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げもげもコンフュージョン

もしかしたらそれなのかもしれない!
「楽しいということには制限がない!」ということばについて。

「絵を描くこと」はもうできるから、描きたい絵を描けばいい。
ということに、画家の私自身が、気づいてない。
これは、音楽やってるR-nabyさんが昨日
「もう、かっこいい音楽はどんどん作れるようになった」
と、話していた言葉で、これを聞いた時最終的に、
私は自分に対する評価が私は自分で無さすぎて
描きたい絵に近づけるために頑張ったり研究したりしてて
それが、描きたい絵じゃなくて、
描きたい絵を描くための絵になってたりする。
ずれたりこねくり回したり。シンプルにするためにアイデア削ったり。
がんばるという場所を間違えていたんではないか。
だから、少しエネルギーも淀んでて、ずれてたのではないか。

というようなことが浮かんだ。

まだ、確信ではないけど。

数字ではなくて内容。でも、数字も大切。数字が一番になるとずれる。
て、よく聞く、よくいう、考え方。

まだ、確信ではないけど。

んで、歯が痛くなった。
なんといえばいいのこれーーーーーーー。

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日曜日に
みぎわさんのJAZZを聴きにマンハッタンのBARDLANDへ行きました。
技術とかその分野のしきたりや方法ってのを知らなくても
楽しめるのが芸術なんだ!っていうのを
全部で伝えてくれてたみぎわさんのJAZZバンド。
みぎわさんが空気全部をクリエイトしてエンジョイしている、
その、ゼロから生んでる感の偉大さと、なのに偉大ぶってない作品群の演奏で充満する雰囲気一体!偉大に見えないから偉大ってやつーーー?

その分野のことや、乗り越えてる何か、
以前の計画の中にあった何かをなぞる時に生まれる秩序
いろんなものがついてきても、引き算してシンプルにして
しかも、どうするか書き留めるってよりも、
楽しむってところまでたどり着くその華やかな強さを、
作品の雰囲気より内側のところからも伝わってきて。

わたしは頭で考える私と、感じる私の混乱も起きてました。
作品とかライブでそんな風になることないのになんでだったんだろ。
なんか特有の何かと初めてのデカイ物をもらった。
確実に、しかも、さらっと。

だから、わたしがconfusion(コンフージョン)だった。
げもげもコンフュージョン!

私自体が、こんなに少なくて楽しいものなのに偉大なんてあるはずがないって思ってたから、みぎわさんの生き方に、地味だけど深い嫉妬をズンと感じたんだ。わかりやすくない感動だから、混乱だったんだ。歯も痛くなったし。

鳥の声をJAZZにして、ピッコロで吹いてるとか、MTAやパトカーの音をJAZZ人してるとか、もう、わくわくすぎて。今これ描きながら泣きそうな感動。

「楽しいの先の楽しいには制限がない」ってきいたけどこれだったのか!
え?なにこれ。わたしの中の何かにめっちゃ訴えかけるんですが、わからない。
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歯が痛くても公園で過ごしていたら
ミナコちゃんが痛み止めを持って寄ってくれました。神様。



はい。いきついたのは。
今度は、NY在住のさおりさんと話してた時のこと。

日本では、職業聞かれたら、それが収入源だという意味になるけど
アメリカだと、職業答えたら、それが心意気のような感じになると。
カメラマンですって言っても、バイトして稼いでるお金でカメラやってると、フリーターって職業な感じになりますよね。でも、カメラマンなんですよ。ていう会話に、すごいたくさんの答えが詰まっててズドーンと驚きました。

またここ2日でストーリーがたくさん進んで、
自分の中で痛みも含めて、確かめられた!
そして、私は明日から行くはずだったアラスカをキャンセルしました。
ニューヨークでもっと自分が遊べるんだ!それを今やってみたい!
遊び方を知ってるようで、遊べてなかった。
公園で絵を描いていたら、気がつきました。

NYで生活してると、ちゃんと孤独まで行けるから、
助けてもらった時の感謝が半端ない。
孤独を行うのは、自分自身を豊かにするひとつの方法な気もする。
このことはまた書きます。

あー、全てにThankyouです。←ここにいきつく。

Tomoko Kouda  NYC 2019

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