【歴史創作】中央アフリカ帝国皇帝ヨハン・バルトロメウ・ムベンベ1世【架空wiki】
概要
ヨハン・バルトロメウ・ムベンベ(Johann Barthélemy Mubambie)はムベンベ朝中央アフリカ帝国初代皇帝。中央アフリカの独立と発展に尽力すると共に、同国独特の帝政形態を成立させた。25年間の治世の中で、年平均GDP15%増にも及ぶ経済発展とアフリカの政治統合への動きを加速させた。また、ヒップホップや前衛芸術などのサブカルチャーの保護者としての評価も高い。
生涯
生誕
ヨハンは1921年、当時のフランス領赤道アフリカ、ウバンギ・シャリ内のボサンゴアでコングマソ族族長の息子として生まれた。コングマソ族は同地域内の少数部族であり、父のアブサ・ミドゥン・ソヴザは周辺部族との混乱に終止符を打ち、和平を実現した立役者でもあった。
ヨハンは7歳で地元のフランス人宣教師が運営する小学校に入学。そのまま中学校に入学し、成績優秀なため奨学金を獲得した。1937年、16歳でフランス本国のパリ第二大学に留学した。
フランス留学
パリ大学では法学を専攻するが、経済学に転向。他にも軍事、民俗学など幅広い分野に興味を示した。また他のフランス植民地出身のアフリカ人留学生らと広く交流し、母国の独立を目指すという考えに初めて触れ、議論を重ねた。1938年には自由国民党の前身である、パリ大学アフリカ人クラブ(後、ウバンギの会)を結成している。
翌年の1939年1月、セーヌ河畔で画家を営んでいたフランス人女性クロエ・シノン・ルイースと出会い、交際を始める。彼女を中心にフランス人の交友関係が広がり、彼らはモンパルナスのカフェによく集まった。その中には後のフランス大統領フランソワ・ミッテランも含まれており、当時の彼を「祖国に関する議論の際、彼は鋭い眼光を放っていた。それ以外はパリの何もかもに目を輝かせる純粋な青年だった」と評している。
この頃、ヨハンはナポレオン1世に心酔し、ナポレオンゆかりの名所をよく訪問していたという。この後、ナポレオンの言葉を数多く引用している。
第二次世界大戦
同年ドイツがポーランドに軍事侵攻し、フランスはイギリスと共に、ドイツに宣戦布告。
第二次世界大戦が勃発した。ウバンギの会のフランス人メンバーの中にも、徴兵によりパリを離れる者が多くなった。
1940年にフランスは、ドイツの侵攻を受け降伏。パリはドイツ軍とその意向を受けたヴィシー政権下に置かれた。
この頃のヨハンの行動については異論も多いが、対独レジスタンスに協力した形跡が残っている。武器調達、情報連絡、ドイツ兵への諜報等である。しかし、同じウバンギの会の内でも、ナチス・ドイツに積極的に協力する事でフランスからの独立を早期に勝ち取るべきだとする意見も多数存在し、メンバー全員が積極的に動いた訳ではなかった。また、ドイツ軍は集会を禁じた為、ウバンギの会の集会は学生寮の屋根裏や路地などで秘密裏に開かれる事が増えていった。
1943年、22歳でヨハンはパリ第二大学を卒業。博士号を取得し、6年間の留学を終えた。彼は数名の同志と共に赤道アフリカ、ウバンギ・シャリには帰国せず、ド=ゴール率いる自由フランスに入隊した。諜報部に属し、スペインなどに駐在。最終階級は少尉である。
戦後・そして独立
1946年、赤道アフリカに帰国。バンギ市で弁護士事務所を開設した。しかし暫くは顧客がおらず、貧困に喘いだ。
1951年に転機が訪れる。当時ド=ゴール派の政党、キリスト教民主共和運動に参加していた、バルテルミー・ボガンダとの出会いだった。2人は意気投合し、フランスからの独立、及び中央アフリカ諸国の連邦構想を抱く。同年2月、かつてのウバンギの会のメンバーを呼びよせ、中央アフリカ独立研究会を発足させた。会員は34名。中央アフリカの地理、民族、文化などを来るべき独立に備え、調査していった。ヨハン自身も、自らのコングマソ族をはじめ、各部族の族長達を盛んに訪問した。
後にこの機関はボガンダの政党、黒アフリカ社会進歩運動(NESAN)に合流していく。研究会はNESAN内で活動し、NESAN内にも研究会に参加していく者が少なくなかった。
