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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」0.メインエントランス


The pictures we make are dreams that come true
僕らの生み出す光景は、本当に叶う夢なんだ
They open a window to a memory made by you
君の思い出に通じる窓を解き放ち
They shine like a friend and won't ever end
友達みたいに輝きながら、いつまでも永遠に

————"The Magic, the Memories and You"













 カラッと、太陽に顔が描かれているんじゃないかと思うほど晴れあがった、ある美しい秋の日の朝、ポート・ディスカバリーの自宅のポストを開けたスコットは、その引き締まったココア色の眉を、渋く顰めてみせた。

「なんだ、これは」

 ザ・悪趣味。封筒にはべたべたと不必要な切手が貼られ、あちこちに紅茶やバターの染み。薔薇の花びらが縫いつけられているそばから、肉球のスタンプまで押されている始末。

「パパー。なーに、それ?」

 父親の長い脚にまとわりついてくるクレアの鼻先へ、スコットは、その奇妙な封筒を突きつけた。

「これ、お前が書いたのか?」

「しらなーい。みたことなーい」

「ふうん……」

 うららかに鳥がさえずり、潮風が吹き抜ける早朝の空の下、手紙の封を慎重に破って開くと、そこには、こんなことが書かれていた。



『お前を誘拐したにゃ。
 同封のチェックリストに従って、旅の準備を整えておくべし。

 追伸。ワンデーパスポートは不要にゃり』


 スコットは首を傾げたままで、手に持っていたプロテインを、ごくりと飲み干した。




……

「へーえ、脅迫状ねえ」

 ブルジョワを感じさせる豪華な薄暗さと、心地良いさざめきに満たされたバーの隅で、さくりと、ビーフポットパイをフォークで崩しながら、デイビスは首を傾げた。さら、と長めの前髪が滑り、青葉のように輝く眼は、面前の文章を追って、不審げに歪められている。ホール中に流れてくるピアノジャズを気に入ったようで、オーク材のよく磨かれたテーブルの下、リズミカルに片足を踏み鳴らしていた。

「クレアちゃんのいたずらじゃねえの?」

「いいや。本人は知らないと言っていた」

「にしてもこれまた、随分とポップな。こりゃ、相当な悪趣味な奴が差出人だな」

 つまみあげていた便箋をスコットに返しながら、デイビスは何気なく、窓にかけられた薄いレースカーテンの向こう、すでにアメリカン・ウォーターフロントを覆い尽くす闇の帳の中、無数の豆電球が蜘蛛の巣に引っ掛かったかのように輝く、S.S.コロンビア号のイルミネーションに眼差しを移した。そのおびただしい光明は、船の停泊している夜の海にまで反射し、五十三番埠頭の波間に揺られて、儚い光芒を散らしていた。外には涼しい海風が流れ、すでに子どもの声はほとんどなくなり、ニューヨークは大人の街へ。燃えあがるガス燈に、落ち着いた電燈、ショー・ウィンドウからこぼれる光芒や、夫人の唇に挟まれたシガレット・ホルダー、広告を照らす照明、桟橋にちらつく角灯、それにクラシック・カーのヘッドライトのいずれもが、窓ガラスに黄金の明かりを躍らせる。その無数の光を黒い瞳孔に映しつつ、最近は喫煙を控えていたらしいスコットが、軽い手招きに似た仕草を見せると、その意図を察したデイビスが、すぐに弧を描いてライターを放り投げる。着火音とともに、受け取ったそれで炎を揺らめかせながら、同じように暖かな火を灯している、ガラスで守られた卓上のランプへ、スコットはぼうっと目をそそいだ。今晩は遅くなると、サラ(注、スコットの妻)にも伝えてある——今頃は家でソファに座って、クレアとのんびりテレビでも観ているのだろう。

 一方のデイビスは、ぴらりとメニューをめくって、期待を抑えきれない様子だった。彼の方は相変わらず、CWCの宿舎住まいだが、今夜だけは特別に門限を延ばしてもらったと、得意げにスコットに話してきた。ベースに、管理人宛ての手紙を書いてもらったから、終電に間に合えば問題ないのだと。

「スコットー、シフォンケーキも頼んで良い?」

「ああ、好きなだけ頼め。今夜はお前の、せっかくの昇進祝いなんだからな」

「いやあ、ついにこの俺も、スコットと肩を並べる日がきたかー。んじゃ、フードサービスキャストさん。このケーキと、グラス・ホッパーを追加ね」

 ぱたんとメニューを閉じて注文し終えると、デイビスはにこにことして、さっそく目の前のビーフポットパイの解体作業に取りかかり、生地の切れ端をシチューに浸して、ひょいと頬張った。

「ンマーい」

「そりゃ結構。お前って、本当に現金な奴だよな」

「いやいや、テディ・ルーズヴェルト・ラウンジに連れてきてもらっただけで、充分なんだって。こんな高級なとこ、滅多に来れないからさー」

 薄暗いバーの光芒の下、くねるような紫煙を棚引かせながら、スコットは薄く微笑んだ。長い漆黒の睫毛を艶めき、息子でも見守るように、対面する青年を見る。彼の眼差しの中で、早速、運ばれてきた紅茶のシフォンケーキに目を煌めかせ、キャラメリゼしたナッツをクリームとともに舌に乗せると、幸福そうに頬を綻ばせるデイビス。

「んで結局、その脅迫状、どうすんの? 警察に渡す?」

「警察には電話したが、こんなふざけた文面では、動きようがないんだと」

「俺としては、この『旅の準備』ってのが分からねえんだけど。なんなの、これ?」

「大したことはない、水筒とか、日焼け止めとか、ちょっとした遠出用のグッズばかりだ。まあ一応、用意してきたが」

 スコットが足下から何かを引っ張り出したかと思うと、どすん、という重々しい音とともにスーツケースが現れ、デイビスは若干身を引いた。

「うわっ、マジで準備したのかよ。あんたって、ほんっとクソ真面目だよなー」

「用心にこしたことはないだろう?」

「どおりで、なあんかゴロゴロ引きずってると思ったー。はー、こりゃまた、世界旅行にでも行く気かよ」

 感心しながら、キャスターのついたそれを、何気なく回転させる。升目模様の入ったサーモン・ベージュのスーツケースには、世界各国のステッカーがぐるりと貼りつけられていた。

