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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」番外編:訓練生時代のデイビス/あの男

前作『空の上の物語』の前日譚。……ですが、どちらかというと、今作(『A twinkle of Mouse』)との結びつきの方が強いです。

天空都市を目指して進歩してゆくポートディスカバリーの夜明けと、その裏腹に、夢破れてゆくうら若きパイロットたち。ちと暗めの話になりますが、スコットと出会う前のデイビスが、どういう人間だったのかが伝われば幸いです。








 轟音の中で、薄汚れた海鳥の羽根がひとつ、潮混じりの飛沫を浴びて、ガラス張りの床の隅に貼りついていた。誰の爪でこそげ取られることもなく、それは敗北し、大空へと躍っていった。遙か下には、薄らいだ人の影と、ガラスの翳を揺らめかせる海があった。羽毛は、その上を翔けた。やがてそれは、天からの光芒に紛れて、見えなくなった。

 ライターの火が掻き消えてしまいそうなほどだった。銀のポールへと肘を投げだし、ぼんやりと炎を点す。数マイル先では、鉛色の横雲が重みに堪え切れずに張り裂けてゆくと、酷たらしい数の光の飛沫が撒き散らされ、潮騒とともにその数を減らしてゆく。ブランドンがさらに階下から大きく呼ばい、無造作にその手を突き出してくる。それを握り締めると、擦れあった掌に、砂と潮の混じった汗がじりりと広がった。熱い光線に嬲られたガラス展望台の頂上へ、ブランドンはようやく階段を登り切るなり、さんざん陽光に照らし尽くされたアルミサッシのベンチへ、身を投げだした。空気の機微すら伝えてくる掌の汗を、しばらく日の下で見つめてから、それを太腿へとなすりつける。

「おー、気持ち悪。なんでこの俺が、お前の手なんか握らなくちゃいけないんだよ」

「それはこっちの台詞だ。デイビス、貴様みたいなクズ野郎の力を借りるなんて、昼のサンドイッチがゲボになって出てきそうだぜ」

「それより、お目当てのものでも見ろよ」

 消え入りそうな吸いさしで、ホライズン湾の一点を指し示せば、ブランドンの睫毛も持ちあがる。沈痛な照り返しを叩きつける白浪は、数千万もの光彩を破裂させ、水平線のほんの数条の光芒にも、大量の反射光が群がっている。海鳥が飛び交う自由の彼方で、クレーンが数台と、黄金の塔がひとつ、日を受けて、岬の終端に光っている。新時代の象徴、というにはあまりに小さく、成長途中のそれは、あと一年の間に数百メートルの鉄骨を上に築きあげてゆかなければ、あっという間に、他の国際都市の威光に埋もれてしまうだろう。チンケだな、というつぶやきを漏らすと、ブランドンはようやく、安堵したように胸を膨らませながら、瞼を閉じた。

「今のところ、まだエッフェル塔の方がましってレベルだよなあ。どのくらいまでできてんの? 地上三百ヤード?」

「そのくらいだろう」

「ま、完成の暁には、ニューヨークを超えるだろうぜ、この街は。よくやるよ。まだストームライダーの構想が公表されて、数年しか経っていねえのにな」

 展望台のガラスフロアは、その全体が淡い翡翠色に光り、海の上に透き通る足首を、生ぬるく衰弊した空気が吹き抜けてゆく。気を抜けば、軀ごと吹き飛んでしまいそうな風圧だった。潮風が、シャツをはためかせ、何百という手で真っ白い裾を掴んだ。溺れるような感覚が、肺を満たした。ブランドンは轟音の荒れる展望台のベンチに寝転んだまま、宙に向かって喋り続ける。

「運の良いタイミングで生まれたよなー、俺たち。この発展は必ず、歴史に刻まれる。だろ?」

「ああ」

「俺たちも。CWC第一期訓練生として、教科書に載るかも」

「ああ。写真くらい、後世に残ればいいな」

「お前、顔だけは良いんだ、チャンスは大有りだぜ。昔はこんな美形の奴がいたなんて、数百年後でも語り草になっているんじゃねえの」

 潮風に流れゆくブランドンの声を振り返ることなく、ガラスの床に落とした煙草を踏み躙ると、そうか、と呟いた。灰が散った。それらは細かい白い粉末となって、たちまち、風の中に紛れ込んだ。

 陽は満ちてきていた。相変わらず、吹き荒れてゆく速度は激しく、シャツに染み込む海の飛沫の冷たさも、強度を増してゆく光も、風が押しとどめることはできなかった。吹き飛ばされてきた砂粒を踏み躙りながら、上から屈んで、静かに横たわっている影と目を合わせると、あの見慣れたすばしっこいやり方で、ニヤッと笑みを浮かべてくる。端正にも関わらず、どこか骨張った印象を与えるブランドンの方が、自分の顔よりも、よほど好きだった。硬く日差しを集める額、我の強い眉は彫りの深い眼窩を取り巻き、その下には、トルティーヤ・チップスのように形の良い鼻と削ぎ落とされた顎が、少し反るようにして天に向かっている。そして、灰色がかった薄い青の瞳。白人にはありふれた虹彩だが、柔らかく刈りあげたダークブロンドの髪に似合っていた。ドイツ系の血が混じっていると聞いている——有名な家系の私生児らしい。ブランドンは最初、口許の端だけに笑みを浮かべていたが、しばらく無言で目を合わせ続けているうちに、破裂するように噴きだした。

「なんだよ、デイビス」

「何が?」

「機嫌良そうじゃねーか」

 何も言わずにブランドンの胸を小突くと、奴は笑いながら身を起こして、お前にひとつ提案がある、と切り出してくる。

「肥溜めみてえなセンターの講義が終わるまで、まだ死ぬほど時間があるぜ。港で暇潰ししていかねえか?」

 俺はブランドンの眼を見た。遠方まで透き通りそうなほど、真っ直ぐな眼をしていた。時計を見る。卵を練ったような手の甲の照り返しとともに、動き続ける針は、等間隔の音を刻んでいる。

「お前が望むなら」

 また、雲の切れ間が移動した。目尻に六条の光が射し、徐々に頂点へと移り変わってゆくと、ブランドンの腰掛けるベンチは、光の椅子かと思うほど強烈な白銀に霞み始め、滑らかなアルミサッシが目の奥に染みて、眩しかった。もう一度、怒ったように名前を呼びかけられるまで、膨大な海の上を照らしだす雲と太陽を眺めていた。階下からふたたびブランドンが現れ、俺の肩を乱暴にはたいてきた。



 ポート・ディスカバリーの港は鴻大だ。八百万の市民たちの生きる大都市を支える心臓部は、この太陽と海の融合地点にある。頭上からそそがれ続ける圧倒的なエネルギーと、それを享受し続ける建築物の、熾烈に光る金属が、巻き貝を模した観測施設や、メタリック・カラーに輝く立体交差路をあまねく照らしだしてゆく。降りそそぐ轟音とともに、太陽の光を反射した航空貨物船が、真っ青な虚空を突き抜けてゆく。上空何百メートルかも知れぬ場所を飛行する赤い船は、けして天空の青に負けず、網膜にありありと灼きついていた。

 マリーナにある全ての建築物は、現代美術のモニュメントと見紛うほどだ。色彩鮮やかなタペストリーが風を孕む中、多くの建物に張りめぐらされた特殊ガラスは、室外からの強烈な陽光を、浅瀬にも似た光のゆらめきへと変えてゆく。市中に投影されるあちこちのホログラムが、ストームライダーの有用性を喧伝し、絶滅危惧種の古代樹に水が散布され、徐行する電気機関車の響きに、複線の高架橋は軋んでばかりだ。濃い青空に映えるパビリオンは、オウムガイから着想した対数螺旋構造のドームの中で、今日もマリーナの電波送受信量を管理していたし、その背後は、西海岸一の図書館へと連なり、巨魁堂々たるその入り口へ、街中から集う人々を次々に吸い込んでゆくピープルムーバーが、目に眩しい。自然の造形フォルムを雛形としたこれら建造物は、アール・デコ様式とヴィクトリア様式を融合させた、ネオ自然博覧様式と呼ばれる建築様式で、人によっては、レオナルド・ダ・ヴィンチや、アントーニ・ファン・レーウェンフック、アントニ・ガウディの夢見た新世界を髣髴とさせる。黄土色に、銀鼠、そして薄緑色のガラス——この三軸を中心として、街全体の建築物の高さはいや増してゆく。全ては、ストームライダー構想計画が発表されたことが始まりだ。未来に立ち込める暗雲を一掃し、人類史上初の機械文明に培われた天空都市スカイポリスを目指して、まるで太陽に挑むイカロスの如く、俺たちの生きる世界は、上へ、上へと登り詰めてゆく。

 この港街の発展は、これだけにとどまらない。一年後には、空中港が開設され、数え切れない大型貨物船が飛び交い、雑多な賑わいを最高潮にまで極めているはずだった。観光客に混じってぺちゃくちゃと話しかけるブランドンに、適当な頷きだけ返していた俺は、ふと、日盛りの底に立ちすくんだ。マリーナを包み込む、絶え間ない潮騒。クレーンを巻きあげてゆく金属音、コンテナを輸送するジョイント音、研究員用の冷静なアナウンス、髪を逆立たせる激しい発電音、潜水艇を引きあげて滴る海水、そして、スピーカーから流れる、勇壮な交響曲——その全てが、見違える活気を湛え、全身を圧倒してくる。まるでこの世の全ての苦しみが、太陽光線の中に消え去ってしまったかの如く。

 大きくなったな、と呟いた。
 なにがあ、とブランドンが間抜けな声をあげたが、何も答えなかった。おーい、無視すんなよお、とヘラヘラ呼びかけてくるのを振り返りもせず、群衆の合間を進んでゆく。

 八月も終わりかけの空気は茹だっていて、白い光、強烈な光、どこもかしこも、光に溢れていた。合金椰子の木陰に座った学者たちは汗を拭い、餓鬼どもは、あちこちから噴き出される冷却用のミストの下で裸足になって、北極の氷で冷やしたと謳っているフリー・リフィルの合成飲料を飲んだ。海面に浮いた跳ね橋付近には、数分前に自然水族館が餌を撒いたのか、ねばついた泡が浮かんでいる。海水が、橋の柱に貼りついたフジツボ群を濡らし、光と翳の波紋を粉々にする海の底は、数メートル先まで見透せた。風が吹くたび、反射光を撒き散らす細波の下には、一面にポリプをうごめかせる珊瑚礁が揺れうごいていて、よく観察すれば、毒持ちのタコや、産卵間近のタツノオトシゴに混じって、定点観測用の小型潜水艇が、小さなライトを点滅させていた。見てみろ、デイビス、と背中を叩かれて、俺は跳ね橋の下を覗き込むのを止め、顔をあげた。

「早速、ひとつ見つけたぜ。我らがCWC広報部の、涙ぐましい努力の産物が」

 どうせくだらないものなのだろうと思ったが、鉄板を張り合わせた簡素なワゴンに並べられているのは、宣材写真だ。ウインドライダー、ストームライダー、天空ラウンジがしつらえられたCWCのドーム外観、今や世界的に名を風靡するそれらの中から、ブランドンは一枚を引っ掴むと、じろじろとその目玉を動かし、上から下まで眺め回した。

「見ろよ、最新のキャプテン・スコットのブロマイドが出てる。今まで出た中で、これが一番いいな」

「キャプテン・スコット?」

「買おうかなあ。セルゲイの奴、試験のお守りとして東に祀って、朝日が昇るたびに拝んでるんだってよ。効果あんのかねえ、ハリーもラブレター送ったって発狂して、キャーキャー言ってたし。馬鹿だよなー。とっくの昔に、既婚者だっつってんのにな」

