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「短篇集クリスマス・プレゼント」Ⅴ.journey

 「ちょっとバスタオル取ってー」
 
 食い入るようにテレビを観ていたエーレは視線を画面から外さないまま「ああ」と返事はしたものの、よりによって番組が目の離し難い場面に差し掛かってしまったから、片膝こそ立てたがそれ以上動けなくなってしまった。そこにまた「聞こえた?」というケインの声が浴室から飛んできて、エーレは大急ぎでバスタオルを浴室から伸びた手に渡した。幸いその一瞬では画面内に殆ど進展が見られず、エーレは内心で一息ついてまたテレビの前に鎮座した。
 
 少ししてバスタオルを首元に回したケインがパンツ一枚の格好で出て来た。そして浴室を出てすぐの所に置かれた冷蔵庫からビールを取り出すと、缶のチューハイも入っていたからそれはエーレの分にと取り出して、エーレの脇に腰を下ろした。ケインが何も言わずにエーレの目の前の机の上に缶チューハイを置くと、そこでようやく気が付いたエーレが「お、サンキュ」と言って直ぐに缶を手に取り、封を開けるなり「うぇーい」と力無い声で乾杯の合図をケインに送った。ケインは「あ、ごめんもう先に飲んじゃった」と言いながら自分の缶をエーレの缶にぶつけた。
 
 
 彼らは十四畳の部屋に二人で住んでいた。十四畳と言ってもキッチンも浴室も含まれた広さだから、実際は八畳くらいの中で二人は寝食を共にしていた。普通の人間の暮らしにしては少し窮屈過ぎる。彼らが何かしらの芸事を極める為に貧乏な下積み生活をしているか、あるいは彼らが仲睦まじい恋愛関係にあるかでなければ腑に落ちない環境だが、彼らはそのどちらでもなかった。この日、ケインは二ヶ月ぶりにこの部屋に足を踏み入れた。
 
 
 「どうだったの、今回」
 エーレがつまみ用に買っておいたポテトチップスの袋を開こうと両手で引っ張りながらケインに尋ねる。
 「楽しかったー」
 「え、今回って、あれだっけ、なんか、島国みたいなとこ行ったんだっけ」
 「そうそう、本当にあの、ちっちゃい島だった。テレビとかで見た事ある?」
 「え、知らん」
 「エーレ、テレビ観てるようで観てないもんな」
 「うん、なんか画面の中が動いてれば内容なんかなんでもいい」
 
 二人は笑った。エーレは「今回」はどうだったのかと聞いたがそれはすなわち、ケインがしばらく部屋を留守にした後こうして久しぶりに顔を合わせる、という一連の出来事が、この時が初めてでは無いという意味だった。
 
 
 ケインは物語を書く事を生業なりわいとしていた。これまでにも幾つもの作品を作り世に送り出してきたが、その度に「情報収集」という名目で世界各国へ旅をし、その地に長い時で何カ月も滞在してはそこで得た刺激を作品に反映させた。つまりケインの作品は作品ごとにモデルとなる都市が違うばかりか、実際その地の空気を吸いながらその中で書かれる為、読む者は皆まさしく物語の中に入り込む様な感覚に襲われた。
 
 ある時は水に浮かぶ街で夜な夜なダンスの練習をするピエロに出会った少女が、その後彼が大きなサーカスの舞台で堂々と踊る姿を見て感動を覚えた。
 
 ある時はとある男が優雅なカフェで開かれたパーティーに潜入し、燕尾服に身を包んだ何十人もの紳士淑女の間を擦り抜け、菓子職人が運んできた巨大なチョコレートケーキに仕掛けられた爆弾を解除して皆の英雄になったりもした。
 
 ある時は極平凡な男女の生活を描き、大きな出来事の無い平淡に見える人生の中にも浪漫と物語があるという事を書き上げた。
 
 ある時はとある少女が文化も言葉も違う異国の地に身を置き、単身奮闘する健気な日々を描いた。
 
 こうして様々な作品を作る度にケインはエーレと住むこの部屋を留守にしていたから、ほとんどこの部屋はエーレの部屋同然で、ケインはルームメイトというよりもほとんど居候いそうろう同然だった。
 
 
 「小さい島国なんだけどなんかすごい良い所で、南国みたいな所で、海も綺麗だし、あと人もなんか陽気な感じだし」
 「へー」
 
 エーレのこの簡素な返事は常で、ケインの話に関心が無いというわけでもなかった。むしろ変に前のめりになって話を求めて来ないエーレの性格がケインにとっては楽だった。
 
 「で、どんな話にすんの?え、っていうかもう出来てんだっけ?」
 「うん、もうほとんど向こうで書いて来たよ。あとは一応ちょっと手直しというか、まだ完成ではないんだけど、厳密に言うと」
 
 そこでケインは一口ビールを飲んで続けた。
 
 「けっこうねぇ、良い話よ。これ多分毎回言ってると思うんだけど、今回が史上最高傑作だと思う、自分史上」
 
 エーレは視線をテレビに向けたままで軽くふっと笑った。
 
 「女の人が主人公なんだけど、この人がねぇ、お菓子の職人なのよ」
 「また?」
 「違う、前のやつは爆弾が仕込まれてたケーキを作った職人で、あれはだって別に主人公じゃないから」
 「そっか」
 「で、そのパティシエが物凄く明るくて、なんて言うの物怖じしないような、あんまり勉強が得意なわけじゃないんだけど、頭は切れるし愛想がよくて、純真無垢、というか天真爛漫で、もう太陽みたいな、人なんだけど、その子が、全くモテないっていう話」
 「なにそれ」
 
 エーレはここでようやくテレビから視線をケインの方に移して笑った。
 
 「普通さ、普通に考えたら素敵な人やん、そんな太陽みたいな。なのにモテない。それが何故かって言うと、その子がもう眩し過ぎて町の人から避けられちゃうのよ。この子は物凄く素直で人間らしくて生きてるんだけど、周りの人達がもう人間味も希望も無くなっちゃってるから、要は浮いちゃってるって言う、設定」
 「あー、なんかあれでしょ、ケインがいつも言ってる、人間味失った世の中がまとまなわけないみたいな話でしょ」
 「それ、さすが」
 
 そこで一度会話は途切れた。各々に酒を口に含み、つまみへ手を伸ばした。
 
 「え、あれはやってたの?ラジオみたいな」
 「やってたよ、その国から」
 「この町の為だけに?」
 「なに笑ってんの、むっちゃ馬鹿にしてるやん。この町の為だけの放送だから良いんじゃん、相手が分かってて」
 「なるほどな」
 
 ケインは本を書く作家であるとともに、この町に流れるラジオのパーソナリティでもあった。ホエールラジオと名付けられたこの放送は、この町の住人にのみ向けられている地域密着型でありながら、ケイン自身が世界中を飛び回っている都合で色々な国の話を聞けるという特徴もあり住人からは人気が高かった。
 
 
 