「それは、クレアを喜ばせるために貼ったんだ」

「まーあ、お子様サービスを欠かさないパパだこと。どお? クレアは元気してる?」

「毎日、お前に会いたがって困ってる。何とか黙らせてやってくれ」

「しゃーねえなあ、また行ってやるかー。愛しのクレアのためだもんなー」

 言いながら、デイビスは奥歯まで見せてあくびをすると、ぷるぷると体を震わせ、猫のような伸びをし終わった。

「ごっそさん。腹いっぱい」

「五十分の電車で、ポート・ディスカバリーに帰れそうだな。走れるか?」

 スコットは、張りのあるソファ椅子から立ちあがりながら、伝票を掴むと、パイロット・ウォッチを確認した。この時間帯は、運行本数が少なくなってきている。カードで支払い、ゴロゴロとスーツケースを転がしながら、彼らは石畳の上をせっせと駆ける。

 ニューヨークの街は、すでに肌寒くなっていた。沈没船のスクリューが安置された、ホレイショー・スクエアを通り抜けつつ、すでに閉店して、がらんどうのレストラン櫻を横切り、汐風に冷えた路面のレールを踏んで、エレクトリック・レールウェイの方角へ。秋の夜は薄寂しいほどに微風も冴えて、ハドソン川に揺れ動く水面にも、しんしんと星が瞬いていた。もう深夜に近い時間帯、眠らぬ街たるこのニューヨークは、橙色のガス燈に照らされて、その雰囲気を一変させている。肩を剥きだして露骨に密着し、チュッチュと熱烈にキスを交わしあう恋人たち、女優がパトロンと愚にもつかぬ駆け引きをし、探偵らしき男が尾行して、その妖しい裏通りに淫靡な色を添えている。あまりにムーディな周囲の様子に、デイビスとスコットは大いに気まずさを覚えつつ、自らの気配を虚空へと溶け込ませることに専念した。

「ああ、もうすぐ出ちまう」

「急げ、急げ」

 煉瓦造りの駅舎へ、せかせかと小走りで向かう二人。
 最初の角を曲がって、デランシー通りへと入る、ちょうどその時——

「ん?」

「なんだ?」

「今、なんか変なものが通ったよーな」

 つっつっつっ、とそのままの格好で、デイビスは器用に、曲がりかけた角をふたたび後退していった。

 薄暗いウォーター通りを、ふらふらと歩いてゆく小人ほどの影。白うさぎ——に見えるが、酔っ払いにも見え、いや、その両方なのであろう、とにかく、何というべきか——あまり近寄りたくない部類の生き物ではある。

 人参色のぼさぼさとした髪をモヒカンのように突き立て、目は真っ赤に血走って、千鳥足。水玉模様の蝶ネクタイを締めて、喜劇役者を思わせるような手袋が嵌っていた。よろめくあまり、あちこちの壁にごつんと頭をぶつけてゆきながら、それでも星を頭上に回してふらつき、時折り、うぃー、ひっく、と汚らしいゲップを漏らしている。それに片手には、ウイスキーの空き壜。その酒臭さは、こっちまで臭ってきそうである。正直言って、まったく可愛らしい光景ではない。

「Oooooooooops! Burrrrrrrrrrrrrrrp!」

 ムーディなウォーター通りに響き渡る奇声、そしてまた、ぐえー、と蛙のような濁ったゲップ。潔癖症のきらいがあるスコットは、そのガス混じりの音に、不快げに眉根を寄せる。

「なんだ、あの下品な白うさぎは。やけにアメコミ風な作画だな」

「追いかけてみようぜ。なんか楽しそーじゃん」

「おい、デイビス、発車時刻が近いんだぞ。そんなことをしている時間は——」

「でも見てみろよ、あいつのこと、気にならねえの? あんなこと叫んでるんだぜ」

 ポケットに手を突っ込んだまま、顎をしゃくるデイビス。夜の巷を徘徊するうさぎは、ハンカチでちーんと鼻をかみながら、この世の終わりのようにワナワナと震えた声で、夜空に向かってこう叫んでいた。







「せっせっせー、おちゃらかホイ! そんな馬鹿なことが……ウッウッウッ、せっせっせ! せっせっせ! あうう、僕は信じない。信じられない、信じられるわけがない、誰が信じるもんか! 本当なのか……まさかジェシカが、まさかせっせっせを——そんなの嘘だ、こんなことありえない! ジェシカは僕の妻だ、そんな馬鹿なこと、絶対にありえナァイッッッ!!!!」









 ……やべえ、凄く気になる。確かに見ていると、スコットの胸にも、抑えがたい野次馬根性が湧いてくるのを否定できなかった。

「……ちょっとだけな」

「そ、ちょっとだけ。終電までにはあと数本あるしさ、寄り道してみようぜ」

 そこで二人は、距離を取りながら、こっそりと後を追った。うさぎはハンカチを使い切ってしまったらしく、どこかの開いた窓からカーテンを引っ張り、思いっきり鼻をかむと、ぬらぬらと洟水で光るそれを、神妙に元の窓辺に押し込み、天に向かって涙を拭い始めた。

「ジェシカは僕の命! 瞳に輝く星! コーヒーに入れる、クリイムだ——」

 そこでうさぎは路地裏へと入り込み、つむじ風に舞う枯れ葉を踏みながら、オーイオイオイ、と泣き声を漏らす。ニューヨーク特有の、もくもくと薄白いスチームをあげるマンホール。それは路面を濡らし、煙に巻いて、やがて不思議な世界へと導いてゆくようである。しかしそのうちひとつだけ、湯気の噴いていないマンホールがあった。うさぎは、その蓋をのろのろと力なくずらすと、悲劇的な眼差しで輝く夜空を見あげて、ちょうちんを膨らませている鼻を、二本指でつまんだ。

「おお、インスタント穴よ、僕をどこか楽しい、笑いの国へと連れて行っておくれ。そこで笑い死にして、死んじまおう。イーッヒッヒッ!