 俺も、ブランドンの肩越しに偸み見てみた。どこからどう見ても、中年男性の写真以上のものではない。

「ハッ、どいつもこいつも、ミーハー気分最高潮かよ。気持ち悪ィな」

「あのな、普通の奴らは、お前みたいに嫉妬深くねえから。てめえこそひがんでんじゃねえぞ、デイビス」

 多分ブランドンは、朝から上の空でいるままの俺に、苛立っていたのだと思う。二本目の煙草を引き抜いて煙をくゆらせる俺に、当てつけのように背を向け、すべてのブロマイドを丹念にめくっていた。が、やがて一巡した最初の一枚に目を落として、ぼそりと独り言をいう。

「ま、絵になる男だよな、公式パイロットに選抜されるような奴は。さすがにそのくらいは、お前でも思うだろ?」

「貸せよ」

「なんだよ」

「いいから、貸せって」

 後ろからその写真を強奪すると、なんだよ、とかなんとか、抵抗の声だけが聞こえてきた。目に映るのは、今、世界で最も名を叫ばれている男——ポート・ディスカバリーで、最高の名誉を手に入れた男。操縦室への階段を登る途中で、長い脚をもてあましたように交差させ、天井付近の窓から格納庫の底へ、斜交いにそそぎ込んでくる光を見ているその人物は、いつもは刻まれている皺も、この一刹那ばかりは眉間が美しく、血管が浮きでている太い指を、深い藍色の偏光フィルターが透けているコックピットの鋲に触れさせていた。けれども、その顔は、何に喩えようもなかった。おそらく、本人の知らぬ間にシャッターを切られ、その光と音に気づいて、こちらを振り返るまでの、ほんの一瞬の隙をついたものなのだろう。そうでなければ、こんなにも芒洋とした、微かな表情が現れるはずがない。撮影者もまた、その生命感のない虚ろさに惹かれてピントを合わせたのだろうか、前景を霞ませるほどに巨大なストームライダーと比較すると、パイロットの影はあまりに心細いほどなのに、まるで機械と同じ静寂を分かち合うかのように、気配を一体化させている。

 頭上へ翳してみると、太陽が真っ直ぐに射してきて、眩暈がした。蒼穹に広がる巨万の虚空を押しとどめるかのように、微かに赤みの籠もった光を透かしている写真の影が、ありありとそこにある。咥え煙草の吸い口を舌でなぶりつつ、パイロット・ウォッチの立てる微かな時の音に耳を傾けているうちに、虚空を燻していた煙草の穂先が、ふと、縁を掠める。何気なく写真を近づけ、熱を持つそれを、力を込めて押しつけてやった。

 太陽の真核に到達したかのように、みるみる薄白い煙をあげて焦げてゆく顔と、写真の焼ける匂い、日蝕の如くくり抜かれてゆく紙一枚の先に広がる、底なしに深い蒼穹を見ていると、炙られた網膜がひび割れるように痛んだ。背後からブランドンの手が、大げさに俺の肩を掴んでくる。一気に昼の雑踏の音が流れ込み、煙の香りが鼻の奥を衝いた。

「おい、馬鹿! 何やってんだよ、デイビス!」

「何が?」

「売り物なんだぞ、それは!」

 何も言わずに笑っていると、彼は胸倉を掴み、甲高い音を立てて俺の頬を張った。殴られた衝撃で、煙草は地面に吹き飛び、そこで小さな煙をあげ続けていた。足を伸ばして、それを踏み躙りながら、小銭入れの中のコインを鳴らし、しぶしぶ店に向き直る。

「しゃーねーな、買うよ。おっさん、いくら?」

「買うも何も、商品ごと消えちまっただろうが、このイカれ小僧!」

「あだーっ!」

 星の散った頭を押さえる俺の髪を、ブランドンはさらに引っ掴んで無理矢理押し下げ、早口で作り話の弁明をなぞる。こんな時、よくこんなに口が回る奴だよな、と思う。

「すんません、おやっさん。風で煙草が動いて、たまたま写真に当たっちゃっただけなんすよ。弁償しますって」

「あーあー、まったく、地獄に落ちるぜ。おい、ケツの青い野郎ども、このポート・ディスカバリーの指導者に根性焼きなんてしやがって、どんなバチが当たるか分かりゃしねえぞ」

「おー怖、指導者だとよ、信者の言い草だぜ。オッサン、そんなにブロマイド集めが趣味なら、こいつの写真出せよ。全部この俺が買い取ってやるからさ」

「小僧ども!」

「ははっ、おい、行こうぜ、ブランドン! 絶対に捕まるんじゃねえぞ!」

 港湾を駆けだすと、ぶわりと、風になったような気がした。餓鬼の頃から、いやというほど大人の手を掻い潜ってきたおかげで、このマリーナの委細は知り尽くしている。両親には鬼のように怒られまくる日々だったが、そんなのは、どうでもいい。出港間際の船から、汽笛が鳴り響き、潜水艇が、ぶくぶくと泡を立ちのぼらせる。合成椰子のセピアがかった木陰を過ぎて、歩き回る学者たちの白衣をひるがえし、驚いた一人が、オレンジ味のチュロスを地面に取り落とす。ホライズン・ベイの潮溜まりの匂いを超え、跳ね橋を渡ると、灯台がある。凄まじい噴射音を立てて、太陽光を和らげるミストが降りそそいでくる。今日はクレーンが動いていなくて、輝く鉄骨が、いやに眩しい。振り向くと、色褪せたシーウォールの彼方に、大海原を目指してゆく真っ白な船が、何艘も見えた。

 ストームライダー構想が発表されても、この街の変わらぬ部分は、ここにある。ポート・ディスカバリーは、未来のマリーナだ。俺の、たったひとつの故郷といえる場所だ。後ろからぜいぜいと聞こえてくる荒い息に、こっちだよ、相棒、と叫んでみせると、荒っぽくシャツを掴まれる感覚がして、何やらほっとした。ホライズン・ベイのガラスの屋根は、俺の瞳孔に似た色だ。上から揺れる水たまりの波紋が、硬いコンクリートの階段に、薄緑色の翳を落としていて、その合間をくぐり抜けるように石段を駆けあがってゆく時、ちらと、世界がエメラルドグリーンの光に染まった気がする。膨大な光、何もかもが翡翠色に染まってゆくような眩しさで。

「デイビス! ……デイビス! 待てよ! お前、いったいどこまで行くつもりだよ!」

 最後の段を登り終えると、肺が爆発しそうに痛む代わりに、俺の前には、真っ青な大空しか見えてこない。この瞬間が、何より好きだ。世界中のどんな美しい海でさえ、これほど壮大に染め抜かれた蒼は、見たことがない。しばらくはそうして、肩で息をしたままふり仰いでいたが、少し目を動かすと、ここよりもっと高い位置に、プロメテウス火山が聳え立っているのが目に入り、失望を覚えた。ポート・ディスカバリー駅を据えた、そよ風の吹く高台。ステーションを象徴するメタリックな地球儀の下で、温められた噴水が泡立ちながら、オブジェの翳を洗い流している。ようやく階段を登り終え、隣でひいひい息を切らしているブランドンをほうっておいて、俺は財布から百ドル札を引き抜くと、紙飛行機の形に折りたたみ、眼下の港へ向かってそれを飛ばした。札に貼りつけられた合成ホログラムが、太陽を跳ね返して、強く閃めく。指笛を吹くと、急いで振り向いた男が、猿のように赤らんだ掌で、辛くもその紙幣を掴み取った。

 釣りは取っておけよ、おっさん、と叫んだら、案の定、物凄い勢いで怒号が返ってきた。おっさんもまた凄い顔で、糞坊主、だの、CWCに告げ口するからな、だの、これでまた教官に説教されるんだろうなあと考えると、だんだん引き攣ったような笑いが止まらなくなってきた。

「なーに言ってんだって、こっちは感謝してほしいくらいだっつうの。あんなつまんねえ写真にゃ吊り合わねえくらいの額、まるっと丸儲けさせてやったんだからさ」

「デイビス」

「ま、オッサンにしちゃ、随分と上手くキャッチしたもんだよな。慣れてるんじゃねえの? それか、商売の本能かなんかで、札を見たら勝手に掴み取ろうとしちまうもんなのかな。面白えよな」

「……お前さ、」

 ブランドンは汗を拭いながら、息も絶え絶えに言う。

「異常者だぞ、そんなこと言うの。絶対おかしいって。自覚あんのかよ?」

 俺は空の端を仰ぎ、にやにやと笑っていた。






 試験期間が終わったところで、講義に出る奴らなんざ、どれほどいるんだろうな、とブランドンが話題を持ちかけ、俺は首を捻ってみせた。一通りの操縦技術を身につけ、気象予報士の資格も取得し、この時点で訓練生は、四十人ほどに絞られている。才能の限界を思い知った奴、もしくは精神が折れた奴は、バタバタとCWCを去ってゆくしかない。

 ブランドンはベッドに寝そべって、俺もソファに寝そべって、だらだらと身を委ねながら、二人揃って、天井の照明を見ていた。フロストガラスで造られた、緑と白のペンダントライトだ。それに、紅茶をそそがれているのは、イギリスの有名なメーカーのものらしい、紺に細い白の縦縞を描いた、ヴィクトリア朝時代のティーカップだった。奴はいつも時代遅れの、小綺麗なものを揃えていた。薄く歌いながらカップに口を近づけるせいで、吐息が、絶え間なく波紋を生みだしていて、そこだけが俺と同じ癖だった。機嫌がいいと鼻歌が飛びだしてくるが、後は何もかも違う。

 何もかも違う。


 ♪As sure I know a time and space
 In a future yet to be
 When the great storms flow like a stream
 The weather and water
 Amaze you, Port Discovery
 Let it spark every dream


 ブランドンは消え入りそうな声で口ずさみながら、天井へ飛び散っている、水しぶきみたいなペンダントライトの光を見ていた。しばらくのあいだは、奴の歌以外、何も音がなかった。

「何考えてんの?」

 堪えきれずに言った。ブランドンはニヤッとして、少しばかり肩をすくめ、

「ストームライダーのパイロットになった時、ゲストに言うジョーク考えてた」

「くっだらねえ。聞いて損した」

 寝返りを打とうとする俺の肩を掴んで、おい、最後まで聞けよ、とブランドンは上機嫌に舌打ちをし、

「お前にはわっかんねえかなあ、ゲストを楽しませてこそ、一流のパイロットってもんだろーが」

「興味ねえな。俺はストームライダーに乗れれば、それでいい」

「まあ待てって、ちょっと耳に入れるくらいいいだろ? 俺のいじましい夢なんだからよ。な、な、まず最初に、コックピットから挨拶するだろ? その時にな、快適な空の旅をお楽しみください。免税品の販売もありますからね、って言うんだわ。そんくらいの愛嬌は、最低でも、振りまいておかねーと」

「だっせえジョークだな。そんなのが夢なのかよ」

「ああ、そうだよ。ベースみたいに偏屈なアナウンスが流れてみろ、ゲストはみーんな、欠伸かましちまうだろ。俺はさ、コメディアンな機長になりたいからさ。な?」

 さっきからぐだぐだと、こいつは何言ってんだか。ブランドンは、あのくつくつと喉の奥で鳴らす特徴的な笑いをしながら、栗鼠のように素早く眉をあげて、唇を持ちあげた。その笑みを見ると、俺もなんだか、笑わなきゃいけない気がした。ブランドンがヘラヘラしているのならば、何を言われても、笑っていた。

