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「短篇集クリスマス・プレゼント」Ⅳ.christmas present

 『...今日の夕方にはなんと初雪が降るなんていう話もあるみたいですけど...』
 ラジオから聞こえた男の声がぼーっとしていたナツメの瞼をたちまちこじ開けた。
 「初雪...」
 ナツメは誰にともなく呟いた。本来は降雪地帯とは言えない石造りのこの町も、かと言って全く雪が降らないわけでもなかった。ところがここ二、三年、只でさえ僅かしか降らない雪がめっきり降らなくなってしまっていた。気象学者や環境保護団体は口を揃えて地球温暖化の進行が原因だと、我々地球人は皆その認識を持ち地球に優しい生活を心掛けなければいけないんだと様々なメディアで難しい話を展開していたが、ナツメにとってそんな事はどうでもよかった。
 
 ナツメは雪が好きだったが、とりわけ初雪をこよなく好いていた。昨日までは太陽と月が順番に昇り、時折雨粒を落とすだけだった空が、突然白銀の結晶を舞い落とし始めるその日に、女の子らしくロマンチックを感じずにはいられなかった。小さい頃はよく父親の手を引いて初雪の舞う夜の屋外に飛び出すと、少しでも高いところで雪に触れたいと父親に肩車をせがんだ。そうして明確な目的もなく、約束も決まった所作もなく、ただ無邪気に顔や手に降っては消える雪と戯れた。少し大きくなるともう父親の肩に乗る事も無くなったが、その代わりにロマンチックを覚えた。胸の中の肋骨の内側の心臓と肺の隙間のどこかで、心臓よりも遥かに早く、そして激しく動く何かの存在を認めた。その鼓動は大変心地良かった。
 
 三年前に雪がめっきり降らなくなった時、「今年は雪が降らない」という話が様々なメディアで仰々しく取り扱われていたが、ナツメは一人、毎晩窓から外を眺めては初雪を待っていた。春が来るまで毎日待っていた。それは翌年も同様に続いた。ナツメは気象学者を疑う気持ちも、自然の持つ奇跡を起こす力を信じる気持ちも持たず、ただ無邪気にロマンチックの訪れを待つ一心で月に照らされた石造りの町並みを眺め続けた。
 
 さらにその翌年、ナツメは冬を迎えるよりもずっと早い内から窓の外を眺める日々を送り始めた。夜に限らず、朝も昼も、時々そっとカーテンを少し開いては外を覗いた。ナツメの髪はもう真っ黒になっていた。その内外を覗くのさえ億劫になっていったナツメは、もともと好きだった本の世界にもロマンチックがある事を知った。本を読んでいる時も胸の中で何かが鼓動を打つ事を知った。するともう窓越しに外の世界を覗く事も、いつ訪れるのかさえ分からなくなった初雪を待つ事もナツメにとっては必要ではなくなっていった。そうして現実と空想の間を行き来する内に心の底から悲しい本音が漏れ出し、ショックの余り本を開くのさえ重たくなっていたナツメの耳に三年振りに初雪という言葉が飛び込んだ。
 

 
 ラジオの男は「今日の夕方」と言っていた。ナツメは久しぶりに自分の意志で時計を見上げてみた。薄暗い部屋の中でも時計の針が三を指しているのが分かった。ナツメは少し慌てて体を起こしたお陰で一瞬頭痛に襲われ後頭部に手を当てた。そう言えばしばらくシャワーも浴びていなかったナツメの髪は御世辞にも爽やかではなくなっていた。
 
 ようやく立ち上がって窓辺に行き、そっとカーテンを開けると外は明るかったのでナツメは今の時間が午後三時だと分かった。そもそもラジオで例の男が喋っているので午後三時だと知っているはずだったが、それさえ頭に浮かばないほどにナツメは急激にまどろみから覚めて混乱していたのかもしれない。しかしそれと同時に夕方と言う曖昧な指定が果たして何時からの事を指しているのかと考え、急に心が忙しくなった。さっきまで体を横に倒し眠るでも起きるでもなくただ目を開いたままで何も捉えていなかったナツメの頭は自然と活動的に変化していた。それはナツメの心が、あるいは胸の内側で疼く何かが、ナツメの意識の向かない間にかつての様に高鳴り始めた証拠だった。
 