こうして独立に向け邁進していた頃、パリで交際していたクロエが突然ウバンギ・シャリを訪れた。彼女はヨハンとの第一子であるアブサを連れて、父親の反対を押し切り、ヨハンとの結婚を望んで単身アフリカへ渡ったのだった。
1955年8月10日、2人は結婚。ヨハン34歳であった。
1958年、 経済的な問題でフランスは遂にアフリカの植民地を手放す事を決意。赤道アフリカ内のウバンギ・シャリは、ボガンダを指導者として独立後の政治の枠組みを模索していく。その中には勿論、ヨハンも含まれていた。
旧植民地のセネガルやコンゴなどの支配政党は、協力してアフリカ民主連合を結成。フランスと交渉を進めていたが、ボガンダの黒アフリカ社会進歩運動はこれに参加せず、独自の路線を歩んでいった。ヨハンもフランス時代の人脈を生かし、フランス議会内に自派の協力者を増やしていく。
ボガンダはウバンギ・シャリの国名を
「中央アフリカ共和国」と改め、初代首相に就任。憲法の策定や議会開設、選挙実施に向けて制度を整えていった。
だが独立を真近に控えた1959年3月27日、
ボガンダが志半ばにして飛行機事故で死去。この事件は、不仲だった彼の妻とも、彼の政策に不満を持っていたバンギ商工会による犯行とも言われる。
彼の跡を継いだデビッド・ダッコ首相は初代大統領に就任し、1960年中央アフリカは遂に独立を遂げた。
強行選挙・大統領へ
ボガンダという優れたリーダーを失った建国間もない中央アフリカは、急速にその勢いを失っていく。能力に劣るダッコ大統領は的を射た政策ができず、経済は次第に失速。ボガンダが掲げた、カメルーン、ガボン、Rコンゴを合体させた中央アフリカ連邦構想は潰えた。
その失敗を補うかの如く、ダッコは前首相ボガンダを国父として神格化。そして自らを「ボガンダの意志を継ぐ唯一の指導者」として独裁体制の強化を図っていった。
独立後まもなく、ダッコは自らのものとなった黒アフリカ社会進歩運動以外の政党活動を禁止。アフリカ発展運動といった野党は活動停止に追い込まれた。こうした中ヨハンは与党内で合法的な活動をする一方で、密かに100人近い議員の研究会への取り込みと国軍の掌握を進めていった。
建国4年目を迎えた1964年3月9日、ヨハンは突如として100人近い議員を率い、与党黒アフリカ社会進歩運動を離党。新たに自由国民党CARNPを結党し、ダッコ政権への不信任表明と退陣を求め、一方的な議会解散を宣言した。3月9日名誉クーデターである。クーデターという名前ではあるが、それらは民主主義の枠内に収まった合法的な手段であり、実際はクーデターではないというのが現在の中央アフリカ法曹界の見解である。
次いで国軍がダッコへの忠誠を拒否し、ダッコは失脚を余儀なくされた。しかし、彼は危害を加えられることも国外追放を強いられることもなく、それどころか国会議員の続投を認められており、この事件が平和裏に進んだことを示している。
1964年3月24日、議会選で自由国民党は圧勝し、ヨハンは第2代中央アフリカ大統領に就任した。就任後すぐに政治犯の釈放及び政治活動の自由を実現する。さらにフランス共同体の補助金を利用して、首都バンギから東部ブリアや西部のベルベラティに向け幹線道路建設計画を立ち上げる。とはいえ、当時の中央アフリカはまだ財源規模も小さく、国家として出来ることは限られていた。
中央アフリカ共和国の発展
ヨハンは教育こそが国家の基礎になると考え、妻クロエを啓蒙宣伝大臣に任命。文字が読めない地方の一般国民に向けて、国の保健政策や農法、基本的な教育などを図解にしてわかりやすく伝えることを企図した。この「出張教育」という彼の政策は当初難航したものの、徐々に国民に受け入れられて行く。未発達の道路網にかえて、大河ウバンギ川の水運を利用し、一定量の地方の子ども達を教化することに成功。一部、国民意識の形成にも寄与したとされる。しかし、予算不足と道路の未発達から、効果はウバンギ川周辺に限られ、北部や北西部の教化には至らなかった。