 時計に目を配ると、四時半だった。こんな時間だというのに、今日は二人とも、フライト・シミュレーターに乗っていない。試験が終わってから、何をしたところで、今さら点数が変わるわけもない。どちらかというと、試験そのものよりも、その結果が告示される日の方が、よほど俺たちには重い。ブランドンは躁状態にあるのか、さっきから延々と喋りまくっていた。この調子じゃ、明日はまたいつものように沈んでいることだろう。

 訓練生の間では、「今期は誰も選抜されない」という説が、声高に叫ばれていた。キャプテン・スコットのように、誰の目にも鮮烈だったカリスマ性を持つ人間が、今期はまったく欠けている、というのがその一番の理由だった。全員が落第だと信じていれば、誰かに抜かされることも、自分が選ばれると期待することもない。人間が集まるというのは、そういうことだ。虚栄心や、嫉妬や、自己嫌悪を引きずって、明日も闘わなければならない。何もここだけではない、大学院だってそうだ。研究所だってそうだ。人間はまだ、それ以外のまともな進歩の方法を知らない。

 全員が傷ついていた。自分は飛べないのではないか、才能がないのではないか、それを口にしてしまえば、まるで戦場を前にして脱落した新兵のように、すべての名声を失ってゆくだろう。けれども、立ち止まっている時間はない。先頭のイカロスが墜ちれば、別の奴が、もっと性能の良い蝋の翼を練りあげて、追い抜いてゆくだけだ。例えそれが本物の翼ではなかったとしても、ほんの一ミリでも早く、他の奴らより高く飛べれば、それで良い。それほどまでのスピードで、世の発展は進み続けている。

 しばらくして、ブランドンがまた、ぽつりと言った。

「弟がさ」

「ん?」

「携帯機、最新機種がほしいんだって」

「そうか」

「なんでか分かるか? 好きな子と同じゲームやって、ダシに使いたいんだってよ」

「ませていやがる」

「普通だよ、このくらい」

 ブランドンはそわそわと足を動かして、ティーカップの中身を掻き回しながら、人工甘味料の半透明の粒を滑り落とした。

「買ってやろうかなあ。買っていいよなあ。長いこと、俺のお下がりを使わせていたからな」

「何歳だ?」

「十四。可哀そうだよな?」

「レモネードでも売って、自分の金で購入させればいいだろ?」

「ハッ、情のねえ奴」

 さも蔑んだように、ブランドンが溜め息を吐く。持ち込んだ灰皿を引き寄せつつ、引き抜いた一本を唇に持ってゆこうとする俺の腕を掴むと、彼は嫌悪感を隠さぬ声色で言った。

「おい、俺の部屋で煙草はやめろ。肺がんの道連れにするつもりか?」

「そうだよ。お前も地獄に堕ちろ」

「ふざけんなよ、一人であの世へ行けって。ったく、禁煙する禁煙するって、口先ばっかじゃねえか」

 ブランドンは立ちあがると、棚から出してきたプラスチックの袋を、俺の目の前に放り投げた。俺が袋を開けて、ドーナツを食べている間、肘をつき、ブランドンはつまらなそうにソーサラーに散らばった人工甘味料の粒を眺めながら、低い声で呟いた。

「俺さあ、一回、給料をあげてくれって、ベースに手紙書いたんだ」

「なんで?」

「クラブで使い込んだからだよ、実家に仕送りする額増やしたの、忘れてたんだ。金が欲しけりゃとっとと公式パイロットになりやがれって、糞みたいな手紙が返ってきたよ」

 やがてブランドンは、同僚の道化に、自らの秘密を告白したのを恥じたらしい、赤らんだ顔つきに変わった。

「誰にも言うなよ」

「ああ」

「噂になったらどうしよう?」

「言わせておけよ」

 肩をすくめながら、残りのドーナツをそっと割り、口の中へ押し込んだ。ブランドンが余った方をつまみあげ、何かを考え込むように咀嚼する。窓の向こうから流れてくる音楽は、かつてアトランティスを探しに沈んだ、伝説の潜水艇を讃える交響曲に変わっていた。荘厳なコーラスがスピーカーから響き、切れ切れに、太陽光線と交わるように聞こえてくる。俺は後ろを向いた。奴は、柔らかな午後の光に照らされて、ベッドに大の字に寝そべっていた。こちらへ目を向けた彼が微笑むと、俺も口角を緩めて、袋をくしゃくしゃに丸めた。それを屑箱に向かって放り投げたが、袋は手前に落ちて、ブランドンはまた、俺の頭をはたく羽目になった。




 すでにラウンジの、ガラス張りのドアは開いていた。指の骨で数度叩いたが、鈍い音がぶつかるだけで、聞こえているかどうか分からなかった。アイロンしたシャツに、煙草の匂いが染みついていないか確認し、それからもう一度、カフスと靴紐に目をやった。

「ハロー? パイロット訓練生のデイビスです」
 
 絨毯の上へ足を踏み入れた瞬間、驚くほどの柔らかさが、跫音を吸い取った。三方の壁はガラス張りで、空調が不思議な静謐さで室内を制圧し続けているせいで、黒々と磨かれたバーカウンターや椅子は、昼間とは思えぬほどに温度を奪われ、見えない冷気を放っている。部屋の奥にいる、四十も最後の年を過ぎるか過ぎないか程度の男が立ちあがり、手招きをした。半袖のシャツからは、陽に灼けた力強い腕が伸びており、乾燥したシルバーグレーの巻き髪を額に垂らしていたが、顔の肌艶は良く、弛み始めた瞼に囲まれた目には、激しい生気が篭もっていた。

「やあ、君がデイビス君か」

「すみません。名刺を部屋に忘れてしまって」

「オーケー、何ら問題ないよ。ローデリヒ・ヤンだ。いつもは三階に押し込まれて、ミズ・サッカレーにこき使われてる。どうぞよろしく」

 握り交わされた脂っ気のない掌が、すぐに対面するソファを示す。腰を下ろす折り、ガラスの壁面の彼方に、空が見えた。洗い流され、薄曇りの透明さを湛えた、天使的な水色ブルーだ。

「急に呼び出したりして、悪いね。他の訓練生たちは、試験結果が気になってしまって、仕方のない様子かな?」

「そのようですね」

「なるほど、そうかね。まあ、緊張しないでくれ、単に形式的な確認事項だよ。君は何も取り繕わずに、正直に答えてくれたらいいんだ」

 面接官が手持ちの紙をめくった瞬間、これから熟知した世界に潜る瞬間の、すっと焦点が合わさるような、透徹した静けさを覚える。すでに第一線から退いたとはいえ、体の中に沁み込んだ、一万六千を軽く超える総飛行時間が、無数の文字となって透けて見えるようだ。彼は剥けかかっていた唇をぺろりと舐めると、上から視線を這わせ、質問を読みあげていった。

 ———学歴は?

「連続体力学修士課程修了。CWC入所以前、航空機操縦経験なし」

 ———いつからパイロットになりたかった?

「思い出せないほど大昔から」

 ———なぜパイロットになりたいと思った?

「空という場所そのものが好きだった。機長が少年に向けてくれる敬礼にも憧れた」

 ———パイロットに必要な資質は何?

「判断力、自制心、操縦スキル、健康」

 ———通常の航空機パイロットとストームライダーパイロットの違いは?

「荒天下での安定した操縦の修得、水陸両用発着、およびホバリングの習得の有無、気象学の専門的知識の有無、僚機の同時発進を前提とした操縦や指揮系統及び法律の理解、ストームディフューザー発射システムの操作の有無、臨機応変なフライト計画の採択、基礎体力の差異、基本搭乗時間の差異、接客サービスの差異、キャビン・アテンダントとのコミュニケーションの有無、地理の知識の差異、必須語学力の差異」

 ———君の長所は?

「トラブル下での冷静さ、操縦スキル、事前の周到な準備」

 ———君の短所は?

「経験不足、やや独断的な思考」

 面接官は何度も頷きながら、万年筆を紙に引っ掛けて書き留めていった。それから、その事前に作成されたリストのうちで、最も重大さを秘めているもの、ここではない場所で会議にかけられ、複雑な手続きを踏んでゆくことになるだろう、短い問いを口にした。

 ———なぜ、あんな飛び方をする?

 少しの間、沈黙が落ちた。そうした方が、まだ信憑性を演出できそうだった。

「燃料の効率的な利用と、障害物の迅速な回避のため」

 指の間を、風が流れていった。ふと顔をあげたが、おそらく、風向きを変えた冷房のためなのだろう。

「そうそう、まだ建設は初期段階なんだが……君はもう、バベルの塔は見に行ったかね?」

「はい」

「あれが新しいポート・ディスカバリーの象徴になると思うと、胸が熱くなる限りだよ。この街の計画は、実に順調に進んでいるね」

 男の背後に硬直しているカーテンウォールから、また、日が射し込んだ。その眩む静けさが、俄かに掻き消えると、ふたたび、朧ろな太陽を透かしてきた。

「あれが完成する暁には、ようやく、真の意味での浮遊都市フローティングシティが実現する。ライト兄弟からブレリオ、ファルマン、ドゥペルデュサンと受け継がれて、ミズ・サッカレーが、最後の航空史のバトンを受け取った証だ。今にここは、あらゆる貨物船が飛び交う、人類史上初の空中港湾都市となるぞ」

 静かな昂揚を湛えた口調に、雲の影が揺れる。毛足の長い絨毯は、束の間おとずれる燦爛を吸って、沖を知らない波のように薄らいでいた。「俺が生まれた頃のポート・ディスカバリーは」と舌が動いて、面接官の眼差しが、静かに舞い戻る。

「世界有数の重工業と科学技術を誇る、ウォーターフロントと呼ばれていました。海洋科学、造船技術、漁業の全てがひとつに結びついていた。海の街だったんです、このマリーナは」

「ああ、もちろんそうだ。だが、じきに、離陸の時がくる。人口増加による居住問題、地盤工事のコスト、悪天候による死傷者、一時的な経済活動の停滞、それらの問題が、一挙に解決する。ポート・ディスカバリーは、世界史上、類を見ない時代へと突入してゆくんだ。これは実に——恐るべきことだと思わないかい?」

「ええ」

「ここが、世界第一位の都市となる。世界中から人が集まり——世界中のものが、ここにやってくる。観光、交通、運搬、貿易、金融、建設、製造、これらの産業が一挙に、爆発的な革新へ突入してゆくだろう。ごみごみとした地上から解放され、人は、空で生活を営むようになるんだ。こんな奇想天外な計画は、聖書にだってありえなかったことだよ」

「ええ。分かります」

「この時代に生まれてきた人々は、千年に一度の僥倖だとしか言いようがない。時々、私も現役だったら、と溜め息を吐いてしまうことがある。これからを生きてゆく若者たちが、羨ましいよ。まったく」

 雲量が多いのに、太陽は、延々とそこに輝いていた。無窮動の自然界を吹きなぶる外の風の音、そして、そこから断絶された冷房の機械的な轟音が、まるで別々の世界のように脳に染み込んだ。

「デイビス君。私の目を見なさい」

 声がまた、穏やかな調子で命じてきた。昼の薄明かりを反射する薄いブルーの瞳は、少しブランドンと似ている。地球上には酷くありふれた色だ。だが、青と白の取り合わせを見るたびに、俺は晴れ渡る北極の空を思いえがく。虹彩は揺らめきながら、瞳孔の周囲に滲み、絶え間ないイオンを放出する遷移層の如く、澄み渡っている。

 綺麗な眼だった。
 だが、これじゃない、とも思った。
 これじゃない、と知っているからこそ俺は、この眼を見据え続けることができるのかもしれなかった。

「君の目指すものが、どれだけ責任の重い立場なのかということを、理解しているね?」

「はい」

「パイロットは、華やかな職業だ。乗客の命を預かる重大な任務だが、生涯に渡って収入に困ることはないし、多くの者に羨望される。

 通常の航空機の類いなら、それでいいんだ。だが、ストームライダーは違う。乗客だけではない、今、ポート・ディスカバリーに住んでいる、七百万の住人たち、そしてこれからやってくる、世界中からの数えきれない観光客たち、新天地に目を輝かせた人々——労働者、移民、報道陣、研究者たち、その家族、そのほか、ありとあらゆる人間の命が、この飛行機の活躍にかかっているんだ。