 まずナツメはシャワーを浴びる事にした。数日間の寝汗を流したいという気持ちよりも先に、初雪を迎えるにあたっての儀礼的にシャワーを思い立ったナツメは、それでもいざ部屋を出ようとドアノブに手を掛けるとやはり怖かった。普段シャワーを浴びる時も決まって両親の寝静まった深夜を選んでいたナツメには、午後三時という時間に部屋から出た自分が両親と鉢合わせたら、果たしてどんな目で見られてしまうのかという不安をよぎらせずにはいられなかった。しかしまたそれと同じくらい、早くシャワーを浴びなければ初雪が降り始めてしまうという焦燥感もあった。そうして結局焦燥感に背を押されたナツメは、体中の不安をひとまとめにして溜め息にして吐き出すと、部屋の扉を開き、階段を降りて行った。
 
 幸い誰とも鉢合わせる事無く部屋に戻って来れたナツメは、汚れを落とした分体が軽くなったような気がしていた。時計を見ると四時になろうとしていた。心なしか三時の時よりも軽やかな手付きで少しだけカーテンを開く。冬の四時は夕方と言うより夜と呼ぶのが相応しい程暗かった。まだ雪が舞っている様子はなかった。
 
 ナツメは一度ベッドに座って本を開こうかとも考えたが、そうしている間に雪が降ってしまっては元も子もないと窓に張り付く事にした。少しだけ開けたカーテンの隙間から窓の外を眺める。三年振りの初雪を待つ。この時になるとナツメは自分の胸の中の特別な鼓動をすっかり感じ取っていた。そうして昔の、ナツメがまだ無垢な少女だった頃の気持ちを思い出していた。
 
 
 ナツメが窓の外を真剣に、そして童心で眺め始めてから四十分と経った頃、ついに空から雪が舞い降り始めた。ナツメはその瞬間を決して見逃さなかった。ほとんど最初の一粒が空から降りて来るのを見届けたと言っても過言ではなかった。ナツメの口角は自然と上がっていた。それをナツメ自身は気が付いていなかった。ただ夢中になって初雪を眺め、三年越しのロマンチックを感じていた。
 
 そのうちナツメは無垢な童心にいざなわれるように、昔の様に初雪の舞う外の世界へ出たくなった。そして窓から目を離し後ろを振り向くと、そこにはいつもの現実が広がっていて途端にナツメの心はぎゅうっと縮まった。ナツメはもう一度窓の外を見た。カーテンはすっかり大胆に開けられており視界は広かった。白い雪を眺めるとナツメはまた現実を見失った。自分の黒い髪の事も忘れた。それで嬉しかった。そうしてやっぱり表に出たいと思って、今度は覚悟を持って後ろを振り返った。
 
 
 覚悟を持ったナツメは随分振りに外出の出来る服装に着替えた。コートまで羽織って鏡を見ると、自分の黒い髪が目に映ってまた胸がぐっと押された。それでもこの時のナツメには勇気があった。それから外には喜びが待っていた。ナツメはクローゼットの中を漁って、赤いニット帽を引っ張り出した。ナツメが髪の色を気にし始めた頃に母親が買ってくれた帽子だった。その直後から外に出られなくなったナツメは結局その帽子を一度も被る事のないまま今日を迎え、ナツメもきっとこの日初雪が降らなければその帽子を思い出す事も無かった。随分長くなった黒い髪をひとまとめにして帽子の中に詰め込むと、勇気を胸に持ったナツメはもう両親の視線くらいなら気にしないと心に決め、部屋から玄関までを静かに、それでいて軽やかに脱け出した。
 

 
 外に出るとさっきよりも勢いを増した初雪がナツメの上に降り注いだ。ナツメの赤い帽子に次々染み込んだ。ナツメは天を仰ぐ。雪の結晶がふわふわと空から落ちて来る光景が、かえってナツメが真っ黒な空に吸い込まれていく錯覚を演出した。上を向いたら自然と口角が上がった。今度はナツメ自身はっきりと気が付いた。
 
 その時少し離れた所でガシャンという物音がした。ナツメははっとして我に返り、慌てて家の陰に身を潜めた。そうして雪を眺めている時とは違う何かが胸の中でドキドキと大きな音を立てて息が上がるのが分かった。この町の住民やかつての友達の視線や態度が、折角の幻想的な景色を邪魔するように目の前に浮かび上がった。ナツメは怖くなって、本来誇るべき、自分を外へ飛び出させた勇気を恨んだ。息を潜めて家の前の道をじっと見詰める。その姿ははっきり見えなかったが、オレンジ色の街灯の光に浮かんだ影は何か大きな物を抱えた背の高い男のようだった。男が過ぎてもナツメはしばらく家の陰から出られなかった。まして家から飛び出した時のような大胆さはもうすっかり失ってしまっていた。もう初雪に感動を見出す余裕も無くなってしまい自分の部屋に戻りたいと思った時、さっき軽やかに駆け抜けたはずの玄関から部屋までの道程を同じように冒険出来る勇気もいつの間にか失っている事に気が付いた。ナツメは急に心細くなった。逃げ場を無くして窮した。このまま外にいれば誰かに見付かってしまう。家に入るのにも両親の目がある。きっと両親は温かい目で迎え入れてくれることをナツメは分かっていた。しかしその温かさがかえって自分の幼稚さや勝手さや弱さを炙り出すようでナツメは怖かった。手が震えていた。震えている理由がどちらかナツメには分からなかった。少しずつ景色も白んできた。
 
