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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」3.夢見る人間は、大胆不敵、ってとこなんでしょうかねえ


 ————時は、一時間ほど前に遡る。

 嘱託職員として勤務していたその男は、本日、四回目となるあくびを噛み殺した。手許には、ビスケットのかけらが挟まった漫画。背後では、二匹のリスと争うアヒルの乱闘シーンが、和やかにディスプレイに映写されている。

 ポート・ディスカバリーのアイコンと言ってもよい、五本の気象観測アンテナを立て、まるで大聖堂のように厳粛なドームを聳え立たせている、気象コントロールセンター、通称、CWC。ここに入る人間は、最低限の入所手続きとして、身分証明書を提示することになっている。

 通常であれば、その事務所は、入所者にとって大きく立ちはだかる壁になりはしない。ポート・ディスカバリーの住民証明書を見せればいい。外部からのエリアであれば、パスポート。それですべてが事足りた。後は氏名を記入し、来所のピンバッジをつけて、必要な手続きは完了となる。

 金属探知機や麻薬犬のように、凶器や違反物を取り締まる効果はなく。最低限のチェックはするものの、その職員が偽造パスポートを見抜けるかどうかも怪しい。だからむしろ、そこは威嚇の意味を孕んでいるだけで、それ以上は後の工程に任せることを目的としていた。テロリスト、密偵、侵入者、犯罪人、その他あらゆる不審人物——を濾し取る、第一の、最も目の粗い網。そこに存在することにこそ意味のある、形ばかりの関門なのだった。

 職員の証言。

 ——ええ、思い出したくありません。あれほどの恐怖は、今まで感じたことがありませんでした。今でも、フラッシュバックするたびに怖気が走ります。未知のモノが近寄ってきたというか、そばにいるだけで危険というか。とにかく、何をされるか分からない恐怖を覚えました。

 暗闇で観葉植物とともに映り込んでいる職員は、ハムスターのように小刻みに震えながら、自らが体験した悪夢の記憶について、低い声で語り出した。

 ——我々は、保安専門職ですからねえ、あらかたの指導は事前に受けていますが、しかし世の中には、得てして怪物的な存在が一般人の中で紛れ込んでいるわけでしてね。それがまあ、天才だとか、慈善家だとかだったらいいんですが、明らかに挙動不審な奇人変人もいるんです。とんだご時世になったものですよ。私が子どもの頃は、確かにおかしな人間が多かったが、それでも得体の知れない匂いを漂わせるまでは、いかなかったもんでね。世の中、変わりましたなあ。

 世を儚むような発言とともに、貴重な証言を締め括る。
 そう、彼は今まで、考えたことがなかったのだ。あくびの出そうなほど、退屈極まるセキュリティ・ゲート。たまに通るのは職員か、せいぜい清掃員くらいしかやってこない。この場所に、


「アナタハ、カミヲ、シンジマスカー?」


 ————不審者以外の何者でもない人物が、来訪しにくるということを。
 
 ぽろり、と職員はボールペンを落下させた。目の前に立っているのは、鼻の下で結んだほっかむりにテントウムシがたくさん飛び回っているブラウス、それにピンクの花柄のパンタロンを身につけた女だった。大きく椿の花が描かれているあたり、ちょっとしたこだわりなのかもしれない。

「オジチャン、オジチャン。ワタシ、コワクナイネ。アナタニ、トッテモイイ情報。ココダケノ話ヨ」

「…………………………はぁ」

「ワタシ、銅像アル。トテモ効力ノアル神様ネ。ゴ開帳、タッタ百ディズニードル。安イヨ安イヨ」

 ぽぽん、とリズミカルに手を叩く女を前に、職員はひたすらに呆然とせざるをえない。なんなんだよこれ。俺が相手しないといけないのかよ、と。

「えーと。営業の方ですか?」

「ワタシ、行商ノ女ヨ」

「はぁ、事務所で営業は受け付けていないんで。本部にアポ取って、PRしてもらえますか」

「何ヲイウ、アンタ、損スルツモリ? コレ、秘密ノルートデ入手シタ、トテモ特別ナ神様。アンタダケノオ得情報ヨ」

「頼むから、その訳の分からない銅像を近づけないでくれないか」

 女が持っている像は、筋骨隆々の鳥頭の男だった。特に神話的背景を知らない職員には、それが禍々しいオーラを発しているように見える。

「だいたい、俺は無神論者なんだよ。科学以外の何も信奉していないんだよ。悪いが、タダと言われても、宗教的なグッズを買うつもりはないね」

「ナニ?」

 ぴくりと、怪訝に満ちた反応をする女。

「アナタ、宗教ガ、非科学的ダトイウカ? アルイハ、科学ガ、非宗教的ダトイウカ?」

 ヒートアップした。まずい箇所に油を注いだことを自覚した職員は、詰め寄ってくる女から距離を取るために、勢いよく椅子のキャスターを後退させる。

「科学モ宗教モ、ヒトツノ体系的ナロジックニヨル世界デアリ、ソレ以上デモソレ以下デモナイトイウコトハ変ワラナイネ。論理ハイツモ、論理ニヨッテ根拠ヅケラレル。ソレハ論理ノ体系デアリ、盲信ニ値スルヨウナ、絶対的ナモノニナルハズガナイヨ」

「だ、だけど、実験結果があるじゃないか。それは論理以外で説明されるもので、」

「実験ハ、アクマデモ、ソノ時ソノ実験ヲシタ結果デシカナイネ。便宜上、ソレハ自然法則ヲ証明スル材料トシテ扱ワレテテイル。ソレデモ、演繹的デアレ、帰納的デアレ、全ヲ背負イ込ムコトハ不可能ヨ。

 アル朝カラ、毎日七時ニエサヲ与エラレテイタ鶏小屋デ、長年勤メテイタ飼育員ガ変ワッテ、バラバラノ時間に餌ガクルヨウニナッタ。ソレハマサシク、今マデ鶏小屋タチガ構築シテキタ世界ノ原理ノ崩壊ネ。デモ、ソノ原理ハ様々ナヤリカタデ証明サレテイタ。実験、理論、観察、ソレニ歴史。

 鶏ノ信ジテイタ法則ハ、我々ノ科学ト同ジデハナイカ? ソノ時代、ソノ地域デ信ジラレテイル局所的ナ神ノ存在ト、同ジモノデハナイカ?」

「は……はぁ——」

「科学モ神ノヒトツ、違ワナイネ! 歴史ニ敬意ヲ払ワズ、神ヲ冒瀆スル、コレ、イツカ、カミナリガオチルネ」

 一気呵成に、唾を飛ばしながらそこまでをまくしたてた女は、いきなり勝ち誇ったような顔をして職員を見下ろした。

「アナタ、イツカ、メディテレーニアン・ハーバーノファンタスティック・フライト・ミュージアムニ行クトイイネ」

「はぁ」

「アナタ、チケット買ウ、オ父様ノ収益ニ繋ガル、コレマサシク免罪符。天国行キハ約束サレタヨウナモノヨ」

 言いながら女は、懐からクーポン券を出してきた。生憎、使用期限はとうに切れていたのだが。ますます脱力に襲われる職員。

「信ジル者ハ、救ワレル。コレ、世ノ中ノ最大ノ鉄則ネ。覚エテオクガイイ」

 最後に吐き捨てるようにそう言うと、タンッとクーポン券をカウンターに置いて去っていった。
 むろん、CWCの本館が設けられている方角へ。



……

「……二度としたくないわ、こんな真似」

 カメリアは単直な愚痴をこぼすと、身につけていたほっかむりを床に叩きつける。

「奇遇だな、俺もだ」

 デイビスの方はといえば、職員証もパイロット証明書も携帯しているため、カメリアのような小細工は必要なかったはずなのだが。げっそりとやつれているあたり、おそらくは謹慎処分について根掘り葉掘り聞かれたのだろう。CWCに戻れば、こうなるだろうと予想はついていたが。(注、ちなみに、CWCにとんぼ返りするためのタクシー代は、カメリアが支払った)

 とはいえ、結果は上々だった。デイビスは明るい銀の光を煌めかせる鍵を、手の内から軽く放り投げてみせる。

「ウインドライダーの鍵。それに、搭乗許可証。飛行計画も提出してきた。フライトは、一時間半後だな」

 とは言っても、その飛行計画内容は至って簡素。通常の訓練生が利用するルートを、そのまま採用しただけである。

 ここ、ポート・ディスカバリーは、市によって定められている飛行制限区域であり、その中でもCWC近隣は、完全にCWCの飛行機以外の航空が禁止されている。今回は、そのCWC管理の訓練場から、飛行制限区域を通過して、離れに設けられた同エリア内の訓練場へ。到着後はそのまま格納庫で機体を保管し、次回の別パイロットによる復路を待つ。ルートとしては非常に短く、住宅街の上を通るわけでもない。障害物は限られており、事故による二次被害も広がりにくい、安全性の高い経路だった。

 離陸までの時間はたっぷりある。
 ロビーのリフィル・サービスで、デイビスはコーラを、カメリアはココアを飲んでいた。機関としてスポンサーに報酬フィーを支払っているため、関係者は何杯でもお代わりが自由だ。デイビスの方は、パイロット・スーツに着替え、その装いを一新している。通常、パイロットの制服といえば、スマートな制帽キャップに肩章、見るも瀟洒な背広が有名だが、ここ、CWCには、基本的にゲストを搭乗させることを第一の目的とした航空機は存在しない。そのため、濃紺の美しい紳士服ではなく、動きやすい深緑色の作業服を着用していた。

 ロビーは彼女にとって、まさしく未知の世界として映ったらしい。天井まで一気に開けた吹き抜けのホールに、広々と敷き詰められている、黒を基調とした高級な床細工。壁の素材は、武骨な金属板そのままに、ビスや引っ掛かりのある部分だけ、最低限のコーティングがなされている。スツールは深いボトルグリーンのステンレスで、工業的インダストリアルな雰囲気を阻害しない。充分な薄暗い中、必要な箇所に絞られて、錐で空けたように鋭いスポット・ライトが当てられ、かすかに漂う埃を照らし出すその照明は、様々なパイプに艶として映り込み、無数の豆電球を灯したのと同じ効果を演出した。多くの金属は剥き出しになっているが、それが却って禁欲的で硬派な印象を生んでいる。煌びやかなものは何ひとつないのに、そこには膨大な費用を投じられていることが分かった。機能性は完璧で、リラックスと集中、その相反する要素に最適な環境を、同時に提供してくれる。

 単直に言って——カッコイイ。こんな場所は、今まで想像もしたことがなかった。興奮するなという方が、無理というものだ。

 スツールに腰掛けたまま、ずっと自分のタブレットに目を注いでいるデイビスは裏腹に、カメリアはあちこちを動き回っていた。蛍光灯に照らし出されている、アイスクリームの自動販売機や、高機能マッサージチェア。彼にはしがないとしか思えないものも、彼女には面白く映ったようだ。何度もスイッチを押したり、ぺたぺたと指紋をつけたり、釣り銭口を覗き込んだりしている。