 「でエーレの方は、最近どうなの」
 「え、まぁ別に普通」
 「なんか後継ぎがどうとか言ってなかったっけ」
 「ああ、多分向こうはそのつもりでいるよ」
 
 エーレはこの町最古であり、かつ国内最古でもあるパン屋“サンタ・バレーナ”でパン職人として働いていた。この町が通称“パンの町”と呼ばれるのも、サンタ・バレーナの存在が由来していた。エーレは元々十六歳になったばかりの頃に一度この町を出て外の世界でパンの修行をしていた。外の世界と言っても国境を越えたわけではなく、電車を使って二時間ほど離れたくらいの大きな街だったが、それでも十六歳の少年が親元を離れるには十分立派な距離だった。それから五年程経った後、エーレが地元に戻って来るとその時を今か今かと待ち侘びていたサンタ・バレーナの親方が「是非うちで働かないか」とエーレに熱烈な直談判をし、それ以来エーレはサンタ・バレーナで働くことになった。それから何年と経ったある日、エーレは親方から「是非、この店の後継ぎになってほしい」という思い掛けない要望を受けた。普段大体の事は余り深く考えずに生きているエーレもこの時はさすがに二つ返事とはいかなかった。一先ひとまず親方の言い分を聞いて、それから自分の中で熟考してみるという話でその時は片付けたが、それから早くも四カ月が経とうとしている今、エーレの中ではいまだ腹が決まっていなかった。
 
 「親方夫婦に子供いないんだっけ」
 「そう、で親方ももう年だからさぁ。しかも向こうの言い分としては、なんか俺以上にパンに真摯に向き合える奴はきっとどこにもいないから、みたいな感じでさあ」
 「べた褒めやん。なるほどなー、むずいなー。断るって言ってもな、世話になったとかもあるだろうし、何よりこの町の看板とも言えるパン屋の消滅の危機ってのがまずいよな」
 「そうなんだよなー、まじで。なんかしかも俺一人だったらまだ何とでも出来るけどさ、例えば断ったとして手のひら返されるようなことがあれば別に他の店行くだけだしさ。ただ彼女とか結婚とかもあるからさぁ」
 「まぁ簡単にはいかないよなぁ」
 
 エーレが顔をしかめているのを見ながらケインは「大変そうだなー」と一つ呟いた。結婚の二文字からは比較的遠い所にいるケインは、一人でいる自分の身の軽さを改めて思い知った。
 
 「え、ていうか彼女には相談してないの」
 「いやしたよ、もう結構前に。彼女はねぇ、なんだっけな、なんかこの町の看板背負うんだから良いじゃんみたいな、良い話じゃんみたいな感じで結構、前向きだった」
 「そりゃそうだよ、だってもうとっくにもう世界的に有名なパン屋を継ぐって言う話でしょ、そりゃだって、よっぽどな事が無いかぎり食いっぱぐれるって事は無いだろうし、彼女からしたら鼻高いんじゃない、彼氏がそんな凄い職に就いてたら」
 「まあなー、でも、要は社長になるみたいな事でしょ?いける?俺だぜ?」
 
 エーレは自嘲して顔と手に持っていた缶を少しくしゃっとした。
 
 「それは、いけんじゃない、知らんけど。そんなんだってなってみないと分からない事なんか山ほどあるだろうし」
 「そりゃそうだけどさぁ。だってなんかさ、絶対忙しくなんじゃん」
 「まあ絶対忙しくなるよな」
 ケインは他人事の様に大きく笑った。
 
 「忙しくなっちゃったらさぁ、テレビ観る時間ねぇじゃん」
 「どんだけテレビ好きなんだよ」
 
 ケインの大笑いにつられるように小さく笑ったエーレの表情の奥には、満更冗談でもないという気持ちが見え隠れしていた。
 
 
 エーレは実際テレビに限らず一人の時間が好きだった。従業員として働く今は仕事が終われば家に帰ってその時間を楽しめる。もちろん結婚を考える彼女がいる以上自由なばかりではないが、それでもテレビを観たり趣味の油絵を描く時間が僅かでも取れればその時間は何より気楽だった。仮に店を継ぐ事になればなかなかそういう時間が取れなくなるんじゃないかという不安が、エーレの決断を遅らせる理由の一つだった。「彼女との結婚」を理由として挙げたエーレの心境は、結婚する上に社長になるともなればいよいよ自分の時間が失われると思ったからだった。
 
 
 
 「まぁそんな話を聞いといて、しかも久しぶりに帰って来ていきなり言うのもなんなんだけどさ」
 
 しばらくどちらも喋らない時間があった後、ケインが意味深な前置きと共に話を切り出した。
 
 「そんな忙しい日々が嫌いなエーレにこんな事言うのもなんなんだけどさ、ちょっとさ、今ちょっと面白いこと考えてるんだけど、一緒に出来ないかなと思って」
 「何?何すんの」
 「花火を、上げる」
 「どこに」
 「この町に」
 「なんで」
 「おもしろそうだから」
 
 エーレはそこで一度「ふっ」と笑いを零した。
 
 「いつ?来年の夏とか?」
 「いや、今年のクリスマス」
 「もうすぐじゃん」
 「そう」
 「協力って何、何すんの」
 「なんか設営とか?わかんないけど。あとエーレ絵描くじゃん、油絵。それでなんか、盛り上げてよ」
 「何それ」
 
 エーレは吹き出すように笑った。
 
 「そもそも一週間じゃ描けねえから」
 「テレビ観なきゃいけないもんな」
 「うん、あと普通に仕事もあるし。言っとっけどクリスマス前のパン屋むちゃくちゃ忙しいからな」
 「まあでも油絵はなんか思い付きで言っただけだけど、なんか二人で何かをしたいなと思って」
 「確かにまあ絶対面白いもんな」
 「絶対面白い」
 「いいよじゃあやろ、指示出してくれれば、手伝うわ」
 「うわー流石、ありがとう、急なお願いやったのに」
 「良いよ別に、どうせ暇だし。どうせテレビ観てるだけだし」
 「確かにな」
 
 すっかり顔が赤く染まるほどお酒が入っていた二人の胸の内に、この瞬間確かに赤く燃える炎が生まれた。ケインはただただ楽しそうだと炎を踊らせていた。エーレも本当はケインの口から「花火を上げる」という言葉を聞いた時に、既に胸の中に生まれた火種の存在を認めていた。二人はこの日生まれた約束を、決意を、希望を讃え、改めて手に持っているお酒の缶を掲げ景気付けの乾杯をするような好青年ではなかったから、既に話題は移り変わり、下らない話であはあはと笑っていた。
 

 
 パン屋の朝は早い。しかしその分、昼頃になれば仕事は終わった。ケインと再会し飲み会をした日から二日後の月曜日、エーレは普段よりも二時間の残業をした後、午後三時になって部屋に帰って来た。部屋の中ではケインがパソコンに向かって作業をしていた。
 