 
 しばらく家の石壁に寄り掛かったまま身動きの取れずにいたナツメが、何の気無しに不安気な目を家の前の道の方へ向けると、オレンジの灯りに照らされた影が止まって立っているのが見えた。その影はナツメをじっと見ているように見えた。ナツメは急いで影から視線を外し、余りの恐怖に逃げだしたくなったがかえって身動きが取れなかった。恐る恐るもう一度影の方に視線を向ける。影はまだそこに立っていた。するとその影は突然「何してるの」と大きな声でナツメに向かって問い掛けた。
 

 
 声の主は少年らしかった。ナツメは当然答えられなかった。かと言って動く事も出来なかった。また少年の上げた声が両親や住民の耳に届いて大事おおごとになってしまう事を恐れた。ナツメは自分でも気が付かないうちに涙を流し始めていた。
 「どうしたの」
 聞こえて来る声は余りに無邪気だった。ナツメの瞳からは涙がとめどなく流れ落ちた。ナツメは鼻をすすった。すると少年は「泣いてるの」と尋ねて来て、なおさらナツメの涙は溢れた。そうして泣きながらも、その少年の黒い影が少しずつ近付いてくるのが分かった。ナツメは声を押し殺すのに精一杯だった。
 
 
 「どうしたの、泣いてるの」
 近くまで来た少年はもう大きい声は出さなかった。むしろその声は無垢な優しさを含んでいた。少年はナツメから大股三歩分くらい離れた所で立ち止まり、手には閉じたままの傘を持っていた。少年はナツメの返事を大人しく待った。ナツメは鼻をすすっていてそれどころではなかった。するとナツメの潤んだ視界に見慣れない布が飛び込んできた。
 「ハンカチ、使っていいよ」
 ナツメは顔も上げずに少しの間ハンカチをじっと見詰めると、恐る恐るハンカチを手に取り、それから顔を上げて初めて少年の顔を見た。ナツメと目が合うと少年は優しく笑った。
 
 「俺はジェネシス。ジェニーでいいけど」
 少年はジェネシスという本名とニックネームを名乗ると、ナツメに向かって手を差し伸べているようだった。ナツメはハンカチで顔の半分を覆いながら、恐る恐るジェニーの方を向き、恐る恐る自分の手を伸ばした。家の外にも中にも行き場を失ってしまった不安感から、ジェニーの差し出した手をつかむ事が唯一の逃げ道の様な気が自然とした。ジェニーは応じたナツメの手をしっかりつかみ握手をして満足げだった。そうして手をほどくと「見せたいものがある」と言って、どこかへ連れて行きたいようにナツメを誘った。ナツメは恐怖心を以前抱きながら、それでも不思議とジェニーを信じたくなっていた。そうして二人はオレンジの灯の下を左に折れ、緩やかな石畳の坂道に足跡をつけながら登って行った。
 

 
 「この町に初雪が降るって聞いたから隣町から来たんだ」と言うジェニーの話にうんともすんとも返さずただ聞きながら歩いていたナツメは、何カ月振りに歩くこの町の景色を恐れると共に懐かしんでいた。この町で一番古いパン屋には日曜の朝になるとよく母親と共に出向いて朝食用のパンを買っていた。教会の前は友達との待ち合わせによく使っていた。この町を囲む高い防御壁も門も石造りの建物も、身近にありながら長い間忘れてしまっていた。
 「この町かっこいいな、高い石壁に囲まれてて」
 ジェニーは初めて見るらしい町を散々褒めながら歩いた。同じ国の隣町同士ならそれほど代わり映えもしなさそうだとナツメは思ったが、まだナツメは声を出す準備が出来ていなかったからそれをただ聞いていた。そうして初めてこの町に来たらしい彼が果たしてどこへ連れて行きたいと目指して歩くのか見当も付かなかった。しかし確かにジェニーはナツメの知らない道をずんずんと進んで行った。幸いここへ来るまで町の住民とは誰ともすれ違わなかったが、それにもまして人気の無さそうな方へ進んで行っているようにナツメには思えて、それは確かに怖かったが、また同時に誰もいないという安心も不思議とあった。
 