「カメリア。俺だけの時はいいけど、他の奴らが来たら、そうやって不審な動きを見せるんじゃねーぞ」

「善処するわ」

「善処かあ……ま、いいや。それで」

 かくっ——と肩を落としながら、デイビスは手許のタブレットを操作し続ける。しかし、画面上部には赤文字のメッセージが表示されるだけだ。本日、四回目のログインエラー。デイビスは溜め息をつき、タブレットを投げ出して長い前髪を掻きあげた。

「駄目だな——これは」
 
 何百回と叩いたログイン情報だ、間違えるはずもない。それが入れないということは、はなから拒否されているということだ。ログイン試行回数は、最大五回に設定されていた。五回間違えた暁には、不正ログインを試みたユーザーということで、機器のアドレスとおおよその位置情報がマネージャーに通知が行く。つまりこの場合は、ベースだった。

(何だって、そう俺を目の敵にするのかな。何か俺に恨みつらみでもあるのか)

 と、試しにここ最近を振り返ってみて——やめた。思い当たる前科は、ありすぎるほどにあったから。たらりと、冷や汗がこめかみを流れてゆく。

 とはいえ、デイビスはベースから、個人的な憎悪をぶつけられたと感じたことは一度もない。むしろ、彼女はいつも、部下である自分のことを庇おうとしている、と思っていた。彼が何かトラブルを起こした時、呆れ返りつつも、どこか愉悦の色を浮かべているスコットと比べて、彼女の眼差しは——息子を思いやるような、どこか優しく目に灯る感情が込められていた。そして彼を叱咤する内容は、理路整然として、いつも正しかった。それゆえに彼女の方でも、なぜ言いたいことが通じないのかと、密かに悩むところはあったのかもしれない。彼が彼女の几帳面さを理解できないように、彼女もまた、彼の流儀を理解できたことはなかった。

 それはさておき、どうしたもんかと、長考に耽るデイビス。
 と、そこへ———

「あれー、デイビスさんじゃないですかあ。どうしたんですか、宿舎に忘れ物ですか? 謹慎って噂を聞いたんですけどお」

 ぱたぱたと近寄ってきた、童顔の小柄な男は、染髪料カラーリングで染めたのだろう、ブロンドに近いウェーブした茶髪に、垂れ目の顔立ちで、小脇にはヘルメットを抱えている。子犬みたいな印象だった。蛍光色のラインの目立つ服は、歩くたびにしゃかしゃかと忙しない音を立てる。

「いや、フライトに来たんだよ。まだ時間があるから、ここで休憩しているんだ」

「それって、14:20発のやつですよね?」

「ああ。ということは——今日の誘導員は、お前なのか」

「そうですよお。と言っても、あんなにちっぽけなプロペラ機の誘導なんて、あってないようなものでしょうけれど。やっぱり、ストームライダーじゃないとワクワクしないなあ」

「そりゃそうだけれど、ここしばらくの予報は晴天だろ。そうそう発進の機会はないよ」

「ですよねえ」

 話している間に、そういえばカメリアはどうしたもんかなと考えて、はたと彼女と目が合った。お知り合い? といったような顔で、デイビスの方を見つめている。

「カメリア、紹介するよ。今日の離陸の誘導を担当してくれる——」

「ペコですう。両親の名前は、パコとピコ。海を渡って、はるばるロストリバー・デルタからやってきました」

 握手しながら、相手の頰に頰を触れさせ、軽くキスの音を立てるペコ。向こうの挨拶の仕方なのだろう。若くして優秀な成績を修め、マーシャラーの職に就いた青年は、父から商売人の気質をキッチリ受け継いだらしく、頭の回転が速い分、その情熱のすべてを損得の計算につぎ込んでいる。童顔に似合わない、ちゃっかりしたところがウケるのか、思いのほか女性からの人気は上々だった。彼に夜遊びを仕込んだのはデイビスなのだが、現在の立場は逆転し、ペコにはまるで頭が上がらない。

「カメリアです。どうぞよろしく」

「イタリアの方ですかねえ。ご出身は、どちらに?」

「メディテレーニアン・ハーバー……と言って、伝わるかしら」

「ああ、あのあたりですか。あそこらへんはシーフードが美味しくて、景観も綺麗で、カップルに人気ですよねえ」

 会得したように、ペコは頷いた。彼も学校の卒業旅行で、そこを訪れたことがあったのだ。

「この時期は、イースター一色ですねえ。マーケティングが上手いんですよ。地球上で一番、金が回ってるエリアは、今はあのハーバーのあたりじゃないですかねえ。もちろん最盛期は、この季節の比じゃないですけどお」

「最盛期って、一体どんな風になるんだ」

「凄いですよお。人の波ですよ、波。地蔵のように地べたに座った観光客が、みっちり並んでいるとか、いないとか」

「へえ」

「みんな、小さな椅子と日傘を持ってます」

「ほお」

「あと、建国記念日には、街をはみ出るほどの行列が」

「なるほど。そいつは奇妙だな」

 恐らくは、彼の想像を超えた街なのだろう。ファッションや、菓子店、老舗の店の数々。その他、巧みに購買意欲をくすぐる、華美な品物と文化、歴史ある建築様式。同じように外からの観光客に重点を置いているとはいえ、売り物はピンからキリまで、目新しいアイディア商品で溢れかえり、あっけらかんとしたポート・ディスカバリーの空気に馴致している彼には、縁遠い世界だった。

「ところで、フライトの準備は順調ですか? 随分と早くから待機しているんですねえ」

 ペコは首を傾げる。世間話のジャブとでも言うべきだろう。ああ、と言いながら、デイビスは交差させていた足を組み替えた。

「飛行ルートを確定させるために、天気と航空情報を再確認しようと思っていたんだけど。この調子じゃ、無理かもな」

「気象データですか。運航情報システムで確認できなかったんですか?」

「それが、アカウントを凍結させられてて、アクセスできないんだよ。きっとベースの仕業なんだろうなぁ」

「ふーん。まあ僕のアカウントでログインして、見せてあげてもいいですけどお」

「本当に? 助かるよ、ありがとう」

 ペコは、タブレットを取り出すと、何度か軽く画面をタップした。見慣れた運航情報システムのページが、ディスプレイに映し出される。受け取ろうとするデイビス。その指が触れる直前で、ペコはこれみよがしにタブレットを翻すと、にっこりと、天使のような顔で片手を突き出した。

「金。よこせよ」

「……あ?」

「慈善事業じゃねえんだよ。こっちもそれなりのリスクを抱えて仕事やってんだ。社会人なら、それに対する報酬を支払って然るべきだよなあ?」

「あ、あのな、ペコ。俺は今、金が、」

「支払うもんがねえなら、この話は終わりだ。どっちにするんだ、てめえの財布の紐を緩めるか、とっとと俺の前から消え失せるか」

 この口調である。稼ぐ時に稼ぎ、強請る時に強請れ、が彼の一族のモットーらしい。おかげで、蟻の巣穴のように見過ごしやすい機会でも、彼はたちまち嗅ぎつけ、強請りのネタにする能力を身につけていた。年下であるにも構わず、強者の笑みを貼りつけながら、ペコはずいずいと彼の鼻先まで迫る。涙目でカメリアを振り返るデイビス。ロボットのようにカクついた動きが痛々しい。

「えーと。それは、私に支払ってくれという顔なのかしら?」

「みたいですねえ。カメリアさん、もしかして彼は、常習犯ですか?」

「お金を強請られるのは、これで三度目だけど——」

「ほほー」

 と、意味深に感嘆詞を放つペコ。興味のなさと、また何か、彼の面白い弱みを握った、という。込められていた感情は、そのちょうど中間か。

「前からろくでもない人間だとは思っていましたが、デイビスさん、ついに女性にたかるヒモになったんですねえ。ダメ人間から、クズ人間にレベルアップしたわけですかあ。まあ僕は、自分の汗水で稼いだ金だろうが、他人から血の一滴まで搾り尽くした金だろうが、偽札でなければどっちでもいいんですけどお」

「ひ、人聞きの悪い、ことを——」

 ぷるぷる震える肩と、真っ赤になった顔を晒すデイビス。言い返せない分、余計にタチが悪い。

「手持ちのお金は、もう大した額はなくて。生憎、こんなものしか——」

 おずおずと、カメリアはポケットからくだんのものを取り出した。ペコはそれに一瞥をくれてやり、一笑に付す——かと思ったが——

「わー、クロノスに、ラー ・ホルアクティだ。いいんですか、こんな立派なものいただいて?」

「ええ。お気に召したのなら嬉しいわ」

「まさか僕の古代神シリーズに、ラーが降臨するとはなあ。うん、状態も悪くない。アンティークの一点物かなあ、これは」

 ———意外にも趣味に刺さった、らしい。受け取ったブロンズ像を、しげしげと眺め回すペコ。お得意の鑑定眼でもって、値踏みしているのだろう。カメリアとしても、像を厄介払いできたおかげで、後続の金属探知機に引っかからずに済む。まさに一石二鳥、というわけだった。

「カメリアさん。南米の古代の神話にも、ウィツィロポチトリとか、ケツァルコアトルとか、翼を持った神がたくさんいるんですよお」

「へえ、面白いわね。どんな神様なの」

「ケツァルコアトルは、侵略者コルテスによって改竄された神なんです。コルテスがやってきた年は、ちょうどケツァルコアトルの復活を予言された年と一致していたので、人々はコルテスを神だと勘違いしてしまった。ところがコルテスは、あの通りの人物でしょう、そこから身の毛のよだつような大量虐殺や、奴隷制、略奪、強姦、徹底的な文明の破壊が行われるんですよお。偶然が、とんでもない地獄を呼び寄せることもあるんですねえ。ああ、残酷哉、残酷哉」

 ペコは身震いしながら呟いた。

「大航海時代に西欧人が働いた罪悪は、計り知れないものがあるわね。先人たちの悪魔のような行為を思うと、私も怖気が走るわ」

「そうでしょうそうでしょう。あ、でも、だからヨーロッパ人を憎むとか、そういう話じゃありませんからあ。むしろ、観光客ゲストとしては優秀な方ですよ。昔とは反対に、今度はこっちが搾取してやるんです」

 うふふふふ、とペコは口元に手を当てがって、怪しい含み笑いをこぼした。商売人の血が騒ぐのだろう。あれやこれやの策略が渦巻くのが、欲念として立ちのぼっているかのようである。

「この間も父の元に、訳の分からない大学教授がやってきましたけどお。考古学の専門だとかで、古代の神殿にひとり乗り込んでいきましたよ。でもあの中は、サソリとか毒蛇がうようよしていますから。残念だけど、あれはポックリ——でしょうねえ」

