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「短篇集クリスマス・プレゼント」Ⅰ.christmas present ~PROLOGUE~

―クリスマスの日に交錯する、小さな町の4つの物語。―
「パンの町」と呼ばれる小さな町に3年ぶりに雪が降る。

コンプレックスを抱き引き籠るようになった少女・ナツメと、突如現れた隣町の少年・ジェネシスとの幼く純粋な愛。

生まれ故郷のこの町に後ろ足で砂を掛けるように外国へ飛び出しパンの修行に挑むも、志半ばで帰郷する事を決断したティミッドの煩悶と葛藤。

妻を亡くした絶望から共に営んだカフェを畳む事を決心したオースと彼を支える友人との深い絆。

そしてクリスマスの夜、町に夢を見せようと企む2人の若者・ケインとエーレの希望。

小さな町で起こる小さな物語がそれぞれに絡まり合い「パンの町」に感動を生む、全5話構成の短篇集。


Ⅰ.christmas present ~PROLOGUE~
Ⅱ.another life
Ⅲ.my dear
Ⅳ.christmas present
Ⅴ.journey

絵・文/GENCOS



 『...実は今ですねえ、まぁまだちょっと内容までは言えないんですけど、ちょっとこの、町の皆さんを笑顔に出来るような、こう、夢のある事っていうのをですね、計画していまして、あのー町の広場で、はい。で、その日にちが一応...』
 
 ただ惰性で流れているラジオから聞こえる男の声がすっかり雑音と化した部屋の中で、ナツメはベッドの上に座って真剣に本を読んでいた。カーテンは閉め切られていて、時計の針が指す三の数字だけを見ても午前か午後かまるで分からなかった。ラジオの中でこの男が喋っているというヒントがあってようやく午後三時だという事がわかったが、物語の中に没頭しているナツメにとってそれは大した問題ではなかった。
 
 ドアをノックする音でようやく現実世界に帰って来たナツメは、そのノックの力加減でドアの向こうに立っているのが母親だとすぐに分かった。
「もうすぐご飯よ、降りていらっしゃい」
 ドア越しにその声を聞くとナツメはすぐに本を閉じて、むしろドアに背を向けるようにしてベッドの中に潜り込んでしまった。母親は念入りにもう一度ノックした後、ナツメの部屋のドアをそうっと開けて中を覗いた。一見すればナツメは眠ってしまっているようにも見えたが、部屋の灯りとラジオが点けっぱなしだったので母親は、眠っているわけでもないだろうと思った。ベッドの傍まで近付く。小さく名前を呼ぶ。ナツメは少しだけ母親の方に顔を向けた。
「今日はナツメの好きなティラミスがあるのよ。パパが買って来てくれたの。デザートに食べましょう」
 ナツメは目線を母親から少しそらして、それでもなんとも答えられずにただベッドの中に埋まっていた。母親は布団の上からナツメの体を優しく撫でた。
「もし降りて来れそうだったらいつでも降りてくるのよ。そうじゃなければまたドアの前に置いておくから。いい?ちゃんとご飯は食べるのよ」
 そう言って母親は優しくドアを閉めて一階へ降りて行った。スリッパが階段をパタパタ叩く音が遠ざかっていくのを聞きながら、ナツメはまだ体を起こせずにいた。
 

 
「今日も無理そうか」
「そうね、あの調子じゃきっと降りてこないわ」
 母親が階段を全て降り切るよりも早く父親は問い掛けた。母親は首を横に弱く動かしながらそう答えた。
 ナツメが部屋から出て来なくなったのは去年の九月頃だった。ある日突然、ナツメは外に出るのを嫌がるようになった。それまでも決して活発に外で遊び回る様な子ではなかったが、それでも家族での食事や友人と出掛ける事なら人並みにはあった。
「まぁ、ドアに鍵を掛けないうちは、ひとまず大丈夫だろう」
 これが父親の主張だった。母親は心配を胸に抱きながら、父親の意見に賛同して見守ることにした。本人からはっきりとした理由を聞いたわけでは無かったが、親の二人にはナツメが部屋から出て来なくなった理由に思い当たる節があった。
 
