対価
高校生 藤宮有紗 女
『あ、まただ』
ドアが開くと地下鉄ホームの軽快な音楽が電車に流れ込んできた。それに人は逆行して崩壊したダムのように駅構内へ押し出されていく。彼は次の次の次くらいで降りるから、私は決して流されてはいけない。
我先にと最前列を目標に動き出す人の群れ。大嫌いなはずの会社へ一目散と走り出す。前が詰まると自分よりも前にいる人間にプレッシャーかけている。目の前の人を一人二人追い越したとしても、到着する時間なんてさほど変わらないというのに。
私は人間の余裕のなさにやっぱりげんなりする。
油断をしていると『あ。またか』と思わされた。
今月で10回目。
誰かが私のおしりを触った。
とても一瞬のことで『あ。またか』としか反応ができず『あ。またか』ぐらいの頻度であることを再認識するだけだった。
痴漢はアダルトビデオのように密着して何分も触り続ける人は少ない。ほとんどが、ドアが開いて降りる瞬間による犯行ばかりだ。その時、掌で触る人もいれば手の甲で触る人もいる。痴漢被害熟練者の私は瞬時に区別ができるようになった。ちなみに、甲で触る人は触ったことを悟られないにしたいのだ。仮に後で詰められても『触れてしまっただけです』と言えるようにしたい。卑怯者はどこまでいっても卑怯者。
みんな疲れているのだ。何度も被害に遭っていると同情を彼らに向けれるようになった。女性として痴漢を軽視する発言は控えるべきだが、私はどうしても彼らを責め立てるほどの憤りはない。怒りの感情はいつの間にか消えて、薄くなって味もしなくなった。そうなると、何故この人たちは痴漢をするのだろうかと考えるようにもなった。
性欲を抑えるブレーキが故障している。
これは一般的な答え。
私の場合は『過酷な日常と引き換えている』に辿り着いた。
私の統計上、男性サラリーマンによる加害がほとんどだ。それもおそらく20代後半から30代後半にかけて。彼らの年齢層は社会と家庭とプライベートが最も満たされない年齢だと思う。
新卒で入社した会社に疑問を抱き。転職をして更に疑問を抱く。自分とは何なのかを考えるも見つかるのは空欄ばかりの経歴。付き合っていた彼女と結婚はしてみたもののかつての彼女ほど愛することができない。役職はついたが、給料は上がらないのに仕事だけが増える一方。部下の面倒と上司からの圧力で八方塞がりになる。友人たちはほとんど子持ちでもう友達というよりも父親の顔になっている。嫁に相談をしても返ってくるのは『子供ほしーなあ』の終着点。両親はどんどんやつれていきその姿は、死を安易に予感させる。
そして朝。私のおしりを触る。
つまらないクソのような日常と引き換えに。興奮してハイになれる非日常を体験できる。
こんなに頑張ったのだから触ってもいいのだ。これくらい大丈夫、だって昨日はあんなに苦労した。俺は悪いことをしているがいいことのほうがしている。だから捕まらない。
こんな程度の感覚で私の身体は触られるのだ。
最低でクソ気持ち悪い犯罪者がさっさと捕まって一生不幸になれ。
これは一般的な感覚だ。
私の場合は同情そして、諦めだ。
初めから同情ができたわけではない。最初は震えるほど怖かった。頭が真っ白になってその場で身震いをした。誰かに助けを求めたいが、声に出せない。冤罪だって言われたらどうしよう。そもそも本当にしてないかもしれない。暴力を振るわれたら。勇気を出しても誰も助けてくれなかったら。
そんな不安は沸騰しすぎた鍋のように溢れ出していた。
男とは性欲という強いエネルギーを内包している生き物である。私はそのことをよく知っている。無限に尽きることのない永久機関を持つ生物。
こんな生物を相手に敵対することは永遠に終わることのない戦いになる。
だから諦めるのも仕方がない。
泣き寝入り。
華やかな人生を送れず痴漢しか楽しみがない残念な男が聞いて喜ぶ言葉は『女の泣き寝入り』なんじゃないかと思う。
でも、それも仕方がない。
その禍々しい生物から性被害に遭ったのは私がまだ小学生のころだ。
仲良くしていた近所の男の子、なおや君の家によく上がり込んでいた。よくゲームや漫画やらで遊んでいたのを覚えている。家が近くて、親同士の仲がいいだけのよくあるやつだ。しかし、とある日突然遊ぶことができなくなった。お母さんが、もうなおや君の家に行ってはダメよと言ってきた。私の問いにはまともに答えず『ダメなものはダメ』を連呼するばかりだった。私は怒って家を飛びした。しばらくして帰ると父親にぶたれて、抱きしめられた。