「怖くないのかしら、単身で乗り込むなんて?」

「夢見る人間は、大胆不敵、ってとこなんでしょうかねえ。僕だったら間違いなく、遺書を書き残してから行きますけどお」

 そうねえ、と彼女もペコの意見に賛同する。システムの情報を確認するデイビスの後ろで、遠い異国の噂話を、カメリアは興味深そうに聞いていた。

「よし。マリーナのチェック、終了——と。風は弱いし、近隣の花火や停電、点灯不備もなし。特に問題はないな」

「あ、終わりました? それじゃあ、システムの方はログアウトしちゃいますねえ」

 ペコは画面に映っている、ログアウトのボタンを押下した。暗くなったタブレットをしまいながら、代わりにペコは、一枚のちらしをデイビスに手渡す。

「ところでデイビスさん。これからの時代は、資産運用ですよ。どうでしょう、僕に融資しませんか」

「融資?」

「僕、クラウドファンディングをやっているんです。このURLにアクセスすれば、たったの五分で振り込みを完了できます。将来は札束風呂、金の入れ歯、紙幣の扇で高笑い。これで、長年の涙ぐましい貧乏生活に、デイビスさんもサヨナラを告げることができますよお」

「ええと——その振り込んだ金は、どこに流れ込むんだ」

「魔宮博物館を作る予定なんです。日がな一日、ボンクラどもの落とす札束を数えて余生を送るのが、僕の人生計画です。うふふ、髑髏にくりぬいた模造クリスタルが飛ぶように売れて、僕も一躍、大金持ちの仲間入りだろうなあ」

 ありあまる希望を胸に、ペコは早くも金勘定の妄想が止まらないらしく。指を蠢かす様は、悪徳商人そのものだった。

「はあ、それで、誰かお前に協力してくれるのか? 家族とか、友人とか」

「僕らは三つ子なんで、兄弟にプコとポコがいます。兄さんや弟をどうやって出し抜くかも、頭の使い所なんですよお」

「あ、そう……」

 とことん金目当てとも言える行動原理に、いっそ清々しささえ感じながら、デイビスはペコの発言に相槌を打った。案外、こういう人間が成功するのかもな、と感心する。

「じゃあ、後ほどー。離陸は、あと一時間後ですね」

「ああ、よろしく。またな」

 爽やかに手を振って、ペコは自分の持ち場へと向かっていった。

「さて。俺たちも行くか。ちょっと早いけど、やらなきゃいけないことがあるしな」

 スツールから立ち上がったデイビスは、ちょうど釣り銭口の構造を理解して、鍵を破壊するために金てこを手作りしているカメリアを引き剥がし、ずるずる——という音を引きずらせて、ロビーを出て行った。


……

「ところで、デイビス?」

「どうした、カメリア」

「私たちは、身体検査もしたし、金属探知機も通ったわね」

「そうだが、それが何か?」

「それならどうして——身を隠さなければいけないのかしら」

 ここまでが、直近一時間ほどの顛末。そしてここから時計の針は、元の早さで進み始める。

 離陸予定時間まで、一時間を切っていた。パイロットが入場を許可される時間である。本来、ゲストは別口から遅れて搭乗ボーディングするのだが、カメリアを世話する人間がいないため、こうやってパイロットに付き添わせているわけだ。目の前には、広々とまばゆい駐機場が開けている。彼らがいるのは、あと一歩踏み出せば陽だまりに出る、その寸前のピロティの柱の陰だった。

「とりあえず、ウインドライダーのところまで行けばいいのよね。ハイ立って。さっさと行きましょ」

「待った。腰を屈めて、目立たないように行こう。できるだけこそこそと飛び立って、こそこそと帰還したい」

「悪いことをしていないんでしょ? なら、堂々としていればいいじゃない」

 ケロリと言ってのけるカメリア。正論だ。デイビスは頭を抱えて、仕方なしにぼそりと呟いた。

「あー、いるんだよ。同僚の奴らが」

「喧嘩してるの?」

「そういうわけじゃないんだが、からかわれるのは避けたい」

「それはつまり、可愛い女の子を連れて歩いていると、注目の的になってしまうからね?」

「どうしてそう、閃いたっ、というしたり顔で、俺の方を見ることができるんだ?」

 デイビスは呆れ果てて、手でハートマークを作っているカメリアを横目で見た。自分の考えを否定されて落ち込んだカメリアは、今度はぴーんと、何かを思いついた嬉しさで手を叩く。

「もしかして。あなたは人を救った英雄だったり、するの?」

「え、えーと。それはまあ」

「凄いわ! それではみんなが駆け寄って、大変な騒ぎになるはずだわ。分かったわ、あなたのお邪魔にならないように、こっそり行きましょうね」

 にこーーっと、向日葵のように何のてらいもない笑顔である。真夜中の下においても、後光が射してきそうなほどで、さすがのデイビスも胸が痛い。彼の僅かながらに残っていた良心が、ちくちくと彼の心を刺した。

「あ、あのな、カメリア。実は俺は。かくかくしかじか」

「謹慎処分?」

 意表を突かれたように、首を傾げるカメリア。こうした事情を打ち明けた時に、聴衆の反応は大きく二通りに分かれる。可哀想にね、気を落とさないで。と発言者の気持ちに寄り添う者たちと、それはまあ、そうだけど、ルールは守らなければいけないよね。と社会通念を語る者たち。そして彼女は———

「あなたは人助けをしただけなのに、なぜ罰せられなければならないのかしら?」

 どうやら、前者の人間らしい。少なくとも彼の肩を持ってくれそうな雰囲気に、デイビスはほっとして答えた。

「俺が聞きてえよ。そんなもん」

「でも、ゲストを乗せたまま嵐に突撃するあなたの度胸も、なかなかよね。私、まだフライヤーに人を乗せたことはないわ」

 まだ実験飛行段階であるフライヤーは、しばしば制御不能に陥るため、彼女以外の人間によるフライトは厳禁だった。何より、タイムトラベルしてしまったらどうしようもない——という、至極当然に思い浮かぶ危険性が、さらに他人の同乗を遠ざけていたのだ。
 それを聞くと、デイビスは気まずいものを感じた。一見、破天荒に見えるカメリアでさえも、その実安全性を最優先としているのだ。あー、やっぱり、ゲストの前で無茶したのがいけなかったのかな——と、デイビスの自己嫌悪がもやもやと再発する。

「あら、そこはあまり反省しないでいただきたいわ。だって、あなたのような人じゃないと、私みたいな客を乗せてくれないでしょう?」

「それは、ちょっと事情が違うというか。生活費を稼ぐためだし」

「いいえ、自分の操る飛行機に人を乗せるって、素敵なことよ。私だって、乗せたい人がいるものね」

 カメリアは何気なくそう言った。大きな意図はなく、デイビスを励ますつもりだったのだが、へえ、それって誰だ? と、深く考えずにデイビスから問い返されたカメリアは、いつになく、顔を赤らめた。その羞恥の様子から、恋人かな——とデイビスは推察するが、彼女の吐息に載せられたのは、また別の人物で。

「……お父様を、お乗せしたいの」

 少しだけ、はにかむように、嬉しそうに。年齢よりも幼い感情を、ほんのりと緩く、頬に滲ませて。
 
 それは、息を弾ませて、珍しい野の花を持ち帰る、甘えたがりの子どものよう。花の美しさを、それを見つけた自分を、褒めてもらいたくて堪らないように。そしてその称賛の言葉をくれるという期待にも、疑念を差し挟んだことは一度たりともないのだろう。要は、彼女は可愛がられていたのだ、というのが一目でわかる表情だった。

 カメリアは可憐な椿のように背筋を伸ばし、立板に水の調子で語り始めた。

「お父様は、素晴らしい方よ。例えるなら、大きな樹を育てる、栄養たっぷりの肥料。優しく根っこを包み込む、朝の湿り気。芽を出すことは、ちっとも怖くないんだよと教えてくれる、心温かな腐葉土のような——」

「……腐葉土」

 独特すぎる比喩のセンスに、デイビスは突っ込む気力を失くした。

「お父様もまた——夢を持っているの。子どもの頃に見た夢。とびきり奇想天外で、空想たっぷりで、馬鹿みたいで、ふざけていて、それに——胸を締めつけるような、ロマンチックな夢をね。
 あれほどまでに大きな記念碑を、私に残してくれたんだもの。私のできる贈り物といったら、これくらいしかないんだから」

 少女そのもののような、夢見る微笑というか、心底幸福そうな表情を見て、蕾のような唇は嬉しさ一色に緩んでいた。

 そう、彼女の誇り、喜び、すべての知識は、ここに源流を汲んでいる。それはすなわち、家族が協力的であったということ。父親が偉大であったということ。その事実は、後々まで彼女の高邁な精神を守護し、あらゆる挫折を寄せつけない鎧となっていた。
 彼女はこれから後、岩道とも呼べる険しい生涯を送ることになるのだが、その中心にはいつも家族との思い出があった。逆に言えば——それだけしか、残されていなかったとも言える。

 脆い幸せ。脆い愛情。
 ほとんど狂気的な情熱を支える、ほんの数ミリの薄氷。それが張った上を、彼女は多大なる葛藤とともに進んでゆく。しかし彼女は、黙念としてその仔細を語らない。墓場まで持ってゆくことを決めた以上、どの歴史書にもそれを記述させず、塵と掻き消えるつもりだった。そして実際、彼女の心根を書き留める機会を、時代は永遠に失ってしまうわけである。

 それはまた、今も然り。

 従って、カメリア・ファルコが何を思って闘っていたのか——という後世の研究家が提示する謎は、告白がない以上、詮なき話題である。

 父親から託された言葉を回想していたカメリアは、何を思い付いたのか、手を背中の後ろに組み、青空を映し込む大きく澄んだ瞳で、彼の顔を覗き込んだ。

「ねえ。デイビス、あなたの夢は?」

「え?」

「あなたにはどんな夢があるの、デイビス?」

 デイビスは、今度こそ虚を突かれて、声が詰まった。
 これほど率直に問いかける人間など、思いもしなかったから。

 カメリアは身動ぎせずに、辛抱強く彼の返事を待っていた。否定の言葉をまるで疑わない、純粋な眼。彼女の鳶色の目は鮮やかで、見つめていると、少しずつその色が、刻々と暮れ始める空のように移り変わるようだ。どうしてだろう?