 そしてね、本格的に天空を目指してゆくこの街において、ストームライダーのパイロットが果たすべき役割とは、たったひとつなんだよ」

 そうして目を細めた折り、乱雑に混じった男の幾本かの白髪が光る。人間が身じろぎするたび、翳が薄く移ろい、動きに合わせて何かが光る。


「君はマリーナに生きる者の一員として、この都市に住む数えきれない人々を、自分の命のように愛する覚悟があるのかね?」



 まさにその瞬間、ストームライダーが飛び立った。空気を切り裂く抵抗音が突き抜けてゆき、轟音で、窓ガラスが揺さぶられていった。

 俺はソファから立ちあがり、灰色の絨毯を踏み締めて、光の方向へ歩いた。幾つものガラスやポールを貼り合わせた直方体の彼方で、この日、この時間、この瞬刻、乳房雲の勢力圏から逃れた白日の周囲を、無疵の環となった日暈が蔽っていた。薄明るく、薄暗く、颶風に流されて変わり続ける空模様の前を、たった一機、か細いほどの翳が突き抜けてゆく。太陽とストームライダーを同時に見るのは、これが初めてだった。遙か上空に隔たれた薄膜が、白日の光線を、慈雨の如く地上まで透かしている。凄まじい烈風のうねる中、ストームライダーは燦爛たる高度を追求し続け、ついに太陽の瞳の中へと合一した。

「試験飛行だね」

 淡い薄鼠色の影を引いた面接官が、分厚いガラス壁に漉し取られた日の光を浴びながら言った。

「彼のフライト・スタイルについて、どう思う?」

 何気なく窓の方へと差し出した手に、光彩がそそいでくる。ガラスに付着している染みを見つめながら、何の抑揚もなくつぶやく。

「天才ですね。間違いなく」

「実に驚異的な男だよ。あんな恐ろしい離陸角度、この世の誰一人として、真似できるものかね」

 面接官は快活に笑って、肩を叩いてきた。それから、懐かしい新天地でも仰ぎみるように、どこか自身ありげに、ガラスの向こうに沈黙し続けている、淡い光に満たされた時空を見た。

「彼は、今後のキーパーソンだ。この街を新たな天空都市時代へと導いてゆく、素晴らしいリーダーになってくれると思うよ」





 ハンカチで拭いながら寮のトイレを出ると、リノリウム張りの廊下に、なぜだかフランスパンをむしっているブランドンが立っていた。彼は俺を見るなり、軽く眉をあげ、顎で部屋の扉を示した。鍵を回す間、彼はずっと声を潜めて、悪戯そうに俺の肩に寄りかかりながら笑い、素早く身を隠すように中へ入った。

 すぐに冷蔵庫のドアポケットからアンカーポーターを取りだすと、栓を抜き、そのまま一気に三分の一を干した。ブランドンはクッションの上に腰掛け、ブラインドの切り刻まれてそそぐ白けた光を茫然と見ながら、また呼び出されたのか? と呟いた。頷くと、ブランドンは肩を一度だけ揺らして、そろそろお偉い方が、問題児の首を飛ばす算段でも始めたんじゃないか? と大笑いした。冷蔵庫を閉め、テーブルの上に、瓶とライムを置いた。時計を見れば、十六時半になっていた。もう一度、喉に灼けつくようなアンカーポーターを喉に流し込んでいると、ブランドンは急に哀れんだ目つきになって、俺を見た。

「何か食べたか?」

「いや」

「腹減ってんのか」

「いや」

 ブランドンはパーカーのポケットから、カシューナッツのパックを乱暴に投げだした。

「じゃ、食えよ、それ。死体みたいな顔色してるぞ」

 黙ったままパックを開け、乾いた皿の上にナッツをだすと、パチンコ玉みたいな音が溢れかえった。ブランドンはソファの半分をぶん奪って、勝手にテレビをつけ、舌足らずなアヒルが栗鼠を追い回すだけの、古いアニメーションを眺めている。

「お前の部屋、ホント煙草くせーな。禁煙だろ? どーすんだよ、この満遍なく染み込んじまった臭いはよ」

「ほっとけ。数少ないストレス発散方法なんだよ」

「まー、コカイン吸うよりゃマシだけどさ。そういや、さっき廊下の途中でウィドリックにも会ったけど、ありゃもうダメだな」

「ダメ? 何が」

「完全に目がイッてる。なんでもっとバレないようにできないかねえ、あれじゃ、またお上がガサ入れにくるぜ。試験の結果が出る前に、あいつはもう終わりだな」

 西陽が入ってきていた。薄暗い飴色は、何度もスリットに寸断されながら、部屋の隅に切り落とされた赤毛のような縞模様の波を創りだした。ブラインドの隙間から覗いてみると、遠方にあるアクトピアはすでに、海底を思わせるディープブルーのネオンに染まっていた。まだ満ちている夕刻の黄ばんだ光を黙殺するように、やりきれぬほどに深いブルーに揺らめく光芒が、オウムガイの形に磨かれたオブジェや、操縦板を見つめるCWC研究員たちの頬を、波紋の如く照らしていた。彼らは盛んな身振りをつけて何か話しあっていたが、人目がなくなったのを見計らうと、素早くキスし、忍び笑いを交わしていた。音楽もまた、夕暮れのそれに変わっていた。耳を澄ませば、シンフォニックなシンセサイザーの音階をちりばめられたマーチが、微かにガラス越しに聞こえてくる。深みもない、何の味もない、この四角く切り取られた部屋を置き去りにして。

 なあ、とブランドンが呼びかけた。

「ん?」

「家族にどう言おう。もう一年、訓練生をやることになりそうだっつっても、失望されないかなあ」

「訓練生だって、いっぱしに稼いでる。文句言われる筋合いねえだろ」

「でも俺、訓練生の九割がストームライダーパイロットになれるって、大ボラ吹いちまったしなあ。弟が信じ込んでたら、どうしよう」

 テレビの中では、釣り針に引っかけられたアヒルが、大声で喚き散らしていた。二匹の栗鼠は、けたけたと笑うと、素早く画面から逃げ去る。アヒルは手足を振り回し、宙吊りになった格好からなんとか地面に足をつけようと、反動をつけてもがいていた。

「大丈夫だよ。仲良いんだろ?」

「それなりになー」

「なら、どうとでもなるだろ」

 画面から衝突音を弾けさせるアニメの光を浴びながら、家族なんだから、と付け足した。ブランドンはしばらく、何も言わずに瓶から口を離し、観賞植物の葉に映り込む夕陽の反射を見つめていた。彼の横顔にもまた、テレビの点滅するフラッシュが投げかけられている。俺は屈んだまま手を伸ばして、皿の上の、一番太っているカシューナッツを探し当てた。ブランドンがぽつんと言った。

「でもさあ、デイビス」

「なんだよ」

「俺がいなくなったら、お前、後追い自殺しやしねえだろうな?」

 ナッツをつまもうとする指を止めて、振り向いた。片肘を膝の上につけて、頬杖で支える、ブランドンの顔があった。薄青い瞳の底に、夕陽の琥珀色の反映が、入り混じっている。俺はビールの瓶の首を引っ掴むと、二度と目も合わさずに言った。

「何言ってんの、お前」

 ブランドンは引き攣った笑いを噛み殺して、わざわざ腕を伸ばし、俺の背を叩いてきた。

「なにムキになってんだよ。おもしれー顔」

「お前、俺のこと何だと思ってんの?」

「ジョークだって、単なるジョーク。本気にするこたねーだろ、餓鬼じゃあるまいし」

 餓鬼じゃない、と言われると、どうにも胸が苦しくて、いつも言葉が消えた。何気なく口にしただけなのか、失望されているのか、これも一種の愛情表現なのか、考えたところで、証拠は何もなかった。テーブルの端に、夕陽のかけらがきらめくように揺れていた。

「……ああ」

「やめろよな、気持ち悪ィ」

 吐き捨てるようにブランドンが言う。だが、意味がよく分からなくて、曖昧に笑った。

「なー、デイビス? お前の美人な妹さん、いつになったら紹介してくれるワケ?」

「馬鹿、てめえみたいなヘラヘラした男を紹介してみろ。シンディに絶交されちまう」

「名門大の院生だっけ? 兄貴よりよっぽど優秀な頭をしてるんだな。本当に血が繋がってるのか、甚だしく疑問じゃねえ?」

 その瞬間、ブランドンの顔へクッションが命中した。俺は大笑いして、突っかかる彼と一緒に倒れ込みながら、床の上を転げ回った。負けじと、ブランドンもまたクッションを俺の顔に振るい、めぐる視界の中で、ふと、涙がこぼれた。それをクッションで拭き取りながら、ひっきりなしに笑い続けるブランドンと目を合わせると、その瞳に、俺が映り込んだ。ブランドンは、空のように真っ直ぐな青い目で、俺を見続けていた。

「決めた。お前にはぜってー会わせねえ」

「おいおい、俺もTPOくらい弁えてるって。それに対面する時はちゃんと、それらしい紳士の態度で振る舞うよ。だからさ、な? 相棒のためにさ、頼むよー、協力してくれよ」

「どうだか。お前が真面目な顔つきをしているところは、一度たりとも見たことねえな」

 ブランドンは、またお馴染みのやり方で腹を抱えるかと思ったが、ふと、のしかかる俺の胸を押し返すと、皿の上のナッツをつまんで、静かな音を立てて噛み砕いた。しばらく、黙って咀嚼し続けていたが、やがて観賞植物の葉を、ピン、と弾きながら、「お前のご主人様はケチだよな。なー、お前もこんな煙草くせー部屋、さっさと出て行った方が賢明だぜ」と囁いた。




 呻き混じりに吐く音で、目が覚めた。吐瀉物が次々と下水に跳ねる気配から、ほとんど胃が空になっているらしい。しばらくして、神経質に石鹸を泡だてて、隅から隅まで痕跡を抹消しようとする気配が、ドアの向こうから伝わってきた。水音が一通り廊下を満たすと、響きを潜めた足音が、部屋の前を過ぎ去っていった。

 それからは、ベッドに身を横たえてもなかなか眠れず、時計の針を見ると、もう数時間が経っていた。汗まみれになったシャツを脱ぐと、ソファの背に投げ出した。嗅ぎ慣れた体臭が漂った。ハッカの匂いのする研磨剤で歯を磨き続けると、毛は、軋むように歯の表面を擦り、頭蓋骨に粗雑な音を立ててゆく。歯茎に血が滲んだ。それをシンクに吐き捨て、SHOLAYEREDのボディスプレーを噴射し、パーカーをフードまで被ると、鍵を回して外へ出た。

 空気が大きく変わった。人が絶えてしまったかのようなマリーナの広さに放り出されると、どうしたら良いのか分からない。クラブもやっていない。バーもやっていない。ホライズン・ベイも開いていない。音楽の洪水に紛れてしまえば、周り全体をぼんやりと愛せるのに、取り憑いてくるのは無音だけだった。ネオンは掻き消され、最後に残ったのは、海洋研究用の、継続的に点滅する微小な観測信号だけだった。浅瀬の巌を照らす青い光が、ゆっくりと動いてライトアップしていたが、無人のこの場所では、何のために照らしているのかも分からない。