 「たっだいまー」
 
 ケインは「おかえり」と言う代わりに、真剣な顔でパソコンの画面に目を向けたまま左手でピースを作ってエーレの方へ突き出した。エーレは特に何の反応も示さず、着ていたコートを脱いでハンガーへ掛けた。
 
 「そう言えばこの間の話って誰にも言わない方が良い?」
 
 エーレが今度はシャツを脱ぎながらケインに聞いた。
 
 「花火の話?」
 「そう」
 「なんで?」
 「いや、今日働きながら思ったんだけどさ、出店みたいな感じでうちのパン屋出すのどう?花火上げる日に」
 
 ケインはキーボードを叩く手を止め顔を上げると、左手で口元をさすりながら「なるほどな」と言った。
 
 「まあただ思っただけだから別にどっちでもいいけど」
 「いや、めっちゃ良い。けど、一応サプライズ的に、事前に誰にも言わずに急に花火が上がる、みたいな感じにしたいと思ってたんだよなー。そこに出店があるとどうなんだろ」
 「いやでも別にどっちでもいいよ。ただの思い付きだし」
 「いや、せっかくの町の看板だから確かに絡めたいかもな」
 
 ケインはまだ口元を触りながら、真面目な顔でエーレの方を真っ直ぐ見ながら言った。これはエーレをじっと見ているわけではなく、頭の中でコンピューターのように情報を大急ぎで処理している時の顔だということをエーレは知っていた。
 
 「まあ、店出してもらうか。そんでステージとかも建てて何かしらのイベントがある感じくらいは出しても良いか」
 「って言うかイベントがあるっぽい感じは出した方が良いんじゃん?クリスマスなんか基本家族の日なんだから皆家の中にいて急に花火の音だけしても誰も外出てまで見なくね?」
 「本当やな、危ね。え、じゃあ頼むわ、親方に話してみて」
 「おう、じゃあ明日聞いてみるわ」
 「ただ親方には、誰にも言うなよって釘刺しといて」
 「分かった言っとく」
 
 すっかりパンツ姿になったエーレはその件だけ済むとシャワー室に入った。仕事から帰って来て直ぐにシャワーを浴びるのはエーレのルーティンだった。
 
 
 二人で暮らすには狭い部屋に、ただでさ留守にする事の多いケインの作業机は堂々と鎮座していた。その代わりにベッド権はエーレが持っている為、ケインはフローリングの床に煎餅布団を敷いて寝ていた。煎餅布団である必要などないのであるが、「なるべく収納がかさばらない物」という観点で薄い布団を選んだのはケイン自身であった。
 
 シャワーを済ませたエーレは部屋着に身を包みベッドの上に座ると、作業しているケインの背中を前にドライヤーで髪を乾かし始めた。ケインはまるで気にする素振りも見せずパソコンに向かっていた。その背中を見詰めながら、物語の推敲をしているのだろうか、花火を上げる為に必要な情報を調べているのだろうか、と考えるような事などわざわざしないエーレは、ドライヤーの風で前髪を浮かせて遊んでいた。部屋に響き渡っていたドライヤーの音がやむと、ケインはエーレのいる後ろを振り返った。
 
 「職場からパン持って帰って来た?」
 「持って来たよ、食う?あ、ハムとかチーズとか無いかも」
 「いいよ別にバターがあれば」
 
 エーレはベッドから立ち上がると、まず通勤用のリュックの中からセモリナ粉で作られた食事パンを取り出し、それから冷蔵庫の前へ行き扉を開け、中からバターを取り出しそれらを抱えて戻って来た。ズボラなエーレが柄にもなくバターをバターケースに入れて保管しているのは、ケインが何処かの国へ行った時にお土産に買ってきたからだった。
 
 エーレはベッドからテレビの前のテーブルの方に移動した。パンやバターをテーブルの上に置いて、自分は座布団を敷いて腰を下ろした。職場のスライサーで既に切られたパンを皿の上に並べた所で、一先ずテレビの電源を入れた。ちょうどニュース番組の天気予報が流れた。
 
 「うわ、雪降んじゃん」
 「いつ?」
 「二十四日」
 「前日かー」
 「本当だ、花火の当日だったらめちゃくちゃいかしてたのにな、花火と雪のコラボレーションみたいな」
 「な」
 
 ケインは椅子の上から身を乗り出して、低いテーブルの上のパンを一枚取って齧った。
 
 「バター要らないの?」
 「とりあえずね」
 「あれ、っていうかもう三時過ぎてるけど、ラジオ喋んなくていいの?」
 「今日月曜日だから。俺が喋んのは火、木、土」
 「ああ、明日か。え、じゃあそこで早速イベントやるっぽい雰囲気出しとけば?」
 「確かに。クリスマスになんかしようと思ってるんで来てください的なね」
 
 あっという間に一枚目のパンを食べたケインは二枚目に手を伸ばし、今度はバターナイフでバターをすくってパンに塗った。
 
 「卵でも焼く?」
 「いいよ俺は全然。バターとパンで」
 「本当に?じゃあ俺自分の分だけ焼こ」
 「うん」
 
 エーレは立ち上がり、冷蔵庫から卵を二個取り出してキッチンの方へ行くと、フライパンを火にかけた。フライパンに熱が伝わるまでの時間は妙に長く退屈に感じるエーレは、殻が割れるか割れないかくらいのぎりぎりの力加減を狙って卵を壁にかんかんと打ち付けていた。
 
 「そう言えばさ、え、明日の今くらいの時間ってラジオの本番って事でしょ」
 
 エーレの声がキッチンの方からかんかんという音と共に薄っすら聞こえる。
 
 「なんて?」
 
 ケインは声量の手本でも示すような声の大きさで聞き返した。すると卵がフライパンに落とされたジューという音が聞こえた直後に、ちょっとした間地切り代わりのカーテンの間からエーレが顔を出した。
 
 「明日のラジオ、この時間って本番で喋ってる最中でしょ」
 「うん、そう」
 「俺居たら邪魔じゃね?」
 「あ、いや、この町にいる時はちゃんと役所のスタジオに行くよ」
 「あそうなの」
 「うん、旅行に行ってる時だけだよ、パソコン使ってやんの」
 「あじゃあ俺別に普通に帰って来て良いのか。え、火、木、土だっけ?」
 「そう、火、木、土は、エーレが帰ってきた時、俺いない、ごめんやけど。寂しい思いさせちゃうと思うけど」
 「いや、むしろ部屋広くなるし、なんか変な気とか遣わなくて済むから全然本当、気にしないで」
 
 カーテンの間から出した真顔でそれだけ言い残すと、エーレは卵の方へ戻って行った。言い残されたケインは椅子の背もたれにのけ反るように笑った。
 
 
 

 『...実は今ですねえ、まぁまだちょっと内容までは言えないんですけど、ちょっとこの、町の皆さんを笑顔に出来るような、こう、夢のある事っていうのをですね、計画していまして、あのー町の広場で、はい。で、その日にちが一応十二月二十五日、クリスマスの日、を予定しています。まぁクリスマスなので皆さん、もうすでに予定があるよとか、ご家族で過ごす方が多いんじゃないかな、とは思うんですけど、はい。まあその日になったら、クリスマスになったら、皆さんわかると思いますので、あーこれの事かーってなると思いますので、是非、まあ頭の片隅にでも、覚えておいて楽しみにしてくれたらなと思います』
 