 「ところで名前は」
 ジェニーが忘れていたかのようにナツメに問い掛けた。すっかり涙も引いていたナツメはいよいよ口を開き細い声ながらも名前を答えた。それでナツメも少し気持ちが楽になったのか、今度は自分の方から質問を投げかけた。ジェニーはそれに驚くも喜ぶもなく淡々と答えた。ナツメにはそれが話しやすく思えた。
 「どこへ行くの?」
 「実はね、秘密基地みたいなところを見付けたんだ」
 「初めて来たのに知ってるの?」
 「うん、昼間に町を探検してたから」
 「一人で?」
 「うん、一人」 
 「お父さんお母さんは一緒じゃないの?」
 「うん、勝手に出てきた」
 「心配してない?」
 ナツメはそう問いかけた時、自分の両親の顔が浮かんでかえって自分が不安になったが、今一人じゃないという心強さにたちまち掻き消された。
 「一応、出掛けるとは言ってきたから多分大丈夫だと思う。ナツメの方こそ大丈夫?」
 久し振りに他人から自分の名前を呼ばれたナツメだったが、不思議とその声は抵抗なく耳からするっと入って来た。
 「わかんない」
 それでも曖昧な返答しか出来なかったナツメの声に、ジェニーはただ「ふーん」とだけ言って、心配する様子も引き返す様子も見せず、ただその足は秘密基地へ向かって動いていた。ナツメはそれが不思議と心強かった。
 
 「ここ、ここ」
 入り組んだ町並みを抜けて辿り着いたのは、防御壁で囲まれた旧市街の中にある古いカフェの裏側だった。ナツメはそのカフェが町の広場に面している事を知っていたから、広場にいるであろう大勢の人の目を恐がると同時に、果たしてこんな中心地の近くまで住民と擦れ違わずに辿り着けたルートが不思議だった。するとジェニーはおもむろにカフェの裏側の階段を指して「ここを登るんだ」と言うと、ためらうことなく雪の薄く積もった石の階段の入口に掛けられたチェーンを潜りナツメも来るように促した。ナツメは言われるがままにチェーンを潜り、ジェニーの後に続いて石段を上まで登った。登った先はただ広いカフェの屋上だった。
 
 「昼間に見た時、ここのカフェが潰れてるってことがわかったから暗くなったら人目を盗んで登ってみようって思ってたんだ」
 ジェニーはきらきらとした無垢な表情をしていた。ナツメは案外冷静に、自分が外に出ない間にこのカフェが潰れてしまった事を心の何処かで悲しんだ。このカフェも昔家族でよく来ていた事を思い出した。
 
 屋上には座れそうな段差があった。ジェニーは段差の上の雪を手で払い除けると、「ちょっといい」と断りながらナツメからハンカチを受け取り、それをぱさぱさと空中で振って整えると、段差に敷いてそこに座るようにナツメに促した。そうして自分は、ナツメが座るのも確認せずに屋上の上を探検し始めた。ナツメは少し戸惑ったが腰を下ろして、ジェニーの歩き回るのを目で追っていた。気が付けば雪は止んでいた。
 
 一通り探検を済ませたジェニーがナツメの元に戻って来ると、「建物の上ってわくわくするよね」と屈託のない表情でナツメに伝えた。無理に共感を求める様子も無かったからナツメは「へー」とだけ細く答えたが、心の内ではなんとなく気持ちが分かる気がした。ジェニーはまたナツメの傍を離れると、屋上の広場に面したぎりぎりまで行って戻って来て「下にいっぱい人がいた」と報告し、「でも誰も俺に気が付いてなかった」と得意げだった。ナツメは思わず口角が持ち上がって笑顔になるのが分かった。ジェニーはその表情の変化に驚くも喜ぶもなく、まだ一人勝手に得意げになって笑っていた。ナツメにはそれが居心地良く感じられた。それからナツメも腰を上げてジェニーと一緒に広場側の際まで行った。広場には確かに人がいっぱいいた。きっと皆雪が降ったからはしゃいで出て来たんだとナツメは思った。そうして自分もそういう気持ちで外に出て、それが今ジェニーと言う少年とカフェの屋上に立っているという一連の出来事を思い返した時、それがとても今日の数時間の内に起こった出来事のようには思えなかった。
 
 「ちょっと大きい声出してみる?」
 いたずらな顔で企むジェニーと、ナツメは顔を見合わせた。そうしてジェニーの「わっ」という発声と共に、二人は屋上のもといた方へ走ってそうして二人で笑った。実際この時の彼らにとって、地上にいる沢山の人がジェニーの声で屋上を見上げたかどうかは大事ではなかった。彼らは自分達がはしゃいでいればそれで十分楽しかった。ナツメはそこに忘れ掛けていた喜びを感じ始めていた。
 