行ってはダメな理由を18歳になった頃近所のおばさんから教えられた。
『なおや君のお父さんね、逮捕されたの』
『ありさちゃんのことを盗撮してたらしいよ』
『遊んだ後のコントローラーを舐めたりしてたって』
『怖いわねぇ』
この人たちは何を言っているんだ。大人がそんなことをするわけがない。当時の私は信じられなかったが、思い出したことがあった。
家族同士でBBQをした日、なおやくんのお父さんは私と水鉄砲で遊んでくれた。
『服は着たまんまの方がいいね』
小学生の私はその言葉に素直に従った。
『もっと手を上げて』
脇を狙われて喜ぶ私
『ほら、ここが弱いんでしょ』
遊んでくれる友達のお父さん
『ありさちゃん、これナニかわかる?』
18歳になって初めて付き合った彼氏とそういう関係になった時も『服は着たまんまの方がいいんだ』って言っていた。近所のおばさんたちは真実を話していたことが確信した。
BBQの日わたしに向けられたのは性欲だった。
大地が裂ける。空が割れる。大人がそんなことをするわけがない。ありえないなんてことはありえない。18歳の私が大人を疑うことを覚えたのはその時からだ。
電車がゆっくりと停まる。
次の駅で降りる。
私と同じ制服を着た人達はもうとっくに降りた。
けれど、わたしはこの駅で降りたい。
私は痴漢から被害に遭っている。
酷い話だ。
みんな疲れているのだ。
もう、健全な自分に疲れている。
不健全で汚くて醜い愚かな自分に成りたい。
引き換えに、取り引きとして、罪を犯す。
犯してもいいと思っている。
最低な人間の性の捌け口に私は毎日犯されている。
だからこそ、わたしは逃げない。
痴漢に遭ってでも、私は電車に乗るのだ。
彼が降りるまで、私は乗り続ける。
恋は私に力をくれる。
女の永久機関は恋だ。
高校生 高田春人 男
『あ、またか』
俺はストーカーの被害に遭っている。同じ高校ではない女子校生から毎朝付き纏われている。
この女子校生を俺は知っている。
以前、痴漢にあっていた子だ。
30代くらいの窶れたサラリーマンがこの子のスカートを手の甲で触って足早に逃げようとしたのを目撃したことがあった。
俺はそのサラリーマンを追いかけて、背広を掴み、首に腕を回して背中から地面に叩きつけたことがあった。そのまま寝技で押さえつけて、男が「離せよ!」とかなんとか言ってた気がするが、すぐに駅員に受け渡した。その後警察も駆けつけたが、証拠が不十分で現行犯逮捕には至らず、罰金のみの制裁にしかならなかった。
しかし、正義を執行した快感はとてつもなく、忘れもしない思い出になった。俺の手で犯罪者を屈服させる気持ちよさ。駅の構内に集まる人だかり、多くの人がスマホを向けてSNSに投稿して面白がる奴ばかり。俺はそいつらとは違う。
初めて女子校生を救った日だ。
その時の女子校生がアイツだ。
何を勘違いしているのか、アイツはその日からずっと俺の高校の最寄りの駅まで着いてくるようになった。先週は下校の時も待ち伏せされていた。正直迷惑だ。俺は君を救たくて救ったわけではない。救われたのが偶々君だっただけだ。
しかも、見た目も大して可愛くない。メガネで前髪は目元ギリギリまで隠れている。暗い印象でどちらかと言えば陰キャの臭いがする。痴漢被害に遭いやすいのは、弱々しく反抗をしてこなさそうな人。というのを聞いたことがあるが、本当にその通りかもしれない。
とにかく、気持ちが悪いから、警察に被害届を出そうか。
いや、それだと、せっかく救ったのに可哀想か。
じゃあ、明日から俺の彼女と毎朝登校しよう。
そうすれば、身を引いてくれるだろう。
なんて俺は優しいんだ。
あれ、でも。
あの女子校生、確か。
俺が倒したサラリーマンのスーツを。
背中が汚れたスーツを手で払ってたな。
手で払うか?ふつう
触れるか?ふつう。
あの女子校生は痴漢をしてきたサラリーマンに対して全く敵意がなかった。
それに、なぜ痴漢されたのに、時間帯を変えずに乗ってるんだ?
なんか。
気持ち悪いな。
俺の彼女刺されたり、しないよな。
……んなわけ、ねぇか。
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