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「ラテンアメリカの民衆芸術」展の感想

大阪万博記念公園にある国立民族学博物館で行われている「ラテンアメリカの民衆芸術」は内容的に素晴らしいだけでなく、鑑賞者に謎をもたらすものでもありました。

展示の概要

ラテンアメリカの民衆芸術はいわゆるファインアートではないもの、という括りでとりあえずは大丈夫です。

ラテンアメリカでは、民衆のつくる洗練された手工芸品を民衆芸術(スペイン語でArte Popular=アルテ・ポプラル)とよびます。北はメキシコから南はアルゼンチンまで、古代文明の遺物から現代のアート・コレクティブの作品まで、国立民族学博物館が所蔵する作品を中心に約400点のいろいろな民衆芸術作品を展示します。

国立民族学博物館公式ホームページより

例えば下のような土人形や素朴な玩具です。

東方三博士の来訪の土人形
音を鳴らして楽しむタイプの玩具

これが第一章としてずらり並ぶのは圧巻なのですが、展示は早々に「これらはどのような文化や風習から生まれたものなのか」という根源的なところに遡ります。このスピード感が比類ないもので、次の部屋には古代アンデスの陶器などが並んでいるのです。この早さが鮮烈でした。

そしてここからが非常に長く面白いので、入場してすぐの「民衆芸術」は一旦端に置かれます。

呪術用のお面。ずらりと並ぶ様は圧巻
元々アンデス山脈の地域では南十字星を崇める文化があったので、入植者が持ち込んだキリスト教の十字架は受け入れやすかった。そしてそれらが土着化した例。

展開としてはふたつ。①元々の文化にキリスト教の影響が混ざり合った例、②その後のアフリカやアジアからの文化の混合 というもの。①は上の十字架のような展示品から、②は私も知らないことが多く勉強になりました。

メキシコ漆器文化。コロンブス以前から作っていたようだが、大航海時代で日本の漆器が入ってきたことで、それを真似したものが作られた。メキシコでは漆器を「マキ」と呼ぶのも、日本の蒔絵からきているとのこと。

このような文化の混淆がみられ、それが後の民衆芸術に繋がるという位置づけがなされています。

そしてキービジュアルになっているあの作品がお出まし。

メキシコのオアハカ州の「ヤギのナワル」
ナワルとは動物になれるシャーマンのこと

このような作品がずらり。どれも視覚的に強烈な印象を残すもので、ホドロフスキーの映画がこの文化の延長上にあると考えると「カルト映画」でもなんでもないなと思います。

そして社会風刺や政治批判が全面に展開されるコーナーに入ります。ラテンアメリカでは公の芸術が公であるからこそ、社会批判的な作品が作れません。政治的弾圧の長い歴史があり、つい最近まで軍事独裁政権による言論統制が敷かれていた地域も多いのです。故にそれらから離れた「民衆芸術」だからこそ表現できるものがありました。

ブラジルの民衆版画と呼ばれるもの。普通に文学の挿絵も多いが、社会風刺的な作品も多い。
主題は聖書によるが描かれている人間は当時の風刺対象。

今も「民衆芸術」が官製で公の美術とは別に、現在進行形の現象であるのは、社会的抑圧への抵抗や不条理への叫びが根にあることが明白になります。序盤の面白さとは打って変わって深刻なものになっていくのが、この展覧会の凄みでしょう。

感想 いつまで「ラテンアメリカ」と呼ぶことになるのか。

根本的なところで躓いてしまうのは、単純にエリアが広すぎるという問題。北はメキシコで南はアルゼンチンという巨大なエリアを「ラテンアメリカ」と呼ぶのは慣習であり、文学ではそのように括られることが多いです。ただ文学でそのようにまとまれるのは、作家が知識人階級でありスペイン語といういわばバックボーンの共通性があるからです。

では視覚芸術、特に土着性の高い「民衆芸術」にラテンアメリカ的な共通性は見出せるかというと、さすがに不可能でしょう。序盤に並ぶ古代ナスカ(アンデス地域)の陶器と、メキシコの民衆芸術の繋がり、ブラジル奥地の呪物とチリの風刺的刺繍の繋がりは、とはいきません。

このようなものが昔あった→新たな文化の流入により融合→民衆芸術としての表現へ」の公式はうまく書けていますが、→の移行の際にとんでもない距離と時間がかかっています。古代メキシコの遺品がメキシコの民衆芸術に影響を、なら分かりますが、その点でこの展覧会はとてつもなく広大な地域を単純化してしまっているように思えました。

しかしそれを本気でやるとなると展示物の量は何十倍にもなるため現実的ではありません。この展覧会が根本的に抱えているのは「多様性」という言葉で逆に均一化してしまっていることかもしれません。最後のブースで「多様性」を思わせる仮面の展示があり、その魅力や価値を知ってくださいと結びますが、それ故に先述の公式は成立しなくなります。いくらでも例外が見つかるからです。そして例外が多すぎて、展覧会構成のために抽出したものでさえ、多様すぎて繋がっていないのです。

ラテンアメリカという括りは文学および学術的なところ、つまり知的で抽象度の高い領域では可能ですが、必ずしも万能ではないことが視覚的に明示されました。これは個人的な反省点として覚えておきたいです。

感想 「多様性」でさらりとまとめてしまえるのか

後半の社会風刺や政治批判のブースがとても印象的ですが、それも「多様性」の枠に押しとどめてしまってよいのかということ。彼らの表現は実際に暴力や死と直結するものであり、日本や欧米のように表現の自由が認められ、議論を掻き立てようとするための挑発とは深刻度が違います。風刺という単語選択も正しいかどうか迷うくらいです。それらは「民衆芸術」として鑑賞し、その表現の豊かさを楽しむ、という本展の趣旨の中では極端に異質なものに映りました。

このヘビーなブースを抜けて階段を降りると、「多様な文化があるよー」「多文化尊重のためにラテンアメリカを見てみてね」とまとめる最後の仮面コーナーに続きますが、どうしてもそれが薄っぺらいものに感じてしまいます。闘争や血の現場としての「民衆芸術」の側面をまじまじと見せた後に、これらが来るとアレっと思ってしまいます。例えるならとても重たいフルコースのデザートが水っぽいシャーベットのようです。最後は重たい気持ちにならず「多様性」と未来志向で、という粋なのかもしれません。

しかしその多様性の根源はそれまでの文化の伝統だけではなく、政治的抑圧や社会不信や虐殺といった負の要素が強烈に関わっていると示したのに、それをどこか放り投げてしまっているように感じます。国公立の機関としてそれ以上政治的なところに進むのはリスキーなのは重々承知であり、むしろここまでやっている時点で本当に素晴らしいことなのですが、そこの靄はどうしても晴れません。

まとめ

・非常に優れた内容であり、遠方からでも行く価値のある展示。今年屈指の展覧会かもしれません。

・感想で書いたように、テーマがテーマ故にまとめきれないところや破綻がどうしても見えてしまいます。とはいえ無茶苦茶というわけではなく、むしろ展示やキャプションなど全体を通して素晴らしいです。

・視覚的に楽しいですし、間違いなく刺激的ですから、ものを作る人にもおすすめしたいものです。

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