 ジェニーと共に屋上の奥まで走ったナツメは、その反動でニット帽の座りが悪くなったために一度帽子を外した。

「ん...髪が黒い!」
 好奇心に突かれたように飛び出したジェニーの声がナツメの耳に飛び込んで、それでナツメはハッとした。余りにも楽しい時間を過ごしている中で、ナツメは自分の黒髪の事もそれを隠す為に被っていた帽子の事もすっかり忘れてしまっていて、無意識の内に帽子を他人の前で外してしまった。ナツメは慌てて帽子をもとより目深にかぶって、ジェニーに背を向けた。ジェニーがどんな目でナツメの背中を、ナツメの髪を見ているのか、ナツメは知るのが怖かった。そしてまた、折角二人の間に生まれた楽しい時間が、今この瞬間から音を立てて崩れていくような気がして足がすくんだ。こんな場合、直ぐにでも階段を駆け下りて自分の家へ走って逃げたいはずであったが、ナツメにはそれさえ出来なかった。
 
 「どうしたの」
 ジェニーの無邪気な声が後ろから聞こえる。まさかナツメは答える事も振り向く事も出来なかった。そしてまた、こんなにも無邪気なジェニーの胸に余計な心配を拵えるくらいなら、全て打ち明けた方が彼の為になるという親切心も起こった。
 「泣いて...るの」
 数時間前に家の外壁に寄り掛かって泣いていたナツメに掛けられた言葉が、その時よりも慎重に再度掛けられた。ナツメは泣いていなかった。しかし言葉を掛けられた拍子にまた泣きそうにもなった。
 
 それから少し沈黙があった。ナツメは自分が置かれている状況を理解も推察もまるで出来ないまま、無邪気に走り回る事もへらへら笑う事も出来ずにただ何かを待っているジェニーを気の毒に思った。そうしてその緊縛から彼を解放出来るのが自分以外にいない事も理解したナツメは、一つ静かに深い呼吸をすると、一思いに、しかしゆっくりとジェニーの方に体を向けた。ジェニーはきょとんとした様な、またすっかり不貞腐れた様な顔で、もう一度「どうしたの」と細い声で聞いた。
 
 「私、の髪、黒いの」とナツメが勇気を振り絞って言葉にすると、「うん、見た」と大人しい返事だけが返って来た。それがナツメには少し異様に映った。ジェニーの声には黒い髪をからかう気配も、軽蔑する気配も感じられなかった。また気味悪がって逃げ出す事も無く、まだ目の前に立って次のナツメの言葉を律義に待っているようだった。
 「おかしい...でしょ」
 ナツメは自虐的に先に答えを出した。そうする事でジェニーの口から否定的な言葉が出るのを押さえようとした。ジェニーは慎重に言葉を選ぶように少し黙った後、「おかしいと言うか...初めて見た」と、擁護にも侵害にもならない言葉を呟くと、また少し時間を空けてから「それで、帽子で隠してたの」と今度はジェニーがナツメに聞いた。ナツメは口を開かずただ首を一度上下させた。
 
 
 
 「明日はクリスマスだね」
 しばらく沈黙が続いた後、ジェニーの落ち着いた声が予想外の角度から沈黙を破った。顔を上げたナツメが何かを言おうとするよりも「何か予定はあるの」とジェニーが聞く方が早かったから、ナツメは開きかけた口を閉じて今度は首を横に振った。ジェニーは「そっか」と言ったきりだった。しかしそれから一拍置いた後、一人でくすくすと笑いながらナツメに向かって突然こんな話を始めた。
 
 「そうだ、クリスマスで思い出したんだけど、俺の街に変なおじさんがいてさ、クリスマスになると毎年街中で指笛を吹くんだよ。クリスマスの街なんてどこの店も閉まってるから人通りも無くてすごく静かだろ、だから余計におじさんの指笛が響くんだよ」
 話が進むにつれ語り手であるジェニーの表情が少しずつ元の無邪気さを取り戻していった。ナツメは真剣に彼の物語を聞いていた。
「で、去年俺、とうとうおじさんに聞いてみたんだよ、なんで指笛なんか吹いてるんだって。そうしたらおじさんなんて言ったと思う」
 この時になるとジェニーは笑いを堪えるのに必死の様子だった。ナツメもジェニーの話にどんどん引き込まれるように少しずつ表情が明るく変わっていった。
 「おじさんはこう言うんだ、指笛で空飛ぶクジラを呼んでいるんだって。おかしいよね」
 そう言うとジェニーはそれまで堪えていた分を吐き出すように笑った。そしてナツメもなんだかおかしくなってつられて小さく吹き出してしまった。おじさんがおかしいと言うより、楽しそうに話をするうちにみるみる自分で笑うのを我慢出来なくなっていったジェニーの姿がおかしかった。
 