 平凡な顔立ち。平凡な髪と瞳の色。それなのに、彼女の持つ輝きは異様なほど煌めいて見える。まるで、見れば見るほど、その存在に込められた意義を深めてゆくようだ。デイビスは思わず、目を逸らすしかなかった。

「あのな。誰もがみんな、あんたみたいに、目をキラキラさせて未来を語るわけじゃないんだよ」

「と言うと?」

「誰にも彼にも、夢を要求するのはやめてほしい、ってことだ」

「そうかもね。でも誰もがみんな、あなたみたいに、どうしたら自分を好きになれるんだろうって、やきもきした顔を見せるわけではないわ」

 顔色が変わった——らしい。それを見て、悪戯そうに肩を揺らすカメリア。思った以上の反応を、彼が返してくれたということなのだろう。

「ほら、また当たった」

「……どうして。あんたが、そんなこと」

「私は、天才発明家だから。ちょっとしたマジックよ。《人の心を読める機》を使ったの」

「な、なんだよ、その訳のわからない発明品は」

 カメリアは口元を抑えて、鈴のように笑った。ほんの一瞬だけ、あ、ちょっと可愛い、と思えたかもしれない。「あなたって本当に素直なひとね」と、彼女はそう呟いた。それから、ドレスを翻し、何かに呼ばれたかのように、ふと駐機場の上を占める空を眺める。雲ひとつない、本当に清涼な青だった。彼女の顔半分に、降り積もるような光があたり、まだ淡い影に取り残されているもう半分を置き去りにして、神聖に輝いた。勿忘草色の空が、ますます透明な重みを増してきている。頭上には紺碧の自由が充満しており、あらゆる地に起きた出来事を、柔らかい光輝のなかになみそうとしていた。生温かく澄んだ光、土煙の匂い、そして遠くの教官の声が、入り乱れるように混じった。こうしている間も、彼女の表情は、万華鏡のように刻一刻と変転してゆく。忘我の色——瞑想の色——ふとこぼれる、悲痛な色——それから、決然たる色を込めて、振り返りながら彼の方を見つめる。背の高いデイビスに合わせて、少し背伸びをするように———

 夢を持たない人間など、いないわ。

 ふわり——と風が吹き抜け、彼女の声を、微かに水平に滑らせた。風は小さく円を描いて、そのまま天高くへと吸い込まれて、消えてゆく。

「あなたはきっと、努力して、汗をかいて、現実のものにする行為こそが、夢を見ることだって思っているのね。でも、子どもたちのみんながみんな、そんなことを考えているわけじゃない。彼らの頭の中にあるのは、空想イマジネーションだけよ。叶うも叶わないもなく、ただ純粋な憧れと、想像力だけがあるの。

 あなたは、他の人の言葉にがんじがらめになって、行き詰まっているみたい。それは、きっとあなたが、夢を持つ資格などないと、自分を否定してしまっているからなのね」

 カメリアは言葉を切り、デイビスの方を真っ直ぐに振り向いた。

「でもね。きっとあなたは、あなたが一番大切にしていたものを忘れないわ。誰に言わなくても、誰に理解されなくても。……何度でも、その自由へと還れる道を知っているの」

 カメリアの言葉のひとつひとつは、柔らかな反射光を放ちながら、懐かしい記憶を自由に辿る母親の手のようだった。それが余計に、彼の心を締めつける。たぶん昔の自分は、こんな大人になると思っていた。誰かの夢を、優しく鼓舞する人になれると思っていた。しかし今は、こんな風に手を差し伸べてくれる人間を、羨みながらも、憎んでいるようにすら感じる。

 幼い頃から、自分は飛行機乗りになりたかった。空に飛び立つのって、なんて格好良いんだろうと思った。制服に高い技量、そして誰にも届かないところを旅する自由さ。一目惚れだった。エアポートで敬礼を返してもらった時、最高に胸が熱くなった。それ以来だ。彼がパイロットを目指すようになったのは。

 少年期に読み漁った冒険小説。大好きな文章には、鉛筆が折れるほどに線を引き、栞を挟んだ。いつか、このようにして自分も世界を冒険するのだ。それも最高にかっこよく、誰も経験したことのないやり方で——自分だけの飛行機で。次々とめくられるページは、まるで彼の心に真新しい風を吹き込むかのよう、そして彼もまたその冒険に加わり、次から次へと変わる壮麗な天空の中で、キャプテン・デイビスの名が永遠に語り継がれてゆくことを夢見る。小さな手で、びっしりと思いや疑問を書き込んだ、あの古ぼけた書物の重み。そのひとつひとつを振り返るのが、苦痛になり始めたのはいつからだったのだろう。やがて気づき始めたのだ、こんなのは、馬鹿げた空想にすぎないのだと。

 時折り、ページをめくる冒険譚には、当時引かれた線があちこちに色を添えている。それを読むと、溜め息と同時に、よみがえるのだ。かつてこれらの文章群に胸を躍らせた、遠い子どもの頃のときめきが。

《学校では誰も彼もがトムとジョーをちやほやしまくり、露骨な称賛の眼差しを注いだので、二人の英雄はあっという間に鼻持ちならぬ天狗になった。二人は群がる聴衆に冒険の話を語って聞かせた……と言っても、話はのっけから逞しい想像力の風をはらんでぐんぐん膨らみ、いつ果てるとも知れぬ大冒険物語に発展していった。極めつきは二人がパイプを取り出して平然と吹かしはじめた瞬間で、ここにおいて栄光は頂点に達したのであった》(『トム・ソーヤーの冒険』、M. トウェイン)

《夢はすべて、空の驚異の夢だった。わたしは自分が母の屋敷の囲い場から優雅に飛び立ち、境の生垣を越えて、旋回しながら、牧師さんの梨の木の上を越え、教会の塔とウィジカムの丘の間を抜けて、市場の方へ飛んで行く姿を想像していた。ああ! みんなはどんなに目を丸くして、わたしを見ることだろう! 「ベッツの若旦那がまたやってくれたぞ」とみんなは言うだろう。「やるにちがいないと思ってたよ」》(『初めての飛行機』、H. G. ウェルズ)

《闇の大海原に瞬く光の一つ一つが、今、そこに人間の意識という名の奇跡が存在していることを教えていた。あの家では、誰かが本を読んだり、瞑想したり、打ち明け話を続けたりしていた。別の家では、たぶん誰かが宇宙空間を測定しようとして、アンドロメダ星雲にかんする計算に神経をすり減らしていた。あそこでは、誰かが誰かを愛していた。詩人、小学校教師、大工の家の灯と思しき、この上なく慎ましい灯もあって、平原にぽつぽつと点るそんな光の一つ一つが、それぞれの生きる糧を求めているように見えた》(『人間の大地』、A. サン=テグジュペリ)

《だが、いま男たちの胸をはずませているのは、その巨大さではなく、それが広げる影のどこかに、七十万ポンドの金貨が埋められているという思いだった。近づくにつれ、宝という想念が、それまでの恐怖を呑み込んだ。どの顔のなかでも、目がらんらんと燃えていた。足のはこびが、だんだん速くなり軽くなった。一生遊んで暮らせるだけのものが、各人を待っていると思うと、頭は財宝のことでいっぱいなのだった》(『宝島』、R. スティーヴンソン)

《そうして、私もまた熱狂に突きうごかされた。私の胸のなかでは、情熱の炎が燃えさかっていた。私はすべてを忘れた。旅の危険も、戻り道の苦難も……。誰かが成しとげたことなら、私も成しとげたい。人間がすることに不可能はないのだ!
「行きましょう! 地球の中心に!」》(『地底旅行』、J. ヴェルヌ)

 胸を焦がすような文章群。幼い頃の彼の脳を満たし、心を熱くし、そしてそれは、ひとつの理想像へと固められていった。彼の目に見える中で、最も不思議で、最も幻想的で、無限に胸が高鳴る場所に、ただ親指を立てるだけで天翔けていってしまうような、空の上の最高のヒーロー。それが、かつての彼の憧れだった。そして彼は、まるで無責任に、いつか自分は、そんな人間になれるのだろうと信じていた。

 それは———

 それこそが、彼の最も原初的な欲望だったと言ったのだ。ただ胸を真っ白に染めてしまうばかりの憧れ。日がな一日、友人たちと空を見つめていたこともある。写生に空を描いて、これじゃ青い絵の具を塗っただけじゃないかと、教師に叱られたこともある。

 なぜこんなにも空に惹かれるのか。その理由は彼にすらも分からなかった。むしろ、なぜみんなこれほどに熱中しないのか——そんな風にまで思っていた。だって、天上を見るだけで、抑え切れなかったから。空の上には、どんな物語が広がっているのだろうという気持ちを。

 今、自分はパイロットという、子どもの頃の夢を叶えたはずだ。それなのに、砂を噛むような寂寞さが広がる。毎日地面ばかりを見つめているのは、何を失ってしまったからなのだろう?

 デイビスは、寂しげに苦笑した。自嘲——いや、単に虚しかっただけかもしれない。言葉はなかったが、それだけで、カメリアにも伝わったようだった。風にさらわれた彼の前髪を、ちょっとだけ手を伸ばして、綺麗に整えてやる。年下だろうに、そのしぐさは妙に大人びた姉のように見えた。

「大丈夫よ」

 彼女は静かに言った。

「消えてなんかいないわ。ただ少しの間、見えなくなっているだけ。でも、夢を見る力は、ずっとそこにあり続けるの」

 彼女の言葉は、どこか奇妙な響きをともなって、彼の鼓膜を届いた。深い意味は分からない——もしかしたら、表層しかないのかもしれない。けれども、不思議とその言葉は、彼の精神を落ち着かせる。

「なあ、カメリア。俺からもひとつだけ、訊かせてくれ」

「なぁに?」

「あんたは、どうして空を飛びたいんだ? あんたの夢は、どうして——空を飛ぶことなんだ?」

 デイビスは、一言一言に意味を込めて聞く。きっと彼女は、自分以上の熱量を返してくれるだろうと予想して。その熱量によって、本当はふたたび、あの頃の自分の純粋な思いを揺り動かしたかったのかもしれない。

 そして——

 カメリアは期待通り——いや、彼の想像よりも遥かにまばゆい顔で笑った。蒸した琥珀のように細い髪が、彼女の周りで躍り、皓々と艶を放つ。

 どきっとした。大輪の花のようだと思った——太陽の光をいっぱいに浴びて、輝くように。

 今までに見た何よりも、それは屈託がなく、零れんばかりの命にあふれていた。無邪気に細められた目には、長い睫毛が落ちかかり、その一本一本すらも、微かな虹色の光の粒をちりばめている。

「だって私は、知っているもの。空を飛ぶってことが、どんなに美しくて、どんなに気持ちよくて、どんなに自由を味わえることかって——天上は素晴らしい世界よ、デイビス。例えどんなに危険であろうも、私たちは、私たちの情熱を消し去ることはできないわ。私たちは、そのために生まれてきたんだから」

 そう言うとカメリアは、デイビスに向かって、真っ直ぐに手を差し出した。ドレスが大きく風を孕んで、優雅な波を躍らせる。まるで、青い大空へと誘う、開け放たれた窓のようだった。

「行きましょう、デイビス。あなたの知っている世界を、私に見せて。あなただけが、私をそこへ舞い上がらせることができるから」

 微かに頬に髪を散らばせて、
 満面の笑顔を向けている彼女は、

 ————とても綺麗だった。

 どうしてこんな顔ができるんだろう。
 どうしたら、こんな風になれるんだろう。
 デイビスは思わず、目を奪われる。吸い込まれるようだった。目が離せない。一秒たりとも。