1965年、この国の東部国境近くに巨大なダイヤモンド鉱脈が発見され、その後も相次いで金、鉄鉱石などの重大資源が見つかった。ヨハンはフランス資本を積極的に誘致し、重開発を進めてもらうことで政府歳入は爆発的に増大した。彼はその資金で地方への小学校建設、保健所設置や国民の留学、主要幹線道路の整備などを着々と進めていく。この頃ヨハンはある難問に対処しようとしていた。ボガンダ謀殺の噂も上がっていた、バンギ商工会との対峙である。
1965年10月、ヨハンは商工会代表3人と会談を行った。ここで彼らに東部地区の開発の優遇と引き換えに、国土開発への協力とバンギ市での市場開放を訴えた。利権を手放せ、ということでありバンギ商工会はこれを拒否した。そこでヨハンは商工会の分断を図り、新設した国営企業「国土開発公社」に協力する業者を補助金により個別に懐柔、分断していく。バンギには市場の機会が開かれて活性化し、地方との交流機会も増えたことで民間雇用が生まれた。この時期に創業した椰子油や石鹸の工場も多い。
帝政の衝撃
1965年12月4日、ヨハンは突如「来年度に自ら皇帝に即位し、帝政に移行する」と宣言した。この計画は一部の党員幹部を除き完全に寝耳に水であり、議会は紛糾。黒アフリカ社会進歩運動から独立していた黒色国民連合のグンバ党首は、この宣言に憤慨して党名を「共和党」に改めた。グンバだけではなく、国民の一部やフランスからも民主主義の破壊を危惧する声で溢れた。また今日に至るまでこの一件には学者の中でも意見が分かれ、どのような動機からこの宣言がなされたのか定説はない。後に語ったところによると多民族の中の団結の象徴としてであった、とか、エチオピアのハイレ・セラシエ帝などの君主外交を真似たかった等々様々な理由が推測されるが、バミンギ帝国大学カルウェ・モンバハ教授によると「単純にナポレオンに憧れていたところが大きい」とのことである。
とはいえ全くの私利私欲によるものだとは考えにくく、後に執られた国策の数々が、議会を重んじ国益を考えてできた事を見ると、現実を見据えたものだと考えざるを得ない。現に帝政時代に入ってからも、国民の支持は健在である。
1966年8月13日の独立記念日に実施された国民投票で、帝制移行は87%の賛成をもって可決された。これは啓蒙宣伝省による世論形成だけでなく、失業率が10%を割り込むといった経済発展の恩恵も大きいとされている。しかし殆どの先進国はこれらの動向を黙殺した。同12月1日には国号が「中央アフリカ帝国」と改められ、同月4日に皇帝ヨハン1世として即位。22日には、ユーゴスラビア政府による援助でバンギ市内に建設されたムベンベ・スタジアムにおいて戴冠式が挙行された。帝冠は帝国産のダイヤで装飾され、アザンデ族やピグミー族らの全国の族長たちの手によってヨハンに被せられた他、ナポレオンを意識して、妻のクロエにはティアラを自ら被せるなどの演出を行った。式典後は市内をパレードして周り、自身が中央アフリカの全部族と、民主主義国の国民の代表であるという理念を掲げた。パレードは多くの市民に歓迎された。
これらの様子は衛星中継によって世界に中継されたものの、先進各国は失笑した。式典を見たアメリカ政府は「こんな茶番に資金を提供する気はない」として一方的に経済援助を打ち切った。(5年後再開)ソ連誌プラウダは「他のアフリカ諸国が共産主義の勝利に貢献しようとしているという時に、専制時代に立ち返るかのような愚かな逆行だ。中央アフリカは人類史において場違いな存在になりつつある」と酷評した。
実際、招待された殆どの外交官は式典に参加せず、1966年時点で「中央アフリカ帝国」を承認した国は皆無だった。ヨハンは同じくエンペラーの称号を持つ者として、イランのパフラヴィー2世、エチオピアのハイレ・セラシエ帝、そして日本の昭和天皇に式典へ招聘する旨を送ったものの反応はなかった。(ただし、昭和天皇は国号変更への祝電を送っている)
国内の批判
こうした情勢から、ヨハンの戴冠式及び帝政開始は国会で激しい批判の的となった。止むを得ずヨハンは、外郭政党として自由国民党の一部を分離して帝政党を組織させ、自身の協賛団体としなければならない程だった。帝政への反対は68年に大きなピークを迎え、バンギ市内のデモ活動なども目立っている。しかし大多数の国民にとり、ヨハン政権は安定した経済発展の恩恵、政治信条の自由、各民族の平和共存をもたらす存在であり続けた。現に帝政開始後も、支持率は堅実に推移しているのがわかる。