 
 ナツメは布団に潜って考え事をしているうちに気付けば眠りに付いてしまっていた。目を覚ました時には既に時計の針は九を指していた。そうっと体を起こす。ベッドから降りるとスリッパを履いて、入り口のドアを静かに開いた。部屋の前に置かれた小さなテーブルの上に夕飯があった。ナツメはトレーごと持ち上げて、自分の部屋の中のテーブルまで運んだ。ビーフシチューの注がれた皿の脇にスライスした茶色いパンが二枚添えられ、父親が買って来たティラミスもトレーに乗せられていた。パン用に用意されていたバターは小鉢の中ですっかり柔らかくなっていた。
 
 ナツメはビーフシチューを啜った。すっかり冷めていた。パンを齧った。少し乾燥してぱさぱさとしていた。バターを塗ったらパンに染み込んでそれで食感は誤魔化せた。シチューもパンも食べ切るとティラミスに手を伸ばした。冷める事も乾燥する事も溶ける事もなくずっとありのままの姿であったティラミスを食べながら、周りの影響など受けずに自分らしく生きられたらどれだけ楽かと考えた。ティラミスはあっという間に無くなった。
 
 
 空になった食器をまた廊下のテーブルに戻すとナツメは椅子の上に、今度は両膝を抱えて座り、唇を尖らせて考え事をし始めた。考え事と言っても難しい事はあまり考えなかった。空想にふけったり、明日の食事を推測してみたり、さっき読んでいた物語を頭の中でなぞったりしている事が多かった。時々何も考えずにぼーっとしている事も少なくなかった。外に出なくなった理由については、今更もう考える必要もないほど考え尽くし、そうしてもう自分の中で答えが出ていたからそれ以来ほとんど頭にそのテーマが浮かぶ事も無くなっていた。
 
 椅子の上が退屈すると、今度は窓際へ移った。締め切ったカーテンを恐る恐る開く。町はイルミネーションの灯りが綺麗だった。ナツメはうっとりとした。イルミネーション自体も好きだったが、イルミネーションと街灯で照らされた石造りの建物や石畳の陰影を見るのがナツメは特に好きだった。眺めているだけで胸がどきどきした。しかしナツメはいつまでも夜景を眺めている事は出来なかった。景色の綺麗さにどきどきしていたはずの胸は次第に恐怖のどきどきに移り変わり、そうするとナツメはまたカーテンを閉めて外の世界を遮断しなければならなかった。そうしてまたベッドに上って本を開く。本の中は居心地が良く、ナツメはまた物語の中へ入って行った。
 

 
 ナツメの髪は黒かった。しかし生まれつき黒かったというわけではなかった。父親や母親と同じように、ナツメも生まれたばかりの頃は銀色の髪を持っていたのだが、十一歳の頃から少しずつ髪の色が濃くなっていき今ではすっかり真っ黒になっていた。原因は両親にもナツメ自身にも分からなかった。しかしナツメがそれを気に病んでいたのは確かだった。
 
 特にナツメを苦しめたのは友達や近所の人の視線だった。この町の人間は皆、綺麗な銀色の髪をしていて、黒い髪を持っているのはナツメただ一人だけだった。
 それまでナツメと仲良く育ってきていたはずの友達は、ナツメの髪がいよいよ黒みを帯び始めた頃から少しずつ様子が変わっていき、次第に距離が遠のいていくのが分かった。ナツメ自身は髪の色がグレーになり始めても気にせず今まで通りの態度で友達に接していたが、距離の開きが見え始めた頃から彼女たちの前で今まで通り笑う事は難しくなった。そうするとナツメはどんどんと人を寄せ付けない雰囲気を意図せず出さなければいけなくなった。ナツメはその原因が自分の汚い黒い髪にあると信じて疑わなかった。さらにナツメは仲の良かった友達がナツメ一人を除いて集まっているのを何度も目撃した事があった。その場合、ナツメは皆にばれないようにこそこそとその場を引き返すように離れたが、後日顔を合わせた時に何事も無い様に振る舞う彼女達が次第に恐ろしくなった。そしてついにナツメは一度もはっきりとした理由を尋ねることなく、彼女たちと会うのを自らぱったり絶ってしまった。
 