 生きることに酔いしれ、心から歓喜し、感銘を受けているような。目には見えない黄金の粒子を、辺りいっぱい、きらきらと撒き散らしているような。彼女は、そんな誰にも盗まれることのない魔法にかかって、堂々と、その無垢な生命を全身に鼓動させているようだった。

 見惚れていた、としか言いようがない。
 デイビスの胸がざわめき、全身が彼女に吸い寄せられた。そしてその時、何かが彼の中で切り替わったように思えた。時間が動き出し、前へ、前へと移り変わる。早く、そこへ辿り着かなければならないような。あとほんの少しで、それを見つけ出せそうな。そんな切迫感が、彼の全身を押し包んだ。

 カメリアは、デイビスに向かって、軽やかに手を差し延べた。自分より一回り小さい、華奢な手。少し乾いていて、それにインクの染みや、ペンだこがある——デイビスはしっかりと力を込めて、その手を握る。いつか、スコットが自分の手を握ってくれたのと同じ。いや、それよりも強く、熱く、しっかりと握り締める。

 カメリアの温度が伝わってくる。繋いだ手のひらが、太陽のようだ。彼女は楽しそうに、少し気恥ずかしそうに、彼に向かって微笑んだ。

「行くぜ、カメリア。準備はできているよな」

「望むところよ」

「よし、他の奴らに捕まっても、足を止めるんじゃねえぞ。走れ!」

 言うと、彼は彼女の手を引いて、日向の中へと躍り出た。外へと足を踏み出した彼らの世界は、一瞬にして、その意味を様変わりさせた。

 まばゆい陽に照らされた地上は、眩暈がするようで、大地を蹴る足は確かに、しっかりと、現実の世界に貼り付いていた。マリーナを突き抜けるように、潮風が吹きさらう。カメリアのドレスが広がる。彼女の足に纏わりつき、戯れるかのように、絶え間ないドレープを描いた。青い、海のようなドレープだ。無限の波が、潮風に弄ばれて深い潮騒を立てた。大きな息をつくとともに、デイビスの額から、きらきらと汗が滴る。噴きあがるように、春の陽気が満ち渡っていた。我慢できなくなったのか、カメリアは笑い出した。訓練生たちが一斉に背後を振り向く。やべ、と呟いたデイビスは、さらに速度を上げて走り出した。散らばっている人影は、同じ訓練時代を過ごした悪友だらけだ。よお、デイビス、ストームライダーの借金は返せたか。謹慎生活の感想はどうだ——と、次々に野次が飛ぶ。うるせえ、黙ってろ、とデイビスが叫び返すと、ますます煽りの声が大きくなる。どこからか、指笛までもが聞こえてくる始末だ。

 繋いでいる手を通じて、込められている力が微かに強くなったのに、デイビスは気付いた。一拍遅れて、自分も強く握り返す。それだけで、ふっと、何かが軽くなった気がした。繋いだ手の力強さにつられるようにして——高らかな、鳥の声が鳴く。

「アレッタ!」

 嬉しそうに呼びかける彼女の声がする。その姿を目に入れることはできなかった。太陽が眩しくて、見上げることができない。それでも。地面に縫い止められたハヤブサの影は、くっきりと濃い色を落としたまま、彼らと並走するように滑空し続けた。アレッタも、競争するのを面白がっているようだった。滑るように動く天と地の鳥は、羽の先まで誇り高く力を入れたまま、同時に翼をはためかせる。

「アレッタ、また後で会いましょう。先に行ってて——すぐに私たちも、追いつくから!」

 それを合図に、ぐん——とアレッタは高度を上げた。見つめる目に、青の色彩が狂おしいほどに染みる。瑠璃色の、それ以外には何もない広大な場所。たち眩むようだ。高い。明るい。何もないという絶大な歓喜。それが、彼らの頭蓋骨を貫通して、未来の如く真っ直ぐに降ってくる。雲が欠けていることによる奥行きのなさは、かえって、まざまざとそこに溢れる自由を表現していた。目をえぐるほどに生き生きとした鮮やかさ。万物は、その下に生きて、激しく生の匂いに酔っている。生きるだけでむせ返るようだった。

 二百メートルほど走り抜けて、彼らは、駐機場に配置されている目的のウインドライダーを見出だした。すでに整備は完了しているらしい。何度も訓練生のタッチ・アンド・ゴーに揺さぶられたにも関わらず、すらりと伸びて前方を支えている固定脚は、胴体に一定の角度をつけながら、上空を仰ぎ見ていた。白鳩が、大きく翼を広げてまさに飛び立とうとしている——その瞬間を永遠に切り取り、無機物に落とし込めば、このような形状になると言えよう。デイビスは恍惚として見惚れているし、カメリアなんかは、早くも昂揚感が抑えきれない様子だ。WR 94。飛行士たちの夢を具現化した形が、そこにあった。

 巨大なプロペラ、前方に備えつけられた流線型の風防キャノピー、磨かれた白銀の機体。これらはすべて、その全面に大空を反射して、艶の中に微かにブルーを溶け込ませて見えた。シートは複座式。訓練生が前へ、教官が後ろへ搭乗するという想定である。練習機という特性上、計器は最小限の面積に詰め込まれており、簡素な造りは非常に操作性が高い。目に見える箇所もさることながら、胴体構造には薄鋼板、薄肉鋼管を利用し、徹底的に重量を切り詰めていることが分かる。

 なかんずくデイビスが愛しているのが、プラチナ色に塗られた鮮やかな主翼だった。軽量化のために羽布張り構造を採用したそれは、一本の皺も無く貼られた特製の繊維を目張りし、アルミの微粉で下塗りを行い、さらに最終塗装を施す。真っ直ぐに左右へ広げた滑らかな主翼が、侃々と太陽に照らし出されている雄姿は、溜め息以外の何物も出ない。芸術品とも言えるこの美しさはすべて、執念じみた整備士の仕事の賜物である。

 パイプ椅子に座り、鼻歌まじりに愛用のスパナを磨いていたアンドレイは、足音を聞いてデイビスに向き直り、思わずスパナ入れを落っことした。足の指に当たったはずなのだが、防御用の作業靴を履いていた彼には、まるでダメージを受けていない。

「でっ、でででででででででで、でいびすさん。あなたという、あなたという人は。なんという無節操な」

 わなわなと震えながら、アンドレイはデイビスの首根っこに取りすがり、幽霊さながらの無気味さで緩慢に頭を振った。

「おデートですか。おカップルですか。ストームライダーのパイロットともあろう方が、神聖なるウインドライダーのおシートに乗って、おアバンチュールですかぁ——」

「あのな。俺たちは、別にカップルなんかじゃない」

 またうるさい奴が現れた、と思いながら、デイビスは冷静になって反論した。それはそれで衝撃を生む種になったようで、アンドレイは大っぴらに目を丸くし、演劇めいた身振りで驚いてみせる。

「なんとお下品な。お付き合いをする前から、ピンクに染まり切った関係だというのですね。手に手を取って、男女の駆け落ちフライト。夕焼けに照らし出されて、大空も機体も、妖艶な薔薇色に。おお、恐ろしい。ジューシィで肉厚な若人の旅立ちに、大人の妄想が止まりませんね」

「あー、っとな。今日のところは、もう変人は充分なんだ。悪いが、帰ってくれないか?」

 終始発情期なのか、禁欲期なのか、あるいはその両方なのかは分からないが、この男が絡むとすべてが面倒くさくなる、というのがCWCの職員の共通認識であった。腕の良い分、癖のある整備士だとは言われているが、何のことはない、ただの頭の茹だった男というだけである。

「おお、僕を邪険にして。後悔しますよ、ええ、ええ。WR 94の整備状況は完璧です、清廉な僕の手のおかげでね。でも覚えておいてください、いつか破廉恥なご自分の行為を後悔しますから」

 アンドレイは、散らばったスパナを片付け、整備状況の経緯が書かれた航空日誌を突き出した。そのまま帰るのかと思いきや、去り際に、キッ、とカメリアの方に鋭く向き直る。

「後悔するわよっ!」

「……はあ」

 気圧された。どすどすと足音を立てて去ってゆく彼を、無言で見送るデイビスとカメリア。短いが、なにか強烈な嵐が通り過ぎていった、というところなのだろう。

 本格的なチェックを始める前に、デイビスはガソリンの搭載量を確認した。給油され、往路には充分なようだ。

「羽ばたくの?」

「違うさ、速度と揚力で浮き上がるんだ」

「デイビス。これ——」

 カメリアは小さく、低い声で言った。

「この形状。ウインドライダーは、フライヤーと似ているわ」

 高揚を抑え切れない手で、カメリアはウインドライダーに触ろうとし、自分の迂闊さに気づいてすぐに手を引っ込める。感動するはずだ、とデイビスは思った。未来は、想像以上に近いところに息を潜め、しかもその手がかりは、すでに自分の掌の中に握られていたのなら。

「そうさ、今あんたの作っているものは、きっとうまくいくよ。ただ——翼だけは、もう少し湾曲させた方がいいかもな。キャンバーと翼厚。この二つが、揚抗比の鍵を握っているんだ」

「湾曲、させる……」

 カメリアは、乾いた地面に一滴の水が染み込むように、深く、その言葉の意味を脳へと浸透させる。

「分かった。帰ったら、試してみる」

 燃える、というよりは、見つめるものをほとんど焦がすほどに情熱的な瞳で、ウインドライダーのそばに屈んだカメリア。その目は、もはや執念の一色だった。翼の設計の一切を記憶し、頭に叩き込もうとしているのだろう。ほんの一筋の眼差しによって、目の前の事実との膨大な対話を果たし、脳内で実験を繰り返す。やがて不要な仮定が切り詰められてくるようになると、徐々に弓は引き絞られ、今度は矢の放たれる寸前にまで近づいてゆく。この集中力こそが、彼女を科学者たらしめる最大の資質だった。

 このまま、鉄の熱いうちにフライト、といきたいところだが、そうは問屋が卸さない。飛行中の飛行機は完全な閉鎖環境なので、トラブルがあった場合に、外部からの救助は得られないのだ。重要なのは、すべての乗り物において共通している。事故を起こさないこと。そのために、一切の点検を怠らないこと。中でも飛行機においてのそれの緊張感は、他においても類を見ない。飛行機には触れないようにと、念のために彼女に忠告を残すと、デイビス自身も彼に与えられた仕事を開始する。

 外部点検エクステリア・イクスペンションは、ここでは欠かせない作業である。すでに整備士が行った点検を、パイロットが再度、責任を持って実施する。といっても、整備士の行った内容よりは大分簡略化されているが。
 機体を時計回りに一周し、胴体下、翼の下面、主脚、エンジンのカウリング、空気取り入れ口エア・インテークにおける異物混入の有無。さらにエンジンの異物混入、残燃料の有無、タイヤの傷や擦り減り。左側に回って、同様に主脚、翼のパネル、胴体下、アンテナなどにくまなく目を走らせる。

