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「短篇集クリスマス・プレゼント」Ⅲ.my dear

親愛なるリアへ
 
 
 君がこの世を去って半年近くが経とうとしている。正確に言えば今日が五カ月と二十二日目だ。そう、クリスマスの夜に私は今眠れずに、慣れない筆を執って君に手紙を書き始めた。なかなか文章を書く事の無い私だから、字の間違いがあってもこの手紙がうだうだと長くなってしまっても愛嬌だと思って見過ごしてやって欲しい。何せ今の私の胸の内にはとても強い気持ちと活力がみなぎっていて、それで逆上のぼせてしまいそうな頭を冷却する為に手紙という手段を用いたという一面もあるから、不断ふだんにも増して文章が下手になってしまう恐れがあるんだからね。私の伝えたい事はたったの一行で済んでしまう様な事なんだが、そこに行き着く迄には長い時間が要る。君と過ごした時間も、今の私の胸に灯る炎を燃やす燃料なんだから、私がしたためる手紙の枚数が君と重ねた年月と同量と解釈して貰っても構わない。長垂らしい前置きはこのくらいにして早速書き始める事にする。
 
 
 君と初めて出会ったのは私達がまだ二十代の頃であった。これはもう君との間で幾度となく議題に上った問題だが、本当の最初に出会ったのは二十二歳の頃で、しかしその時はただ気の合う知り合いに過ぎず、それから数年の間は出会う事も連絡を取る事も無いまますっかりお互い記憶の中の人となって、再会したのが三十歳になる直前だったから、私の主張の通り二十二歳を始発点として勘定をすれば四十年、また君の主張の通り勘定すれば三十四年もの歳月を君と過ごした事になる。
 
 三十歳になる頃に再会を果たした私と君はそれからあっという間に交際を始めた。そうして交際を始めてから三年後に私の夢であったカフェCafèヴィヴィエーナWiviennaを開いた。当時の私からすれば自分のカフェを持つという夢の一つを叶えた実感があったが、今の僕にはあの内装が、あのコーヒーの匂いが、あの賑わいが、君の声が、二度と見られない夢の世界の様に思えて仕方無い。もう少し後回しにしようと思っていた話に筆を運んでしまったから、一先ひとまず結論だけ発表しておくと、君がこの世を去った後からカフェ・ヴィヴィエーナを私は閉じる事にした。細かい理由や経緯なんかはもう少し後で書く事にする。
 
 君と築いたヴィヴィエーナは町の人達からとても愛されていた。町の広場に面したとても良い場所に立っていたのも相俟あいまって、いつしかこの町の看板の様な扱いさえして貰った事もあった。君はまだ店内の様子を覚えているだろうか。店内は広くなかったが赤いソファーが並んで、白い壁には絵と燭台しょくだい。それほど高価な物では無かったがシャンデリアも天井からぶら提げて、その灯りに照らされたウエイトレス姿の君はいつでも凛として美しかった。君は私の自慢だった。
 
 コーヒーの本場で修業して来た私の淹れるコーヒーの香りが君は好きだと言ってくれていた。またそのコーヒーを使って作るモカクリームのケーキも君は好きだった。君は御客から御勧めを聞かれた時、決まってモカクリームのケーキを勧めていた。それを御客から、コーヒーを飲むのにコーヒーのケーキじゃカフェインを摂り過ぎてしまうからと言って断られると、その日の夕方、店を閉じた後になって、私の分が減らなくて済んだわと強がっていた姿はとても君らしくて印象に強く残っている。
 
 
 閉店後の店内の雰囲気は私にとってまさに幸せその物であった。ヴィヴィエーナを君と営んだ三十年間、一日でもその時間を嫌に思った日は無かった。むしろ店の開いていて客で賑わっている時間や定休日なんかより、仕事を終えて店仕舞いをした後、私が店内の掃除をしてから二人分のコーヒーとケーキを用意し、客用テーブルで帳簿の整理をする君の隣へ行ってその日一日を振り返るあの時間は何にも代え難く只々ただただ幸せであった。それから二人で帳簿作業を片付けて二階へ上がるとそれ以上余計に働くことも無く、夕飯を食べてまたゆっくり話をして、それで眠った。私は当時からそれ以上を求める気持ちは持ち合わせていなかった。同時に、その幸せを失ってしまう恐怖から、その日常を守り続けたいという強い気持ちを持っていた。