 普段聞き慣れている声もラジオを通して聞くとなんともむず痒かった。ケインの喋るホエールズラジオをこの日エーレが初めて聞いたのは、花火の話をどの程度にごして喋るのかを確認したかったからだった。それだけ確認出来たエーレはラジオを止めこそしなかったものの、それ以上耳を傾ける事無くまた自分の手元の筆に集中した。
 
 
 「ただいまー」
 
 夜の七時頃になってケインが帰って来た。「ういー」と言って迎えたエーレはお酒を飲みながらテレビを観ていた。ケインは部屋に入って来るなり自分の作業机に着いてパソコンを立ち上げ、起動に掛かる時間を使ってコートを脱ぎトイレを済ませた。
 
 「ケイン、思ってるより喋ってたな」
 
 トイレから出て来たケインにエーレはにやにやしながら聞いた。
 
 「なに、あ、花火のこと?」
 「そう、クリスマスに広場でやるとか言ったら、なんかもう、バレんじゃねぇかなとか思って聞いてた」
 「さすがに大丈夫だろ、それだけで花火って想像つく?」
 「ま花火とは思わないかもしれんけど、なんか俺が想像してた以上に、イベント感出してたから」
 
 エーレは堪えきれない様子で笑いながら喋った。
 
 「最初、完全サプライズでとか言ってたくせにな」
 
 ケインは笑い飛ばすように言うとキッチンの方へ行き、コーヒーメーカーに粉と水を入れてスイッチを押してまた戻って来た。
 
 「今からなんかやんの?」
 「うん、本の推敲」
 「今仕事終わって帰って来たばっかりじゃないの」
 「あれはだって、適当に喋ってるだけだから。こっからが大事なんだから」
 「え、っていうか花火の準備は進んでんの?」
 「一応進んでるよ。そっちは役所とか花火職人とかも関わって来るから朝から昼過ぎくらいまで動いてて、で、午後になって喋って、で今から本」
 「いや、忙し過ぎだろ」
 「本当にね、テレビとか観てる時間無いもん」
 「もともと観ねぇだろ」
 
 ケインは、はははと声を出して笑った。
 
 「まあなんか昔から暇が嫌いなんだったっけ?なんか、隣町まで歩いて行った事あるとか言ってたよね昔、わざわざ、一時間もかけて」
 「いやあれは冒険やったから。暇過ぎてとかじゃないそれ自体が目的だったから」
 「であれでしょ、帰り同じ道また一時間掛けて帰るのがだる過ぎたんでしょ」
 「本当に。行きはめちゃくちゃ元気だったのに帰りも一時間歩かなきゃいけないとか地獄だったから」
 「めっちゃうける。普通出発する前に予想出来るだろ帰りのしんどさ」
 「いやもうあの時は行きの冒険の事しか考えてなかったから。帰り道の事まで考えてなかったから、やっぱまだ十五歳で若かったから」
 
 二人の会話は昔話の方へ一度逸れた。ケインがエーレと出会ったのは隣町迄の冒険をした十五歳よりも後の事だったから、エーレはこの話をケインの口から聞いただけに過ぎなかったが、何かにつけてこの話を引き合いに出すほどエーレは気に入っていた。
 
 「いや、っていうか親方に聞いた?クリスマスの出店の事」
 「そう、それ、めちゃくちゃ喜んでた」
 「あ、マジ?良かったー」
 「そう、なんか、俺のお願いだったら何でも聞くとか言ってた」
 「もう後継げよ」
 
 エーレはひひひと苦笑いをした。コーヒーの香りが漂ってくる。コーヒーメーカーもコポコポと終了間際の音を立てている。
 
 「エーレも飲む?」
 「いやそろそろ俺寝るよ」
 「その横で作業してても平気?」
 「いいよ別に、アイマスクあるし」
 「あ、電気は消すよ。テーブルランプの方点けてやるわ」
 
 エーレは残りの缶の中身を一気に飲み干すと勢いよく立ち上がって大きく一つ伸びをした。
 
 「そう言えば明日仕事終わりに彼女と会って来るから帰り遅くなるわ」
 「オッケー、確かに俺が来てから多分会ってないもんな、ごめんな」
 「いや全然、なんか向こうは向こうで忙しいっぽいし」
 「何やってる人?」
 「隣町の学校の先生」
 「めっちゃかっこいいやん」
 「別に普通だろ」
 
 たった三十秒程度歯を磨いて洗面所から出て来たエーレは、そのままベッドに入り込んでうつ伏せのまま読み掛けの本を開いた。世界中の有名な画家の作品が収められた画集を、どれが誰の作品なのかなどまるで無関心に、エーレはただそのいろどりを眺めていた。「好きな事」と言うからには、その歴史や技法や様々な事柄に精通していて豊富な知識を蓄えていなければまがい物だと斬り捨てられてしまう世の風潮もどこ吹く風、エーレはただ自分の手で絵を描き上げる行為が好きなだけだったから、世界で最も有名な絵画とうたわれる女性の微笑も、花瓶に生けられた十二本のひまわりの絵も、見た事はあってもそれを描いた画家の名前までは知らなかった。それをケインから「さすがに知らなさ過ぎるだろ」と指摘され、春先の誕生日にプレゼントとして貰った画集を開いたまま、気が付けばエーレはアイマスクを付けずとも眠りに落ちていた。
 
 

 
 花火職人から花火の準備が出来たとケインに連絡があったのは、クリスマスまであと二日と迫った金曜日の事だった。花火についてケインは、エーレを誘うよりも何週間も前から職人と話を進めていたのだが、「この時期に花火の注文が入るなんて事は滅多に無いからそんなに焦る事はないよ」と職人から笑われていた。能動的な様で極度の心配症でもあるケインは、二日前に届いた完成の連絡にようやく胸を撫で下ろした。準備は順調に進んでいた。ホエールズラジオの放送の為に役所へ出向く時には、ついでに花火についての相談も担当局と重ねていた。こちらも前々から連絡を取っていたが、これまで直接出向く事が仕事の都合上出来ていなかったから改めて本番前の最終確認をした。元々サプライズに打ち上げようとしていたケインは役所が示してくれていた全面協力の姿勢をずっと持て余していたのだが、ここへきて方向転換を決断した事によってステージ設備が必要になったと役所に伝えると、設営を快く請け負ってくれることになった。ケインは簡易的なステージと二台のスポットライト、それからスタンドマイクと音響設備の準備をお願いした。それからこの日の前日にはケイン自身もサンタ・バレーナへ直接出向き、改めて出店の件について直接挨拶をした。親方はもちろんと腕を組み、店の看板であるトマトとオリーブのフォカッチャ、それからクリスマスだからと普段販売しているものよりも少し手頃なサイズのパンドーロも用意するよと意気込んでくれた。ケインは感謝を伝えると共に、仕事に追われるエーレを想像してにやっと笑った。
 