 夜明け前の冷え切った空気の中で、微かに体温の移った携帯機を引っ張りだし、おもむろに耳に当てる。片側の耳だけが、遠い天上を滑空する海鳥の声を聞いていた。

「よぉ、アンジー、久しぶりに話せたな。全然連絡くれねえじゃん、何か困ったことでもあったの? それとも男?」

 海が得体の知れぬ深さで轟き続けているのに、随分と静かだと思った。水底から吐きだされた泡が、柔らかな帯をさらに押しのけ、微細に弾ける音を撒き散らしながら湧き起こってくる。

「あのさあ、今から会えない? ずっとずっと、一人で電話こないかなって待ち続けてさ、アンジーはもう俺のことを忘れちまったような気がして、このまま置いてきぼりにされたらって思うと、寂しくて寂しくて、死んじまいそうだったんだ。

 ……ハッ、違うって。こんな時に、きつい冗談言わないでくれよ。……ああ、ありがとう。服なんかどうでもいい。何分で来れる?」

 凄まじい音を立てて、白濁した泡が膨らんでいった。鴎と同じほどに眩しい。

「馬鹿、島が違うんじゃ、もう間に合わねえよ。今すぐじゃないとだめなんだ。いや、いい。着替えなくていいよ。今じゃないなら、必要ない。

 ———違う。


 夜明けまでに、会いたかったんだ……」


 のぼってゆく。ガラスに封じ込められた腕時計の針はめぐり続けて、小さなナイフのように、溢れ始めた日の中で孤独に光り続けた。

 空気は、とっくに追いつかれた。長い光線が走り、睫毛に、緩やかな金緑の軌跡を引いた。もう、無理だな、と悟った。電話を切った途端、塞がれていた耳元を、大いなる潮風がさらった。

 そして、光が開けた。海は燦爛とし、空が暁の色に染まった。顔をあげられないままでいた。アスファルトに飛び散る、潮水のしぶきでさえ眩しかった。

 二人目に電話するのは諦めて、港に向かった。本当は、何の人工物もない、この世の終わりのように荒れ果てた海がよかった。けれどもそんな場所は、この街にはなかった。全部埋め立てられてしまっていて、行き場を失った水は石油のようにたゆたい、たぷり、たぷりと肥った音を鳴らしていた。蛾の紋様のようなその暗い反射を見ているうちに、冷たく、果てしない水底に引きずり込まれるような感じがする。

 煙草を咥えながら、また笑いが込みあげてきた。試験結果が開示されれば、どうせトイレは血まみれだ。精神が過剰に弱い奴もいる。紛争ばかりの故国から逃げてきた奴もいる。彼らはどこへ行き着くのだろう。

 この都市のパイロット志望者の急増を決定づけたのは、ストームライダーを核とする天空都市時代の構想や、CWCの設立ではなく、ほとんど同時期、ある一本の映画が、ポート・ディスカバリーから全世界へと公開されたからだ。行き先を取り違えたパイロットと乗客の、天空都市時代の世界観を先取りしたロマンス映画。全世界を席巻したといって良い。夕暮れの憂いに満ちた光を浴びて、風の中でかく語る主演俳優の横顔は、未来の若者の象徴として、すでにマリーナ全域を、ひとつの道へと煽動していた。もはや止められない。だから俺たちは、示された理想に向かって、突き進んでゆくしかない。


『———ご覧、空にはすべてがある。ロマンも、哀しみも、絶望的な憧れも。すべてが均しく光を浴びて、平等の世界を創りあげている。僕たちは今から、そこへ行くんだ』


 ポート・ディスカバリーの都市構想の名声を、一気に世界レベルにまで高め、社会に旋風を巻き起こしたその映画を、わざわざ観に行こうという気は一度も起こらなかったが、それでも作中の有名な台詞は耳にしていたし、訓練生を掘り起こせば、幾らでもいただろう。その理念に魅せられ、パイロットに憧れて、CWCの門戸を叩いた連中が。例え雀の涙ほどの額であっても、そいつらは、喜んで献身を誓ったに違いなかった。彼らは愛したがっていた、輝かしい未来を、自らの命を削ってゆくものを。ストームライダーを目指すのは、そんな愚直な奴らばかりだった。彼らが架空の映画の中を生きているというのならば、俺のような人間は、どこにも存在していないのかもしれない。

 お前に似ている、とブランドンは言った。初めて目にした時は驚いた、お前、あの主人公と本当にそっくりだよ。

 だが、顔だけだな。

 その瞬間、将来を濃密な白ペンキで塗り潰されたような、黒いインクをぶちまけられたような、どうしようもない笑いが込みあげてきたのを、今もありありと覚えている。腹を抱えてみっともなく転がるブランドンの無邪気さは、やっぱり目を引いて、それが日差しのようにどうしようもなく俺を照らしてくる時、笑いとともに、少しずつ死んだような思いがする。微かな泡が浮きあがる音ととともに、汽笛が鳴り響いていた。一番早い時間のエレクトリック・レールウェイが、痛いほどに引き攣れた音を軋ませて、薄っぺらなドアを開けた。地面に落ちている幾つもの乾いた魚の鱗に、紅い車体や、烏の影が映り込んだ。

 俺は振り向いた。立ちすくんでいる影は、脅えた顔のまま、ぴくりともしない。やあ、と声をかけると、警戒と侮蔑に歪んだ表情が返ってきた。透けるようなショールが、風にはためく。俺は旭に背を向け、ゆっくりとベンチから立ちあがった。

「こんな時間にどうしたの? 一人?」

「…………」

「恋人に殴られた? それとも旦那? 頬っぺた、痛そうだね。こっちにきて、海でも見なよ」

 こんな最先端の科学都市においても、暴力はあって、悲劇はあって、絶望はあって、それらは金属の裏に、ガラスの底に、海面の下に、周到に隠されている。だが、そんなことは生きるのに関係ない。未来への進歩を掲げるこの街の片隅で潮風に当たっていれば、やがて夜を打ち滅ぼして地を照らしあげ、地鳴りのような厖大さで、太陽がのぼってくる。そしてまた、皓々たる光を浴びて、みんなが好き勝手に理想を語り始めるのだ。

「大丈夫。海を見にきたんだろ? せっかくだから、一番いいところに座って見な。男といるのが怖いなら、俺は帰るから」

「あなた、名前は?」

「デイビス。パイロット訓練生の、デイビス」

 俺が微笑むと、女が、息を殺したのが分かった。それと同時に、ありありと立ちのぼってくる侘しい感覚が、黎明の薄い透明さの中に射してきた。それは彼女の感情でも、俺の感情でもなかった。くだらない茶番になど巻き込まれたくないと分かっているのに、それを演じなければいけない人間にしかなれないと知った時、真っ先に、故郷の匂いが裏切る。ポート・ディスカバリーから虚構を抜き去れば、理念は死ぬ。この港湾都市は、半分を虚構に喰われて生きているも同然のことだった。

 狂奔的に広がってゆく未来の中で、俺が唯一予測できるものといえば、声をかけた女の反応だけ。彼女らは俺をほしがり、俺の切り売りしたものが愛なのかどうか、検分するのに命を懸けていた。どうあったって構わない。俺だって、こんなにも滅茶苦茶に振る舞う彼女らを、愛する覚悟などできちゃいない。だが、見てみたかった、その眼の奥を。人間が俺を見つめ、どんな風に俺を求めてくるのかを。彼女らが本当に交わすべきだった眼差し、捨ててきた触れ合い、欲望の擦りつけ合いは、海の底を照らしだす朝を呼び続けるように、ここで立ち尽くしたまま、命を待っている。

 風の中でベンチの隣を叩くと、詰まった鈍い音がした。また、遠くで汽笛が噴きあがった。風が吹くにつれて、足元の潮溜まりが、銀箔の如く燦爛とした。朝陽を照り返しているベンチの中央に腰掛け、数分の沈黙を置いて、足音が近づいてくるのを待った。まもなく、遠慮がちな衣擦れが滑り込んでくると、ショールを羽織ったその肩を強く掻き抱き、濃紫色に腫れあがった頬に、おもむろに触れた。ラメ入りのシャドウを刷いた、アーモンド型の、縁が赤くなった眼だ。陰嚢のあたりがざわめいた。振り撒いてきた洋梨の匂いが、苦しいほどに香る。人肌の温度も、髪の冷たさも混じる。彼女の虹彩いっぱいに、人の影が映り込んだ。

 太陽は、一日のうちで一番冷たい空気を吸い、空の上へと風を煽った。鼓膜は風音で濁り続け、ひとつの意味あるものを探しだそうとし、どこもかしこへも潜り込んできた。肌寒かった。シャツを纏っているはずなのに、途轍もなく冷たい日の光の中に裸で晒され、見捨てられているように思った。鴎が近づいてきた。銀の小魚を咥えていた。どこからともなく、罵声が聞こえてきた。謝罪する若い声が聞こえた。綱の揺れる音がした。船底へ水が打ちつけられる音もした。交わした息がふるえた。

 一人になってから、口を拭い、煙草に火をつけようとしたが、空箱だった。捻りあげて、ごみ箱に放り込んだ。帰り道の建物の壁に、スプレーで撒き散らされた、こんな落書きを見つけた。


 飛翔せよ、都市の片隅に生きる人々よ
 悲しみを説く者は悲しみに溺れ、喜びを説く者は喜びに溺れる
 酒杯を取りのぞき、みずからの梯子をつくれ
 我々の言語は、はためく帆に等しい


 マリーナには、流浪の詩人が多いようだ。昔からそうだ。海の街には、自ずと詩が湧く。ポンペイの街角の落書きが、二千年を超えて今も読み継がれているように、遠い未来には、この名もなき者の書いた詩が、俺たちの時代を代弁しているのかも知れなかった。




 明日———

 選抜試験の結果発表は明日だ。寝ながら煙草を吸っていたところを、電話で叩き起こされ、あくびをしながら談話室へ行くと、いきなり、胸ぐらを掴まれた。俺は壁際に追い詰められながらも、両手を振って、ヘラヘラと笑いながら言った。

「しょーがねえだろうが、寂しいよーって、朝の四時に電話で呼びだされたんだよ。いやあ、モテる男は辛いねえ」

「おーい、世の中おかしいだろうが! なんでこんなクズ男にしか、順番が回ってこねえんだよー!」と、大声で嘆くリジー。

「おいおい、ほっとけ、どーせ顔だよ、顔。それに、そんな非常識な時間に電話で呼びだすなんて、ろくな女じゃねえぞ」山札から慎重にトランプを引き抜きながら、イブラヒムが言う。

 驚いたことに、こんな狭い談話室に、男子の奴らは全員が揃っていた。何本か薄白い煙が立ちのぼり、俺も拝借して、一本吸った。気前の良い奴は、それを交換材料にして、人間関係の潤滑剤にしているのだ。力強い声、機関車のように吠える声、低い声、呻く声、人間らしい声、人間には聞こえない声、それが次から次へと溢れでてきて、この煙混じりの篭もった空気を吸いながら、まるでアラブの市場スークのように、ひとつの蒙昧な流れをなしていた。けれどもここには、あれほどの活気はない。みんな、奇妙に興奮した目をしているが、それは性的興奮に近い何かであるだけだ。どうせ、夜の街に繰り出すか、徹夜のパーティでも開くつもりなのだろう。それまでの時間を埋めるために、雑談ばかりが交わされて、どこかにブランドンがいるという事実以外、俺には、ここにいる意味がない。

 試験が終わって以降、俺たちは、本当に自堕落になった。酒や煙草はもちろんのこと、人生に要らぬことばかり覚え、少しでも隙間をつくろうとしていた、本当の情熱から、自己嫌悪の闘いから。絶対的な真実が太陽に照らされるのを恐れ、全員がこうして結託さえすれば、少しばかりは逃亡をやり遂げられるとでも思っていた。そして自分は、そんな輩以上の人間にはけしてなれないということを、彼らは十二分に知っている。なぜなら、彼らは優秀すぎて、あまりに理性的すぎて、それゆえに何もかも語りあわなくても、もうそこまで押し迫る未来が、見えてきてしまっているからだ。