 
 君は私の胸の内や頭の中は何でも見透かしていた。それと同様に私も君の気持ちや感情に鋭かった。それだから大喧嘩を繰り広げた記憶はやっぱり無かった。こうして手紙を綴るにあたりじっくりと歴史を思い返せば、押入れの片隅に綿埃わたぼこり程度でも口論の記憶くらいあるかとも思ったがそれさえ見当たらなかった。君と私は単に仲が良いと形容するよりも心が通じ合っていると形容する方が相応しかった。時にほとんど同じ命が君と私の二つに分かれたものの様に感ぜられる事さえあった。君が笑っていれば私は幸せであったし、君が悲しげな時は私の胸もしくしくした。口論をした記憶が無いとはいえ、それで互いに心の内側が鬱積うっせきとしていたかと言えばそうでもなかった。仮にどちらかが胸の内に何かを隠し持っていれば、相手はそれを容易たやすく見抜き、適切に取り扱えた。君は余計な事をいつまでもぐるぐると考える癖の持ち主である割に、思った事をぐ口に出す所もあった。私は頭をぐるぐるとさせる癖を持っている点については君と似ていたが、思った事はどちらかと言えば顔に直ぐ出た。それが互いに良く作用した。君は君のその性質を好ましく思っていなかったが、私にとっては何でも言ってしまう君の性質は解り易くて心地良かった。私も私自身が持つ性質を嫌っていたが、君が「オースは考えている事が顔に直ぐ出るから解り易い」と笑ってくれた御陰でそれほど苦に思わなくなった。
 
 先にも書いたが君と私は結局三十年間もヴィヴィエーナを守り続けた。有難い事に開業したばかりの頃から誰も訪れない日は無く、常連客も何人も付いた。この古い防御壁で囲まれた小さな町は世界から見ればほんの片隅かもしれない。世界にはヴィヴィエーナよりも繁盛している名店が数多くあるに違いない。それでも私はこの、君と私で築いて来たヴィヴィエーナという店が誇りであった。君と国内外へ旅行に出る事だって何度もあったが、私にとってはヴィヴィエーナで繰り返される日常の方が特別であった。それほどまでに愛していた君と私のヴィヴィエーナを、私は君がこの世を去った後に閉める決心をした。
 
 
 君の死因はなんでも稀病による病死だった。私がその病名を知った時はもうすでに君の亡くなった後の事で、御医者さんが死因を調べてくれてそれで教えて貰った。初めて耳にしたその病気が稀病と言われるのには君の体質が関係していた。世界中殆どの人はその病原菌への抗体を生まれながらにして持っており、はなから免疫がついているらしかった。特に世代が若くなるほど持って生まれる抗体量は多く、私達の古い世代と比較しても年々量が増えているという統計もあるそうだ。所が君の場合はその抗体をまるで持っておらず、それどころか大変相性の悪い体質だったそうだ。それで何処からか病原菌を貰って来て患ってしまったんだと御医者さんが説明してくれた。私は医療について素人だから説明を受けたってこれくらい単純な事しか理解が出来なかったが、何れにしてもその病にかかる事自体が稀有なところに加えて、君の場合は死に至ってしまった。これには一つ私の無知も大いに原因と呼ぶに値する。その点については、ただ君への感謝や思い出を書き綴るだけでは誤魔化しきれない大きな後悔と申し訳無い気持ちがある。済まなかった。
 
 
 君が病気を患って寝込んだ最初の日の事を僕は今でも後悔している。普段私よりも早起きな君は、その日は私が目を覚まして着替えを済ませ、隣でがさがさと動いても一向に体を起こす気配が無かった。私がおはよう、と声を掛けると君もおはよう、と返事はしたものの、その声にも力が無い様に思われた。「もう少し眠っているかい」と私が聞くと君はうんと答えたから、私は部屋を出て君の為に紅茶を淹れると、小さいクロワッサンを添えてまた寝室に戻った。君はまだベッドに潜っていた。私が朝食を枕元に運ぶと君は「今日は働けない」と申し訳なさそうな顔で言ったから、私は寝ている君の肩を抱くようにして「気にしないで良いよ、ゆっくり休んでいて」と言って仕事の準備に取り掛かった。この時の私は君の体調不良には気付いていながら、それを単なる風邪だろうと気楽に考えてしまっていた。
 