 
 部屋に戻って来たケインは、二日後に迫った当日までに残された作業を確認していた。役所も花火職人も動いてくれるなら自分に残された作業はほとんど無いに等しかったが、それでも何か見落としている様な気がしてしまうケインは人からよく完璧主義者だと言われる事があったが、ケインからすればこれはただの心配症で本人は厄介がっていた。
 
 そこにエーレが仕事から帰って来た。時刻は夕方四時。案の定仕事に追われていたんだろうと思ったケインがエーレの方を向くと、左の脇に白い板状の物が抱えられていた。ただいまを待つよりも、おかえりを言うよりも先に「何それ」の一言がケインの口を突いた。エーレはコートも脱がずカーテンをくぐると、その白い板をケインの方に向けた。それは花火の絵が描かれた白いキャンバスだった。
 
 「え、まじ?」
 「こんなんで良い?」
 「え、いやむちゃくちゃかっこいいけど、いや、まじで描いたの?」
 「なんか、いけたわ」
 
 ケインは驚きが少しずつ興奮に変わっていくのを自覚しないまま、椅子から立ち上がりエーレの方に向き直って続けた。
 
 「えちょっと待って、いつ?いつ描いてたの?」
 「え、いやなんか、仕事の後とか」
 「どこで」
 「え、職場」
 「まじ?だって道具とかは?」
 「職場に置いてある」
 
 実はエーレは花火の話を持ち掛けられた先日の土曜日、「面白そうだ」という単純な理由だけで花火を上げようと動くケインに見事に触発されていた。「油絵を描いて」と言われた時には無理だと断ったエーレも、触発され自分の中で考えた末に挑戦してみようと考えが変わっていた。しかし一度断った手前、ケインに触発されてやっぱり描いてみる事にしたとバレるのが、仲が良いだけに恥ずかしく、その結果月曜日の深夜、出勤の際に眠っているケインの横で仕事着以外に画材も荷物に詰め職場へ行くと、仕事が終わった後に店の敷地の一部を借りて毎日絵の製作にあたっていた。
 
 特にケインがラジオ放送へ行く日は、ケイン自身も帰りが遅いため怪しまれる心配もせず、普段よりも長い時間作業に集中出来た。またそれでも完成まで時間が無いと焦ったエーレは「彼女に会う」という口実で絵を描いた。そうしてこの金曜日に何とか完成まで漕ぎつけた絵は、星空に打ち上げられた花火とそれを見詰める二人の人影が手前に描かれていた。
 
 「めちゃくちゃかっこいいやん。え、、、どうする?」
 「何、どうするって何?」
 「もうー、ステージに飾る?額に入れて」
 「これを?」
 「そう。なんかステージは建てて貰うから、そこの真ん中にエーレの絵を置いといて、なんか布とか掛けて。で、花火が上がり切ったあとに、スポットライトでステージの上の絵を照らしたら、布が外れてお披露目ー、みたいな」
 「だから何?ってならん?」
 
 ステージ上に絵を飾ると聞いて、そもそも無かった自信がいよいよ底をついてエーレは自嘲した。
 
 「でもなんか、、、じゃあ登壇して説明する?それの方が寒くない?」
 「いやそうだけどさ。イベントのポスターとかじゃ駄目なの?」
 「それじゃ花火が上がるの丸わかりやん」
 「そっか」
 「いいやん、花火が全部打ち上がりましたー、ってなったタイミングで、それまで灯りの点いてなかったステージにパッてスポットライトが、二方向からあたりますー、その光の先に布の掛かった絵があって、音楽に合わせてその布がゆっくり上がっていって、謎の絵画お披露目ー、みたいな」
 「いや面白そうだけど誰が得すんの」
 「俺らが面白い」
 
 エーレの気持ちはまだ揺れていたが、ケインの言い放った「俺たちが面白いから良い」という言葉に、また太刀打ち出来ないような気がした。話が落ち着いたタイミングで二人はもう一度エーレの描いた花火の絵を眺めた。ケインは隅々まで観察しながら、ここはどうやって描いたんだとかこの色合いが絶妙だとか言って細かい点まで嬉しそうに褒めていた。一方エーレは、描き上げた時こそ達成感も相俟あいまって自分史上最高傑作が出来た気でいたが、ステージに飾る案を受けてから改めて見ると、まだ手の施しようがあったような気がしてならなかった。感覚的には未完成品をステージに上げるのと同じようになってしまうわけだが、かと言って本番は明後日に迫っていてとても描き直すには無理があったから覚悟を決めるしかなかった。
 
 
 「それはそうとパン屋の準備はどんな感じなの?」
 「進んでると思う。少なくともパン自体は全然大丈夫、間に合う、このまま何も無ければ」
 「販売の小屋はいつ建てる感じ?俺も一応こっちでやりますよって言ったんだけど、親方はいやいや自分でやりますって言ってたから」
 「あーなんか当日の昼くらいから建てるって言ってた。親方がトラックで広場までその、建材?運んできて、皆で建てるっぽい」
 「当日で間に合うんやな。なんかもっと早くから準備しないといけないのかと思ってた」
 「いけるっぽいよ、知らんけど」
 「もう明後日本番か。楽しみだな」
 「ああ、まあ」
 
 跳ねるように喋るケインと沈むように返事をしたエーレの声は正反対の気持ちを表しているように見えるが、エーレのこの返事の裏に潜むわくわくをケインは当然察知していた。
 
 ケインの目は力強かったが、エーレには、果たしてケインが何にこれほどの労力を費やしているんだか理解出来そうで出来なかった。
 
 
 
 

 
 『クリスマスまであと一日と、いう所ですけど、なんか今日の夕方には初雪が降るなんていう話も、あるみたいですけど、三年振りですか、びっくりしましたね』
 
 花火を打ち上げるクリスマスの前日、ケインがホエールズラジオでそんな事を喋ってから二時間と経たない内にこの町に三年ぶりに雪が降った。収録を終えて役所からの帰り道を歩いているケインの小脇には額縁と木製のイーゼルが抱えられている。ラジオの収録前、ケインは画材屋へ出向いてエーレの絵を飾る為にそれらを買い揃えていた。雪の下を抱えて歩くには少々邪魔だったが、調達出来るタイミングがここしか無かったからと朝の時点からこうなる事は覚悟が出来ていた。
 
 辺りはすっかり暗い。街灯のオレンジが点々と続いている道を歩いているケインが細い路地を過ぎようとした時、その路地の暗がりに人影が立っているのを見付けて思わず驚いた。
 
 「びっくりした、そんなところに人がいるなんて思わなかったから」
 
 ケインの言葉に返って来る言葉は無かった。ケインは暗がりに目を凝らす。どうも十五、六歳くらいの少年らしかった。少年はじっとケインの方を見て動かない。ケインはその不気味さを払拭したいがあまり、思わず必要の無い会話を始めてしまった。
 