 さらには必要書類が揃っているかの確認、非常用備品の確認、航空日誌による整備状況の確認。続いて、計器確認コクピット・プリパレーション。シートの位置の調整と、ハーネスの確認。このフェーズでのスキャン対象は非常に多岐に渡る。軽く例を挙げると——
 水平儀。水平位置指示器。高度計規正ノブ。高度計。対気速度計。昇降計。旋回滑り計・傾斜計。高度警報装置。昇降率設定ノブ。エトセトラ、エトセトラ。

 そしてチェックリスト。フェーズごとに大枠が設けられているが、フライト前には、ビフォア・スタート・チェックまでの項目が埋められるはずだ。今回は副操縦士コーパイがいないだけに、自身で声に出して内容を読み上げ、印をつける。ずらりとチェックが並んでいるリストを見つめ、思い出したように、再度タブレットから運航情報システムへのログインを試みてみた。五回目の、ログインエラー。これでマネージャーに通知が行ったことになる。

「随分、念入りにやるのね」

 集中を手離し、ようやく息をついた顔をしたデイビスに、カメリアは見計らったように話しかけた。ここまでで三十分は経過している。翼の分析をあらかた終えた彼女は、飽きずにしげしげと彼の後をついて回ったものの、実際に彼が何をしているのかはとんと分からず、せめても邪魔しないようにと、会話をセーブしていたのだ。

「ああ、落ちたら全部俺の責任になるからな。誰も助けてはくれないし。だからフライト前にこそ、神経質なくらい確認しなきゃいけないんだ」

「墜落することもあるの?」

「さすがに頻繁に、という訳じゃないけれど、それでも事故は絶えないよ。ほとんどすべてが、人的ミスだがな。——っと。これで終わりだ」

 最後のリストを見直したデイビスは、パイロット席から降りると、耳にうるさい類いの咳払いを真似してみせ、自身に生えている架空の顎髭を、二本指で頻りに撫でつけた。

「さて、本日は、CWCのお贈りする空の旅に、ようこそお越しくださいました。待ちに待った、搭乗ボーディングのお時間です」

 デイビスは深くお辞儀をし、茶番めいた身振りでカメリアの手を取った。

「私が、機長のキャプテン・デイビスです。お名前は?」

「カメリア・ファルコよ。よろしく、デイビスさん」

「カメリア! "椿"という意味ですね、良いお名前だ。体調は、万全ですか? お手洗い、問題なし? 寝不足、フライトの影響を受ける服薬、すべて思い当たる節は?」

Nothing, master.ございませんわ、先生

 カメリアも、上流階級の貴婦人のようなつんとした顔をし、澄ました言葉遣いのまま答えてみせる。完璧なオックスブリッジ・アクセントで。

 デイビスは添えられた手を握り締め、彼女の搭乗を手伝った。風のように軽やかに踏み台ステップをのぼってゆくカメリア。後方座席に身を滑り込ませると、凛とした勝気な眉をあげて、得意げな表情で彼の方を見つめた。

「なかなか、乗り心地が良さそうじゃない?」

「当たり前だろ。天下のCWCが開発した飛行機なんだぜ」

 言うと、デイビスは何やらパイロット席から取り出し、いきなり、カメリアに向かってそれらを高く放り投げる。

「これ、被れよ」

 慌てて受け取るカメリア。見ると、今まで目にしたこともない黒々としたガラスが、掌の中で光を照り返している。角度をつけると、微妙な虹を浮かばせながら色合いを転じさせた。

「どうするの?」

「ガラスの部分で、目をすっかり覆うんだ。上空では風がモロに眼球に吹き込んでくるからな、絶対に外すなよ」

 すでに彼は装着し終えている。玉虫のように美しい艶のある、球面を広げたゴーグルだった。印象的な緑色の目が隠れてしまうにも関わらず、端整な顔立ちの彼には、最初からそれがフォーマルな装いだったように似合う。それに、美しい鹿の皮をなめした、真っ白なパイロット・グローブ。懐から出したそれを、座席の上に置く。そして、防寒を目的とする、両耳からしころを垂らしたフライト・キャップ。

 カメリアも彼に倣って、キャップとゴーグルを装着した。目の前の光景が、僅かにエメラルドグリーンの彩度を重ねる。デイビスが軽く口笛を吹いた。

「似合ってるぜ、カメリア」

「あなたほどじゃないわね、デイビス」

 二人は共犯者らしい様子で、顔を見合わせた。ゴーグルの下から、互いにからかうような眼差しが絡む。

「シートベルトを」

 淡々と指示を出すデイビス。慣れない装着具に苦戦するかと思ったが、察しのよいカメリアは、すぐさま使い方を会得した。カチリと、金具が固定された音がする。そのまま軽く体を捻ることで、ベルトが衝撃から守ってくれることを確かめているようだった。

 同乗者の様子を目の端に留めながら、デイビスは、ゆっくりと、心の中で彼女に語りかける。

(空を飛びたい、か。俺もだよ、カメリア)

 徐々に蘇ってくる、いつかの思い。耳を澄ませると、それはとても微かで。守らなければ消えてしまうように、繊細なものだった。
 戻りたい。沸き立つような気持ち。溢れんばかりの恍惚感。空への圧倒的な夢と憧れ。すべてが伸び上がるように胸を焼き、心臓はどくどくと音を立て、苦しいほどだった。あの日々をもう一度、自分の手で掴みたい。

 彼は自分に言い聞かせるように、彼女の言った言葉を声に出してみる。

「俺たちは、俺たちの情熱を消し去ることはできない」

 大空に飛び立つ時はいつも、心のどこかで感じていたもの。空はいつも彼をときめかせ、遠くへと導いた。光と風、一面の青の世界。初めてそこへ辿り着いた時は、感動に震えた。何度でも、何万回でも、生きている限り、あそこへ行きたい。パイロットに志願した時、彼はその夢に取り憑かれていた。

 それをどうして——忘れていたんだろう?
 忘れることなんて、できるだろうか?

 少しずつ、気分が晴れてゆく。ずっと待ち望んでいた何かに、ようやく指先が触れたような気がした。

「さて——と、フライト前の最後の仕事だ。外野の反応は、どうなっているかな」

 デイビスはゴーグルを額までずりあげ、くわえ煙草に火をつけながら、優雅にポケットに手を突っ込み、自身の携帯電話を引っ張り出して電源を入れた。途端に鳴り響く電子音。ノイズで構成された音響は、苛立った女性の声を模していた。彼はラジオよろしく、その通話設定をスピーカーへと切り替える。

『……ようやく電話に出ましたね、キャプテン・デイビス。私です』

「聞こえているよ、ベース。あんたから電話してくれるなんて、珍しいな。今夜のピザパーティにでも誘ってくれるのか」

 鼻歌でも口ずさみそうなほど上機嫌なデイビスの軽口に、女性は応じず、剣呑とした声色で返した。その話し声の背景に、断続的な鋭いハイヒールの音が響いている。通話する場所を移動しているらしい。

『今朝、私があなたに言ったことを覚えていますか』

「ストームライダーに乗ったら即時解雇、だろ? 悪いがこれは、あんたの禁止した機種とは違う。ウインドライダーと言って、とても快適なフライトを楽しめるんだ。きっとあんたも、同乗したら気に入るよ」

『キャプテン・デイビス。私の命令を聞けないというのですか』

「俺はあんたを尊敬してるし、指示にも従ってる。ほんのトレーニングだよ。それに訓練はシミュレーション・システムに限るだなんて、あんたは一言も言ってなかったよなぁ——?」

『揚げ足を取るのはおやめなさい! 私は危険な行動を取ったのを反省してほしくて——なのにあなたは——』

「パイロットは、従順に管制塔の指令に従うのが仕事なんだろ。内容に不備があったのなら、そっちの責任だとは思わないか?」

『私をおちょくっているのね、デイビス、そうなのでしょう。第一、そこに一緒にいるのは誰なの。あなたは、誰とフライトしようとしているの』

 さすがのカメリアも、会話のやりとりに不安を感じたと見えて、眉根を寄せ、デイビスに心細い眼差しを向ける。しかしデイビスは、片手だけで彼女の懸念を牽制し、振り向きながらその目を見つめ返した。

「あんたの心配することじゃない。最悪、強行突破だ」

「平気なの? 彼女、凄く怒っているみたいだけれど」

「意外に寛容なんでね、この人は」

 そう言うと、デイビスは持っていた煙草の灰をアッシュ・トレーに落とし、大きく溜め息をつきながら、後方席に座っているカメリアを見て、何気なく尋ねた。

「怖くなった?」

「全然。私、こういうの大好き」

「そりゃ、頼もしい」

「昔はよく父に叱られたわ。でもそのたびに、なぜだかもっとワクワクしたの」

「どうやら、俺もあんたも、相当な不良らしいね」

 デイビスはゴーグルの下の柳眉を跳ね上げ、ニヤリと口角を上げた。その目は少年のように悪戯な光に染まっている。

「おっと、おいでなすったぜ、ラスボスのお出ましだ。あんたは隠れていろよ、カメリア」

 軽やかに言い放つデイビス。とはいえ、シートベルトで押さえつけられているため、座席の下に潜り込むのは至難の技である。仕方なく、できる範囲で背中を丸めるカメリア。絶対見えているんだろうなぁ——とは思うが、こればかりはどうしようもない。そんな彼女の姿を、自分の背後に蔽い隠すように、デイビスはウインドライダーの胴体に背中を預ける。そして、ふたたび煙草の吸い口を口許に持ってゆき、その薄い唇を緩ませながら、近づいてくる人影を捉えていた。

 腕時計を偸み見る。初任給で買った、大切な時計だ。パイロット・ウォッチには金を惜しむな、とスコットから忠告を受けたのを覚えている。

 ———予定時間まで、あと十五分を切っていた。
 悪くないな、と彼は胸中で素早く計算をした。

 ベースの眉間の皺が克明にわかる程度にまで距離が縮まると、待っていましたと言わんばかりに、彼は指先で煙草を弾き、皿の上に落とした。そして二本目の煙草を、箱からゆっくりと引き抜いてみせる。

「やあベース、ランチの後の散歩かい。訓練場であんたに会えるなんて、今日はツイているみたいだな」

「あなたの後部座席にいるのはどなたですか、デイビス」

「ちゃんと許可は取ったよ。身体検査も、金属探知機も通ってる。飛行計画だって、提出済みだぜ。これ以上、何か文句でも?」

「あるに決まっているでしょう! あなたは謹慎処分の身なのですよ。慎ましく自宅で待機し、自らの行いを反省しなければ——」

「やれやれ、あんたって何でも規制するんだな。俺が言われたのは、ストームライダーには乗るなってだけ。後から命令を付け足されても、俺は聞かないぜ」

 肩をすぼめながらデイビスは、ふたたび煙草にライターで火を灯す。潮風に揺れる炎は、夕暮れに光る生活の燈りのように、落ちぶれたウイスキー色を点滅させた。まるで一枚のポスターのように、その炎と彼のカーキ色のパイロット・スーツの対比は鮮やかだった。