 昼前、店内に一度客が居なくなった頃、私は君の眠る寝室まで上がって行って中を覗くと、依然として君はベッドの中にいた。私がまた体調を尋ねると、朝よりも少し悪くなっている様だったから私は体温計を取りに行ったついでに水も持って来て、それで君に体温を測らせた。音が鳴るのを待つ間に、薬は飲んだかと聞くと君は首を横に振ったから私は急いで店頭に戻って、お店の為に準備してあったスープを一杯すくってまた持って上がった。その時店内に一組の常連客が座っていたから、ちょっと待っていてと伝えると、どうしたそんなに慌てて、ゆっくりでいいよと言う返事が聞こえたが、それさえ私は既に背中で聞いた。寝室に戻ると君は「三十八度だった」と検温の結果を教えてくれた。私は君にスープを飲む様に促して、それから風邪薬も飲むんだよ、食器は床に置いておいたらいいからねと伝えて頭を撫でると、また店頭に戻って客のコーヒーの支度をした。
 
 君が風邪を引いた事なら過去に何度かあったから、それまでと同じようにこの時も私は君の看病を続けた。熱もそれ以上酷くなる事は無かった。然しまた三十八度から下がる事も無かった四日目の晩になって、私は流石に普通の風邪では無さそうだと思い、次の日には店を臨時休業にして病院に行こうという約束を付けて眠り、翌日目を覚ました私の隣で、ついに君が目を覚ます事は無かった。
 
 
 私の頭はその時、後悔とか哀情とかが浮かび上がるよりも真っ白になった。真っ白になったままどれくらい君の傍を動けなかったか覚えていないが、それらの感情を差し置いてその次に浮かんだ気持ちが、店を臨時休業にしておいた事への安堵であった事は、この手紙という場を借りて君に一言謝っておきたい。それから徐々に事態を飲み込み始めた私は、そこでようやく具合を悪くした君を四日も医者に見せずに過ごしてしまった自分を悔いた。そうして震えながら救急車を呼び、呼吸を忘れた君と共に救急車に乗って病院へ向かった所までは覚えていたが、その先の事は断片的にしか記憶していない。特に病院から家まではどう帰って来たんだかまるで覚えていなかった。
 
 
 それから数日間、葬儀の時を除いて臨時休業の貼り紙もそのままに私は幾日も家の中に籠っていた。外へ出る気力、もとい生活の気力は畢竟ひっきょう君から注がれていたという事が良く分かった。かと言って家に籠っていれば君の残像を其処彼処そこかしこに見てそれはそれで辛かった。目が覚めると隣には感触の無い君がすやすやと眠っていたし、そうかと思えばキッチンの方から寝室へぱたぱたと来て扉の隙間から顔を出した。時折階段を降りて店の中へ行くと、テーブルに座って帳簿の整理をする君の背中があったりするから、私は二人分のコーヒーを淹れては向かい合わせに座る。座ると君は姿を眩ませて、結局私は二杯のコーヒーを一人で飲んだ。時折、こうして落ち込んでいるばかりでは君に顔向け出来ない、君の分まで頑張らなければと考える時もあった。然しそう考える頭に気力や体は矢張りついていけなかった。光を失った私の生活はたちまち影を濃くしていった。
 
 
 それから数週間と経った後、私はようやく自立した生活を送れるくらいに回復した。自立と言ってもそれまで誰かに保護して貰っていたわけでもなく、食料品を買いに行くくらいな事はそれまでもしていたが、真面まともな食事や真面な睡眠を取れるようになったのがその頃くらいからだった。この手紙を読んだ君を悲しませない為に書かない方が良いだろうと思っていたが、隠し事をする事の方が君は悲しむと思うからここに赤裸々に激白すると、私は君を追って自ら命を絶とうと思った夜を幾つもやり過ごした。一つ安心して欲しいのは、私はその愚行を思い立ったばかりで決して手段を選び実行に起こす直前まで行った事は無かった。私には勇気や気力が無かったわけではなく、いやそれらも無かったには違いないが、何よりも君がきっと悲しむだろうと思って行動には移さなかった。それでもそのくらいに私の生活がどんよりと生気を失っていた事は、きっと君のことだ、言わなくても分かってくれるに違いない。
 
