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デイヴィッド・ホックニー展感想(東京都現代美術館)

画業60年越えの、誰もが認める現代絵画の巨匠の展覧会です。現代において絵を描くということはどのようなことなのかを考えるには最高の機会だと思います。絵を描く人や興味がある人はホックニーをあまり知らなくても行く価値があります。

概要

1937年生まれで、ロンドンの王立美術学校を出てから、フランシス・ベーコンなど様々な画家の影響の下で絵を出品していきます。第1章は多くの画家から学んで実験している若い絵画エリートの回想録というもので、共感や身に迫るものを感じました。

転機はロサンゼルスへ移ってから。当時最新の絵の具だったアクリルを使った新しい表現に挑戦していきます。1960年代半ばからいわゆるホックニーらしい絵画と言われる表現が確立していきますが、東京都現代美術館はホックニーの版画作品をたくさん持っているため、その中の選りすぐりが並んでいて豪華でした。

《影のあるダイビングボード》リトグラフ 1978

網目状に影や形の揺らぎをとらえる表現は、色を塗るというより色で織るという、独特の柔らかさを感じさせるものです。編み物のような描き方でふにゃりとした、しかし存在感はあるという印象を受けますし、才能に痺れます。

《両親》1977年

まさかテートからこの作品が来るとは思わなかったので、感動しました。とても偉大な作品だと思います。ヤン・ファン・エイクやシメオン=シャルダンといった巨匠たちのエッセンスを詰め込みながら、それを自分の個性にしていけるホックニーの強さを感じます。

美術史的な要素が詰まった含蓄のある絵といっても、それを全面に出すことはせず、両親との落ち着いたプライベートの雰囲気以上には何もないので、ずっと観てられるのにミステリアスな絵になっています。

《クラーク夫妻とパーシー》1970〜71年

こちらも来ていたので感激いたしました。ホックニーの代表作のひとつで英国絵画の至宝と言ってもいいものですし、謎アンケートによる選出ですが「英国で最も偉大な絵画」第5位の作品です。

ミニマムなくつろぎ、自然主義と象徴性の心地よい融合がここにはあります。このブースはまるでベラスケスの作品と向き合うような集中と幸福感がありました。数百年の教養がここに集結しているのみならず、ホックニーの作品として表現されているのはさすがとしか言えません。

存命の画家で最も高値で取引されるのは1960半ば〜70年代の作品ですが、何度見ても段違いにいいです。このブース自体は作品が少なく、上の2点の傑作は次の入り口付近に置かれていたことで、通過ポイントのようになってしまっており、中々凝視させてくれない展示が恨めしかったです。

《龍安寺の石庭を歩く》1983年 コラージュ

ホックニーの探求は絵をどう描くという次元を超えて、どう見えるかという光学的なところまで行きつきます。彼の書いた『絵画の歴史』を読めばその没頭ぶりが分かりますが、次々とチャレンジしていきます。

特に写真を使ったコラージュ群は知的でユーモラスかつ、視覚的に面白いです。天才的と言っていいでしょう。

とはいえ1980年代過ぎから原色系の色使いに変わっていきます。マティスやキスリングなどに私淑したのかは分かりませんが、知的な均衡とミニマムな洗練から色彩の放埒へと舵を切っていきます。

《春の到来、イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート》2011年の一点

3階の最後に出てきた巨木も、一階の21世紀に入って以降の絵画も私にとっては「すべてを達成してしまった者の余技」としか思えないようなものでした。全然面白くないです。とはいえ例えばこの作品の雨の描き方は異様かつリズミカルで、やはり上手いと思います。

衰えではなく、ある境地に達してしまったので「これからどうしたらいいんだろう」と好々爺風に笑いながらやってる感じです。どう描くかよりどう見えるかという視覚の探求はひしひしと感じられますし、かつての完成度がないからといって、凡百の画家より優れています。

終盤は特に緊張感もなく、ただ大きかったり長いものばかりになって足速に出てしまいました。後半はピーター・ドイグの風景画の方がいいと思います。彼もホックニーの素晴らしい後継者ですが。

感想

①60年の探求か、衰退か、自己模倣か、自由への飛翔か。

上に書いたように1970年代のリトグラフやテートからきた絵画こそホックニーの極みだと考える私からすれば、60年の探求といっても早々に到達してしまってからの自由な放浪に思えてしまいます。

21世紀のデジタルな表現やますます激しさを増す色彩に惹かれる人なら、逆に昔の作品はつまらないと思うでしょう。ここは個人の感覚で分かれるどころです。

しかしピカソもそうですが、長すぎるキャリアは表現者にとってどれくらいの価値があるのかなとはふと浮かびました。この感想は言語化しづらいですが、この展覧会を観て似たように思った人はいると思います。

おそらくホックニーも巨匠として美術史に加わることはほぼ確定の画家(最悪の場合最後の画家として)ですし、売れに売れますから周りにイエスマンしかいなさそうです。だからこそ自由かつ潤沢に色々やれているのでしょうが、この自己模倣と緊張感のなさを「晩年様式」で片付けていいのかは悩みます。

視覚や見え方、メディアの探求であって絵画の探求ではないように思ったからです。

②現代美術を日本で観るということ

1960半ば〜70年代の素描とリトグラフはあっても、その時代の絵画(最もホックニー的と美術史や市場が評価するもの)はほんの数点しかなかったことは少し引っかかりました。代名詞たるプールの絵もありません。

不満がないと言ったら嘘になります。代表作を日本にいながら観られたことには感謝しかないのですが、やはりロンドンで行われるホックニー展と比べれば量的に全く及ばないのは事実です。

近年のホックニー展ですがスケール感から何もかも違うので、東京、そして日本にいる限界というのもやはり感じます。

前のオラファー・エリアソン展でも全く同じことを思いましたが、日本そして東京は現代美術のフィールドとしてはあくまで地方都市でしかないのだなと、突きつけられる体験になりました。

③ホックニーは凄い

単純に画家としての能力が極めて高いのは間違いありません。抽象絵画全盛期に具象、しかもポップな色彩を、という嗅覚や演出が凄いのかなと今まではどこか思っていましたが、改めて真剣に観るとナチュラルに画力が高いです。

《両親》など絵画が並ぶ次のブースに肖像画やデッサンが並ぶのですが、とにかく多様な描き分けができていて、上手い以上に表現の引き出しが多いです。あれは技巧的というよりはセンス的なものです。

『絵画の歴史』という本は私のバイブルのひとつでもあり、それを熟読してから観に行くことをおすすめしたいですが、どこか伝統的で既視感があるようでないような絶妙なところをついて、それら過去の諸要素を違和感なく融合させる能力は凄いと思います。

特に線の引き方は独特で強い個性がありますし、理知的なところと感性的なところの両方が高い水準にあることが分かります。このホックニー展を見て筆を折る美大生がいてもおかしくないでしょう。それくらいの力量がありますし、裏返しに学べる要素はたくさんあります。

まとめ

絵を学ぶ人や興味がある人なら絶対に行くべきかと。収穫は多いと思います。

普通に絵が好きくらいの美術愛好家、あるいはロンドンなど飛び回って観ている経験豊富なベテランからすると、どこか物足りないところがあるかもしれません。

貴重な機会であることは間違いないです。

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