 「そ、そこでなにしてんの?」
 「別に」
 「あ、そう。暗くね?そこ。灯りのある方歩いたら?」
 「たまたまこの道に出ただけだから」
 「ああ、まあめちゃくちゃ入り組んでるもんな」
 
 少年は必要最低限の受け答えこそしたが、依然として動かずにケインの方をじっと見ている。蛇に睨まれた蛙でもないが、ケインはなんとなく少年を無視して歩みを進める事さえはばかられる様な気持ちになっていた。
 
 「え、いくつ?そんな、え、まだ若いでしょ?」
 「十六」
 「そう、親が心配するから、あんまり暗くならない内に帰りな?家はこの辺?」
 「隣町」
 「え?」
 
 ケインは驚いて持っていた額を落としそうになった。
 
 「隣町?遠くから来たね。え、まさか歩き?」
 「歩いて来た」
 「まじ」
 
 ケインはまた驚いて今度は思わず笑った。そして笑った拍子に自分が昔隣町まで歩いて行った時の苦い思い出が蘇った。
 
 「いや大変。帰れる?なにって俺も昔、いや本当ちょうど君くらいの年齢の時に隣町まで歩いて行った事あったんだけどさ、冒険とか言って。帰り道がとにかく辛くて」
 「そうなの?」
 「行く時はさ、冒険って言う目的があったから元気いっぱいだったんだけど、帰りってもうさ、作業じゃん」
 
 ケインは自分で話しながら当時の自分の落胆ぶりを思い出して笑いが込み上げて来た。
 
 「え、君は?何しに来たの、わざわざ」
 「まあ、別になんか、雪が降るって聞いたから」
 「雪を見に来たって事?」
 「まあ」
 「なるほどな、じゃあ要するに冒険って事だな、ジャンルで言えば」
 
 少年はここで初めてケインから視線を少し下の方へ逸らした。暗がりの中にありながらその表情が何処か寂し気に思えたケインは、過去の自分に似たような行動に親近感が湧いたのもあって良い事を思い付いた。
 
 「まあこうやって出会ったのも何かの縁だからさ、で、折角隣町からねえ、はるばる来たんだから、そんな君に良い事教えてあげる」
 
 少年の視線がまたケインの顔に向く。
 
 「明日のクリスマス、この町で花火が上がるから」
 
 少年の目は静かに丸く開いた。
 
 「これこの町でまだ誰も知らない話だから。君がね、こう折角会ったから、何かの縁だし教えるけど。そう、花火が上がるんだよ。だからもし、ね、むっちゃ大変だとは思うけど、もし見たいなと思ったら、明日もここまで歩いて来たら、花火が上がるから、あのこっから見て教会の方、あの向こう側から」
 
 ケインはそう言いながら、連日この町と隣町とを往復する大変さを想像して笑いが堪え切れなかったが、笑ってる途中で「あ、でも明日ならほら、親を誘って来れば、車とかでもう少し楽に来れるかも」と補足してまた笑った。少年に依然動きは無かったが、ケインには心なしか真剣に話を聞いている様子は伺えた。
 
 「ちなみにだけど、誰にも行っちゃ駄目だよ、これは秘密の花火だから。まあ親を誘う場合はもちろん良いけど、その、なんか、町中に言いふらすみたいなのは、たとえ隣町でも無しね。ただまあ、」
 
 そこで一度ケインは鼻で深く息を吸って、斜め上を見上げながら何かをじっくりと考えるような素振りを見せて、それからこう続けた。
 
 「ただまあ、秘密って言われるとね、喋りたくなっちゃうっていう気持ちはやっぱ俺も分かるから。だから、どーうしても、誰かに喋りたい場合は、君が本っ当ーに、心から大切に思える人、一人だけ、には、教えてあげて良いよ。もう本当に大切とか、本当に好きとか、だから愛だね、愛。君が愛と聞いて思い浮かぶ一人だけに、教えてあげて。愛が家族なら家族、愛が友達なら友達、一人。わかった?」
 
 少年はうんともすんとも答えなかった。答えなかったがケインは、唐突に出会って始まった会話において十分に役目を果たしちょうどきりが良いような気がして、ようやく彼の前から離れても良いような気持になった。最後に「じゃあ、良いクリスマスを。気を付けて帰れよ」とだけ挨拶をすると、オレンジの街灯が続く道をようやく再び歩き出した。少し長く立ち話をし過ぎた、とケインが思ったのは、手がひどく冷たくなっているのに気が付いた時だった。特に額縁を抱えた左手は、上着のポケットにも突っ込めず夜風にさらされていたために殆ど感覚が無い。
 
 ガシャン。とうとう抱えていた額縁も滑り落してしまった。ケインは慌てて拾い上げる。ただでさえ抱えて歩くには大き過ぎると言うのに手までこうかじかんでしまっては弱音さえ漏らしてしまいそうだった。とりあえず額縁に傷がついてしまっていない事を祈りながら、ケインは足取りを早めてオレンジの街灯の連なりに沿って家を目指した。
 
 
 
 「ただいまー」
 
 玄関先からケインの疲れた声が聞こえて、エーレは「おかえり」と返した。玄関先で何やら大きい物をがちゃがちゃする音がエーレにも聞こえたから、なかなか部屋に入って来ないケインの元へエーレの方から、冷蔵庫の中のお酒を取りに行くついでに出向いた。
 
 「え、額縁じゃん。どうしたの」
 「買った、しかないやん」
 「わり、俺全然そんな事考えてなかったわ、ありがと。でも、イーゼルは持ってるよ。それで描いてたし」
 「先に言えよ」
 
 ケインの疲労困憊の声にエーレは笑いながら返した。
 
 
 
 「ちょっとバスタオル取ってー」
 
 テレビを観ていたエーレはちょうどCMに入った所に聞こえて来たケインの声に「あいよ」と答えて、干してあったバスタオルを浴室から伸びた手に投げた。ケインは腕に上手く引っ掛かったバスタオルで頭をごしごしと拭きながら浴室から出てくると、その足で冷蔵庫からビールを取り出しテレビを観ているエーレの横に座った。
 
 「いよいよ明日だな」
 
 ケインは封を開けたビールをエーレの前へ突き出して乾杯を促した。
 
 「おう、明日。え、っていうか俺結局なんも手伝ってなくない」
 
 さっき飲み干した酒の空き缶を持ち上げてエーレは笑いながら答えた。
 
 「絵描いたじゃん」
 「いやあれは別に手伝いじゃないやん」
 「あとサンタ・バレーナの親方にパン屋出店の話持ち掛けてくれたし」
 「あー、まあそうか。え、当日ってさ、どうなんの?絵をステージに飾るじゃん、なんか掛かってた布が取れて発表みたいな感じじゃん、え、俺って出るんだっけ?」
 「ステージに?上がりたい?」
 「いや上がりたいって言うか、前も話したけどなんかやっぱ絵だけあんのもおかしくね?誰のってなんじゃん絶対」
 「いいやん、作者不明ってかっこよくね?なんかそういうアーティストいなかったっけ、正体不明で落書きで注目浴びた人」
 「え、ケイン的にはなんかあんの?絵をステージで発表する時どんな感じでするみたいなの」
 「自分としては、やっぱ前言ったみたいに無人のステージに絵があるだけの方がかっこいいような気がすんだよなー。何々?ってなんじゃん絶対、誰が描いたの?とか何が起こんの?とか、そういう、集まった人達がそうなってるのを、どっか上の方から二人で見てるって言うのが一番楽しそう」
 「なるほどな」
 