 そこでヒョイと片足をあげたかと思うと、瞬時にうさぎの姿は掻き消えた。近寄り、穴の真上で耳に手をあてて澄ませると、「あ〜れぇ〜」という声のエコーが微かに響き、コンマ数秒のフラッシュが瞬いた直後、盛大な飛沫が上がったらしい、遠い水音。そして、すべての音は暗闇に吸い込まれ、何も聞こえなくなった。

 からり、と足元にある枯れ葉が、乾いた音を立てる。顔を見合わせるスコットとデイビス。何かの寸劇でも観たような気分である。

「下水道に落ちたか?」

「下品なうさぎに相応しい、汚い末路だな」

「助けてやった方がいいのかなあ」

「ならお前、この中に飛び込みたいか?」

 顔を見合わせるデイビスとスコット。そして、二人は即座に、首を振る。

「……見なかったことにしよう」

「そうだな」

 まあ、暇潰しにはなったか、と踵を返そうとして、彼らはエレクトリック・レールウェイに向けかけたその足を、ふと止めた。

 これほどまでに、マンホールからのスチームは濃密だったろうか? 夜の底を這う、白い水蒸気は、今やコーヒーに渦巻くミルクのように足下を覆い尽くし、靴もろくに見えやしなかった。それだけならまだしも——

「なあ、他の奴ら、どこいったんだ? さっきまでのカップルとか、刑事とか」

「そういえば……どこにも、いないな」

 彼ら以外、他の人間は影も形もなくなったウォーター通り。チチッ、とネズミの鳴き声がして、慌てて足をあげると、そのそばを、何か黒い影が横切ってゆく。本能とも警告とも言える——危険、に近いもの。ぴりぴりと走る不思議な感覚が、彼らの神経を押し包んだ。


 立ちのぼる霧の中。

 デイビスは、スコットを。
 スコットは、デイビスを見た。

 互いに、それだけが信頼できる何かである気がした。遠くから、特徴的な鳴き声のカラスがやってきて、建物アパルトマンの屋根の上に止まり、肌寒い空気が通り過ぎてゆく。

 その時、ドン、と背中を押される感覚とともに、突然、体が揺らいだ。勢い余ったデイビスが、思わず隣人の腕を掴むと、それに引っ張られて、今度はスコットがよろめき、一気に立て直せない体勢にまで重心が傾く。そして彼らの倒れ込む方向には、暗闇一色の穴が広がっていた。

「なっ——!?」

 振り返る瞬間————



 そこには稲妻を思わせる、妖しい二つの緑の目が輝いていた。



(なん、だ。今の目は——)

 一瞬。
 スコットの思考は止まり、穴の縁に手をかけるのが遅れた。そのせいで、ふい、と宙を掻いた指が、命綱となるそこを掴むことは、永遠になかった。虚しく腕を伸ばしたまま、二人は、ぐらりと穴に吸い込まれてゆく。

「ちょっ、あっ!?」

「イヤアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 デイビスは絹をつんざくような奇声をあげながら、はっしとスコットの首に齧りついた。こ、この大馬鹿やろうが、とスコットは青筋を立てる。こいつが俺を引きずり倒さなければ、自分は巻き添えにならなかったものを————

「す、スコットー! 羽ばたけー!」

「アホッ、愚にもつかんことを言うなッッ!!」

「いやだー! 何が哀しくて、こんな夜中に下水道に落ちなきゃいけねえんだよー!」

「それはこっちの台詞だ! ストームライダー本編から二次創作まで、いつもいつも貴様のとばっちりを受ける被害者は、この私なんだぞッ!!」

「せ、せっかくの昇進祝いの夜だったのにー! しかもなんなんだよ、この穴、全然終わりが見えねえじゃねえかよ!」

 スコットの怒りとデイビスの嘆きを延々と反響させつつ、それでも予想に反して、穴の中は黒洞々とし、未だ底が見える気配もない。なけなしの力を振り絞るように、怨嗟に満ちた叫びが、エコーを残しながら辺りに響き渡った。



「畜生、足をすくいやがって!
白うさぎの、ばっきゃろーーーッ!!!」



 そして、すべては、暗転。
 彼らは、真っ暗な穴の中を、どこまでも、どこまでも、真っ逆さまに墜落してゆく。

  落ちてゆく、
      墜ちてゆく、
          堕ちてゆく、
              穴の底へと。

             ぐんぐん落ちて、
          烈風を浴びつつ、
       ばたばたと服を靡かせ、
    それでもスピードが落ちることなく。

「いてっ」

    「馬鹿、それは私の脚だ!」
      

       「おい、スコット! てめえ、俺に何しやがった!」

          「馬鹿やろう、私を道連れにしたのはお前の方だろうが!」

              「なーに言ってんだ、俺のこと、背中から突き落としやがって!」

  「やるのか!」

            「このぉ——!」

「おーっほっほっ、今どき、古典的な罠に、
マヌケに引っかかったにゃあ。

ま、好奇心は災いの元。
これに懲りたら、次からは、ちゃんと考えてから行動するもんだにゃ」



「……ん?」

 ひゅるるるる、という虚しい風音に包まれながら、哀れ、深淵へと吸い込まれつつも、醜くぎゃんぎゃんと言い争っていた二人は、そこではたと、目を丸くした。








「なんだ? これは」

 スコットは、目の前にともに落ちてゆく、浮遊した白い三日月を見つける。その奇妙な落下物は、デイビスにも見えるようで、眺めていると、それは急に、つるんと弓を真下に滑り落として、尖った両端がにたにたと笑い出し、奇妙な節をつけて歌い始めた。

「♪こーのおーれはー まっかふっしぎー
 ♪まーりょくーをーもったー ねっこだー
 ♪そーこらーのー やーつらっとはー
 ♪えーらさーがー ち〜がう〜

 よっ」



 奇天烈な歌が終わるのを待ってから、真っ暗な中に螺旋を描くように、尻尾、腹、そして髭がピンと突き立つや否や、ゆっくりと、紫の縞模様の肥満猫が浮かびあがってくる。そして、飛び跳ねる豆が二つ、ニタつく三日月の上に落っこちてきたかと思うと、それは目の位置に吸い込まれるようにはまって、妖しい瞳がぐるぐる回り、それからぱちぱちと、葡萄色の瞼が数度、茶目っ気のある瞬きをした。