「後からとは、どういうことですか? 初めから謹慎とは、そういう意味合いで——」

 ウインドライダーの元へ近寄ろうとするベースを、デイビスは手を上げて制止する。

「そこまでだ、もう出発の準備は完了してる。最終チェックを終えた機体に、今さら部外者が近づいてもらっちゃ困るぜ」

 張り詰めるように、空気に電流が走った。これほどはっきりと、無礼と言えるまでに、彼が彼女に指示することは今までに一度もなかった。ベースは目を見開く。指示——いや、それは命令だ。臆面もなく、傲岸に、彼女の部下は彼女を凝望し続ける。そこはかとなく火を赤く明滅させる煙草の煙を風に流しながら、デイビスは口を開いた。

「あんたを待っていたのさ、ベース。前から一度、ゆっくり話してみたかった。あんたが何を考えているのか、聞かせてもらいたかったんでね」

 姿勢よく、抜けるように彼女と対面するデイビス。煮え滾るような愉悦と、微かな揶揄の色の中で、デイビスの立ち姿は不思議な威厳を漂わせている。その目の輝きは尋常ではない。それは彼が、取り憑かれたように彼女を見つめているからだ。人間が光り輝くわけがない——そうは分かっていても、遠くから目にしたその姿は、有無を言わさぬ強迫的な異彩に満ち溢れている。光と風にまみれ、ありあまる生気に溺れている彼は、その燃えるように艶めく髪を、王者のようなグリーン・フラッシュの眼光を、力強く引き絞られた肢体を、豁然と解き放っていた。まるで自らの存在以外に、何も失うものなどないかのように。

 あれ・・を、初めて読んだときのようだ。

 ベースは、圧倒的なものを前にしたその感覚を、以前にも浴びた覚えがあった。似ている。一瞬、魂を鷲掴みにされるように、彼の鮮烈な緑色の瞳に心を奪われ、その奥深く煌めく挑戦的な輝きに戦慄する。その目が、すべてを物語っていた。未来のことも、過去のことも、ひたすらに空の色を吸い込み続けるその緑眼が握っていた。カメリアは心配そうに、ちらちらとデイビスの様子をうかがっている。視線を動かさないまでも、それに気付いているデイビスは、彼女の目の前のフレームに軽く手を滑らせることで、心配するな、という風に合図を送る。

「何を、するつもりですか?」

 尋ねるベースの声が乾いていた。問われた本人は、軽く首を傾げて、人好きのする笑顔を彼女に差し向ける。

「言っただろ? トレーニングをしたいだけだって」

「ゲストを搭乗させることは許しません、デイビス」

「どうして? 前回のフライトでは、一度に百二十二人もの観客を乗せたぜ」

「今日の会議で、ゲストの扱いを稟議にかけることになっています。けれども、内部ではほぼ決定している事項です。ゲストに何かあったら、私たちは責任が取れません」

「未決定事項だろ? それに、今日はあの日と違って、ストームなんかきちゃいない」

「それでも、ほぼ確定の事項なのですよ。そもそもあなたが、フライトなんて。なぜ私があなたに謹慎を命じたのか、分かっていないの。少しも考えたことはないの」

 デイビスはそれには返事せず、黙って眼差しを真上にあげた。何を見つめているのだろう? 柔らかな、思索に耽っているように落ち着いたその表情につられて、ベースも恐る恐る、自分の頭上を仰いでみる。目線の先には、空中を自由に飛び回る、遠い隼の姿があった。柔らかに陽の光を反射して、ほとんど蒼穹と見分けがつかなくなっているが、それでも円を描くように流麗な軌道は、隼独特の飛翔だった。

 かつて、オットー・リリエンタールが、二十三年間も研究対象にしたのは、コウノトリだった——とベースは、記憶の底から情報を引っ張り出す。歴史的な有人グライダー飛行は、鳥の模倣から始まったのだ。彼は美しい付録図と、膨大な実験結果を記した著書、『航空技術の基礎としての鳥の飛翔』を送り出し、"Opfer müssen gebracht werden"(犠牲は払わねばならない)という言葉を残して、墜落事故でこの世を去る。

 なぜ、こんなことを思い出したのだろう、とベースは自問する。航空史の軌跡。その最初期をひた走る偉人たちの足跡——それを重ね合わせてしまうくらいには、隼の飛ぶ姿は、眩しかったからかもしれない。遠く遠く、どこまで上がってゆくのだろうというほど遥か彼方で、その生き物は自らに与えられた能力を謳歌していた。リリエンタールもまた、二十年以上に渡って、このように鳥を眺めていたのだろうか。

「なあ、ベース。空をたくさんの鳥が飛んでいるのは、なんでだと思う?」

 驚くほど穏やかな声で、デイビスは問いかけた。汽車でたまたま隣に座った人間に、話しかけるような口ぶりだ。狼狽するベース。一体、何を訊きたいのだろう? 彼は沈黙を貫いたまま、彼女の回答を待っている。不用意な発言で足元を掬われないように警戒しながらも、ベースは浮かんだことを、ゆっくりと舌に乗せた。

「……空は、捕食者がおらず、安全だから。食糧を取るのに有利だし、生息範囲を大きく広げられるから」

「そう。じゃあどうして人間は、飛行機なんて造ったんだ?」

「爆発的な産業革命を経て、交通網は広がり、人は海や大地を征服してきました。だから——次は、空の番だと——」

「違うだろ。飛行機の歴史は、紀元前の遥か昔からだ。蒸気機関車や、車や、電車なんかを考えつくよりも、もっとずっと前から、空を飛びたいと思っていたんだ。ライト兄弟によって有人の動力飛行が完成するまで、航空史は延々と失敗続きだった。墜落したら、死を免れないのが飛行機の恐ろしさだ。それでも人は、飛行機を夢見続けた。怯むことなくな。移動するだけが目的だったら、船や鉄道を使えばいい。それでも、航空技術の発展が途切れなかった理由は、どこにあるんだ?」

 悠々と紫煙の筋をくゆらしながら、デイビスはベースと会話し続ける。自分の処遇の決定権を握っている上司に向かって、意図の見えない無意味な質問ばかり。馬鹿にしている、というのが、ベースの出した、彼女なりの答えだった。一体、こんなやり方で、私に何を伝えたいというのだろうか?
 一拍遅れて、彼女も挑戦的に顎を引き、胸を張った。

「分からないわ。何も」

 彼に向かって、分からない、と言うのは、何か途方もなく後ろめたい気がした。まるで彼の期待を裏切るような行為のようで、そのやましさを掻き消すために、ベースは頑なな姿勢を崩さない。
 彼女の言葉を聞き取ったデイビスは、すっと長い右手を上げて、頭上に高く広がる空を示した。二本指に挟まれた煙草が、微かな塵を風に落としてゆく。

「簡単さ。見えているのに、行けない場所。存在するのに、辿り着けない場所。広がっているのに、手の届かない場所。大空っていうのは、そういうところさ。
 それは人間を煽る。人間を口惜しがらせる。人は現実性よりも、不可能への挑戦に思いを託したんだ。夢に立ち現れるのは、利便性なんかじゃない。冒険心なんだよ」

「だから、なんだというのです。それがあなたの行動に、何の関係があるとでも?」

「俺は飛びたい」

 デイビスは、至極簡潔に言った。

「空を飛ぶためなら、何だってする。あんたが俺を地上に留めておくなんて、金輪際できるはずがないんだ。それこそ、手足でも縛っておかない限りはね」

 不遜に唇を歪めるデイビス。爽やかな潮風が、彼の髪を生温かく持ちあげ、もてあそんだ。壮大な海の匂いが入り乱れ、駐機場を吹き抜けてゆく。

「あんたがどんな言い訳をこさえて、規制の檻を作ろうと。俺にとっちゃ、あそこが生きる場所なんだ。あんたが俺を飼い慣らせるわけがない。何度でも穴を突いて、フライトしてやるよ」

「この世にいくらでも、空を飛ぶ手段はあります。そしてあなたの仕事は、ストームライダーの操縦です。娯楽の飛行ではありません。何もあなたがそんなことをする必要はないでしょう、デイビス。あなたはキャプテンなのよ。その決断に、責任が取れるの」

 座席の下に潜り込んでいたカメリアは、膝を抱えて、ベースの響かせる声を聞いていた。一言も言葉を発さずに——無味乾燥な顔で。

 自分が、酷く醒めた面持ちになっているのが分かった。棒のようにしか感じない手を、試しに握ってみる。爪が白くなるほどに込められたその力が、指の間からすり抜けるようだ。皮膚が冷たくて、重くて、乾いていた。
 
「あなたの仕事は、ボランティアじゃないでしょう。どうしてこんな反抗に時間を費やしたりするの。あなたのなすべきことは何なのか、思い出して頂戴。地上にいなさい、デイビス。それこそが結局、一番にあなたのためになるのよ」

 喉がカラカラだった。真昼の光がそそいでいるはずなのに、どんどん固く、重くなってゆく。カメリアは、引き攣れている自分の唇を、何とか動かそうとした。冷えて固まり始めた粘土の表面が、無理に作り直されたようにしかならない。

 元の時代に比べたら、何でもない。平気だ。こんなの、大丈夫だ。なんてことない。ちっとも怖くない。気を強く保て。このくらいで、へこたれるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。

 カメリアは、呪文のように繰り返し、同じ意味の内容を唱えた。それでも、彼女の心を蝕んでゆく、痺れるような恐怖は止まらなかった。時代の違う人の声が重なって、彼女の心に焦点を合わせるように、無数の嫌疑の言葉を投げてゆく。

 ————私は、反逆者なんかじゃない。
 ————人々を死に駆り立てる発明なんか、していない。

 誰も拾うはずのない言葉を、口の中で噛み殺しながら——カメリアはひたすらに、身を隠し続けた。この先にその行為の報われる日がくるのか、ないのか、それすらも分からぬまま。薄暗い闇が未来に立ち込めてゆくのを、呆然として見つめているうちに、自分は、デイビスを巻き込んでしまったのだという、凍るような後悔が湧きあがってくる。

 なぜ、飛ばせてくれないかと言ってしまったのだろう?
 未来にも飛行士のいることが嬉しくて、ようやく、自分と同じ人間に出会えたと、思い込んだからだ。すべての経験から得た教訓を無視して、また、盲目になってしまったからだ。

 ————予定時間まで、あと十分。 

「他の人の言葉は聞かないで。パイロットは、感情に流されてはいけません。あなたに与えられた仕事は、今は、身を慎むことだけです」

 女性の説得する声が、カメリアの耳朶に入り込んだ。
 カメリアは何も言わず、黙然として俯いたままでいる。

 それを聞いて、デイビスが一番にさらけだしたのは————

 笑い声、だった。

 金貨の弾けるような。眩しい水しぶきをあげるような。
 酷く楽しそうに。腹から声を出して、明るく、快活に。カメリアの心中を、真逆に裏切るように。底抜けにおかしそうな、太陽の射し込んでくるような笑い声だった。