 
 一頻り笑って空気が落ち着くとジェニーとナツメは目が合った。
 「明日、この町の防御壁の向こう側、ほら、あの教会が見える方角、あっちの壁の向こうで花火が上がるみたいなんだ。この屋上、きっと特等席になるよ」
 ジェニーの口からまたおかしな物語が紡がれたと思いきや、その話は確かに実際の話らしかった。ナツメには勘繰り過ぎる癖があったから、こういう場合に何と返事をしていいのか判らなかった。誘われているのか、ただイベントの説明を聞かされているのか判別が出来ず、ただ小さく「そうなんだ」と返すばかりで、後はただ教会の方角をそれらしく眺めてみた。
「もし明日ナツメの予定が無ければ、またこうやって屋上に来ようよ。花火を見よう」
 ナツメは驚いた。「え」と聞き返す代わりに両の眉毛を高く持ち上げてジェニーの顔を見た。そうして返答を考えるよりも先に、自分の黒髪の話なんか忘れてしまったように、また良くも悪くも無関心なように、毛嫌うでも無ければ変な気遣いで褒めたりもしないジェニーの勇敢で頑丈な態度に驚いた。そしてそこにこれまで味わった事の無いほどの絶大な安心感を見出した気がした。ナツメは、微塵の雑念も無い透き通った頭の内から口を通じて「うん、見たい」という宝石の様な小さな言葉を零した。
 

 
 クリスマスの日もナツメは夕方まで部屋の中にいた。それでも心持ちは今までとはずいぶん違った。
 
 昨晩遅くになって外から帰って来たナツメを見た両親は大層驚いた。しかし彼らはナツメを責める事もなく、母親はただ「あら、どうしたの」とだけ聞いた。ナツメは「うん、雪が降ったから」と、ぽそぽそと芯を食わない理由を言った。それを機に両親が話を始めた。
 「そうか、今日は五年振りに雪が降った歴史的な日だったもんなあ」
 「違うわ、三年振りよ」
 「そうだったか。まあ、昔っからナツメは雪が降ると嬉しそうにしていたなあ」
 「そうね、その度にあなたナツメを肩車して外に出て」
 「ああ、あれをしてる時が実は一番嬉しかったんだ」
 「あなたよく言ってたわね、通り過ぎる町の人がみんなナツメを可愛い、可愛いって褒めてくれるのが嬉しいんだって」
 「あれがもう誇らしくてなあ。本当にナツメはパパの自慢の娘だ」
 「ちょっとあなただけじゃないでしょ、ママの自慢でもあるんだから」
 
 ナツメは何も言わず、しかし部屋に逃げ込む事もせず二人の会話を聞いていた。そうして話を聞いている内、気付けばナツメはゆっくりと両親に近付き、そのまま二人に埋まっていくように抱き付いた。母親は力強く、父親は優しくナツメの体を抱き締めた。そして抱き締めながら、どれほどナツメを誇らしく思っているか、どれほどナツメを愛しているかを、ナツメの頭上で延々二人で議論し合った。そこにはナツメの心を開かせようなどという野暮な下心はまるで見当たらず、しかし結果的にナツメの心はみるみる溶かされていった。
 
 
 そうして心地良く眠って迎えたクリスマスの日。鏡を覗くナツメの目の周りは少々腫れぼったく見えたが、それ以上に心も体も表情も、まさに昨晩ジェニーや両親の手によって解かれた鎖の分、随分軽かった。ナツメはジェニーとの約束の時間までは外に出るつもりでいなかった。それは両親の愛を感じたのとは別に、ナツメの日常の殆どは部屋の中で完結する事が出来たからだった。だからナツメはいつも通り部屋に運ばれてくる食事を食べた。ただこれまでと違って、ナツメは食事を運んでくれる母親にありがとうとごちそうさまを伝えた。母親は二回とも、どういたしましてとだけの返事を扉の向こうからした。
 
 
 一日中電気が付いていた部屋に夕焼けのオレンジが注がれ、あっという間に夕方になった。オレンジの光が足元に入って来てそれでようやくナツメは閉め切られていないカーテンに気が付いた。果たしていつから開け放されていたのか、今考えても手掛かりは一つも見当たらなかった。ナツメが身支度をしている内に冬の空は足早にすっかりオレンジからネイビーに変わっていた。
 
