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『育ちが悪い子』

 ユキって箸の持ち方変じゃない?

 口に運ばれるはずの鶏の照り焼きが途中で行き場を失ってしまった。
「え?そうかな?」
「こうじゃなくて、こうじゃない?」
「え〜初めて言われた」
「まじ?結構変だけど」
 彩音の顔はマジだった。
 もう一度自分の箸の持ち方を眺める。そして彩音の箸の持ち方を観察する。
「……おなじじゃない?」
「どこがよ」チョップが飛んできた。
 大学の食堂は席との間隔が狭い。できるだけ大勢の人が座れるようになっているのだろう。彩音は後ろの人の椅子に気を遣いながら立ち上がった。
「その箸の持ち方、私が直してみせよう!」
 それからお昼の時間をたっぷり使ってお箸の持ち方講座が始まってしまった。私の指を人形のように動かして、満足のいく指の形になったら「はい、照り焼き掴んでみる!」と言われ、失敗をしたらまた指を作らされる。それを何度も繰り返すが、鶏の照り焼きを上手に掴むことは出来なかった。
 照り焼きの脂が白くなり始めている。
 教えるのに疲れたのか「まあ、別にいいか」そう言って講座は終了した。
「うーん、直せないもんだね」
「ごめんね、どうしてもこうなっちゃうの」
 彩音は小さく頷いてから、スマホを眺めた。いつも切り替えが早く、物事に執着しない彩音とは一緒にいて楽だ。さっきまで真剣だったのに、もうアプリゲームでニヤつきながらプレイしている。
 こんな風に生きてみたい、そう思える人だ。
 でもきっと無理だから、私は諦めずに正しい持ち方で鶏の照り焼きを掴もうと再チャレンジした。

 べちゃ。

 あ。

 照り焼きが服の上に落下した。
「ユキちゃん落としちゃったんでちゅかー」
「落としてない!」
「赤ちゃんじゃん」
「滑ったの!照り焼きがぬるぬるしてるから!」
「なーにそれ」
 馬鹿にされているのに言葉には温もりがあった。
 今私の顔はどれくらい赤いだろう。恥ずかしくて彩音にチョップで返した。

 彩音には申し訳ないが、箸の持ち方が変だと言われたのはコレが初めてではない。
 もう何度も言われてきた話題でその度に私は「え?そうかな?」と言ってとぼけてきた。こうやって、取り繕うのを身につけたのは小学生の頃からだ。みんな私の取り繕いを見破っていただろう。彩音もきっとそれを見抜いている。でも構わなかった。抱え込んだり、考えたりしたくなかった。
 油断をすると小学校の給食の時間がフラッシュバックする。
 箸の持ち方が変だと判明してからみんなの頭の上に、とある文字が羅列したあの時。
 その文字をいつも思い出す。

『箸の持ち方が変な人って育ちが悪いんだって』

 年中短パン男子に言われた一言が今でも頭にこびりついてなかなか落とせないでいる。彼のカリスマ性は学年トップを争うもので、その一言は私のキャラクターを定着させるのに時間は掛からなかった。
 そして『育ちが悪い子』として数ヶ月弄られた。
 一番苦しかったのは、鯖の塩焼きが出たあの日。先生がみんなの前で私の箸の持ち方を正そうとしたあの時間は胃に激痛を覚えさせた。あの時の先生の顔は正義感の強い表情をしていて、やめてくださいとはとても言えなかった。
『こうだよ』
『できるよ大丈夫』
『全然恥ずかしいことじゃないよ』
『ほらみんな!笑わないの!』
 先生が促すと、みんな笑わないようにした。笑いたい気持ちを必死に堪えているのが私だけがわかった。
 給食の時間がやってくるたびにお腹が痛くなった。
 トイレで1人静かに泣いた。自分の不甲斐なさを呪って吐きそうになった。みんなができる当たり前のことが出来ない私。自分が情けなくて殺したくなった。
 箸の持ち方は小学生よりも下の子が習う初歩的なマナーだ。そのような単純な基礎を幼い頃から訓練されずにきたとは、さぞかし育ちが悪く見窄らしい家庭環境で育ったのだろう。
 クラスメイトはきっとそう思っているに違いない。
 気がつくと自分を卑下することが癖になっていた。己の醜さの解像度を高めて浮き彫りにする。周囲から受け入れられない自分を理解して、私はなんてダメな人間なんだと連呼する。

