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「なぜ勉強すべきなのか?」を真面目に考えてみる

パラバドミントン選手の正垣源です。
少し時間が空きましたが3回目の投稿になります。

なぜ私は勉強すべきなのか

今日はTwitterでこんな投稿を見つけ、思わず反応してしまったことから記事を書いています。

数学に限らず、「何でこんなこと勉強しないといけないの?」と誰もが子供の頃に考えたことがあるでしょう。
そして周りの大人に聞いてみても、イマイチ納得できる答えが得られず、そのまま大人になっていく人が多いのではないでしょうか。

実際に「なぜ勉強するのか」でググってみると、様々な人がいろいろな考えを述べています。
ざっとまとめるとこんな感じ。

実際にさまざまな場面で役立つ
視野が広がり人生が豊かになる
努力が結果に繋がることを経験でき、またそのノウハウを習得できる
先人が長年積み上げてきた知識を短期間で学べる
学歴が1つの判断材料になっている

勉強することのメリットとしてはどれも正解だと思います。
ただ、「なんで今これをやらされてるの?」という問いへの直接的な答えとしてはどれもピンと来ない気もします。おそらく、高校時代の私ならおそらく以下のようなことを考えたことでしょう。

実際にさまざまな場面で役立つ
→役に立たないものもある。むしろ学年が上がり高校以上になると役に立たないものの割合が増えており、どう考えてもコスパが悪い。

視野が広がり人生が豊かになる
→学校で学ぶ内容以外にも方法がある。

努力が結果に繋がることを経験でき、またそのノウハウを習得できる
→学校の勉強である必要がない。むしろ学校の勉強以外で自分の好きなこと(私の場合はバドミントン)に没頭してその経験から学んだ方が効率が良い。

先人が長年積み上げてきた知識を短期間で学べる
→自分は別に世界をリードしてその知識を次につなげたいと思っていない。普通に過ごせばいいから自分には関係ない。

学歴が1つの判断材料になっている
→それは結果としてそうなっているだけで全く本質的ではない。

とまあ生意気な高校生だった私ですが、当時は理数科の進学クラスにいて毎日が勉強漬けだったこともあり、この問いとは切っても切り離せない学校生活を送っていました。
そして考えに考え抜いた結果、ある別の視点に至ります。

なぜ国は私に勉強させるのか

なぜ勉強するのか?と聞かれた時、ほとんどの人々は「なぜ”私は”勉強するのだろう?」と"私"を主語にして考えます。
この視点では、”私”が勉強から得たことやそのメリットを上げることはできても、それは結果論であり、「なんで学校でこれをやらされるの?」という疑問に対する直接的な回答には至りません。

そこで、この問いを考える上での主語を”私”ではなく、”国”または”政府”としてみます。つまり、「なぜ政府はこの内容を学習指導要領として子供たちに学ばせているのか」という問いに置き換えて考えます。

結論を言えば、私達が学校で勉強する理由は、
「国の発展のために必要とされる知識を政府が選定して、次世代に強制的に教育する制度によるもの」
なのだと思います。

…ただ、何か釈然としないですね。だって、

先人が長年積み上げてきた知識を短期間で学べる
→自分は別に世界をリードしてその知識を次につなげたいと思っていない。普通に過ごせばいいから自分には関係ない。

高校時代の私も含め、おそらく大多数の人々はこう考えると思います。

しかし、政府からすると国民は「マス」として捉えられており、1人1人の都合に合わせたカリキュラムを組むことは現実的に難しく、少ない割合でも良いから次世代をリードする人材を育成することは国力維持に必要になるため(実際にそういう人たちが育たないと大多数の国民も困る)、この政策は合理的だと言えます。

そうは言っても、私は学校の勉強なんかいらない!と思う人たちもいるでしょうが、そうなると早い段階で一部の見込みあるエリートだけを選別して教育を施す政策を肯定することに繋がってしまいます。

実際、私も小学校から中学2年生までは算数や数学が大の苦手で、「絶対に数学を使わない仕事に就く」と考えていました。しかし、中学3年生で突如として成績が伸びて数学が得意になり、理系の大学院に進学した後に研究機関で働くことになります。

子供から早い段階で教育の幅を狭めると、このような可能性を潰すことに繋がるため、やはりある程度の年齢までは全体に幅広い教育を受けさせることは必要だと感じています。

そもそも、日本の人口は1億3000万人のため、自分と同じ学年には単純に計算しても100万人以上の生徒がいます。つまり、もし1人1人の人生に最適な教育を行おうとすると、政府は毎年100万通り以上のカリキュラムを組む必要があり、これは現実的ではありません。

