナなら本店もこの町にあるし、わざわざこんなところで買う必要も無いだろうと、人混みを真っ直ぐ縫って家へ帰ろうとも思ったが、“絵本の街”でパン職人になるという目標を立てておきながら、パン職人というものに対して真っ直ぐ向き合えずにいた後ろめたさが、かえってティミッドの足をサンタ・バレーナの出店の方へ向かわせた。
 
 少し近付くと置いてあるパンが見えた。クリスマスに合わせて小振りのパンドーロが置かれている。それからフォカッチャも置いてあった。フォカッチャは確かサンタ・バレーナの看板商品だった。ステージが設置されているという事はサンタ・バレーナがメインのイベントでは無いだろうとティミッドは考えた。そう考えた時、まるでメインイベントであるかのように賑わうサンタ・バレーナの盛況ぶりが、おかしな言い方にはなるが、羨ましく思えた。わざわざ国を越えてまでパン職人になるという夢を見て結局挫折した自分と、この小さな町に深く根付き人々からこよなく愛される老舗のサンタ・バレーナとを見比べた時、ティミッドは過去にこの町を、そしてこのサンタ・バレーナさえもを軽視していた自分の未熟さを恥じた。「人生を輝かせるには小さな町なんかに閉じこもらず外へ出ないといけないんだ」と大口を叩いていた自分を悔やんだ。気付けばティミッドはその足を店に向かって進めていた。いや、向かったのは店の前ではなく、店主の元だった。偶然にもずっと連なっていた行列が途切れたタイミングでティミッドは店主に話し掛けることが出来た。
 
 「こんばんは、突然すみません。」
 「こんばんは。あれ、君、もしかしてティミッド君かい?」
 「え、あ、そうです」
 「ああやっぱりね、写真で見たことがあって。なに、いつも君のお母さんとお父さんがね、うちにパンを買いに来てくれるんだけど、その時に君の話も聞いててね。どこか外国にパンの修行に行ってるんだって?」
 「はあ、まあそうだったんですけど」
 「大変でしょう、言葉も文化も違ったんじゃ。いやしかし立派なもんだね、僕なんかはこの町から」
 「あの、サンタ・バレーナで働かせてもらえませんか」
 
 ティミッドは店主の褒め言葉を遮るように、或いはこれ以上黙って聞いてるうちにこれ以上胸が痛まないように大きい声で店主に言った。店主は不思議そうな顔で少し固まった。広場の住人達はどこからか流れている音声放送に集中して耳を傾けているらしく、幸いティミッドの声に振り向く者はいなかった。
 
 「実を言うと、その修行を途中で辞めて帰って来たところなんです。出発前に家族や友人に大きい事を言っておきながら、すごくみっともないんですけど。その頃の僕は、いや修行に行ってからもそうだったんですけど、僕はパンの事も、修行の事も、職人の事も何にも分かっていませんでした。それに、“パンの町”と呼ばれるこの町の事も、サンタ・バレーナの事もまるで知りませんでした。そのくせに、この町に砂を掛けるように飛び出して、結局、その夢も見失ってしまって」
 
 はじめは困った顔をしていた店主もティミッドの声に込められた熱を感じ、いつしか次第に真剣に耳を貸していた。
 
 「僕、今日、ついさっきこの町に帰って来て、この広場を通り掛かって、サンタ・バレーナのこの出店が町の人で賑わっているのを見て、僕が知らなければいけない事がここに、この町にあるような気がしたんです。僕が格好を付けて外の国に出ても見付けられなかった大事な事が、この町と、このサンタ・バレーナにあるような気がして、それで、、やっぱり改めてパン職人として、学びたいと、修行を一からやり直したいと思ったんです。だからどうか、働かせて下さい」
 
 ずっと黙って聞いていた店主は少し口角を上げてティミッドの肩に手を置いた。そして真っ直ぐティミッドの目を見ながらすぐに答えを返した。
 
 「よし、わかった。働いてもらおう。君みたいに情熱を持った若い人にはチャンスを与えてあげるのが年寄りの仕事だ。」
 「本当ですか、ありがとうございます」
 「いやいやちょうどうちの店もね、後取りをどうしようかと考えていたところで。いやなにも君にすぐにそんなプレッシャーを与えるわけじゃないよ、うちにも優秀なパン職人がいるから、彼には何度か打診しているんだが、、、まあそんな事はとにかく、働き手が増えてくれるのは助かるからね。」
 
 
 ティミッドは不思議にも、皮肉にも、人生を変えようと飛び込んだ“絵本の街”ではなく、生まれ育った“パンの町”で初めて自分の足で人生を開いた気がした。あそこでなぜ、ティミッドはサンタ・バレーナの店主に直接頼み込む事が出来たのか、自分でも分かっていなかった。自分の頭が理解する前に、心が体を動かしていた。その時、ドーンという爆発音が聞こえ一瞬景色が一色に照らされたかと思うと、直後に広場に集まった住人たちがわーっと盛り上がった。ティミッドも音がした方を向く。花火が打ち上がっていた。
 
 次々に打ち上がる花火に目が釘付けになっていたティミッドの肩に、店主が後ろから手を乗せティミッドは振り返った。
 
 「お祝いだな、君の、新しい門出だ」
 
 ティミッドは胸がどきっとするのが分かった。生まれ故郷で迎えた“新しい門出”。確かにティミッドにとってその言葉は決して違和感なく腑に落ちた。そして飛行機やバスの中で散々脳内に浮かんでは消えていた記憶の断片が、花火が一発打ち上がる度に、ドーンという音と衝撃に合わせて弾けて消えていくようだった。
 
 「これだけ熱心な君ならまたやり直せるさ。今君の胸の中にある衝動というか、希望というか、目的というか、そういうものさえ忘れてしまわなければね、大丈夫だ。」
 
 店主はロムと同じ様な言葉をティミッドに掛けた。今度の言葉は胸まで貫くことなくティミッドの背中を押した。或いは優しく撫でるようでもあった。ティミッドは今日の事を、今日の気持ちを、二年の外国生活を経たからこそ生まれた今の感情を絶対に忘れないことを花火に誓った。そしてこの世界的に有名な“パンの町”の看板でもあるサンタ・バレーナを守れるような、またサンタ・バレーナを愛している町の人の生活を守れるような立派なパン職人になる事をこの町に誓った。そして、今度の“夢”は決して見失ってしまわない事を、自分自身に誓った。




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