 鏡に向かって今日もブス。
 どんくさいくせにはしゃいでキモイね。
 箸の持ち方も勉強もできないんだ馬鹿だね。
 ちゃんと親の言うことを聞かないから。
 私は普通じゃない普通じゃない!
 育ちの悪い変な子!

 悪口は思いもしないから傷つく、なら、思えば痛くない。
 小学5年生の時に身につけたのは『取り繕う』だった。友達に何を言われても『え?そうかな?』ととぼけて焦燥感を隠す。いつも通りの平常時を装う。内心では冷や汗でびしょびしょになっているが、それも気にしない気にしない。私は変なんだ。育ちの悪い子なんだ。
 噛みきれない物を無理矢理噛み砕いて、咀嚼して思いっきり飲み込む。すると、案外楽になる、強くなった気がする。
 痛みは私を強くしてついに痛みが感じなくなったのだ。



 四限の授業が終わると、大学校舎は薄暗く昼間の喧騒が嘘のように人の気配がなくなる。誰もいなくなった校内を違和感なく歩けるほど、学生の衣をちゃんと着こなせているようだ。
 大学から最寄りの駅までバスで行く。時間を持て余した学生達がローカルバスに乗り込む。車内は隙間なく埋め尽くされて、遠慮と気遣いが必須な共有空間が完成された。まともに寛げない車内ではイヤフォンを付けて聴きたくもない音楽を聴くぐらいしかやることはない。流れてきた楽曲は家族の愛を唄っていた。『ありがとう』とか『笑い合って』とかそんな感じ。
 次のバス停のアナウンスが鳴る。帰宅までのカウントダウンをされているような気分になる。
 私の降りたいバス停はずっと遠く。車内の乗客はどんどん少なくなって、学生達を見送るのはいつものこと。気づけば2、3名しかいなくなっていた。
 あのごった返しの学生達は今頃家に着いて、その後飲みにでも行っているのだろうか。

 あー。
 鶏の照り焼き美味しかったな。
 明日の学食ランチはなんだろ。
 またお肉だといいな。
 彩音、ごめんね、箸上手に掴めなくて。
 気にしない気にしない。
 私は育ちが悪い子。
 ブスで育ちが悪い子。

 窓に頭を預けて外を眺めていると、楽しげな親子が手を繋いで歩いていた。
 買い物の帰り道だろうか。
 笑いながら歩いていた。
『今晩は焼肉だよ』
『やったー』
 勝手に台詞を付け足してみたけど、多分全然違う話をしているんだろうな。



「ただいま」

 玄関が閉まると同時に声を出す。
 冷たい冷気が廊下から流れてくる。
 深く息を吸い込んで、鼻から出す。
 リビングから水の音がする。
 もう食事の時間だ。

 シューズ棚の上にある小皿を手に取る。少量の水が入っていて右手の人差し指と親指を浸す。濡れた指で額と両頬を縦に濡らして、小皿を置く。
 この水。邪悪な炎から守る不純物の無い聖なる水。