 町を歩けばすれ違う住人がもれなくナツメの髪を見た。その度にナツメはぐっと堪え、うつむいて早歩きをするよりほかになかった。住人はただ好奇の目で見ていただけかもしれない。それでも注目を浴びるナツメには、自分が通り過ぎた後に聞こえるこそこそ話も、その後に起こる小さな笑い声も、自分の髪を馬鹿にしているようにしか思えなかった。ナツメは自分の髪を呪った。しかしその不満を自分を愛して育ててくれる両親に無邪気にぶつける事も出来なかった。いつしかナツメは外に出る事が怖くなった。愛する両親に対しても、貰った体を悲しむ姿を見せる事もしないように努めた。
 

 
 本を開けばそこには夢の世界が広がった。まぬけなヒーロー、真っ赤な狼、丸々太った大男、鉄で出来たコック、黒い髪を持つ少女も物語の中には登場した。ナツメは本を読んでいる時だけは自分の黒い髪を忘れられた。もっと言えば、黒い髪を持つ自分を悲しむ心を忘れられた。ナツメはベッドの舟に乗って幾つもの世界を冒険した。
 
 時にナツメは水に浮かぶ街で夜な夜なダンスの練習をするピエロに出会い、その後彼が大きなサーカスの舞台で堂々と踊る姿に感動を覚えた。
 
 時にナツメは優雅なカフェで開かれたパーティーに潜入し、燕尾服に身を包んだ何十人もの紳士淑女の間を擦り抜け、菓子職人が運んできた巨大なチョコレートケーキに仕掛けられた爆弾を解除して皆の英雄になった。
 
 時にナツメは極平凡な男女の生活を眺め、大きな出来事の無い平淡に見える人生の中にも浪漫と物語がある事を知った。
 
 時にナツメは黒い髪の少女が文化も言葉も違う異国の地に身を置き、単身奮闘する日々を眺めては彼女を応援するとともに彼女から勇気を貰った。
 
 
 舟の上にはいつでも仲間がいた。いつでも自由があった。いつでも自分らしくいられた。とても居心地が良かった。いつしかナツメは自分の髪の色も、離れていった友達や、好奇の目を注いでは嘲笑する住人達の事もすっかり忘れてしまっていた。そうしてただただ自分の存在を感じ、幸せを感じていた。
 
 
コンコン、
 
 ドアを叩くノックの音でナツメはハッとし、本に向けていた顔を上げるとドアの向こうから母親の「おはよう」という声が聞こえた。ナツメは慌てて甲板に体を倒し、帆を頭までかぶった。母親はそうっと部屋に入って来ると、いつものように布団の上からナツメの体を撫でながら「朝食、廊下に置いておくわね」と言ってまた部屋を出て行った。母親のスリッパが階段を叩いて遠のいていく音を聞きながら、ナツメは布団を捲ってベッドの上に体を起こした。一度部屋を見渡す。時計の針は七を指していた。次の瞬間お腹がぐうと音を立てて空腹を知らせた。
 
 廊下から朝食を運ぶ。トレーには昨晩余ったティラミスと紅茶が置かれていた。ナツメは紅茶を一口啜り、それからティラミスをフォークで掬って口に運んだ。昨日の夜に食べたティラミスよりも冷えていた。さっきまで舟に乗って仲間と冒険をしていたナツメは、静かな部屋の中で一人ティラミスをフォークで口に運ぶ自分に大きな孤独を感じた。自分を受け容れてくれる愉快な仲間とティラミスを分け合う事は物質的に叶うはずがなく、自分を受け容れてくれない薄情な人間とはティラミスでも何でも物質的に分け合う事が出来る世界に、途端に自分の居場所が無いような気がしてしまった。ラジオさえ流れない静寂な部屋の中にぽそりと放った「誰かと信じ合いたい」という言葉が、「死んじゃいたい」に聞こえてしまってナツメは慌てて舟の中に逃げ込んだ。



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