 そう、誰も彼もが知っている、ここに集まった者たちの、大半が迎える結末を。ルドラはじきに退所するだろう。ローレンスはシャルルを連れてゆくだろう。ククリットはヘロインをやめられるだろうか。ブランドンもやがて、故国へと帰ってしまうだろうか。誰も彼もが去ってゆく。そしてそれは、自分が勝ち得たという証にはならない。卓越していればしているだけ、自身への絶望は致命的になり、理想は届かず、空の上の太陽だけが熱い。これほど熱情に燃える都市で、自身の転落に堪えられる者が、どれほどいるだろう。

 壁に凭れかかり、目を細めながら喫煙すると、煙の中に照明が滲む。光が揺れ、翳が揺れた。あらゆる人影が溶けて、音だけとなったかのように、取り残されてしまったような感じを覚えた。寄せては返す波のように、騒音がめぐる。身をはたいて買った腕時計が、ばらばらに照明を反射し、それぞれ低さの違う声が、互いに貶しあいながら、ヘラヘラと笑っているのが聞こえてくる。髪を掻き回す音。ソファの上での貧乏揺すり。袖をめくりあげたり、暑さに扇いだり、喉を震わせてのけぞる気配が、俺の神経の深いところを撫でさすってゆく。そして、その喧騒の陰に、ふと、見慣れぬ影を見つけた。何度も写真で目にしたことはあったが、ほとんど顔を合わせたことのない、あの男・・・だ。なぜ、あんな人気のいないところにいるのだろう? 誰かに命じられて、俺たちの様子でもチェックしにきたのか? 男は重々しい表情を浮かべたまま、壁にもたれ、落ち着き払った様子で訓練生たちを眺めていた。部屋中を見回しても、俺以外の一人として、見つめられていることに気づいてはいない。紗幕が下ろされたようなざわめきの向こう側を、まんじりと蠢めいてゆく漆黒の瞳孔は、どこか哀しい光を孕んでいるようにも見える。訓練生たちは明るい囃し声を立てて、カードを引いていた。手札の広げられるたびに、賭け金が飛ぶ。何かが絶え間なく、かちり、かちり、と音を立ててゆく。缶底がテーブルを叩き、煙が刺すように霞む。もうそれで充分だというように、男は、少しばかり目を細めてその行為を打ち切ると、静かに口を引き結んだ。

 デイビス、とハロルドが笑いながら乱暴に肩に手を回してきた。お前、今日はクラブに行くのか。行くのか? 大丈夫だって、管理人の目をちょろまかして、ゾロゾロ行ったらバレやしねえよ。ブランドンも行くってよ、落第祝いだ、パーッとかっくらおうぜ。お前さ、女に声かけたら、何人落とせる? 頼むぜ、特攻隊長やってくれよ。


 —————なあ、スコット……


 ええ? マジかよえぐいなあ、デイビス、お前そんな顔して、よくそんな鬼畜なことできるな、お前がCWCの中で、断トツでイカれてるって。馬鹿、今に始まったことじゃねえだろ、つつけばどこまでも膿が出てくるような野郎なんだぞ、こいつの正体知らねえのかよ。おい、デイビス、ちょうどいいじゃねえか、武勇伝見せつけるチャンスだろ? 例の工場に忍び込んでヤりまくった話、みんなに聞かしてやれよ。


 ———あの時の俺、あんたの目にはどう映っていたよ?


 若い訓練生たちが騒ぎ続ける中、黙って踵を返し、ストームライダーの格納庫へと去ってゆく影に、どんな笑い声も届かない。互いに同じ海を抜けて、彼の目の前に押し寄せてくる、異様な賞賛とフラッシュの数々に立ち会えたのなら、あの男の背負っていた別の重みも味わえたのかもしれないが、そのような縁もゆかりもない以上、あの男とは断たれたままだった。俺は立ちあがり、テーブルに忘れ去られていた缶を手に取った。ジンジャーエールの泡が飛んだ。喉の奥から自然に、くつくつと笑い声が漏れた。




「久しぶりですね、デイビス」

 呼びだしたこの女性には、確かに見覚えがあった。会ったことはない——いや——そういえば、あるのかもしれない。遠い記憶の底から引っ張りだしてきて、ようやく、語るべき言葉が見つかった。

「あー。誰かと思ったら、採用試験の時の面接官? 俺のこと、よく覚えていたな」

「あなたに、人事辞令です。喜んでいただけると思いますが」

 手渡された書類に一通り目を通して、目をあげる。書かれている内容は、実に簡単なものだった。

「九月四日付で、私の部署に移ります。事務処理を急がせたせいで、人事部はてんてこ舞いですよ。前もって相談しておいてくれと、随分文句を言われました」

「なんで俺なわけ?」

「煙草は控えなさい、デイビス。ここは禁煙です」

 言われて初めて、完全に無意識のうちに、箱から一本引き抜こうとしていたのに気づく。舌打ちをしてそれを収めると、ペンシルで描かれた彼女の細い眉が、ぴくり、と跳ねた。

「で、何? 冷やかし? 見せしめ? 教官の趣味? まさか、広報部のモデルでも務めろって?」

「あなたがストームライダーパイロットに相応しい腕を持っているから、以外に理由などありますか?」

「俺にそれを誓えるのか。本当に」

「当たり前でしょう、おかしな邪推は困ります。そうでなければ、あんなに多くの訓練生の中から、選抜なんてとても——」

「どうして一度しか会ったことのないあんたに、そんなことが言えるんだ!」

 悲鳴のように裏返った大声に驚き、彼女は困惑したように眼差しを彷徨わせた。不意に、耳の奥底に不自然にかさつく微かな音で、手の中の辞令が、皺くちゃになっていることに気づいた。辞令の一番下には、彼女の名を表す、流麗なサインが記載されている。俺は握り潰した紙切れをデスクに投げ出すと、椅子を引きずり、どっかと足を組んで、犬のように頭を掻いた。

「ええっと……ボス……ミズ・サッカレー?」

「ベースで構いませんよ、デイビス。今CWCにいるメンバーたちは、皆、私のことをそう呼びます」

「ベース。わざわざ俺みたいな問題児をあんたの個室に拾ってきて、パイロット・スーツ引換クーポンをくれてやるってのは、いったい何の冗談のつもりだ?」

「パイロット・スーツは、貸し出すだけです。進呈するわけではありません」

「そりゃ失敬」

「では、機長キャプテンを辞退するというの、デイビス? 他に合格基準まで達している訓練生はいませんから、ストームライダーパイロットの選抜は、また来期ということになりますよ」

 ベースの淡々とした物言いを聞いて、そういえば自分は、そんなものを目指していたな、と思いだす。その言葉は久々に、穢れのない響きを孕んでいた。

「キャプテン・デイビス」

 敬称をつけて転がせば、静まり返った空気を震わすその発音が、不思議に舌に馴染んだ。ベースと目が合うと、口の端を歪め、彼女のそばにあったマグを、自分の手許へと引き寄せた。

「キャプテン・デイビス。耳触りだけは悪くないな」

「鼻息荒く突っかかってきた割には、随分と軽薄なものにお喜びだこと」

「なあ、ベース? 同じ飯を喰ってた訓練生の野郎どもが、パイロット用の白手袋をした俺に、足首揃えて敬礼してくれるとは思えねえよな」

 マグの中に入っていたコーヒーを傾け、その甘さに幾分ぎょっとしながら、マグの向こうに座っている、彼女の深い瞳孔を見据える。ひとつ釘を刺しておきますが、と彼女は真面目に言い添えた。

「あなたの勤務態度は、とても褒められたものではありませんよ。講義はしばしば欠席するし、教官には反抗的な態度を取るし。どうしていつも、はみ出したことしかできないの。為すべきことを果たせば、必ず、人はついてきますよ」

「俺としては、そんなちゃらんぽらんな人間を公式パイロットに認定しようっていう、CWCの賢明なご判断の方に驚きだね」

「だから私たちも、賭けに踏み切ることに決めたのですよ。キャプテン・スコットには早急に優秀な右腕が必要なのです。メインとサブ、二機が揃って初めて、ストームライダーは正式なミッションを開始できる」

「正式なミッション? あの男はすでに、幾つかストームを破壊しているんだろ? この前だって、スカイウォッチャーを半壊させたツイスターを消して、またくだらない伝説のリスト入りを果たした」

「キャプテン・スコットとおっしゃい。近々、あなたの上官になる方ですよ」

「キャプ、テン、スコット」

 子どもに綴りを教えるように舌で上顎を叩くと、ベースは短い溜め息をつき、さっと前髪を掻きあげた。

「あれは訓練の扱いです。レベル3スリー以下のストームは、マリーナの経済活動に与える影響が限定的で、期待していた防災規模に相当しません」

「哀れだねえ、チマチマしたストームを、俗世からの評価を稼ぐためだけに消しまくってよ。どかんと一発、でけえのがこないかな」

「ひょっとしたら、あなたにとっては初耳の情報なのかもしれませんけど、大型ストームというのは、やってこない方が有益なのです。ねえ、ここは気象コントロールセンターですよ、あまり大きな声で言わないで」

 ベースは壁の向こうを気にするように目を走らせると、それから、よく目上の人間がたしなめるやり方で、

「デイビス。あなたは、ストームライダーに乗りたかったのではないのですか? 入所試験の面接では、あれほど素直に、ポート・ディスカバリーへの思いを語っていたじゃありませんか」

 何とも言えない思いが込みあげてきて、ディスプレイのブルーの光を反射させているベースの眼を、そっと見た。自分よりもベースの方が、今、目の前で見せつけられている部下の凋落っぷりに、よほど傷ついているようだった。

「あんた、俺を信じられるか?」

 出し抜けに問うと、ベースは意味が分からないというように、キーボードの近くに頬杖をつく。その椅子の肘掛けに手を置いて、強引に向き直らせ、嫌でも俺の顔を見ざるをえない距離まで詰め寄りながら、その続きを口にする。

「部下としてとか、パイロットとしてじゃない。人間として信じられるか、って訊いているんだよ」

「何を今さら。人間性についてなら、とうに採用段階で審査していますよ」

「なら、もう一度言ってくれ。俺はあんたの信用に値するのかどうか」

 ベースは心底侮るように、俺の目の前で、ふふんと鼻をうごめかせた。

「そうですね、あなたが今後、公式パイロットに相応しい言動を身につけ、慎みを学び、思慮深くなることを信じます。あなたは聡明だし、まだ若い。この先、幾らだって変われます」

「心境もまた変わったぜ。今の俺と、過去の俺、どっちを信じるんだよ」

「あなたが信じてほしい方を信じます」

 まるで張り合いのない口調に、ある意味感心した。まともに会話するつもりはないらしい。彼女は甘ったるいコーヒーの残りを啜りながら、蠅でも追い払うように手を振った。彼女から距離を取って、デスクの角に腰を下ろし、踵でコツコツと支柱を叩いていると、左の手首から聞こえてくる、時を寸断し続ける針の音が耳につく。俺は時計を外した。ベースが呆れた声色で言った。

「何が不安なのです。何が」

「不安など何もないさ」

「では引き受けてくれますか、デイビス? 言っておきますが、チャンスは一度きりですよ。ストームライダーを目指さない訓練生は、CWCに置いておくことなどできませんから」

 静かに申し渡したベースは、五本の指を折り曲げてデスクに触れたまま、無表情でこちらを見つめている。綺麗な顔だ。四十を超えるか超えないかの若さで天空都市計画を発表し、名だたる研究者を押しのけて、今の立ち位置に就いたのだ。つまるところ、彼女は天才の部類で、そして、この世界に名を刻みつけた、数少ない成功者だった。