 自立した生活を送れるようになると、そこでもう一度君と私のカフェ・ヴィヴィエーナの事について考える事が出来た。ヴィヴィエーナの事を考えるという事は店を愛してくれる御客さんの事を考える事でもあった。ただでさえ臨時休業と貼り紙をしたまま突っねてしまっている状態であったから、冷静さを取り戻した今になってそれを思うと悪い事をしたなと反省せざるを得なかった。ヴィヴィエーナの進退を考え始めた時点ではまだどっちつかずであった心も、考えれば考える程、閉店という選択肢が強くなっていった。これは社会的な損得も忖度そんたくも無く、ただ私の内に木霊する叫びが、「君と創り上げたヴィヴィエーナだ、君を失ってしまった以上、もはや私の悲しみを刺激し続ける単なる箱に過ぎない」と言うのに従った私の意見であった。
 
 しかし幾ら何でもこう突発的にシャッターを下ろしてしまっては余りに不躾ぶしつけだと思ったから、私はヴィヴィエーナを畳んでしまう前にもう一日だけ特別に店を開け、常連客をはじめとする来訪者に事情と感謝を伝える事に決めた。これで未練無く、君との愛や苦労の染み込んだカフェ・ヴィヴィエーナに幕を下ろすつもりでいた。
 
 
 特別開店日の日は有難い事に朝から大盛況だった。これまで町のしきたり通り日曜日を定休日にしていたが、この特別開店日は日曜日を選んだ。町全体が静かになる休日に店を開けて、なるべく多くの人が顔を出せるようにと考えてそうした。君を失ってから誰にも会いたくない日が続いていたから、買い物に出るにも出来るだけ人通りの少ない時間を狙って、極力外出の機会が減るようにと考えながらまとめ買いをしていた私は、見慣れた常連客の顔や店の盛況ぶりを見てようやく現実の世の中に戻って来れたような心持がした。私の顔を見るや否や「心配していたんだよ」と声を掛けてくれた客は一人や二人ではなく、このヴィヴィエーナがどれだけ愛されていたのかを再確認することが出来た。それから私がカウンターに立てておいた君の写真に向かって寂しさをあらわにする客が数えきれないほどいたのを見て、私と人生を共にしてくれていたリアという存在がどれほど愛されていたのかも再確認した。どこまでも君は私の誇りだよ、リア。
 
 常連客に混じって私の親友達も顔を出してくれた。君も知っているブルンとブルクとヴェデレの三人だ。彼らは皆それぞれ妻と子供も連れて来た。実は私が家に閉じ籠っている間にも彼らは私に手紙を寄越よこしてくれた。君への御悔みと私への励ましの言葉の書かれた手紙の最後には「もし何かあれば力になるからいつでも連絡をしてくれて構わない。是非また親友同士で集まって話をしよう」というような事が書かれていた。しかし私の方で、幾ら気心の知れた彼らと言えど人に会えるような状態ではなかったから、この日こうして顔を合わせるまで私は手紙さえ送り返す事が出来ないでいた。久し振りに彼らの顔を見て、それだけで幾らか心が軽くなったような気がした。
 
 彼らは時間を合わせて揃って出向いてくれたらしかったから、私も丁度客入りが落ち着いた頃を見計らって彼らの席に着いた。そうは言っても長時間そこに居座り続けるわけにもいかなかったから、私はまず来てくれた事への感謝と、それから手紙を貰っていたのに返せなかった事への謝罪を最低限彼らに伝えた。彼らは「構わない」と断って、それよりも本当に店を畳んでしまうのかと心配そうな顔で聞いて来た。私はここに書き綴ったような細かい心境までは伝えず、リアを失った老人が一人で切り盛りしていくには繁盛し過ぎてしまったから止むを得ず畳むんだとだけ伝えた。彼らは口を揃えて「それは残念だ」と言ったぎり、それ以上追及はしてこなかった。その代わり、湿った空気を一変させるかのようにブルンが「しばらくの間はまだ大変だろうから、どうだ今年のクリスマスに男四人で集まって酒でも飲まないか」と提案をした。ブルクもヴェデレも、それどころか其々の夫人も皆賛同の意を表したのは、屹度きっと私を優しく気遣っての事らしく思えて、わざわざ感謝を述べる迄はしなかったが私も「是非集まろう」と前向きな返事をした。それが夏も暮れる八月終わり頃。君がこの世を去って間も無く二ヶ月近くが経とうとしていた頃だった。結局特別開店日の賑わいは閉店間際まで続いて、その日私はへとへとに草臥くたびれて久し振りにぐっすりと眠った。
 
