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南極日記

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普通の会社員の男が観測隊として南極に行った話。日本では想像もつかない生活と冒険が彼を待っていた。暑苦しいほどの熱量は空回るほど美しい。感動の不朽の最強の初作。しらせ編、昭和基地編… もっと読む
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南極地域観測隊募集

南極地域観測隊募集

二月二十七日(月) 曇り
 手応えのない人生であった。漠然とした人生。頭の中に黒雲が立ち込めたまま、曖昧に生きていた。
 今日中に会議資料を完成させなければならないが、上司から執拗に指摘を受けて遅々として進まぬ。修正に次ぐ修正。フォントの大きさ、種類、半角と全角、表の位置、計算間違い、何度も修正を食らって意識が朦朧としてきた。死ぬまでにこんなことを後何回繰り返すのだろうか。
 メール受信フォルダに

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人生の集大成

人生の集大成

三月二十八日(火) 雨
 選考面接。無機質な会議室には受験者用の椅子がぽつねんと置いてあり、その向かいに面接官が数人いた。
「本日は悪天のなか、どうも。隊長の冬月です」と眼鏡をかけ白髪頭のおじさんが名乗った。優しい口調。自己紹介やら志望動機やらでよくある就職面接みたいな内容だったが中には観測隊らしい質問もあった。
「寒いのは得意ですか?」
「大学時代に北海道に住んでいたので寒さに強いというか心は道

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胸騒ぎの着信

胸騒ぎの着信

三月三十日(木) 晴れ
 見知らぬ電話番号から着信があった。通常なら無視して破棄だが何故か胸騒ぎがする。
「もしもし」
「南極観測センターのヤマギワと申します。白井さんでしょうか?」ヤマギワと申す男の話し方はあっさりしていた。もう南極に行く夢は破れ、フォントの世界で朽ちていく人生を考えていたので驚いた。慌てて返事をする。胸の鼓動が大きくなるのを感じる。
「白井さん、第いわ次南極地域観測隊夏隊、庶務

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出発の儀

一年九ヶ月後

一一月二五日(日) 晴れ
 成田空港集合。国際線に乗り込んでオーストラリアへ。二週間前に東京の晴海ふ頭から出港した南極観測船しらせがオーストラリアのフリーマントル港に停泊して観測隊を待っている。我々は飛行機でしらせを後追いする。
 一七時に成田空港の待合室にて、出発の儀。隊員の家族や記者、南極関係者、その他見たことない大人たちが大勢いた。冬月隊長の挨拶。隊員は公式ユニフォームとして

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南極観測船しらせ

一一月二六日(月) 晴れ 
 ブリスベン空港で乗り継いでパース空港に到着。飛行機の搭乗時間は一〇時間ほど。そこからバスに乗ってフリーマントルに到着した。
 停泊中の南極観測船しらせを発見して歓声があがる。上部が白色、下部がオレンジ色に塗られた船体は圧倒的な存在感があり、巨大な船体が頼もしい。出港予定は一一月三〇日。それまでの間に観測活動に必要な物資を搭載し、観測機器の調整を行う。
 しらせ乗船後に

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志望動機

志望動機

一一月二七日(火) 晴れ
 まるごさんまる起床。しらせ乗船後は隊員が持ち回りで当直業務を行う。当直の仕事には洗濯室にある洗剤の補充、風呂場のボディーソープやシャンプーの補充、「乗員確認」という業務がある。乗員確認とは、観測隊寝室を見回り全員が無事に乗船していることを確認して、朝六時までにしらせ当直士官に報告することである。オーストラリアにいる間は冬庶務山極さんと二ペアで当直業務をした。山を極めた男

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フリーマントルを出港したので報告します

フリーマントルを出港したので報告します

一一月三〇日(金) 晴れ 南緯三一度、東経一一五度
 出航。朝の陽光が柔らかくフリーマントル港に注がれた。初夏の風が吹いて新緑の樹々がそよぐ。いや、もう、南極に行かなくていいんじゃないか。オーストラリア出張大変良い思い出になりました、さ、日本に帰るか。そんな気持ちでいると出航の合図が鳴って驚いた。無情である。
 公式ユニフォームを着用しした観測隊が〇一甲板に並んで、出航の儀。岸壁には二〇人ほどの見