 しばらく、唇に薄い紅を塗りつけたその小さな顔を眺めていたが、やがて手を伸ばして、その眼鏡のつるを引き抜くように取り去る。すると、小さな金属音を触れ合わせて、ガラスに覆われていない眼が現れた。何の言葉も必要ない。逆光に透けるような睫毛の中に、溶け入りそうに濡れた白眼があって、柔らかな蒼の中時に、日蝕を思わせるほど真っ黒な瞳孔が、俺の眼を見据えている。その瞳を見つめ返していると、懐かしいような、責められているような、何とも言えない気分に引きずり込まれてゆく。

 誰もがそうだ。人間に過ぎないものを着飾って、人間以外の何かに仕立て上げようとしている。雪だるま式に増えてゆく論理でも、肩書きでも、責任でも。マリーナの人々を愛せるか、というあの面接官の問いは、けして致命傷を与えることのない棘を呑むように、鳩尾の奥底に疼く。だから何も答えることなどできない、何も。愛って何だ? なぜそのように口にできる? お前たちは誰もが理解できる容易な理由で、俺をストームライダーに乗せたがる、そうだろう? だが何百万もの人々が地を踏み締めて生きてゆく鴻大なこの街を、たった一言、愛しているだなんてどうして言える? 俺は間違っているのか? それとも人は、それほど多くの人間を愛せる生き物なのか? 俺が出会ってきた縋るような目をした女たちも、虚勢のために喋り続けなければならない訓練生たちも、全部ひっくるめて真剣に愛せというのならば、それなら俺に、お前たちの語る本物の聖人を示してくれよ。教えてくれ、人がそんなに誠実に生きられるのかどうかって。

 ポート・ディスカバリーに生まれてきた以上、俺だって、長い年月をかけて、故郷に対する思いを培ってきた。だが、この街は今も沈まぬ太陽を追いかけ、爆発的な勢いで変貌を遂げてゆく。その歴史に組み込まれて、たった一機、目に見えない戦争のように控えている冷たい未来へ、どれほど高邁な感情を捧げにゆかなければならないのだろう。お前たちはそれを命じるのか? この俺に? まるで自身の命のように愛せと、故郷が、この俺に命じるのか?

「同意できませんか?」

 問いかけたベースが、指を伸ばして、まるで幼い子どもにしてやるように、俺の前髪をそっと横へよけてやった。俺はしばらく黙り続けた後で、ちいさく首を振った。

「きっと変われるだなんて、約束できないよ」

 喉を絞るように囁くと、逆光の中で、彼女は柔らかな頬に薄っすらと生えている産毛を、黄金を散らした塵の如く窓からそそいでくる光線に輝かせながら、静かに口角を吊りあげた。首の長く創られた、エジプトの香水壜のようだった。

「あなたが変われるかどうかは、問題になりません。この私が、ストームライダーの価値を約束するのです。良い飛行機ですよ。間違いなく、あなたは夢中になる」

 裸眼をしばたかせる彼女は、開発者としての重々しいおこがましさに満ちていた。その傲慢な素振りが、今は、酷く胸騒ぎを掻き立てる。細長い指先から生えている爪がデスクを叩き、戛々、と硬い音を立てて光った。


「人々の夢の結実です。あなたのような若い人が、まだ、その真の意味を理解できなくても」


 沈黙が、細い爪の音を呑み込み、部屋の隅にまで広がってゆく。何か返すべきなのだろうが、何も思いつきはしなかった。

 手を伸ばして、自分の眼鏡の返還を要求してくるベース。脂が抜けて乾き切り、微かに皺の浮かぶ指が、照明を受けて細貝の如く並んでいる。デスクに手をついて身を乗り出し、その指を包み込むようにゆっくりと折りたたませると、彼女の鼻先へと濃い影を落としながら、挑発するように微笑する。

「乗ってやるよ。俺が、この街に必要なんだろ? その代わり、ひとつ、俺に誓ってくれ」

 なんでしょう? とベースは首を傾げた。その耳へ、俺は慎重に顔を寄せると、明確な口調で宣言した。

「ストームライダーIIは俺のものだ。キャプテン・スコットは一切乗せるな。指一本でも触ったら承知しない、俺のストームライダーだ」

「まあまあ……何を言ってるんでしょうかね、この子は」

 ベースはYesともNoとも口にせずに、黙って俺の手から眼鏡をひったくり返し、マイクロファイバーの布切れでレンズの指紋を拭いた。それから、デスクの上の皿に盛られている飴をひとつつまみあげ、俺の手にポトリと恵んでやった。

「よく理解しました、先が思いやられます。とにかく、私とキャプテン・スコットの二人掛かりで、あなたのおりをしますので」

「今のうちに、首輪でも買っておこうかな」

「分かったら、さっさとお戻りなさい。仕事の邪魔です」

「Yes ma’am, my boss」

「ああ、一言だけ忠告しておきますが、デイビス」

 キイ、と椅子を軋ませながら、

「キャプテン・スコットは、礼節を重んじる、非常に規律に厳しい方です。今のあなたには、ぴったりの指導者だと思いますよ」

 俺は鼻で笑って、口の中に甘ったるい飴を含みながら、ドアを閉める寸前に言った。

「そりゃ結構だね。あんたみたいなスカシ野郎の下僕になるくらいなら、死んだ方がましだって、もう一人のボスに伝えておいてくれ」





 寮棟に帰ってすぐに、何度も見慣れきった扉を叩いた。酒の匂いがした。アルコールには弱いはずなのに、昨夜の馬鹿騒ぎの勢いで、潰れたに違いない。

「ブランドン?」

 扉の向こうは、静まり返っている。物音ひとつ聞こえない。

「ブランドン。展望台に行こう」

 飛行機が一機、飛んでいた。ストームライダーではなかった。轟音をあげて別の国へと飛翔してゆく、遠い旅客機だった。飛行機は目覚ましい光を帯びて、寮棟に、その音を流し込んでいた。もう一度、黄昏に染まり始めたその扉を、力の限り拳で殴りつけた。

「ブランドン! 今展望台に行かねえなら、お前を叩き殺すぞ!」

 霧のように唾が散ったが、辺りはしんとしていた。そして、ドアの前の床に、泥のついた、薄い靴跡が付着しているのを見た。よく目を凝らせば、それはよろめくように、廊下の隅へと向かっていっているのだった。

 壁に、一枚の紙が掲示されていた。靴跡は、そこで止まっていた。それから向きを変えて、今度は真っ直ぐに、廊下の終端へと向かってゆく。外へ。光が射し込んでくる、その先へ。すぐに手を伸ばして、掲示されている紙を引き千切ると、文字が読めなくなるまで、細切れに破り捨てた。それから踵を返して、舞い落ちてくる紙片を踏み躙り、走りだす。廊下を蹴り飛ばし、屋外へ飛び出すと、風があふれて、一気に頭上が白くなった。

 湿り気を含んだ明るい大気が、本来ならば上空を漂うはずが、その時ばかりは、人間たちの生息域まで降りてきていた。そのぬめるような風を顔中に引っ被って、陸であるにも関わらず、深く深く溺れてゆきそうな気がした。空気の底で、多くの人間が生きていた。数人の男女が、笑いながら通り過ぎた。濡れた髪に構わず、熱心にプロペラを見つめ、風力を計測している研究者が過ぎ去った。それまで太陽を見あげていたテラスの給仕が、媚と憂いを含んだ眼で、こちらを振り向いた。無限の人生が泳いでいて、掻き回され、音の洪水にさらされ、無責任なお喋りを吐き散らされて、空気の底は、濁っている。音楽が流れ、魚の匂いがし、学者たちが話しあい、無垢なものを一刻も早く自分の陣地に染めようと、時を食い散らかしていた。全てが争い、全てが競い、他の人間たちから抜きん出ようと歯を剥きだして前へゆく。

 だが、そうして街が明けてゆこうとも、何の意味もなかった。空闊とした場所に日射しが延びて、轟音に駆り立てられ、俺たちは翳だった。無数の翳だった。地上を覆う微細な水蒸気の粒の中でも、限られたものだけが、白日の境地へと至る。浩然たる眩暈、膨大な稀薄さ、至純にまで到達した光と翳、そうしたものをただ高く、深く、廣く、遠大にと、数々の幻想で追い詰めていったものが、あの極致に満ちている。だが、その中に組み込まれて生きる人間たちにとっては、たまったものではない。どのような者も、この光に焦がれ、この光に自由を奪われ、この光を畏れて生きているのだ。海に面するこの都市では、雨あがりの黄昏は暴力的な寒さで、ブランドンはいつもシャツ一枚で出かけてしまったことを悔い、空から一点物のジャケットを落としてくれるよう、震えながら神に祈っていた。水溜まりを砕け散らすように踏み続けながら、どうして夏の終わりの冷たさは、こんなにも獰猛なんだろうな、と思った。蒸し暑い空気の中で、雨あがりの街は、清々しく、底が抜けていて、酷く息苦しかった。

 また、飛行機が飛んだ。轟音が、空っぽの体を震わせた。走りながら、だんだんと頭が麻痺してきて、たった今、何かがずたずたに引き裂かれて、脳を撃ち抜かれた方がましなんじゃないか、と思えてくる。未来って何だ。新しい時代って何だ。どうしてこの俺が、そんな途方もないものを背負えるというんだ。コンビナートでは、貨物用の飛行船の造船が進んでいる。重工場は休みなく稼働し、生産速度は過去最高を記録している。株は右肩上がりの急勾配だ。空中港の計画も持ちあがっていて、今後三十年、トゥモローランドと、宇宙工学方面での技術提携を結んだという話だ。テレビでは、ひっきりなしに空中移住計画の宣伝が流れている。人々は朝の光を浴び、限りない黎明に輝く海を見下ろして、宙に浮いたカプセルハウスから一日を始めるらしい。もう予約は、数万世帯を超えている。工事はどんどんと進んで、今さら取り返しなどつきはしない。それはあと何年だ。どうしたら、世界はまた様変わりしてしまうんだ。全てがストームライダー一極に懸かっていて、その理想と重圧を翼に乗せて、俺はまた、地を蹴って、空へと飛んでゆく。耳を澄ますと、いつも流れ込んでくる、ポート・ディスカバリーの音楽。今日も勇壮に、影を知ることなく、俺の胸に流れ込んでくる。ここを愛するなんて、無理だ、と悟った。あまりに壮大で、目まぐるしくて、途方もなくて、振り仰ぐたびに目が眩む。生きてゆくことが精一杯の俺には、誰かに愛をそそぎ込む余裕などなくて、聖人のように微笑むこともできなくて、意識ばかりを研ぎ澄ましながら、新しい風と陽の光に置いてゆかれる。例えどんなパズルピースを当て嵌めてみても、見えてくる答えは、いつだって同じだ。俺は俺の存在を、轟音を立てて進歩してゆくポート・ディスカバリーを、神のようになど、愛せない。