 
 それから今日に至るまで私はカフェ・ヴィヴィエーナを畳む準備を余り急がずに進めてきた。いくら気持ちが若くても傍から見ればすっかり老人になった私だから、体力的にも急いで動く事は難しかったが、それ以上に君の残像が何時までも私の片付けを邪魔していたから、その度に私は手を休めて思い出に浸る必要があった。今はもうすっかり店内は空っぽになっている。食器一つ、椅子一つとっても、買った時と同じように一々君と相談して片付けた。ただ弱虫な私は捨てる勇気が無かったから、店で使っていた物の殆どが今も地下や部屋の中に置いてある。それでも今日になって、心からそれらの物品を残しておいて良かったと思った。
 
 
 そうして迎えた今日、クリスマス。実は今この手紙を書いている脇でブルクもブルンもヴェデレも皆眠ってしまっている。彼らも私同様気持ちが若いだけに、酒を飲んで気分良くソファーや絨毯の上でいい加減に眠ってしまっているが、六十歳を越えた体にこの寝方は余りに心配だからさっき皆にせめて毛布を掛けてやった。明日も祝日だから気楽だが、具合を悪くしたんでは家族に申し訳ない。
 
 八月に交わされたクリスマスに集まろうという男の約束はこの部屋で果たされた。各々夫婦揃って集まった事はこれまでに何度もあったが、思い返してみるとこうして男だけで集まったのはもう何十年も昔の事だった。さっきもその話になったが誰も正確に何年振りだか言える者がいなかったから君にも何十年振りとだけ書く。御陰で若い頃の様な溌溂はつらつとした気分を思い出した。皆が君の事を褒めてくれていた。気が利くだの、愛想が良いだの月並みな言葉ではあったがそれでも真剣に皆語っていた。君はこの期に及んで私の自慢だ。
 
 その他の話については、ある一つの話題を除いては大して特筆するに値しないような他愛もないものだった。その多くは昔話で、例えば各々夫婦で揃って海へ出掛けた時の事は君だって覚えているに違いない。海辺で寝そべって昼寝をしていた私の肌が真っ赤に焼けてしまって大変な思いをしたあの時の事だ。あの翌日にヴィヴィエーナの店頭に立ったものの、コーヒーの一杯を淹れるにも服が擦れて痛くてしょうがなかったという話を今晩彼らにしてやったら、「そう言えばそんな事があったな。実はあの時皆で店の外から見ていたんだよな」と大笑いしていた。確か君は私に「給仕は私が全部やるからオースはコーヒーマシンの前から動かないで頂戴」と呆れた微笑と共に優しくしてくれた。
 
 それからさらに歴史を遡って、私と彼らが初めて出会った時の話にもなった。ヴィヴィエーナの目の前の広場の片隅に地面に升を描いた大きなチェス盤があるが、あそこで毎週日曜日に同世代の若者が集まってチェスを打ち合っていて、彼らとはそこで出会って親交を深めた。今でも、当時ほどの賑わいこそ無いがあのチェス盤の所にぽつぽつと人影を見る時がある。
 
 私が君と出会ったのが二十二歳の時だったから、それよりも四年くらい昔になる。彼らとの出会いの経緯を君にも幾度か話してやった事はあったけれども、実際には君が立ち会えていない場面なわけだから、そう考えてみると四十年、いや律義な君の主張に従って言えば三十四年間もの年月を共にして、まるで一心同体の様に君の事を、そして私の事を分かり合った気でいても、私達が生まれてから出会うまでの二十年近い歳月はお互いに別々の時間を生きていて何となく寂しい気持ちがする。わざわざ手紙にしたためる必要も無いたらればを書けば、万が一二十二歳の春に君と出会っていなかった場合、それでも四年前にブルクやブルンやヴェデレとは出会っていたわけだから、今こうして六十を過ぎた男が四人で集まって酒を飲むという事が仮にあったとしても、それをまるで知る由もない世界の何処かで君が、リアという一人の素晴らしい女性が、私でない何処かの誰かと共に生きていたんだろうかと考えると、私の幸運を神に感謝するとともに一抹の恐怖も同時に込み上げる。私ほど君を愛せる人間は何処にもいない筈だから。
 