「ただいま」

「おかえり」
 母はこちらを向かずにダイニングテーブルの椅子に座りながら返事をする。

 テレビもつけず、まだ明るいのにカーテンも閉めて背筋を伸ばし、ただ、座っている。何時間そうしていたのかはわからない。今どんな表情をしているかもわからないが、微笑んでいることは確かだ。
 真っ直ぐ洗面所に向かい手を洗う。アルコールをつけてイソジンでうがいをした。そしてすぐに和室へ向かう。
 和室には神樹がある。私の身長と同じくらいの神樹が四畳半の和室にある。
 神樹には『ククノチ水』を捧げなければならない。私はペットボトルに入っている『ククノチ水』を口に含み神樹の樹木へキスをするように垂らす。ペットボトルが空になるまで行う。
 この所作を毎日やる。
 母から教わったことだ。
 母も教祖様から教わったことだ。

「終わった?」

「うん」
 母はいつも私の所作を後ろから見ている。間違っていたらたぶん殺される。

「さあ、いただきましょう」

「うん」
 既にダイニングテーブルには料理が並んであった。

 蓮根と豆腐のハンバーグ。
 ナスのアクアパッツァ。
 生野菜の盛り合わせ。
 かぼちゃのスープ。
 無添加の野菜ジュース。

「ククノチ様。命の循環を与えてくださり感謝を申し上げます。水の血脈が、木の皮となり樹液となり種子を作ります。私たちの血と聖水はククノチ様の糧となります」
 母は滑らかに祈りを捧げた。
「ではいただきましょう」
「うん」

 野菜を素手で小皿に取り分ける。
 緑、赤、黄色。色とりどりの野菜が小皿を染める。生野菜がボウルにたくさん入っていて容赦なく鷲掴みする。冷たくひんやりしている。
 豆腐のハンバーグを両手で掴み半分に割る。小さくなった方を口へ入れて咀嚼する。唾液で溶かし喉を通過させる。
 汚れた手は濡れたタオルで拭く。
 ナスのアクアパッツァ。アサリは入っていない。オリーブオイルがかかっていて掴みにくい。今日の鶏の照り焼きを思い出す。照り返していた香ばしいあの匂いを嗅覚と脳が記憶している。

「ユキ?」

 口へ運ばれるはずのナスが途中で行き場を失ってしまってしまった。

「その汚れどうしたの?」

 ヨゴレ?
 なんのこと?
 服に目線を落とす。
 胸元に飛び跳ねたヨゴレ。
 タレと白くなった脂汚れ。
 鶏の照り焼きの脂汚れだ。
 鶏。
 トリ肉。

「ユキ?どうしたの?それ」

 普段母の口角はいつも上がっている。
 いつも。挨拶も。話す時も。食べる時も。祈る時も。寝ている時も。
 糸で頬を引っ張られているように微笑んでいる。

 激怒している時以外は。

「ユキ?」

 母の口角は落ちている。

「お母さん」

 静かなリビングに私の声が反響する。時計の針の音がやけにうるさい。私の声が震えてしまっている。学食の騒がしさがよっぽど心地よかった。
 早く彩音に会いたい。
 会いたい。

「なに?」

「今日ね、友達に馬鹿にされたの。箸の持ち方が変だって。それで、無理矢理箸を持たされて、友達が食べてる鶏肉を掴めって言われたの」

 息を整える。唾を飲み込む。

「私、鶏肉苦手なの!って言ったら笑われてね、そしたら、悲しくなって、私動揺しちゃって、鶏肉を服に落としたの。それで、また馬鹿にされて、、ごめんなさい」

 言い切った唇は乾燥していて、歯で唇の皮を剥いだ。

「ユキ」

 鼓膜に母がいる。

「つらかったね」

 母の口角が持ち上がる。

「うん」

「もうその子とは関わらないようにしましょう」

「え、」

 真っ直ぐ目線を移さなければ。思えば思うほど、視界が狭く狭くなってしまう。

「できるね?」

「で、できるよ」

 安心した母は大きな口でナスにかぶりつく。飛び跳ねるナスの汁と手についた油。母は口元がどんなに汚れても気にしていない。

「さあユキも食べなさい」

「うん」

 私は取り繕う。


               『育ちの悪い子』

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