「ハァーイ、夢の海の住人たち。おいらはチェシャ猫ってんだ。住んでる場所は違うが、ま、同じ、一人の男の夢ワン・マンズ・ドリームで結ばれた世界同士。仲良くやろうにゃあ」

 ポカンと口を開ける二人。ちょうど猫の耳が現れ、挨拶の手でも振るように、ピコピコと動いたところだった。

「なんだよ、この紫のデブ猫は?」

「どうも妙なことばかりだな。夢でも見てるのか」

「そうかね、ごく当たり前のことばかりだがにゃ。あー、ちょいと待ちーにゃ」

 チェシャ猫は、その輝く白い歯をアコーディオンの如く鳴らして、ぷぴー、と気の抜ける音を響かせた。

 その間も休みなく、重力に従って落ちてゆく二人と一匹。もう何マイルも落ちたらしく、地球の真ん中センター・オブ・ジ・アースを通り越したのかもしれなかった。果たして、この暗い穴はどこまで続いているのだろうか。すると、猫は軽く手を伸ばして、ランプの紐を軽く引っ張った。途端に、薄明かりがふわりとトンネルのような穴を照らして、周囲に浮いている多くの戸棚や本棚を、ぼうっと浮かびあがらせる。そのほかにも、花瓶やら、鏡やら、豪華な調度品——それらが夢の中のように歪みながら、宙をたゆたってゆく。

「なんだあ、ここ? 変なところだな」

「ようこそ、不思議の国の入り口へ。歓迎するにゃあ、偉大なるストームライダーのパイロットたち」

「あれ、どうして俺たちのこと——」

「質問は、あとあと。時間がないのにゃ、すぐさま、本題に入るとするにゃ」

 チェシャ猫は墜落に逆立つ毛並みにも構わず、前足で揉み手擦り手をして、「さあて」と語りかける。

「そこの渋いお兄さん。今朝の招待状は、無事に届きましたかにゃ?」

「これのことか? どう見ても脅迫状なんだが」

「あっ、これこれー。おまけに、俺の肉球のハンコも押しといたにゃ。なかなか、オシャレなデザイン。で、お願いしていた、旅の準備は?」

「不本意だが、ここに」

「エラーイ。花丸あげちゃうにゃ」

 チェシャ猫は前足を伸ばすと、ぺたりこと、スコットの額に肉球を押しつけた。



💮



「…………」

「よかったなー、スコット。褒めてもらえて」

 にやにやと笑い顔を近づけてくるデイビスの頭を、差し当たってはひっぱたき、スコットは憮然とした顔でチェシャ猫に向き合った。

「誰なんだ、お前は。私たちに、何の用だ」

「えへんえへん。ちょっとしたお仕事にゃ。ミッキーから、頼まれごとを請け負ったもんでね」

「ミッキーって、ミッキー・マウスのことか?」

「なんだデイビス、知り合いか?」

 尋ね返すスコットに、デイビスは肩をすくめる。

「知り合いっちゃ知り合いなんだけど、直接会ったことは一度もねえんだよな。声だけだ」

「なんだそりゃ?」

「ま、とにかく、なんだか変な関係なんだよ」

「おーほほほ、こーんな奴らに縋るとは、天下のミッキーも落ちぶれたもんだにゃ。こりゃ、王国の王権交代も近いかにゃー」

 チェシャ猫は天に恵まれた歯並びをにんまりと見せると、その太いシッポをさらさらと振って、楽しそうに囁きかけた。

「ま、とにかく、話を進めるとするかにゃ?

 残念ながらお前らは、もう俺の手の中にゃ。多少乱暴な手を使ってでも、こちらに連れてこいという、上からのお達しだったのにゃ。心配しなくても、行き先は楽しい楽しいテーマパークだにゃ、抵抗せずに大人しく拉致連行されるのが賢明だにゃ。
 誘拐の方法はどうしようかと悩んだけど、落とし穴に決めたにゃ。アリスは穴に落ちるものだって、相場が決まってるもんだからにゃ」

「ばっきゃろー、俺たちゃアリスじゃねえぞ! さっさと地上に戻せよー!」

「いいや、違うね、あんたたちはアリスにゃ。A、L、I、C、E」

「アルファベットの綴りなんか分かってんだよ。だいたい、何で俺たちがアリスなんだよ」

「好奇心から白ウサギを追い、奈落の底へ落ちる馬鹿。アリスと同じだにゃ」

「お前のことだな」

「なすりつけんなよ! あんたも今まさに落ちてんだよ!!」

「最初に落ちたのは貴様の方だろうがッ!! さっそく、自分の悪行を棚に上げやがって!」

 ふたたび、墜落しながらも取っ組み合いの喧嘩になりかかる二人に向かって、チェシャ猫は急に伊達眼鏡をかけると、どこから出したものか、ぺちぺちと教鞭を振るって、彼らに説教をした。

「あー、人質くんたち、そーんなくだらない諍いには、一秒も無駄にしていられにゃいにゃ。それじゃ、作品の基本方針を説明するにゃ。読者諸君も、この小説を一話で切るかどうか、さっさと見極めたいだろうしにゃあ」