 
 さて、案の定長々と書き過ぎてしまった。今偶然時計に目をやったらもう日付が変わっていた。明日も祝日で助かったのは酔い潰れて雑魚寝をしている彼らよりも、こんな時間まで眠れずにいる私の方かもしれない。いい加減な所でめにしないと私はこのまま何時までも君との思い出や君への愛を描き続けてしまいそうだから、今日私がどうしてもこの手紙を書きたくなった最大の動機である話をようやく書く事にする。
 
 カフェ・ヴィヴィエーナを畳んで、すなわち君が私の元を飛び立った日の臨時休業から半年が経とうとしている今日、私はもう一度、このカフェ・ヴィヴィエーナを復活させる決心をした。いや、厳密に言えばカフェ・ヴィヴィエーナは君と私の宝物だから、君が居なくなった時をもってその歴史の幕を閉じた。それは揺るがない。然し、君と私のカフェ・ヴィヴィエーナを愛してくれていた常連客がこの町には沢山残っている。私は、君と私だけでなく支えてくれた常連客もカフェ・ヴィヴィエーナと運命共同体であり、閉店してしまった以上、常連客にも諦めて貰うしかないという考えしか持てずにいた薄情者だったから、ブルクを筆頭にしたブルン、ヴェデレの三人からの提案を受けなければ、カフェをもう一度始めるという考えには至らなかったに違いない。
 
 「オースのコーヒーを楽しみにしているお客さんが沢山いるはずだろ。しかしオースが抱いているリアやヴィヴィエーナを想う気持ちは俺たちだって理解出来る。だからヴィヴィエーナの思い出はオースの胸にしまったままで、この建物も家具も道具も、それに何よりオースのコーヒーを淹れる腕も残っているんだから、どうだ、いっそ店の名前も新しく変えて、いやいやこれはヴィヴィエーナを忘れろって意味じゃない、むしろ敬意だ、ヴィヴィエーナという場所はオースとリアしか足を踏み入れられない神聖な場所。名前を変えるのは上書きじゃない、別物と考えて始めるんだ。リアが居なくなって寂しい気持ちも力がみなぎらないのも良くわかる、あれだけリアの事を一途に愛していたからな。でも、だからこそ、リアはきっとオースの、上を向いて生きている姿が見たいと思うぜ。いやいや向上心ってことじゃない、無理して頑張れと言うんじゃないよ。ただ、生きているオースがこういつまでもうつむいてみるみる弱っていったら、リアはきっと心配するんじゃねえかなあ」
 
 
 これが今宵こよい酒の席で、ブルクが私に掛けてくれた言葉だ。恐らく一語一句漏らさずに書けたと思う。それくらい私の胸に焼き付いた言葉だった。然しこれを聞いた時の私は胸を震わし感銘を受けながらも一部では冷静で、単に老人一人で今から店を開き切り盛りしていくのは、君の事を差し引いたにしても難しい事のように思われた。だから私がその旨を彼に伝えた時、ブルクだけじゃない、ブルンもヴェデレも口々に「俺たちがいるじゃないか」と言った。つまり、彼らと私の四人でもう一度カフェを開こうという話が、既に彼らの中では今年の初秋の頃から企てられていたらしかった。「数年前に定年退職をしてすっかり隠居になっていたから暇だけはたっぷりあるんだ」とヴェデレが笑いながら言った。彼らのその言葉を聞いた時、私はまるで冷水を浴びせられた様に目が覚めた。常連客に対してだけでなく、私は彼らに対しても薄情者であった事を思い知らされたようだった。何故私は彼らを、如何いかなる形であっても頼るという行動を起こさずに、一人で何でもしてしまおうとしていたのだろうか、という自問には天を仰ぐ以外に何とも出来なかったが、私は彼らを信頼していなかったのだろうかと自問した時は即座にそれをぶち破った。そしてその瞬間、女々しくもめそめそしながら彼らに向かって頭を垂れ、思いの丈を恥ずかしげも無く彼らの前にぽろぽろと溢してしまった。
 