このような視点で考えると、政府が定めた一律のカリキュラムに基づいた学校教育の内容が、全ての生徒に100%役に立つ方が実は不自然なことがわかります。仮にそのような状況が実現しているとしたら、同学年100万人の生徒が極めて一律的な人生を送っていることになってしまいます。

つまり、学校で習ったことの大部分が役立っていないと感じる人が多いということは、それだけ人々が多種多様な人生を歩んでいることの証明であり、決して悲観すべき問題ではないのかもしれません。

個人目線ではコスパが悪い気がする学校教育ですが、政府目線では意外とコスパが良いのです。

じゃあ、”私”はどうすれば良いのか

以上が「なぜ勉強するのか」という問いに対する私なりの回答です。

つまり、学校で習ったことの多くを直接的に将来に役立てられる人は最初から少数派であり、今の私も含め、学校で習ったことが直接的に今の仕事に役立っていない(またはほんの一部しか役立っていない)多数派の方々は、学校で強制的に学ばされたことに対して、自分なりの意味を見つけ出さなければ、学校での勉強した時間が無駄になってしまうのです。

その自分なりの意味こそが、それが先ほど私がググって見つけた内容、つまり”私”を主語として考えた際に勉強から得たことやそのメリットです。

実際にさまざまな場面で役立つ
視野が広がり人生が豊かになる
努力が結果に繋がることを経験でき、またそのノウハウを習得できる
先人が長年積み上げてきた知識を短期間で学べる
学歴が1つの判断材料になっている

以上から、冒頭に紹介したTwitte投稿に対する私の回答は以下の通りです。
数学に関して言えば、「視野が広がり人生が豊かになる」が大きなメリットかもしれません。

結局のところ、私達は国や政府の都合で学校で勉強させられ、その内容が直接的に仕事に役立っている人の方が少ないのは事実かもしれません。
しかし、自分にプラスになるものを見つけ、将来のために自身の戦闘力を上げられるかは自分次第です。

「なぜ”私”は勉強すべきなのか」という私を主語とした問いには絶対的な答えがなく、自分自身に最もメリットがある理由を見つけることが重要なのかもしれません。

こぼれ話~数学を学べば戦闘力が上がる~

「なぜ勉強するのか」の問いで「役に立たない」としてよくやり玉に挙げられるのが数学です。

もちろん、数学は科学技術の発展に不可欠で、私達の日常生活を支えるありとあらゆる製品には数学が用いられているため、教育から全排除してはいけません。

しかし、大多数の生徒は科学者やエンジニアになるわけではなく、高校生になっても数学の勉強が付きまとうのは時間の無駄と感じる人が多いのも事実でしょう。

結論として、理系の道へ進まない生徒が高校数学を学ぶメリットは、「論理的思考力の養成」とよく言われます。

論理的思考とは、筋道を立てて物事を考えることですが、大きく分けると帰納法と演繹法があります。数学はほぼ演繹法のみを用いて構成されているため、このトレーニングに最適と言えます。

帰納法:さまざまな事実や事例から導き出される傾向をまとめあげて結論につなげる
演繹法:一般的かつ普遍的な事実(ルール・セオリー)を前提として、そこから結論を導きだす

リクナビNEXTジャーナル
帰納法、演繹法【今更聞けない問題解決のための推論】

私の経験では、数学に取り組むことで演繹法の習熟度が上がると、複雑なルールや制度を構造的に深く理解できるようになり、新しい制度設計の提案ができるようになります。
また、様々な問題に対して、制度を用いて解決する能力が向上したり、制度によって起こりうるトラブルを事前に予測して芽を摘むことも可能です。
これは企業や行政で働く上で間違いなく役立つスキルです。

さらに、何かの主張対立があった際も、既存のルールや制度を深く理解して使いこなすことで、仮に法廷闘争になった際も、何が有利で何が不利なのかをある程度は自分で判断して、弁護士に効率よく相談できるようになるメリットもあります。

と言いつつ私には法廷闘争の経験がありませんが、昨年にスポーツにおける裁判外紛争解決手続き(ADR)のスポーツ仲裁を行いました。

本件は日本パラバドミントン連盟の強化指定選手選考について私が不服申し立てを行い、事実上の勝訴を勝ち取ることができました。
過去に行われた選手選考に関するスポーツ仲裁において、選手側の訴えが認められたのは1割程度しかないことを考えると、それなりのインパクトを与えた事例だったと思います。

このように、数学を学び論理的思考力を身に付けることで、社会で生きていく上での戦闘力が上がること実感しました。

これを読んだ若い世代の方々が、騙されたと思って数学に取り組んでくれれば嬉しく思います。

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