ヨハンの対処策はそれだけに留まらなかった。彼にとって厄介な存在だったのは、一部過激なブラック・ナショナリズムを唱え、共和制回帰を主張していた若年層だった。1968年ヨハンは「帝国主義からのブラックアフリカ同胞の解放」を掲げ、「アフリカの虹」という武装組織を作り、アフリカ民族主義者の若者を加入させ、独立闘争を続ける他のアフリカ諸国に義勇兵として送り込んだ。こうしてモザンビークやアンゴラ、ビアフラ戦争時のナイジェリアやRコンゴに派遣された人数は、1968〜1991年の間に3万2000人を数えると言われる。「アフリカの虹」の狙いは、国民の中にある不満を外に逸らし、かつ黒人民族主義を掲げる他のアフリカ諸国に協力姿勢をアピールして帝政を承認させる、というまさに一石二鳥の政策であった。
長く抵抗した共和党やCA共産党といった野党だったが、こうした現実と、後述する君主外交の相次ぐ成功に際し、帝政批判は影を潜めていく。
外遊と国際的立ち位置の模索
帝政開始に伴う国際社会の援助減退を解決する事が第一と考えたヨハンは、67年年初から70年にかけて東西両陣営を含む欧米7か国の歴訪を行った。まずは1968年に旧宗主国フランスを訪れた。当時のブラックアフリカ諸国では強烈なブラック・ナショナリズムの元、欧米資本を強制的に接収・国有化する事件が多く、欧米資本は頭を抱えていた。ザンビアのケネス・カウンダ大統領による銅山接収などが有名である。ヨハンは金鉱山などのフランス資本の安全を確約し、フランス政財界の信用を得ようとする。
また当時のフランス大統領が退陣近いシャルル・ド=ゴールだったのは、自由フランス軍に従軍経験のあったヨハンとしてはまさに絶好のタイミングだったといえよう。実際にヨハンは、自由フランス軍の古い軍服を着用した姿でド=ゴールと面会したり、自由フランス軍時代の思い出話を披露するというパフォーマンスも行なっている。
こうした態度と資本保護の確約、そして少なくない金銭のやり取りはド=ゴールを喜ばせ、以後のフランスによる投資増大にも繋がった。
次に向かったのはスペインであった。当時のスペインはフランコによる独裁政権下である。独裁政権を維持しながら西側に属し、ある種独特の立ち位置にいるスペインを通じてバランス外交を展開したかったとされている。
フランコとは大胆な性格と軍隊経験の一致から意気投合した。後には、フランコの夏の邸宅であるPazo de Meirásに招待された程の仲となる。ヨハンがローマ教皇ヨハネ=パウロ2世や、キューバのフィデル・カストロらと懇意になったのもフランコの仲介が大きい。なおこの訪問の7年後にフランコが死去し、スペインは民主化の道を辿るが、ヨハンは民主スペインとも良好な関係を保つよう務めた。
1971年、ヨハンはアメリカ合衆国を訪問した。帝政開始以来、滞っていた援助の再開を訴えるためである。当初アメリカ側は「適切な処置だった」として取り合わなかった。しかしヨハンが中部地域に未開発のウラン鉱脈がある事を伝え、東側陣営に提供するかもしれないと脅すと、アメリカ企業によるウラン開発と管理を条件に開発援助の再開を勝ち取る事ができた。
なおこの訪米の際、NBAのニューヨーク・ニックスの試合を観戦。バスケットボールに感動したヨハンは、帰国後中央アフリカにもバスケットボールチームを作るよう命令した。1975年には帝国バスケットボールリーグ(IBL)が誕生し、現在のバスケ強豪国の原型となったと言える。
一連の外遊からヨハンの外交思想を俯瞰すると、旧宗主国フランスを利用しながら過度の依存を避け、アメリカ、スペインなどとの多角化外交を目指した感がある。米との契約から、西側寄りの態度をとる事が多かった中央アフリカ帝国だったが、ヨハンは中国や東ドイツやユーゴスラビアなどの社会主義国家を訪れる事もあった。ソ連には訪問こそしなかったものの、東側との関係も密に考えていた節がある。
更なる経済発展