 夕方六時、ナツメの家の前でジェニーと待ち合せる事になっていた。ナツメは予定よりも五分程早く家を出た。雪は降っていなかった。家を出る前には両親と「少し出掛けて来る」「あまり遅くなり過ぎないように」という他愛も無い、しかしどこか懐かしさを帯びたやりとりを交わした。そして外に出てからナツメはコートのポケットに入れておいた帽子をかぶった。家の前、道路の上、オレンジの街灯の灯りの下に、まだ人影はなかった。ナツメは街灯の下で待とうかとも考えたが、やはりジェニーも両親もそばに居ないたった一人の体で外の世界に立つのはまだ落ち着かなかったから、昨日と同じように家の外壁に隠れるようにジェニーが来るのを待った。
 

 
 少しして人の足音が聞こえた。ナツメは息を殺してオレンジの灯りの方を見つめた。そこに現れた影が棒状に畳んだままの傘をくるくると振り回していて、ナツメはその影がジェニーだと分かった。ジェニーもナツメに気が付いて手を振る代わりに傘を開いて見せた。
 「やあ」とジェニーが言う。
 「うん」とナツメが答える。仲の良い者同士にしてはあっさりした挨拶だが、昨日今日の間柄にしては打ち解けた挨拶を交わして、ジェニーはまた傘を閉じた。そうして下手な世間話もする事なく道を進み始めた。相変わらず人目の無い裏道をずんずん進むジェニーの背中をナツメはただついて行った。ナツメよりもジェニーの方がかえってこの町の住人であるかのようにさえ思われた。ナツメは後ろから声を掛けた。
 「すごいね、道を覚えるのが得意なの」
 「いや、全然」
 「でも昨日初めてこの町に来たんでしょ?なのにもう道を覚えちゃってるみたいだから」
 「これ、昨日とは少し違う道だよ。俺も分かって無いよ、方向音痴だし」
 ナツメは迷わず前だけを向いて進んで行くジェニーの背中側で目を丸くした。ナツメには今進んでいる道が昨日と同じか違うのかまるで分らなかった。
 「細かい道は分かんないけど、ナツメの家の前の道から広場がある方向は変わらないだろ。ただその方向に向かって進んでいるだけ」
 「道に迷ったらどうするの」
 「大丈夫、その内きっと着くよ」
 
 心配性なナツメはジェニーの能天気な言葉にむしろわくわくした。自分一人ではいつまでも味わえなかったであろう冒険に、安全なベッドの舟ではなく頼りない自分の足で進んで行く冒険に導いてくれたジェニーが、勇敢な物語の主人公にすら見えた。
 
 ジェニーはなかなかナツメの方を振り返ろうとしなかった。その代わりに周囲を見回しながら、方角やルートや身の危険さえ注意深く考えているらしかった。ナツメにとってはそれがかえって安心出来た。
 
 十五分ほど歩いた後、ナツメの目にも昨日のカフェの裏の階段が見えた。二人はすっかり慣れた様にチェーンを潜り階段を登って屋上へ向かった。昨日の帰りに作った小さな雪だるまは跡形も無く溶けて無くなっていた。階段を登り切った二人は、戦場を抜けようやく基地に帰って来た戦士のような安堵感で一つ溜め息をついた。さっきまで言葉少なだったジェニーも、また昨日と同じように屋上の良さを口にし始めて、気分が高揚しているのがよく分かった。そうしてまた屋上の端から広場の方を覗き込んだジェニーは「昨日よりも人が大勢いる」と言いながら戻って来ると、やっぱりここは特等席だと得意げにナツメに伝えた。その表情はまさに冒険を終えて凱旋した勇者そのものの如く屈託がなかった。二人は昨日と同じ段差に腰掛けた。この日は雪が降らなかったから段差は乾いていたが、ジェニーはまたこの日もハンカチを敷いてやった。ナツメは「自分の分は」とジェニーに聞いてみたが「俺は男だからいらないんだ」の一点張りで、何のためらいも無く石段に直接腰を下ろした。ナツメはその横で、少しためらいつつも被っていた帽子を外した。
 