「おいこら。そういうデリケートなことは、もっとオブラートに包まんかい」

「まったく、小言のやかましい男だにゃあ。では、ゆっくりじっくり、ねっとりと言うにゃ。

 東、京、ディズニーランドは、王様を、求めているんだにゃ

 ふわりと、一回転。逆さになった頭だけが浮かんで、黄色い瞳をぱちぱちと瞬きさせながら、デイビスとスコットに、キラリと揃ったまばゆい白い歯を向ける。

「えっ、まさか今流行りの、異世界転生系小説か?」

「ちがーう、転生なんかしないし、ついでにお前らは、王の器でもなんでもにゃい。にゃに、ちゃっかり王に生まれ変わろうとしているんだにゃ」

「じゃあ、王様って、誰なんだよ?」

「そーんなことは、誰もが知ってるにゃ? この世界で一番有名なアニメキャラクター。すべては、たった一匹の鼠から始まったんだにゃー」

「はあ——」

「東京ディズニーランドは、今、危険だにゃ。王様の冠は、シーソーみたいにぐらぐら、顔はピカピカでも、心の中は、大雨模様。非常に不安定なお天気なんだにゃ」

 チェシャ猫は、そこまで言うと、急に吟遊詩人のような節をつけて、流暢に語り出した。


「王様は偉大なる魔法使い、
 毎日笑って、毎日幸せ。
 王様はとってもかわいそう、
 誰からも愛され、誰をも愛してる。

 これはそんなチェスの物語、
 盤上で華麗なる踊りを繰り広げながら、
 人は誰もが、消えた手駒を抱えてる。
 ゲームは続く、キングの存在し続ける限り。

 さあ、始めよう、光の城と影の城、
 二つの城の間にうごめく世界。
 夢と魔法の王国をめぐり、
 思い出は尽きることがない。

 王様はとっても幸せ、王様はとってもかわいそう。
 夢が集まる、最高に幸せな場所で、たったひとり、月を見あげてる」


 デイビスとスコットは、存外美しい、歌のように告げられたその言葉を聞いて、ぱちくりと目を瞬かせた。

「ま、第一話だからにゃ? 今のうちにある程度、風呂敷を広げといた方がいいかと思ってにゃ」

「風呂敷?」

「分かってると思うけど、この小説、長編になる予定だからにゃ。あ、ちなみにネタバレしておくと、お前たちは最終話まで、帰ってこれないことになってるにゃー」

「で、最終話が書かれるのは——」

「ま、当分先のことだろにゃあ」

 肩をすくめるチェシャ猫に、ジタバタと暴れるデイビスを、後ろから羽交い締めにするスコット。

「デイビス、やめろ! 主人公が動物虐待するのはまずい!」

「離せー。戻せーっ! 今すぐ、ポート・ディスカバリーに俺たちを帰せーっ!!」

「そいつは無理な相談だにゃあ。ディズニーランドからディズニーシーへと送り返すには、多大なる魔法を必要とするからにゃあ」

「魔法も何も必要ねえよ、ディズニーリゾートラインで一発だろうが! そもそもなあ、シーとランドはバックステージで繋がってるから、キャスト用のバスに乗れば数分で——」

「そういうこと言うのはマジでやめろにゃ!!!!」


 恐っ。デイビスが震えながら口をつぐんだその時、『イッツ・ア・スモールワールド』の和やかなチャイムが聞こえてきて、チェシャ猫はエヘンと咳払いをした。


♪ミファソ〜ドレミ〜レドラ〜レミファ〜
♪ミレソ〜ファ〜ミ〜レ〜ド〜〜〜(ポロロロン)


「さてさて、ご説明しているうちに、無事、京葉線の舞浜駅に到着したようですにゃ。あー、それでは人質くんたち、これからお二人を、メインエントランスへとお連れするにゃ。というのも、『どの客も同じところから出入りさせ、ディズニーランドでの一日を一つのまとまった体験として演出したい』(*1)というのが、ウォルトの意向だったからにゃ。やっぱメインエントランスから始めないと、雰囲気出にゃいよねー」

「はあ?」

「ほーら、耳を澄ませるにゃ。途方もない大人数でぞろぞろ階段を降りて、混雑度を心配しながら、トランプのスート形の時計を見つつ、鞄から取り出したSuicaをピッ」

「おいおい、なにか始まったぞ」

「待ち合わせでウロウロしている人々を横目に、右手に曲がって、クレープ屋さんをチラ見して。近づいてくるボン・ヴォヤージュに胸を躍らせつつ、ま、ここらで、何枚か写真を撮ってもよかろう」



カシャッ。






「おー、なかなか雰囲気出てる写真にゃ。フォトブに入れとこ」

「なんなんだよ、これ? 突如として始まった、フリップ芸か?」

「作者がわざわざ現地で撮ってきた努力を、たった一言で無駄にしないでほしいにゃあ。さ、ぐずぐずしている時間はにゃい、遅れちまうにゃ。ボン・ヴォヤージュの入り口を左手に曲がると、Tokyo Disneylandのゲートが見えてくるはずにゃ。旅の記念に、ここでもパシャリ」




画像7
画像8


「うほほ、テンション上がってきたにゃ。ちなに、撮影スキルにはツッコまないでほしいのにゃ。これがiPhone 8で撮った、素人の限界にゃあ」

「必死に加工した痕跡が残っているのが、妙な哀れみを誘うな」

「昇り始める太陽、爽やかな朝の空気、うすら明るい黎明に満ちた空。朝の五時半に起きたんで、ちょっとだけ、目がシバシバするはずにゃ。お前らはどうして、舞浜に行く時だけは、無駄に早起きするんだにゃ?」

「あー、楽しみすぎて、昨夜から寝られなかったんだろうな」

「んでもって、このあたりになると、聞こえてくるはずにゃ。おお、待ちきれないにゃ、なんたる甘美な響き。我らを夢と魔法の王国へ導く、あのアナウンス。アンバサダーさん、よろしく頼むにゃ」

 チェシャ猫が耳をピクピクとさせると、滑舌の良い、明朗な女性の声が、あたりに響き始めた。


《東京ディズニーランドからお知らせいたします。入園の際は、順序よく、ゆっくりとお進みください。
 また、すべての皆さまに、楽しい一日をお過ごしいただくために、東京ディズニーランドでは、分煙化を実施しております。煙草を吸われる方は、灰皿のある場所での喫煙を、お願いいたします。
 安全のため、歩きながらの喫煙は、ご遠慮ください》


「分煙化……」

 木琴や弦が愉快に飛び跳ねる音楽をバックに、呆然とするヘビースモーカー二人。そんな彼らを差し置いて、楽しいピッコロが、飛び跳ねるように甲高い音符を弾ませた。さらに前拍が、ずっちゃんずっちゃん、と軽やかに旋律の後押しをしてゆく。

 ♪オオカミなんかこわくない
 ♪こわくないったらこわくない
 ♪オオカミなんかこわくない
 〜♪(ピッコロソロ)