ヨハン治世下は共和制・帝制共に一貫して高い経済成長率を誇った。特に帝政下の1971年から1988年にかけての17年間は、GDP成長率が常に15%台という非常に高い経済成長を遂げた。1961年から71年までの西ドイツや高度経済成長期の日本が7%台だったことを考えると、これは驚異的な水準である。
持続的で高い経済成長の要因として、東部バンバリのダイヤモンド鉱床や砂金、マンガン、ニッケル、ウランなどの重大資源の存在は確かに大きい。しかし、ヨハンと自由国民党による雇用創出の試みも極めて重要な要素である。日本やイタリアから繊維工業のノウハウを導入したり、民間に広く産業参画を促す優遇策を効果的に講じた結果、経済規模は飛躍的に拡大した。また、1960年代の化学肥料の投入・人工授粉による品種改良といった農業生産性の向上である、「緑の革命」が進行した際には、バンギ帝国大学でモロコシやキャッサバ、主食用バナナなど、欧米の開発が及んでいない品目を精力的に開発させた。これにより帝国の食料自給率は大きく向上した他、近隣のアフリカ諸国の食料事情の大幅な改善にも寄与した。1980年代のエチオピア大飢饉の際にも、いち早く食料援助を行なったのは中央アフリカである。
観光・食肉生産・農業・加工業など、天然資源に依存しない産業発展の形態は「中央アフリカモデル」とされ高い評価を受けた。
「帝国」の外交
1967年、エチオピア帝国を訪問したヨハンにはある目的があった。自身の息子アブサの結婚相手を探す事である。長子アブサはカーレーサーとなっており、1964年には20歳にしてラリー・モンテカルロで優勝するなど活躍していたが、帝政の開始に伴い皇太子となった為に引退し、中央アフリカに呼び戻されている。
アフリカ随一の歴史と権威を誇るエチオピア帝室と縁戚関係を結ぶ事で、新興である中央アフリカ皇帝の地位を確立できるとヨハンは考えていた。
ハイレ・セラシエ帝は当初難色を示したものの、新興アフリカ同士の連携・ 帝権の権威強化といった目論見からこれに賛同。自身の孫にあたるリジ・ミハエ・イスキンダー王女をアブサ皇太子の結婚相手として了承した。1971年アブサとリジの結婚式がバンギ市に新設された「国民の宮殿」により執り行われた。2人の間には後に3男1女が産まれている。
自身の戴冠やハプスブルク家との婚姻による家門の格上げを図ったナポレオンにちなみ、ヨハンは「アフリカのナポレオン」と呼ばれる事がある。他にもヨハンには権威主義的な一面があり、伝統的なアフリカ権威を強く志向する傾向にあった。特に、1980年代からウガンダのブニョロ王族や旧ブガンダ王侯と関係を持つことで様々な称号を獲得する様子は国内外から現在に至るまで非難されている。すなわち共和主義者や、反権威主義者、過激なブラックナショナリストなどからの非難である。
しかし、こうした伝統権威への接近は、民主主義・人権という国家の現代的側面に伝統・権威を付加し、結束を固める効果がある事が1990年代頃から評価されている。新興の共和国家が多く政権の正統性が不安定なアフリカにおいて、今日の中央アフリカが極めて重要な立ち位置に成り得た事が評価の要因である。
アフリカ統合への道
1972年隣国カメルーンにおいて、フランス語地域の連邦制採用を求める動きが活発化した。ヨハンは彼らを支援し、親中央アフリカのリンガ政権樹立に成功する。ヨハンは武力による介入を望まず、新たに設立された対外諜報部のCACIAを活用した世論工作によってこの結果を誘導した。CACIAは米CIAやイスラエルのモサッドから指導を受けた。更には旧イランのSAVAK等とも関係があったとされている。
ヨハンはボガンダの中央アフリカ連邦構想を引き継ぐ形で、アフリカ中央地域の国家群の共同体構想を提唱。ムベンベ・ドクトリンとした。こうしたアフリカを緩やかな政治的統合の下に置こうとしたヨハンの発想は、時に隣国のブラックナショナリズムと激しく衝突した。ザイール(DRコンゴ)における介入政策の失敗とモブツ政権との関係悪化などが挙げられる。