 
 それから少し沈黙が流れ、広場の方から聞こえる賑やかな声に二人が耳を傾けていた時、ジェニーが何の前触れも無くナツメの方にくるっと顔を向けて、あの屈託のない表情で突然口を開いた。
 「ナツメといるとすごく安心するよ」
 ナツメの口からは何の言葉も出なかった。そしてただ目を丸くしただけで、ジェニーの言葉の続きを待った。
 「俺さ、あんまり人と仲良く出来ないんだよね。地元にいてもなんか居心地が悪くて。俺が何かしたとか、誰かに何か嫌な事をされたとか、そういう覚えもないんだけど、なんか。一緒に育ってきたはずの友達とはいつの間にか昔みたいに遊べなくなっちゃったしさ、話をしててもなんか面白くなくなっちゃって、その内「変わり者だ」って言われるようになったしさ。でも俺がみんなとは気が合わなくて、だからそれで自分から離れたんじゃないんだよ、俺はずっとみんなと同じように育って来てるつもりだったんだ。だけど、気付いたらみんなとははぐれてた。みんなが進んでた道を一緒に歩いてるつもりだったのに、いつの間にか一人だけ道に迷ってたんだ、ほら、俺方向音痴だから」
 
 予想だにしなかったジェニーの告白に、ナツメは相槌を打つ事さえ忘れて聞き入っていた。
 
 「だからもう一人で遊んでる方が楽しくなっちゃってさ。どうせ話しても伝わらない事は歌にして歌うし、そうじゃなければ日記に書けばいい。どうせ理解されないんだったら、人目の付かないところで一人でやればいいし、行きたい所には一人でも行ける。雨が降っても傘があれば平気だし。でも、だからと言ってみんなに対して恨みも無ければ怒りも無いんだ。俺と遊ばなくなったやつも、俺の事を「変わり者だ」って言ったやつも、きっと俺と同じように、みんなと一緒に歩いていただけだと思うんだ。でも奴らは俺よりも方向感覚が良くてしっかり周りを見てたから道に迷わずに行けて、そしたらなんかいつの間にか道に迷ってはぐれてしまったやつがいて、そいつを「変なやつ」だと思うのなんて普通だと思うんだ。だから別に俺は、彼らが俺を見捨てたとか見放したなんて思わないし、俺が彼らから馬鹿にされたとも思ってない。道を間違えなかったやつと、道を間違えたやつ、ってだけ」
 
 ジェニーの表情は物悲しくもなんともなかった。ただ無邪気で勇敢な表情をしていた。
 
 「でもまたきっとどこかでみんなと一緒になる時が来るんだろうなって思ってる、直感だけど。ほら、進む方角さえ分かっていればどんなに迷ったってその内着くからさ。方向音痴には方向音痴にしか分からない哲学があるんだ」
 
 ジェニーは得意げな顔でナツメの目を見てそう言い切ると、大きい声を出して笑った。その笑い声に緊張感が解かれ、ナツメもつられるように笑った。
 
 
 「でも、そうしたらナツメに出会ってさ」
 
 ナツメは自分の名前が出た途端、笑った名残の表情をきゅっと引き締めてまたジェニーの方を向いた。
 
 「なんか、こんなに、居心地が良いと思ったの久しぶりだったんだよね。話したい事もこんなに伝わるし、何より自分でいられる。等身大で。それがね、すっごく居心地が良いし、安心するんだ」
 
 ナツメは嬉しかった。それは自分の中の気持ちを代弁して貰ったからでもあった。そしてまたその気持ちを分かち合える喜びでもあった。昨日の晩に既にジェニーに対して感じていた安心や冒険や愉快が、ジェニーの内側にも芽生えていた事が嬉しかった。こんな人と、一生の中でこんなにも分かり合えそうな人と出逢えるとは、髪が黒くなり心を閉ざしてしまっていたナツメが期待出来るはずもなかった。ナツメは胸の内で嬉しがるばかりではなく、自分も同じ気持ちだという事を伝えたくなった。
 
 「こんな人に出会えるなんて思わなかった」
 
 二人の声は重なった。
 
 
 その時、教会の奥の方から花火が打ち上がった。広場の観衆の声が何倍も大きくなった。ドーン、ドーンと彩り豊かな火の花が夜空に次々打ち上げられる。二人はどちらからともなく互いの手を取り、屋上の広場側の際まで走った。そうして並んで花火を眺めた。いつの間にか降り始めていた白い雪が、ナツメの黒い髪に乗っては溶けた。
 
 ナツメはふと下を見下ろす。広場にはこの町の住人がたくさん集まっていた。自分の黒い髪から遠ざかって行った友達もこの中にいるのだろうかと探してみた。もちろん見付かるはずもなかった。そしてまた自分の胸の内に、その友達や住人を恐がる心も見付からなかった。その恐怖心を取り除き、勇気と安心をくれた人が隣にはいた。
 
 「花火は上。下とかこっちなんか見てたら見逃しちゃうよ」
 
 いつしか「死んじゃいたい」に聞こえてしまった言葉は、ジェニーという存在との出逢いによって、今確かな対象を持って「信じ合いたい」とナツメの胸の内で花火の様にこだました。




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