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ゆめゆめ忘るることなかれ

ゆめゆめ忘るることなかれ

一二月一日(土) 曇り 南緯三六度、東経一一二度
 波高に伴いしらせは揺れて、早くも船酔いで気分が悪くなる隊員が発生。私はまだ大丈夫だが、船体の傾きを感じる度に、これ酔っちゃうかもなと意識し、その意識が酔いの感覚を目覚めさせ、その感覚が酔っちゃうかもなの意識をさらに促進させるという負のスパイラルに陥り、先行きが不安になる。不安から逃れるために酔い止め薬にすがる。
 総員救助訓練、総員離艦訓練、溺者

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昭和基地は南極大陸にはない

昭和基地は南極大陸にはない

一二月三日(月) 晴れ 南緯四五度、東経一一〇度
 まるろくさんまる起床。朝食は米、柴漬け、サバの煮つけ、梅干し、味噌汁。飯椀の上におかずを乗せる。部屋に戻り二度寝。昨日よりも揺れが大きく、胃腸が締め上げられるような気持ち悪さと頭痛を感じる。南緯が高くなるほど海が荒れるので「吠える四十度、狂う五十度、叫ぶ六十度」と呼ばれる。吐きたいが吠えたい気持ちになは全然ならない。同居人の設備設楽はベッドに籠城

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南緯五五度通過

南緯五五度通過

一二月五日(水) 曇り 南緯五五度、東経一一〇度
 まるろくまるまる起床。大荒れの海、しらせは揺れ続けて直立静止していられない。寝る前に飲んだ酔い止め薬のおかげで体調は悪くない。朝食を食べる。味噌汁。ごはん少量。ししゃも。
 極地研へ報告メールを送った。
「現地時間六時三〇分にしらせは南緯五五度を通過しました。人員物資ともに異常なし」
 しらせが南緯五五度を通過したことは航海中の記念的行事であるが

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がま口ネット! 投入!!!

がま口ネット! 投入!!!

十二月六日(木) 晴れ 南緯六十度、東経一〇九度
 「ノルパックネット! 投入!!」
 艦内放送のテンションの高さで目が覚めた。ノルパックネットとは海中のプランクトンを採取するためのネット。朝から海洋観測が行われているらしい。
「がま口ネット! 投入!!!」
 特撮ヒーローの必殺技を叫ぶかのような言い方しやがる。ふざけているとしか思えない。普段の艦内放送では「朝食用意」、「消灯」など無個性で機械的

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初氷山

初氷山

十二月七日(金) 曇り 南緯六十度、東経一〇一度
 設備設楽がノートパソコンで映画を見ていた。高倉健主演の南極物語、犬を南極に置き去りにするシーン。
「おもしろい?」
「普通」
 設楽は私の方に一瞥もせずに答えた。パソコン画面を凝視する目は灰色に濁っている。設楽はトイレと食事と風呂以外は部屋に中に引きこもっている。気分が優れないと言っている人に対して、無理に外に出るように勧めるのは良くない。本人が

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ただいまより艦上体育を許可する

ただいまより艦上体育を許可する

十二月八日(土) 晴れ 南緯六十度、東経八五度
 腕からつま先まで全身がピンと伸びた倒立は美しい。身体が反らないように腹筋に力を入れて地面を押し続ける。大地のエナジーを感じることが大切だ。って大地のエナジーって何やねん。海の真ん中でどうやって大地を感じるというのか。私は先刻から倒立—―逆立ちの練習をさせられ頭に血が上って眩暈がする。
 「現在時刻、まるはちさんまる! ただいまより艦上体育を許可する

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フォックスロットからエコー

フォックスロットからエコー

十二月九日(日) 晴れ 南緯六十度、東経七四度
 二〇時〇〇分過ぎに「消灯」という艦内放送がかかると蛍光灯が消え、赤色灯の光に代わる。暗闇の中にぼんやり赤い光が浮かぶ空間は、深夜の病院が想起されて不気味に感じた。最初は。しかし人間というの慣れによって感覚が鈍るのでそれが日常になった。隊員達は消灯後に幽鬼のように艦内をふらふら徘徊したり、酒と肴を携えて仲のいい隊員の部屋を夜な夜な訪れる。
 今夜は私

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