 脳を占有し始める中毒ソングに、たちまち二人は腕を組み、その旋律に思考を支配される。凄まじい伝染力である。

「ああ〜なんかこれ……ちっせえ頃に聞いたことあるぞ……この曲……」

「これ、家でクレアに聞かせてる。情操教育として」

「おーっほっほっ、だんだんワクワクしてきたにゃ? 幾つものスピーカーから流れてくるのは、馴染みのある愉快な曲ばかり。胸を高鳴らせながら、下り坂を早足で歩いて、バスの行き交う音を聞いて。ちらちら見える松林の彼方から、ポーーーーー、ポッポッと、ウエスタンリバー鉄道の汽笛がゆっくりと遠ざかってゆく。どーお、にゃんだか手足がムズムズして、ディズニーランドに行きたくにゃってきたろ?」

「あのなー、俺たちは明日もストームライダーに乗って、トレーニングしなきゃいけねえんだ。遊びに行っている暇はねえんだよ」

「にゃーんだ、まだシーへの未練が消えていにゃいの? ディズニーランドに行けば、もーっと、変テコなものに乗れるよ? そうだにゃ、例えば、こーんなアトラクションとかにゃー」

 チェシャ猫は、薄暗い穴を落ちてゆくさなかから、ふわふわと宙を漂っていた小さなドアを開けた。すると不思議なことに、ぱかりと開けられたそのドア枠は、別の真っ暗な洞窟へと繋がっていて、塩素の匂いが漂う洞穴に、どこからかパッとスポットライトが当たる。そして、背後で逆巻く、妙に反響した水音と、ギターをびょんびょん掻き鳴らす陽気なカントリー・ミュージックの合間から、こんなしわがれた声が聞こえてきた。

《スプラッシュ・マウンテン。ああ〜、なーんて良い名前じゃ。なーんたってここはうさぎどんのふるさとだからな。ここらじゃうさぎどんが一番の切れ者と思っている人もいるじゃろ。だがな、奴は自分の才能に溺れすぎて、いつもきつねどんに捕まってしまう。
 さて、そのきつねどんだ。奴も昔から、自分の悪知恵に自信を持ちすぎるという悪い癖があってな、うさぎどんを捕まえても終いにはまーんまと逃げられてしまうんじゃ。
 もうひとりは、ドジのくまどん。こいつは生まれついてのグズ。うさぎどんが、奴から逃げられないなんて訳がない。

 さあーて、みんな、先を急いだ方が良い。愉快な冒険が、いっぱい待ってるじゃろう》

 彼らが聞き取れたのは、そこまで。ぱこん、とチェシャ猫が前脚でドアを閉じると、何事もなかったかのようにスポットライトが掻き消え、元の薄闇の静寂が戻ってきた。しかしデイビスもスコットも、今しがた見た謎の光景に、動揺を隠せない。

「誰なんだよ、今の爺さんは。今、生まれついてのグズって言ったよな?」

「びっくりするのはまだ早い。こんなのもあるんにゃよ、夢の海の住人くん」

 チェシャ猫はいきなり、たくさんの脚を生やすと、ティーポットの蓋でも取るように、つぎつぎと目にも留まらぬ速さで、空中に散らばる小さな扉を開けて回った。そのたびごとに、小さく稲妻のように光ったり、ゴロゴロと轟いたり、とにかく何らかの反応とともに、聞き慣れないアナウンスが流れてくる。

《スペース・マウンテンは、暗闇をハイスピードで急旋回、急上昇、急降下、急停止する、スリリングで揺れの激しい、ジェットコースター・タイプのアトラクションです》

《よおし、出発だあ! イタチがうろついてるってニュース聞いたぜえ。気をつけろよ!》

《紳士並びに淑女の諸君、ホーンテッド・マンションへようこそ。私はこの館の主、ゴーストホストである》

《おまえたちは冒険が好きでこの海へ来たんだな? そんなら、ここはうってつけだ。だが、ぼんやりするんじゃねえぞ、しっかり掴まっていろ——両方のお手てでな》

《やあ、みなさん! 走行中は、顔や手を外に出したり、立ち上がったりしないでください。眼鏡や帽子なんかも飛ばされないよう、はいはい、気をつけてくださいよー。
 さあ、西部一の暴れん坊、マイン・トレインの出発でーす!》

 カンカーン、と穴中に響き渡るほど軽やかに鳴らされた鐘の音に、デイビスはぴよぴよと回るひよこを戴きながら、混乱する頭を抱えた。

「あああああ、もう、訳が分かんねえよ! ひとつずつ、順番に説明してくれ!」

「無粋な人間だにゃあ、このゴチャゴチャ感が、TDLの最大の醍醐味だにゃ?」

「だからって、情報が錯綜しすぎなんだよ! もっと読者のために、親切に話を進めやがれ!」

「おっほっほ、なーにを呑気なことを言っているんだにゃ? 東京ディズニーランドの物語は、エントランスをくぐる前から、すでに始まっているんだにゃー。

 舞浜駅に降り立ったゲストはみーんな、胸を高鳴らせながら、このメインエントランスに集まってくるんだにゃ。どこから来ても、どんな人と来ても、物語の始まりはいつも、この場所から。アトラクションのポスターも、流れてくるミュージックも、否応なしに期待を盛りあげる。いわば、冒険のチュートリアル、ってとこだろうにゃ。

 ほおら、聞こえてくるにゃ? ワクワクに満ちた彼らの耳に躍る、あの素晴らしいディズニーの名曲の数々が」

「あー、はいはい、聞こえてきましたねえ」

 エリアミュージックは、センチメンタルな『♪星に願いを』のコーラスに変わっていた。シナモンのチュロスやら、甘いポップコーンやらの匂いを、ぱたぱたと手で吹き飛ばしながら、デイビスは眉間に皺を寄せる。

「つまりにゃ、俺の言いたいことは、まったく簡単なことなんだにゃ。いいかい、ここからが重要だから、耳の穴かっぽじって、よおく聞くんだよ、人質くんたち。

 ディズニーランドは、たくさんの世界が、魔法でひとつに寄り集まってできた王国。様々な場所からやってきたゲストが、それぞれの興奮を秘めてここにやってくるように、王国に散らばる世界も、よおく目を凝らしてみると、ばらばらのものが一緒くたになって、できあがっているんだにゃ」