しかし、アフリカ地域から共産主義を排除し国連におけるソ連の活動封じ込めとして、ムベンベ・ドクトリンは西側諸国の利害と一致。アメリカ、イギリス、西ドイツ、イスラエルなどから軍事技術や情報共有等の協力を得ることに成功した。しかし、サハラ以北において依然として影響力を温存しようとするフランスと一部関係が悪化している。
1983年には中央アフリカ、カメルーン、ガボン、Rコンゴによる中部アフリカ経済同盟ECCAEが結成される。85年に赤道ギニア、86年にはエチオピア、ウガンダが加盟。ヨハン死後の1993年には中部アフリカ連合CAUに発展的改組し、2011年には南スーダンが加盟した事で、ケニア・プントランドからエチオピアを通り、カメルーンに至る東西アフリカ両海岸を繋ぐ経済圏が完成した。この組織は現在加盟国18ヶ国を数え、世界第10位の規模を誇る経済圏である。
「サブカルチュラルの庇護者」
ヨハンは帝室の権威の創出の為、尊称をつける事を極めて好んだが、そのうちの1つに「サブカルチュラルの庇護者Protektor de Subcultural」というものがある。ヨハンが目指したのは、新興間もない欧米のサブカルチャーにおいて自身が芸術の庇護者たり得ようとした事である。ルネサンス文化の庇護者であったメディチ家や、17世紀のヨーロッパ王侯がロココ趣味の庇護者であった事にヒントを得たとされる。
1985年頃から用いた尊称だが、妻のクロエ皇后の嗜好により、それ以前からサブカルチャー重視の政策を行っていた。例えば南西部の都市ムバイキ市において、ストリートアートを奨励する特区の設定が挙げられる。
1989年には、バンギのムベンベスタジアムでマイケル・ジャクソンの独占コンサートを開催。皇帝夫妻同席の天覧コンサートの下で全国民に無料で開放した。結果的に、観客動員数260万人を数え、これは1つの国でのマイケルの公演としては最高動員数を記録している。
マイケルはヨハンと中央アフリカ帝国を気に入り、ムバイキ近郊のバココに別荘を設けた。なお、1992年の「リメンバー・ザ・タイム」のショートフィルムは中央アフリカ帝国で撮影されたものである。
マイケルに関しては、「僕はポップの王と呼ばれているが、貴方はポップの皇帝だ」という言葉も残っている。
晩年
1986年頃から度々心臓の発作に襲われるようになり、90年からは息子アブサを摂政に任命した。しかし政治への姿勢は変わらず、バンギ一極集中型の経済を案じたヨハンは、中部の新帝都バミンギの建設に晩年まで取り組んだ。
東西冷戦とアパルトヘイトの終結という大きな局面を迎えた1991年、多くのアフリカ首脳や国民に惜しまれつつ、急性心膜炎により亡くなった。
葬儀には世界94ヶ国から500人に及ぶ政府関係者が参列した。アメリカのクリントン大統領の他、就任したばかりの南アフリカのマンデラ大統領、モロッコ国王ハサン2世、ボツワナのマシーレ大統領、アフリカ統一機構のババンギダ議長などが列席した他、マイケル・ジャクソンやジャマイカの音楽家ガーネット・シルク、アメリカのバスケットボール選手ウォルト・フレイジャーらも参列した。
評価
中央アフリカでは、ボガンダを建国の英雄とし、ムベンベを発展の英雄とする「2人の国父」という歴史観から不動の評価を占めている。また経済発展だけでなく、アフリカに独自のイデオロギーと精神的・文化的支柱を打ち立てた点は、多くのアフリカ首脳からも評価され続けている。
彼の独特の君主制モデルの安定は、20世紀に入ってからの君主制樹立が決して荒唐無稽ではない事を証明し、アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ大統領が息子のイルハムへの世襲の際にスルタン制の樹立を宣言するなど「新君主制」として各国に広がりを見せている。
アメリカのタイムズ紙は1999年に「20世紀で最も重要な100人」の中の1人に、ヨハン・バルトロメオ・ムベンベ皇帝を選出した。
出典
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関連項目
外部リンク
公式
中央アフリカ帝国宮内省公式サイト
(フランス語・サンゴ語)
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