 エーレは少し吹き出して、既に飲み干している事も忘れて空の缶を一度ズズッと啜った。
 
 「そもそもこの花火上げるのだって誰にも言ってなくて、町の人からしたら急に花火が上がるっていう状態なんだから。まあ一応花火が上がる直前に挨拶はするけどな」
 「あそうなん、ケインはステージ上がるってこと?」
 「いや、ステージには上がらない」
 「でも挨拶すんでしょ」
 「する。声だけで」
 「どういうこと?」
 「ほら、やっぱり俺はラジオの人やから。姿なんか無くていいのよ。だから、ステージの上にラジカセだけ置いといて、椅子かなんかの上に。でそこにスポットライトをバッて当てて、それで別の場所から喋る、挨拶するって言う感じ、ホエールズラジオのケインです、みたいな」
 「なるほどな」
 「そう。だから、花火が上がる前はラジカセがあって、ステージの上に。で、花火中はスポットライトも街灯も消して真っ暗になるから、その間になんかラジカセと絵を入れ替えて、花火の後もう一回ライトがパッて点いたら絵があるっていう。BGMも流れて」
 「かっけえ」
 「まあもう明日だから、どう足掻いても。でも本当にエーレが絵描いて来てくれて嬉しかったわ。いやなんか、やっぱ二人で何かをしたいなあと思って誘ったからさ」
 「たしかに、でもケインは花火じゃん。俺は絵じゃん。規模違い過ぎね?」
 「いやそんな規模どうこうじゃな、いや、もう、そういう事じゃなくて、もう、エーレは本当にロマンが無い」
 「いやだって、なんか俺の絵とか、花火の後に出したらおまけ感半端無いやん、見る人からしたら」
 「それはだってしょうがない、花火を上げるっていうのがメインなんだから」
 「じゃああれか、今度は俺が個展開くから、そん時はケインになんか、おまけ役やってもらうか」
 「あー絶対やる。あのーあれするわ、客引き」
 「なんでだよ」
 「あの入り口前に立って、いらっしゃいませーとかやってるから、もうその時はエーレは主役らしく個展の画廊の中でどっしり鎮座してたらいいから」
 「いや本とかラジオとか絡めろよ。あんだろなんか」
 
 前夜祭とも言える夜は普段と変わらず下らない話に花が咲き、そのまま熱い話も感謝の応酬も無くゆっくりと更けていった。これがケインとエーレだった。
 
 

 
 クリスマスの日はよく晴れた。ラジオの影響と言うよりも、昼過ぎ頃からステージや小屋が建てられ始めたのが目を引いたのだろう、夕方から徐々に人だかりが広場に広がって行った。サンタ・バレーナの小屋にも人が集まった。普段買い慣れている店とは言え、こう珍しい画変わりをするとその特別感に購買意欲が掻き立てられるようだった。店頭には親方と夫人に加えてエーレも立っていた。
 
 広場にそびえる教会の時計が午後八時を指し、ボーンボーンと鐘が鳴る。八回目の鐘が鳴り終わった時、スポットライトがステージの上のラジカセを照らし出し、集まった人々はざわざわとしながら光の指す方を見た。
 
 『えー、ホエールズラジオを聴いて頂いている皆様、そしてこの場にお集りの皆様、こんばんは、ケインです』
 
 声が流れると観衆が少しわっと沸き上がったのが分かった。エーレは既に店頭から、ケインに言われた通り教会の時計塔に移動しており、そこから広場を見下ろしていた。
 
 『前々から、ラジオの中でそれとなくですね、今日の事を、えー告知していたんですけど、まだ多分皆さん、これから何が始まるのか、分かっていないんじゃないかと、思います』
 
 最初の挨拶でわっと沸いた観衆も、すぐに静まり返ってケインの声に耳を傾けた。
 
 『まああの、こんな寒空の下でですね、長話してもしょうがないので、しかも今日はクリスマスですしね、これからまた家族との時間を過ごされる方が多いと思いますから手短に挨拶をさせて頂きますが、えーたった今からですね、ここにお集りの皆さんを一発で笑顔にする魔法を、披露致します。はい、これは魔法です。分かります、胡散臭いのは分かります、でもですね、ほぼほぼ魔法なんですよ、何故かって言うと一人残らず笑顔にする事が出来るからです。信じられますか?一人残らず笑わせる、難しいですよね普通に考えたら、でも出来るんです、何故なら魔法だから』
 
 観衆の中からくすくすと笑う声が起こった。ケインの力説を時計塔の上から聞いているエーレは余りの達者な口振りに思わず笑ってしまっていたが、この後の展開を知っている事もあって胸の内側のどこかに熱が帯び始めているのにも気が付いた。
 
 『皆さん今年はどんな年でしたか?どんな良い事がありましたか、どんな悲しい事がありましたか?大切な人は健康ですか?日々の頑張りは報われましたか?体調は崩されませんでしたか?願いは叶いましたか?ここにお集りの方の中には、ひょっとすると家族が減ってしまった方もいるかもしれない。反対に新しい家族を授かった方も、いるかもしれない。一人を謳歌した人もいるかもしれないし、孤独に押し潰されそうになった人もいたかもしれない。周りに流されるように生きていた人も、爪痕を残しながら絶壁を登るように生きてきた人もいることと思います。きっとそれぞれに、それぞれの、幸不幸の波が押し寄せて、それを皆さん一人一人、どうにかこうにか乗り越えて、ここまで来られた事と思います。大変お疲れ様でした。』
 
 ここで一度観衆が沸き上がった。冒頭の挨拶の時よりもずっと大きく沸き上がった。
 
 『どんなに楽しい時間も長くは続きませんし、どんなに苦しい記憶も、えー消し去る事が出来ません、僕たちは。ある人はこう言います、忘れちゃおうよ。悲しい記憶には蓋をして、傷口には包帯を巻いて見えないようにして、さあ忘れて、難しい事は考えないで今を楽しもう、と。少し無責任過ぎると思いませんか?今日ここに集まって、今僕の話に耳を傾けて下さっている方々は漏れなく、喜びと悲しみを繰り返し、その積み重ねの姿でそこに立っている筈です。よくご自身を観察して下さい、傷だらけの筈です。唾を付けておけば済む様な擦り傷もあれば、立って歩けない様な大怪我だってあった筈です。そしてまた立って歩ける様になった時の喜びも知っている筈です。そう、忘れちゃ駄目なんです。でもだからと言っていつまでも痛がっていても駄目なんです。傷だらけの体で生きていくんです。喜びと悲しみの積み重なった土台の上に立つんです。泣きながら踊るんです。そんな僕たちが、あなた方が、強くないわけないんですよ』
 