 
 その時、窓の外がぴかっと光ったかと思うと、ドーンという大きな破裂音が窓を揺らした。情けなく座っていた私よりも彼らの方が俊敏で、直ぐに立ち上がり窓に駆け寄ると「花火だ」と一同はしゃいで、ブルンがのろのろと立ち上がろうとする私の方を振り向いて表情のみで急き立てた。それで私も窓際に立ち、花火を眺めた。屋内からでは視界が十分ではなかったからブルクが窓を開けた。皆で身を乗り出すには狭過ぎた窓の外からは冷気と共に人々の歓声も聞こえた。「道理どうりで今日来る時にやけに広場に人が集まっていると思ったんだ」と彼らは皆で言い合った。
 
 ドーン、ドーンと教会の向こうから花火が上がる。私達はしばらく黙って夜空の色が様々に変わるのを見上げていた。この町でクリスマスに花火が上がるなんて事はこれまでに無かったから、リア、君にも見せてあげたかった。そうして見上げていたらブルクが私に「良い顔をしている」とにやりとしながら言って来た。それで私も彼の方を見た。
 
 「花火は良いよな、誰でも笑顔になる。さっきまでめそめそしていたやつだって、上を向けば自然と口角が上がる。涙も引っ込む」
 ブルクはそう言って私の肩に手を回した。それからブルンもヴェデレも皆で肩を組んだ。
 
 「この花火が、オースの、そして俺たちの再始動を祝うファンファーレだ。しっかり目に焼き付けておこう」
 ブルンのこの一言に私達の士気は上がった。余りにも劇的な場面で、打ち上がった花火とこのブルクの粋な台詞セリフがどうにも出来過ぎていたから、この花火も彼らが用意した物だと思ってブルクに聞くと「全く知らない、偶然だ」と言った。然し私は全くこの時の興奮で眠れずに、君にもこの出来事の全貌をどうしても打ち明けたくなった。それでこんなに長い手紙を書いた。私はもういつまでもくよくよとしないから、心配などせずにどうか笑って見守っていてくれ。
 
 窓辺の会議でヴェデレが、カフェを開くなら店の名前は何にしようかと、気の早い事を言い出して、ブルクもブルンも懸命に考え始めた。私は一緒になって考えているふりをして、実際は彼らの出した案に任せたい気持ちでいた。そうでなければどうしてもヴィヴィエーナの香りが残ってしまいそうだと思った。最初に案を出したのは例によってブルクで、それは私の名前のAusオース、そしてBrugブルクBrunnブルンVedereヴェデレの頭文字を取って付けた「VABBヴァッブ」という案だった。ブルンとヴェデレは間髪入れずに変な名前だと言って笑い出した。私はそれほど可笑しな名前とも思わなかったから、これならこれで受け入れるつもりで聞いていた。それからブルンは、私達の原点はチェスだと言って「PAWNポーン」という案を出し、ヴェデレは、老人が無理に洒落っ気を出すのは少々恥ずかしいからと、単純に広場の名前か町の名前にカフェをかぶせればいいじゃないかと言った。その案はたちまち他の二人から、それでは面白くないと一蹴されていた。
 
 この時の私達のじゃれ合いは、まるで広場のチェス盤を囲んでいた頃に戻ったように若々しかった。君もきっと後ろから私達が窓辺ではしゃいでいる姿を見守ってくれていただろう。君と出会う前の、君の知り得なかった私を少しは知ってもらえただろうか。結局店の名前を出すだけ出して、まとめる前に眠ってしまった三人の仲間と共に、私はこの場所でもう一度コーヒーを淹れる事にしたよ。華の一つもない四人の老人が営むカフェだから、君と私のカフェ・ヴィヴィエーナとはまるで別のカフェになるだろう。それでも君は、君とヴィヴィエーナはずっと私の胸の内に在り続けるから心配しないでくれ。そしてそこからまた力を借りて、名前のまだ無いカフェで、これまで支えてくれた町の人々の為に頑張ってコーヒーを淹れるから心配しないでくれ。君の好きだったモカクリームケーキの作り方も忘れたりしていないからね。もうよぼよぼとうつむいたりしないよ。約束だ、花火に誓おう。誓いにカフェを花火と名付けるのも良さそうだ、明日にでも提案してみるよ。
 
 
 それじゃあ長々と済まなかった。手紙を終える時の文言なんかも知らないから、どう終えるのが格好良いか分からないが、またカフェを始める時にでも手紙を書くよ。その時はまた付き合ってくれ。それじゃあおやすみ。




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