「あー? そんなの、どこだって同じだろ?」

「いいや、冒険とイマジネーションの海は、それぞれのポートが、それぞれの力で独立して生きている。
 ところが、夢と魔法の王国ときたら、真ん中のお城が消えてしまったら、後は、さよなら。みーんな、おしまいだにゃ」

「はあ……?」

 デイビスはぽかんとして、口を開けた。神妙に響き渡るコーラスをバックに、チェシャ猫はぐっと身を乗り出すと、妖しくも低い声で囁き続ける。

「王国には、そこを治めるキングが必要なんだにゃ。王に歯向かう者は、全員、首をはねた方がいいんだにゃ。そうでないとたちまち、悪者たちに消されちまうにゃ」

「デイビス」

と、そこまで黙っていたスコットは、急にデイビスの前に腕を差し出して後ろへ下がらせると、目の前の紫色の猫と向き合った。チェシャ猫はその三日月の口を歪めて邪悪に笑うと、ペチペチと、柔らかい肉球を打ち合わせて盛んに拍手した。

「お。そこの無愛想な男は、さっすが、察しが良いようだにゃあ」

「こいつに、何をする気だ」

「そおんなに警戒しにゃくていいにゃ、ただ、ちょーっと、ディズニーシーのヒーローをお借りするだけにゃ? にゃんたって今は、一刻も早く、キングの穴を塞がにゃくてはいけにゃいからにゃあ。

 俺たちトゥーンは、目的のためなら手段を問わにゃい。役に立ちそうだったら誰でもいい、それこそ、猫の手も借りたいくらいなのにゃ。

 だけど、そうだにゃあ、単なるおまけ程度にしか思っていなかったけど、本当はあんたの方が、このチンピラの若造より、ずーっと頼り甲斐があるかもしれないにゃ」

 むかちんっ、と青筋を浮かびあがらせたデイビスは、チンピラじゃねえし、俺だって頼もしい人間だし、と怒鳴り返そうと息を吸った。

 しかし不思議にもスコットは、そのまま重く押し黙ってしまって、何も言わなかった。それどころか、どこか憐憫にも似た感情をその眼差しに浮かべ、一筋の月光のように、寂しげな顔をしているのだった。

 チェシャ猫は、自分の髭で鼻の穴をほじりながら、軽率に訊ねた。

「ハードボイルドなお兄さん。あんた、名前は?」

「スコット」

「ほほーう、スコット。チンピラくん、良かったね。こいつは貴重な常識人にゃよ、向こうに行った後も、頼りにするがいい。なーんたって、向こうはみーんな、頭のおかしい奴らばかりだからにゃ」

 チェシャ猫はニタニタと笑うと、ついでに、ぴん、と鼻糞を飛ばしてきた。それをうんざりした顔で避けながら、スコットは猫の鼻先に詰め寄る。

「要は俺たちに、王の手助けをして、ディズニーランドの秩序を取り戻せということか」

「おっほほほ、まとめればそういうことにゃ。理解が早くて助かりますにゃ」

「なーんで、わざわざ俺たちが、そんなことをしなくちゃいけねえんだよ!?」

「そいつは、王様から直接聞いた方がいいだろにゃ。おっと、噂をすれば、さっそくお電話にゃ」

「え?」

「はい、さーん、にーい、いーち」

 そのカウントダウンに合わせて、本当にデイビスの尻ポケットの中が震えた。

「なんだ?」

「あー、無線機。前作のキーアイテムだ」

「まだ持っていたのか。未練がましい奴……」

 ゴソゴソとポケットの中を漁りながら、こんな状況で通話してくるのは、あいつくらいしかいないだろうな、と思い浮かべながら応答すると、案の定、例のフレンドリーな甲高い鼻声が、みんみんと無線を伝って鼓膜に響いてくる。

《やあ、デイビス!》

「よお、ミッキー、元気にしてるか? あんた、なんだか変な猫を送り込んできただろー。迷惑してんだぞ、こっちは」

《そんなことを言ってる場合じゃないよ、大変なんだ! でも君の頭だけでは、とても理解できそうにないから——》

「喧嘩売ってんのか?」

《とにかく、とってもややこしいことになってしまったんだ! このままだと、夢と魔法の王国が崩壊してしまうよ。誰か頼りになる人を一緒に連れて、僕の家まで、急いで来てくれ!》

《お願いよ、デイビス、待っているわ。私たち、とっても困っているの。あっ》

《ミニー! 今助けるからねーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!》



 そこで、ぶつり、と無線が切れた。互いに目を交わし、肩をすくめるスコットとデイビス。彼らの耳には、先ほどの叫び声が、エコーを響かせて残っていた。

「さあさあ、よそ見をしている暇はないにゃ、お友達を助けたかったら、ディズニーランドに行くしかないにゃ。ほおら、あんたがたの年パス。63,000円が浮いたにゃ、感謝してほしいにゃあ」

「いや、もう年パスなんて廃止になっただろ?」

「ぐちゃぐちゃとうるさい奴だにゃ、この章の投稿日を見ろ、2020年10月12日だにゃ? この当時はまだ年パス制度が残っていたんだにゃー。そして、今俺が喋っているこのセリフは、2022年に追加されたセリフだにゃー」

「もう何が何だか」

「情報が錯綜しすぎだろ」

「コロナ禍のせいでめまぐるしく運営方針が変わるから、こんなこともあるんだにゃー。ぼーっと見ていないで、さっさと受け取るにゃ」

 器用に尻尾につままれて渡された二枚のそれらは、正真正銘、東京ディズニーランド単体の年間パスポートで、顔写真までしっかりと印刷されている。たらー、と冷や汗が背中を伝った。

「要するにこれ、強制イベントってことか?」

「んっふふふふふ、慌ててももう遅い。果たして諸君は、ここから出ることができるかにゃ?

