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読書記録(2024年 3月分)

諸々が過ぎ去ったため、時間がかなりとれたこともありたくさん読めました。その中でもよかったものを精選してみました。

文芸書

①サミュエル・ベケット『モロイ』

第二次大戦後から1950年代がヨーロッパ文学の最後の輝きだと勝手に思っていますが、その時代に書かれた問題作。

なぜこの作品を読むのか、と理解する以前のよく分からないところでの感動がありました。文章を追っているものの、詩でもなくストーリーでもなく、どこまでも文章としか言えないものを読むという体験です。

小説は、娯楽でも芸術でも何らかのメッセージや美的感覚を伝達する「媒体」なのですが、この小説は「媒体」ですらなく、ひたすら文章そのものに読者を向き合わせるなと。稀有な困惑に包まれました。

②サミュエル・ベケット『マロウン死す』

三部作になっており、こちらは二作目。記憶の危うい人物の回想録という滑稽な言語空間が創り上げられていました。人生にせよ芸術にせよ、それらは記憶というものを前提に成立するものですが、この本にはそれが欠落しています。

『モロイ』で肩慣らしが済んでいたということもあり、読みやすくかつベケットが試みたことがうっすら分かってきた気がして、直接の続編という感じは一切しないものの、連作としての組み合わせには納得です。三作の中では本作が一番お気に入りです。

③サミュエル・ベケット『名づけられないもの』

三部作の最後で、とうとう難解度が高まり、文章が小説としてまとまる臨界を示すものでした。『モロイ』『マロウンは死す』を読んでいるからこそ読了しようと思える点、やはり三部作なのだなと感じます。単体では読む気になりません。

ベケットと言えば圧倒的に『ゴドーを待ちながら』で有名ですが、小説の方が面白いと思いました。難解というよりは、「思考しているときの未整理の頭の中はこのような感じだな」と共感できる裂け目がどこかにあり、そこに刺さればグイグイ読み進めることができるといった作品でした。表現したい何かではなく、「読むこと」それ自体へ捧げられた芸術です。

とても鮮烈な文学体験でした。ただこの手の小説はしばらく遠慮したいものです(笑)

美術書・学術書

①桑原夏子著『聖母の晩年 中世・ルネサンス期イタリアにおける図像の系譜』

聖書に記述のない聖母マリアの生涯や最期はどのように描かれてきたのか。頼るべき原典がないため、後世の神学的な展開から多様な図像が生み出されます。そのメカニズムが中世後期の都市の勃興によって、「他の都市とは違うのだ」という郷土愛主義でさらに広がっていく過程が面白いです。

西ヨーロッパに偏りがちのこの手の本の中では、ビザンツ地域の作例も多数紹介されており、非常に情報量が多く大満足です。近代がナショナリズムなら中世後期はカンパリズム(郷土愛主義)の観点がないとな、と思いました。

あとがきで著者の恩師の「研究はひとつの研究手法によるモノフォニーではなく、ポリフォニーであるべき」という言葉が響きます。

②前田秀樹著『保田與重郎の文学』

「日本浪漫派」という文学史の冷めた記述と、戦争賛美者としての暗い理解で片づけられがちな批評家に脚光を当てたもの。連載をまとめたものということもあり、内容の重複や繰り返しが多いのは気になりましたが、日本の古典文学を愛している方なら読んだ方がいいものだと思います。

国学者の契沖が研究し追い求めたもの、芭蕉が後鳥羽上皇や西行に見出したものは何か。西洋由来の「文学研究」では拾いきれないものへの視座を持ち、故に困惑する論理がありますが、前田氏の力量で筋が一本通っており、内容の深みが分かります。

文芸批評はそれ自身が第一級の価値を持つ文学であるような散文、という保田の「文人」の矜持は、この大著が備えているように感じました。

③鷲見洋一著『編集者ディドロ 仲間と歩く「百科全書」の森』

18世紀にあらゆる知を網羅しようとした「百科全書派」については知っているものの、彼らがどのようにそれを創り上げたかについての研究です。ですます調で語りかけるような文体で親しみが持て、最後まで面白く読みました。

思想家としてではなく実務家としてのディドロはあまり知らなかったので新鮮でした。書籍商とのバトルや専制啓蒙君主の介入などの困難など波乱万丈で面白さく、大量の図版と引用から18世紀の知のかなり大きな部分を見つめることができました。バランスが素晴らしく、読み物として優れていると思います。

AI時代の集合知の在り方まで照射した、未来志向のあとがきも見事で考えさせられました。過去を見て現在を分析し未来を論じる、丁寧ながら鷹揚な一冊です。

④五十嵐ジャンヌ『洞窟壁画考』

美術とは何か、なぜ人は絵を描くのか。このような疑問を抱くとまず洞窟壁画に思い至りますが、実際この分野は何がどこまで分かっているのかを整理した一冊です。芸術家は洞窟壁画をかなり想像力豊かに膨らまして書きがちですが、学術書の冷静な情報がようやく得られるなと思いました。

今後議論をするならこの本を底本にするのだろうなという、詳細なまとめぶりはもちろんですが、こんなにも洞窟壁画が点在していることや、ここまで研究が進んでいるのかという「驚き」に出会える刺激的な本でした。

やはり本当にいい情報は高額な本の中にあり、という感覚になります。

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