 水浸しになった緊急発着場は、鏡の如く燦爛としていた。何のヘリコプターも、飛行機も止まったことはないその場所で、影を負ったその物体が、俺の方を振り向いた時、この世のすべてが暴虐的な大空に支配され、その渾沌から勃興してゆく、練絹に膨れあがった巨大な入道雲以外、あらゆる具象が切り絵に思えてくるさなかで、ただひとつ、そこに立体的な光と翳が生まれていた。斜交いに流れてくる光の中、佇んだままの肉体が茫洋と彩られて、人間という名の、烈しい一個の藝術品たる彫刻を浮かばせ、黄昏のうちに晒けだされていた。そして、そのあらゆる光とは無関係に干上がり、灼けつき、乾き切った骸骨のような貌が、空疎な、それゆえに理解しがたい光を放っていた。同じ光芒は、俺の軀にも襲いかかってきていた。同等の色合いで呑み込み、互いの半身を眩ゆさに変え、暗みに変え、風音が荒れる宙空へと溺れさせる世界。音楽は、こんなさなかでも、やっぱり、俺たちの耳に聞こえていた。めまぐるしく、勇敢に、無限の広がりを目指して、壮大な行進曲が響いていた。強い潮風が時折り、高音を濁すように散り散りに吹きなぶったが、けれどもスピーカーから流れてくる旋律は、依然として、途絶え果てることを知らなかった。

 奴に無精髭は生えていなかった。シャツは一見して、丸一日洗濯されていなかったが、頬も顎も、完全に剃られていた。だが、彼の全身で清潔なのは、そこだけだった。襟は乱れ、雨の雫を吸い取って湿り、靴には泥が跳ねていた。そして、落ち窪んだその薄い青の双眸に見つめられた時、天使だと持て囃されるべきは、俺ではなくて、ずっとこの青年だったのだということに気がついた。微かな動きを繰り返して震える互いの襟は、黄金きんの陽に透かされ、けして譲ることのできない暴力的な誇りが、そこに根差している。いつも無造作に後ろに掻きあげていたブランドンの髪は、汗で崩れ、その数本が、消え入りそうなほど透き通って、柔らかに宙を漂い、煽られている。空からの光は、その尖った鼻を滑り落ち、頑迷な顎を伝って、唾を呑み込もうとする喉仏にまで落ちていた。

 俺はずっと前から、飛行機が嫌いだったのかもしんねえな、と影が呟いた。ばたばたと揺るがされるシャツの裾が、やたらと耳やかましく響いていた。好きだったけど、嫌いだった。でもそれを、ずっと認められはしなかった。分かるだろ? それを認めたら、もう俺たちに、将来なんてない。だから、絶対にそんなことあるはずがないって、言い聞かせていたんだよ。あの四角い部屋に閉じ込められていた訓練生の、全員が、同じことだ。

 吹き荒れる風はますます強く、ブランドンの身につけている、湿気の玉を浮かばせた腕時計の針の音すら、膨大な颶風の溢れてゆく虚空を切り裂いてゆくようだった。そして、彼の全身から飛び散ってゆく、抒情の濃密さのようなもの、宙にうねり、否定し、灼け死に、掻き乱され、その合間で絶え間なく打ち続ける針の響きに、鼓動が急き立てられた。

 好きだと言えないんだ。分かるか?
 お前がいる限り、何も言えないんだよ。全部お前が汚してゆく。
 踏み荒らされてからじゃ、遅いんだよ。戻らないんだ、もう何もかも。お前に分かるか?

 人生をそそぐべきものがもう、なくなっちまったんだよ。この世をひっくり返しても、手許に戻ってきやしないんだ。この先、どんなに生き永らえたって、もう二度と。






 跫音。
 入り口は閉ざしているのに、廊下から、あちこちの跫音が鳴り響いては消えてゆく。白衣の纏わりつくような音は、研究者のもの。しゃかしゃかと滑らかな雑音が立つのは、整備員のもの。最も恐ろしいのは、その跫音が、槌のように鋭く反響する時で、それはひと揃いのスーツを身につけ、完璧に革靴を磨きあげた、俺が最も嫌いな人種のお上どもが通り過ぎる時だった。自分の靴を見た。放置され、輝きを失っていた。

 窓の向こう側は明るくて、持ちあがるカーテンを通り抜けて、海の匂いがした。開け放たれた彼方に、鳥が光る。動きつつある大気が、小さなものを包み込む。陽射しは金緑石を思わせる条線を幾つも振りまいて、頬は暖かく、眩しいかすかな揺らぎが、乾いた柔らかさとなって、俺に触れてくる。風はちっぽけな精神などお呼びじゃない、地球全体を満たしながら、空へと高まってゆくようにふるえていて、こんな薄暗い会議室に佇んでいる人間など、一顧だにしない。世界はすべてが繋がっていて、呑み込まれてゆくこの都市は、光だ。鳥のさえずりがやたらと共鳴し、奇妙に美しく、奇妙に悲痛に、地上へと降りそそいでくる。

 俺たちは、進歩という太陽に照らされて、蹌踉と影を落としながら歩いている。

 それが、ポート・ディスカバリーの選んだ道だ。科学は人類に、希望をもたらす。これは、その実験的な第一歩。恐れるものは何もなく、恥じるべきことさえ何もない。ただ、ストームを打ち消して、俺の故郷に貢献できれば良い。それが俺に与えられた使命だった。

 大丈夫だ。鏡の前で笑顔の練習もしてきた。俺は笑える。健全な関係性を築ける。陽気に笑って、握手をして、真っ直ぐに目を見つめて、軽薄なジョークでもなんでも口にすればいい。そうすれば、呆れつつも笑われて、すべてがリセットされて、また新しく始まって、今までのことなど何もかもなくなる。何もかも忘れられる。俺は、強くなれる。誰もが憧れた、ストームライダーのパイロットになれる。

 けれども———

 何かが、それの邪魔をした。燻るように、小さな煙をくゆらせるように、それは薄闇の中に密やかな白をちらつかせる。もはや網膜に染みついているあの幻日を、掻き消すことなんてできない。他の訓練生どもがのうのうと夢を見ているあいだに、その憎しみだけを、血を喰うようにして肥え太らせてきた。容易に捨てられるはずがない。

 あの男。
 あの男。

 あの男が、足音を立ててやってくる。
 あの男が、ストームライダーに触れる。
 あの男が、エンジンを焚きつけ、炎を燃やす。コックピットを留めるビスに他愛もなく触れていた、あの骨の浮きあがる指で。

 薄暗い格納庫に、か細い緑のライトが点滅する。

 あの男が、スロットルを叩き込む。
 あの男が、眼差しを引き絞る。

 ベースは言った、ストームライダーは、人々の夢の結実だ。あなたのような若い人間には、その真の意味は分からないでしょう。あの男が、あの男が、あの男が、ゴーグルをかけ、操縦桿を握り、白日に向かってストームライダーを輝かせる。この世でただひとり、それが許されている人間のように。

 風が吹いた。空気が変わった。俺は振り向き、そこに佇んでいる姿を目に入れた。

 驚きはなかった。感銘もなかった。会いたいとは、一度だって思いはしなかった。あの眼。鋭く、傲慢で、落ち着き払って、今日も流れるほどに静かな余裕を湛えている。その人間は、これから栄光のさなかを歩いてゆかなければならない道を見据えて、特別な犠牲者が帯びるような光芒を浴びていた。

 この男を何度だって見た。CWCの廊下で目にするたび、ホライズン・ベイで目に入れるたび、写真に封じ込められた仏頂面を目で追うたび、俺は見た。そして実感するのは、この男は俺を一顧だにしない、例え死んだとしても、この巨大な大都市にへばりついていた無惨な一匹が亡くなったと、風の噂に耳にするだけだということだ。俺はずっと隔てられてきたのだ、という思いが、爆ぜるような熱を帯びた。この男の昨日から、今日から、果てしない明日から。ゆえにこの男は潔白で、俺は泥を這いつくばり、無遠慮に突き刺さるこの光線を憎悪してきた。そして、聞こえてくる。この都市に生きる者たちが、行列の中から、呪いのように泡立たせている声が。愛してくれ、未来をくれ、鳥のように空を飛び、この地に眩ゆい光をもたらしてくれ。まるで神にでも懇願するかのように、無数の世俗の声が、立ちのぼってくる。お前たちは誰もが納得できる理由で、この俺をストームライダーに乗せたがる、そうだろう? だが、お前たちの唾の詰まった口が、俺の焰を咀嚼しようとした時、太陽が俺の耳に囁く。もっと餓えろ、渇き切れ、理解しがたいものを捕まえにゆけと。荒々しく掠れたその言葉が、今なおも、烈風の如く響いている。

 この男に火をつければ、すべてが見える気がした。
 限りなく透き通った、黎明のように瞭らかな、あの世界。
 この男の棲まう場所こそが、俺の意識が乗り移り、拉し去るべき世界だった。

 男は今まで、俺を崖の下に突き落としてきた。
 今度は俺が、男を突き落とす番だ。
 キャプテン・スコット。
 俺はお前を知っている。

 お前が太陽の眼によってこの薄闇の淵を暴くというのならば、一度でいい、ともに薄闇にまみれて同化してゆく俺に、お前の眼に映る真実を見せてみろ。お前は白日を占める、俺は颶風の中で、今なおも目を開けたまま、黎明の吹きなぶる瞬間を待っている。お前が俺を照らしだそうというなら、俺は火をつけてお前を殺してやる。本当の薄明の冷たさに触れるために、俺は俺の幻影を、凍りついた大地の果てで、亡ぼさなくてはならない。

 お前は幻日のような男だ。
 だが、本当の太陽は、この俺だ。

 対峙するその男の無機質な眼は、俺の眼を、真正面から見据え返していた。薄暗い鏡のように静まり返った男の瞳の中に、俺がいた。男は俺を見ていた。世界でたった一人の人間の如く、対面して立つ、この俺を。集中的に、貪るように、男は異常な強さで俺を見据え続ける。この時代のどんな者にも非難しえない完膚なきやり方で、その男は、俺に"出会った"。鋭敏な眼を細め、鏡の如く瞭らかに、やや無遠慮に。男は睫毛を瞬かせ、静かに思惟に耽った。その間も、眼光は白刃の如く、頑なに俺の双眸へ据えられたままだった。

 男は寸分の隙もない風格に満ちていた。驚くほど抜きん出た背丈に、生来の恵まれた体格が加わり、常人の数倍の重々しさを孕んだ、底知れぬ生き物に見せていた。不思議な潔癖さに包まれており、漂うばかりの男振りは、それは見事なものだった。整髪剤で撫でつけた艶のある黒髪に、雄渾な眉、鋭く切れあがって白眼を輝かせる双眸、一筆書きの如く高く盛りあがった鼻梁はやや鷲鼻で、薄い唇は、地肌とほとんど変わらない、滑らかな色に濡れている。窓から射し込んでくる、傾き始めた陽の光線に、糊の利いたシャツが冴え渡り、幾つかの書類を抱えているせいで、二の腕の筋肉が袖の下に張り詰めていた。襟には深緑のペイズリーを遇らったネクタイを締め、過酷な宇宙に晒された西陽を受けると、左手の結婚指輪と、時を刻み続けるパイロット・ウォッチが、同時に銀に光った。その光は、俺を動悸で殺してくるように思った。それに、黒革のベルトのバックル。塵ひとつ付着していない金属を腰に固定し、鮮やかな稜線を浮かばせるスラックスは、そのまま截然と峰を描きながら、革靴の際が隠れる程度で、鋭く真横に切り返される。その影ですら、異様な重圧感にみなぎっているように思えた。それは本物の誇りの気配であり、未知の人間に対する警戒深さと、しかし周囲の人間から聞き及んでいたじゃじゃ馬を、己れはきっと乗りこなしてみせるだろうという自恃を含んでいる。

 男は一度だけ、パイロット・ウォッチを見遣り、定刻通りに事態が進んでいることを確認した。それから、微かに眉根を寄せると、肩口で風を切り、完璧に磨かれたコードバンの革靴を響かせて、目の前に立った。


「———君がキャプテン・デイビスか、よろしく。私は上官を担当する、キャプテン・スコットだ」


 男は仏頂面のまま手を差し出し、初めて、重厚なバリトンで語りかけてきた。








一覧→https://note.com/gegegeno6/m/m8c160062f22e

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