 俺なら、こうやって出るがにゃあ——」

 ネオン・パープルの肥満体が闇に溶けてゆき、にたあ、と白い歯並びだけが三日月の如くそこに残る。

 そして————




 「あだああああああああッッッ!!!!」


 ついに穴の終端に到達した彼らは、凄まじい 衝撃とともにしこたま尻餅をつき、その激痛に飛び跳ねた。デイビスは涙目で絶叫し、スコットは痛みのあまり、声も出ない様子でいる。しかし目立った外傷がないのは、奇蹟と言うべきか。見ると、辺りはふたたび、夜空が繰り広がっていて、すっかり人通りも絶え、彼らの他には誰もいなかった。その石畳の上で、二人はタコのように手足を絡ませながら、じたばたと地面の上を虚しくもがく。

「重いんだよ、スコット、どけよ!」

「貴様こそ、俺を蹴りつけているその足をどけろ!」

 ひとしきり罵倒し合った後で、二人とも、しぶしぶと腰をさすりながら立ちあがる。久々の地面の感覚。ぐっと力を入れて二本足で立つと、貧血で眩暈がするようだった。

「ああ、くっそー、チェシャ猫の奴、酷いやり方で放り出したな。まだ尻が痛え」

「まあ、下水道に落ちるよりはマシだったが。ところでここは、どこなんだ?」

「ま、ここが噂のディズニーランド、ってことになるんだろうけど——」

 ぐるりと周囲を見回した二人は、その目の前に、あっけなく答えを見つけた。夜空から降りそそぐ三日月の光と、看板に取りつけられたライトアップ。そんな照明に照らされて、存在感のある門が、彼らの頭上に立ちはだかっているのだった。

 不思議——というより、こんなふざけたゲートは見たことがない。今にも崩れそうに傾いだ天井を、もっちりと歪んだ牛柄の柱が支え、積み木レベルにしか見えないその設計は、見ていて怪しいばかりである。実にカラフルな彩りで、てっぺんには、平和な赤い三角フラッグがはためき、ゲートの一番よく目立つところに下げた看板には、

Welcome -TO- TOONTOWN
(PRESENTED BY 講談社)

と書かれていた。

「トゥーンタウン? へーえ、珍妙なところだなあ」

 首を傾げて、ぺちぺちと柱を叩くデイビス。冷たく硬い感触が、手のひらいっぱいに広がった。

「要するに、漫画の街ってことか。確かに……ふわぁ、このゲートのふざけた作画は、カートゥーン特有のものだな」

 スコットはいよいよ眠くなってきたのか、あくびをしながら、そう呟く。健康的なライフスタイルを愛する彼には、もうすっかり遅い時刻である。

「で、どうするよ?」

「どうするも何も、さっさとここで求められている役目を果たして、ポート・ディスカバリーに帰るしかないだろう」

「なんだよ、スコット、あーんな猫のいうことを信じる気か?」

「いいや、あの奇妙なデブ猫も、ミッキーとかいうお前の友人も、関係ない。俺はただ単に、お前がもやもやしたまま帰るより、やるべきことをやり終えてから帰った方が、特別な日に水をさされずに済むと思っただけだ」

「特別な日? なんだよ、それ?」

 首を傾げるデイビスに、スコットは月の光を見つめながら、真面目な顔で告げる。

「今夜は、お前の昇進祝いだろ。お前の功績がCWCの奴らに認められた、大切な日なんだ。どんな奴にも、今日のお前の思い出に、一滴の染みもつけさせはしない」

 静かに、しかし力強く発せられたスコットの言葉に、デイビスは、ぽかん、と口を開けていたが、やがて我に返ったように軽薄に口笛を吹いた。

「かぁっこいー。惚れるぜ、スコット(拍手)」

「馬鹿、ふざけている場合か。それより、さっきの奴に早く連絡しろ」

「へいへーい。ったく、つれないオッサンだなあ、この人は」

 無線機を取り出したデイビスは、でたらめのチャンネルに合わせて、むすっとした声で通話した。

「おいミッキー、あんた、どこにいるんだよ?」

《トゥーンタウンのゲートを入ってすぐ正面に、ジョリートロリー号の駅があるから、それに乗って、ミッキーアベニューの一番地へ!》

「分かった分かった、それじゃ、迎えにいくぜ。ついでに、この意味不明な状況も、ぜんぶ説明してもらうからな」

《OK! 頼んだよ!》

 秋の夜に、虫の音は静寂を研ぐように鳴り響き、沁みるような微風も、靴底に擦れる砂粒も、やたらと身に迫るように感じられた。通話を終えたデイビスは、空を見あげて、大きく溜め息を吐く。

 スコットは、懐からシガレット・ケースを取り出し、奥歯に深く煙草を咥えると、

「デイビス」

と目も向けずに合図し、放り投げられたライターを受け取った。

「分煙化は?」

「知ったことか」

「ま、小説の中だけな?」

「ああ、ここだけの話だ」

 二人はニヤリとして、同じライターで煙草にブランデー色の火を点けると、か細くのぼってゆく白い煙を漂わせながら、互いを挑戦的に見つめ合う。

「なあ、スコット。本当はちょっとくらい、面白いことになってきたんじゃないかって、ワクワクしてる?」

「全然。また貴様に振り回されることになるんじゃないかと、うんざりしてる」

「ははっ」

 デイビスは煙草を咥えたまま、子どものような笑いをこぼすと、ほんの少し身をずらして、その美しいグリーンの瞳を、門の向こうへと差し向けた。

「そんじゃ行きますかね、トゥーンタウンとやらへ。我らがディズニーランドの王様、じきじきのお呼び出しだぜ」

「鬼が出るか、蛇が出るか。ま、なるようにしかならんがな」

 二人はようやく、ユーモラスな門をくぐり抜け、その先の闇へと吸い込まれてゆく。スコットのスーツケースのキャスターが立てる轟音も、少しずつ小さくなり、凛々たる虫の声に取って代わられた。


 夜空には白い三日月。


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それは徐々に、



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輝きを増しながら、



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にんまりと、笑い始める。

 



「We are all mad here. I’m mad. You’re mad.」


 ぐるん——と頭を逆さにしながら、その笑う三日月は、夜空の中に真っ白な歯を光らせた。

「行ってみな、おかしなトゥーンタウンへ。君たちを待ってる奴がいる。奴の名前は、エディ・バリアント。飲んだくれの奴を叩き起こして、話を聞きな。

 どんな冒険も、第一歩から。現実と闘いたきゃ、想像力を使え。

 行くんだ、海の向こうの、不思議の国へ。夢と魔法の王国。それが、東京ディズニーランドの始まりさ」









*1 『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』ボブ・トマス、講談社、2017年



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