 観衆の湧き上がるのを見下ろしていたエーレは、いつの間にか笑う事も忘れてケインの話に引き込まれていた。
 
 『さあ皆さん、今年一年の、良い事も悪い事も、頑張った日も弱気になった日も思い出せましたでしょうか?改めまして、一年間お疲れ様でした。皆さんの一年の締め括りに、一年間重ねた記憶を、ハッピーな思い出で塗り重ねましょう。油絵の様に、何層も重ね塗りしてきたキャンバスに最後、大きなハッピーを描いて来年を迎えましょう。それでは、お待たせしました、魔法をお掛けします。皆さんの口角が一度に上がりましたら、成功となりますので大いに歓声を上げて下さい。ではまたラジオで会いましょう、くれぐれもお体に気を付けてお過ごし下さい。メリークリスマス・アンド・ハッピーニューイヤー。ホエールズラジオ、ケインでした』
 
 ケインの挨拶が終わった途端、ラジカセを照らしていたスポットライトが消え、広場は真っ暗になった。その瞬間、教会の向こう側から花火が打ち上がった。
 
 ドーン、ドーン、ドドーン、
 
 広場に集まった人々は皆一斉に花火を見上げた。エーレも時計塔の窓からほぼ正面に花火を眺めた。こんなに高い所から花火を見た事の無かったエーレはその迫力に圧倒された。ふと何の気無しに広場の方を見下ろした時、そこには花火を見上げ、口角を上げて笑っている人々の顔が並んでいた。エーレは「なるほどな」と呟いてふっと笑うと、また花火の方を向き直した。ケインの掛けた魔法は見事に成功した。
 
 
 少ししてからケインがエーレのいる時計塔に来た。エーレは「おう」とだけ言ってそれから二人で並んでじっと花火を見詰めた。それはまるでエーレの描いた油絵を現実のものにしたかのようだった。
 
 
 
 およそ十分間、空を彩っていたケインの魔法が消えると、エーレはケインに「めっちゃ良かったな」と言った。ケインも「めっちゃ綺麗だったな」と返事をした。広場にはクリスマスソングが流れ、ステージの上には約束通りスポットライトに照らされたエーレの絵が姿を現した。花火が打ち上がってから、いつしか予報外れの雪もちらちらと舞い始めていた。
 
 
 「マイク貸そうか?」
 「なんで?」
 「作者のパネッティ・エーレですって名乗り出といた方が良いんじゃない?これ多分俺が描いたって思われてる気がするんだけど」
 「別に良いんじゃん?別に俺画家でもなんでもないし」
 「あれ、どうしためちゃめちゃクールやん」
 
 エーレはざわざわとしている広場を真っ直ぐ見下ろしながら息を一つ吐いたかと思うと、ケインの方に向き直る事も無く口を開いた。
 
 「俺、サンタ・バレーナ継ぐわ」
 「ええ、急に?どうした?」
 「いやなんかさあ、わかんねえけど、さっきケインのスピーチ聞いて、で花火上がって、そん時の広場の感じがちょっとさあ、やばくて」
 「なにが?」
 「皆めっちゃ笑顔だったの、こっから見える限り。でこの人達ってこの町の住人じゃん。要はサンタ・バレーナをさ、わかんねえけど、支えてくれてる人でもあんじゃん」
 「そうやな」
 「なんかやっぱこの町からサンタ・バレーナは無くなっちゃ駄目だと思ったわ。で多分、ケインはさ、本書いたりラジオで喋ったりしてて、で今回花火上げて、なんかなんつうの、この町の人達を、幸せにっつうか、笑顔にさせてるじゃん」
 「ま、そうね」
 「でやっぱ俺はさ、まあ絵とか描いてっけど、やっぱどこまでいってもパン職人、じゃん。そんなケインみたいに器用じゃねえし、まあそもそも忙しいのも嫌いだしあれもこれも手を出すって事は無いとは思うけど、そんなんが仮にあったとしても、やっぱパン職人、それ以上でも以下でもなくパン職人なんだ、って思った時に、ケインみたいにこの町の人を笑顔にするには、やっぱ俺はパン職人として、サンタ・バレーナの職人として、でしか無理だよなって思った」
 「いやー、いいね。かっこいい。かっこいいわ。かっこいいし、羨ましいわ」
 「いやマジで。そのやっぱ絵とかは趣味で、絵を描くのも好きだし、そのいつか個展とかマジで開けたら面白いとは思うけど、だからと言って俺がパン職人であるっていう軸みたいな、芯みたいな、まあわからんけどそういうのは変わらねえよなって、なんか今日改めて思ったわ、冷静に。人からどう見られてるかは知らんけど」
 「いやー、いい、羨ましいわ本当。俺はだから逆に言えば、エーレで言う所のパン職人、みたいなそういう軸が無い、というか。で多分、多分やけど、俺がまあその本書いたりラジオしたり花火上げたりっていうのは、その、自分であろうとしてると言うか、その、自己実現か、このチーク・ケインという存在を、確立させたい、表現したい、みたいな、事なんやと思う」
 「あー、たしかに、ケインっぽいな」
 「そう。だから多分、今のエーレみたいに、一つのはっきりした役職、と言うか肩書と言うか職業と言うか、そう言うのにひたむきに取り組んでる人、めっちゃかっこいいなって思うねん」
 「ああなんか俺そうらしい、親方からもお前ほど真摯にパンと向き合ってるやついないってめっちゃ褒められたからね」
 「あ言ってたな。いやーいいね。良い話が出来たね、柄にもなく」
 「まあちょっと、もう一回彼女に話して、まあキリ良く来年になったら親方に話してみるわ」
 「おう。じゃあ俺も、今回の作品が完成したら、エーレをモデルにした話でも書くかな、ついに」
 「頼むわ。毎日寝る暇も無いくらい忙しいパン職人のかがみっていう設定で」
 「毎日寝る暇も無いくらい、寝る間も惜しんでテレビ観てるパン職人っていう設定で書くわ」
 
 
 教会の時計塔の下の群衆は次第に少しずつほどけていった。もう上を見上げる者もいなかったから時計塔から漏れた笑い声に気が付く者もいなかった。花火が上がった後だから普段以上に静まり返ったように思われた広場に残されたステージの上には、決して消える事も塗り重ねられる事も無いであろう花火がまだ燦然と輝いていた。




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この度も「ドイツパン修行録」ならびに「頬杖ラヂオ」への訪問、ありがとうございました。もしよろしければサポートもよろしくお願い致します。 引き続きドイツパンに真摯に向き合って修行の道を精進して参りますので、何卒応援の程よろしくお願い申し上げます。また来てください!