 思わずベースは、言葉を失う。カメリアでさえ、耳を疑った。ほんのわずかの間、時が止まったかのようだった。そして相反する二人の意識は、ただひとりが語る言葉へと吸い寄せられてゆく。ベースは、怖気付き。カメリアは、涙ぐんで自分の肩を抱き寄せながら。

「俺の仕事だって? おいおい、ベース、確かに俺はストームライダーのパイロットだ。けれどな、仕事内容はあんたに束縛されても、仕事の目的は、他のどんな奴らにも決めさせやしない。俺はな、空を飛ぶことで、俺自身がワクワクしたい。俺が飛行機に乗る意味と言ったら、それだけだよ。もしそれすらもあんたが禁じるようなら、今日でここともおさらばだ」

「おさらばって——」

「俺はパイロットを志願して、このCWCにやってきた。人を乗せては違う国に降ろす、毎日同じことの繰り返しのパイロットじゃないぜ、ストームを消滅させ、人々に自由を取り戻させる、そんなパイロットになりたかったんだ。ただ、目指すところがすれ違っているなら、方向性の相違ってやつだな。あぁ——そういえば、俺の入所の時の面接官は、あんただったっけ」

 顎に手をやりながら、デイビスは当時を振り返り、懐かしいねぇ、と追憶に耽るように呟いた。ベースもその日のことは、はっきりと記憶に残っている。あの余裕綽々の態度と、圧倒的な瞳の煌めき。初めて会った時から、この青年は他とは違う、と確信していた。ここで拒否しなければ、苦労する、と予感しながらも、彼の意志を拒むことはできなかった。この人間でなければ駄目なのだという重圧が、彼女を追い込んだ。そして時を超えて、あの時の予感は、すべて的中したのだ。期待した通りに彼は腕を磨き、並外れた飛行技術とパイロットの称号の両方を勝ち得るに至る——そしてその男は、あの頃より数年の歳月分の精悍さを身につけて、今、こうして彼女の目の前に立っている。

「あなたは馬鹿ですよ。このたった一度のフライトをすることに、何の意味があるの。あなたほどの人が、こんな馬鹿げたことに身を削るなんて」

「切り捨てたり、妥協したりするのは簡単だぜ、ベース。でも、ここだけは譲れない。俺は飛ぶんだ」

「何が、あなたをそうまで駆り立てるのです。そんなに私が憎いのですか。そんなに私に反発したいのですか」

「いいや、あんたの言葉は関係ない。俺以外のどんな人間も、まるで関係のないことだ。これは俺の仕事だ。空を飛びたがるのは、俺の本能だ。誰も俺を止める権利なんかないってことを、証明したい。それは、今、ここでなくちゃだめなんだ」

「何のために——?」

 心なしか悲痛な、脅えているとも取れるベースを前に、デイビスは水を得た魚のように、晴れ晴れとした調子で返答する。



「だって空って、他人の力で飛んでも意味がないだろう? 俺が行かなきゃ、いったい誰が、俺を本当の大空へ連れ出してくれるっていうんだ?」



 ————その言葉に。

 カメリアは思わず、顔を上げた。暗い座席の下から一転、パイロット・スーツを纏ったデイビスの背中と、高い天頂から照りつける太陽の光が、色鮮やかな明度を伴って、彼女の網膜に飛び込んでくる。思わず彼女は、目を瞑った。焼けつくような赤い視界に襲われながら、彼女はもう一度、意を決して瞼を押し上げる。

 カメリアは、もう以前と同じ眼差しで、デイビスを見つめようとはしなかった。

 その広い背中も、寄り掛かった体重を支えている腕も。潮風に舞い踊っている、長めの髪の毛さえ。それは見知らぬ誰かではなく、心のどこかで探し求めている、英雄ヒーローだけが纏うそれのようだった。

 世界が変わる。
 積み重ねてきた意味が変わる。
 どくり、と。心臓の立てる音が、粘りを増したような気がした。息を吹き返すような鼓動。
 それと同時に、長針が、またひとつ目盛りを進めてゆく。

 ————予定時間まで、あと六分。
 時間は、ほとんど残されていなかった。


 カメリアの視線の向こう。相変わらず、彼は知らない女性と議論を繰り広げているらしい。彼女の頭の上を、どこまでも平行線の意見が飛び交うのは、あまり居心地の良いものではなかった。しかし、その飄々たる様に押され気味の女性の方と比べて、彼の方は生き生きと舌を操り、快く目を瞑ったり、微笑みかけたり、小競り合いを心から堪能しているようだった。大きな背中は、見たこともない確固たる自信に支えられ、対立に添えられる含み笑いは、彼の穏やかな声色とも相まって、瞬間的な清涼剤のようにすら聞こえる。意地悪だ、と思う一方で、彼が何をしたいのかが、直感的に分かった。物語ること。自分の信念を、形にすること。そしてまた、その議論の裏に横たわる、言葉にならない女性への親しみと敬意——まるで彼の方こそが本当の導き手で、女性の押し殺していた本音が、ある瞬間から語られ始めるのをじっと待っているかのように。

 かちり、かちり、と小さな音を立てて、長針は進み続けていた。時の流れは速度を変えず、太陽は静かにその位置を変えてゆく。

「あなたの言い分は分かりました、デイビス。けれども、今日のところはやめにして頂戴。この続きは、また後で話し合いましょう」

「いやだね。この後あんたは会議に出て、ろくでもないことを決定しちまう。フライトをするなら、今しかないんだ」

「いいえ。今も、今後も、あなたはゲストを搭乗させることはありません。いつ試みようとも、結果は同じよ」

「そりゃまたどうして?」

「私が、離陸許可を出さないからです」

「さて、そいつはどうだかね——」

 挑戦的に目を細めた彼は、パイロット席に取り付けられている通信機に手を伸ばし、そのままコードを引き出して口元へと寄せた。無線用のチャンネルを切り、地上アナウンス用に切り替える。そして彼は、機体に体重を預け、傲慢不遜な態度のまま、周囲に避難命令を通告した。

『こちらキャプテン・デイビス。WRウィスキー・ロミオ 94ナイナー・フォア、離陸準備完了。総員、退避せよ。繰り返す、WR 94、まもなくエンジンスタート。総員、即刻退避せよ』

 甲高いハウリング。彼の低い、抑制された肉声に混じって、拡声器を通じたアナウンスが、エコーを伴って辺りに響いてゆく。訓練生たちが次々に振り返り、その中心にいるデイビスを見やった。また馬鹿なことをしでかしているのだろう、というような野次馬根性と、どこか親密さに満ちた眼差しが、ただひとりに向かってそそがれる。

 このアナウンスは、人体をプロペラに巻き込み、挽き肉に変えることを回避するためのもの。ある意味で、飛行機が神聖な存在となることを告げる、決定的な一声と言えよう。この最終通告がなされた瞬間より、飛行機は不可侵アンタッチャブルな存在となり、パイロットの意志と無線以外の一切の命令を受付けはしない。

 ベースもさすがにそれ以上は踏み込めず、慣習のせいで数歩後ろに退いた。騒ぎの中心で、デイビスはぼんやりと上空を見たまま、静かに煙草をふかしている。明らかに挑発している——というよりは寧ろ、心がすでに浮遊して、無限の空を泳いでいるようだった。他に何も見えず、何も聞こえない。まるでそこだけが、平和の中心にすりかわったかのように。デイビスは何の他意もなく、ひたすらに、澄んだ青空を眺めていた。

 どこまでも嫌味な男だと、ベースは歯噛みした。いつも遠くばかり見て、彼女の言葉を聞いたことがない若者。はなから、性格が合わないのかもしれなかった。目指しているものが違うのかもしれなかった。キャプテン・デイビスは、まるで生き急ぐようにして、思い描いたことを性急に実行に移す傾向がある。謹慎はデイビス自身のためだ、と力強く語るベースの意味を、彼は一度も知りはしなかったし、恐らくこれからも、彼が理解することはないだろう。その事実が、良心の呵責のように、彼女の心を傷つける。

 一服終えると、短くなった煙草の火を揉み消しながら、デイビスは大きく息を吸い、腕時計を見た。時間だ。そしていきなり、無駄のない動きでパイロット席に乗り込むと、ゴーグルを目に当て、ハーネスを装着し、用意していたグローブを嵌める。そのままポケットに手を突っ込み、輝く銀色のキーを取り出して、無造作に鍵穴に差し込み、捻った。それがエンジンのかかる合図である。突然、ウインドライダーに生命が宿ったかのように——それは万感の思いを乗せて、動き出す。猛烈な速度でプロペラが回転し、たちまち轟音が鳴り響き、剛風が周囲を調伏した。触ればたちまちミンチにされるだろう——そんな恐ろしい唸り声が、生温い風とともに広がってゆく。ゴーグルに覆われているデイビスの目が、深い緑に輝いた。ぎらぎらと異常な悦びを湛えたそれは、獲物を見据える、餓えた狼のように——すべては渇望され、準備を終えていて、待ち構えていたこの瞬間に火をつける。

 ———パーキングブレーキ、解除リリース
 ———スロットル、オン。エンジン出力、調整チューニング。ラダーペダル、ステップ。
 ———アフター・スタート・エンジン・チェック、完了オーバー

 機首がゆるりと旋回した。まるでエンジン・オイルを脈打たせるように、別の鼓動がその乗り物を支配していた。震動も、轟音も、馬力も、エネルギーも、迫力も、危険性も、何もかも。生きた人間が遥か及ぶことのない、完全に機械的な合成怪物キメラ。これに速度と高度が付け加わると、それが小型であろうとも、もはや化け物としか形容できない激越さで空を駆ることになる。

 パイロットはそれを服従させる——というよりは、制御する。冷静に、けれども揺るぎなく、理論によって、自分の肉体の何十倍もある精密機械の意志を、最後まで掌握し続け。
 ひとたび暴走すれば、全員死ぬ。そんなことは、飛行機に乗ったことのある者なら、百も承知だ。それでも、空を飛ぶ、という一点に魅せられた連中は、科学の精髄として造られたそれへと手を伸ばす。まるで悪魔の取り引きのよう。イカロスやプロメテウスといった歴史的な神話を経て、なお、人類の飽くなき欲望は止まらない。

 もしも神話と違うところがあれば、けして魂や精神といった、神秘的な題目は侵入してこないという点。絶対ではない可能性を必然に近づけるために、緻密な理論と判断力で穴を塞いでゆく。それは、蝋でできた翼に、新たに別の蜂の蝋を塗り込む行為でしかないのかもしれない。一点の綻びでもあれば、死神に憑かれて、海の藻屑と化すであろう。パイロット・シートに座れば、その凍るような恐怖を嫌というほど味わうはずだ。それを何十、何百、何千と繰り返した果てに、禁忌の太陽に向かって、鋭利な翼は照り輝く。まさしく、人の叡智の結晶ともいえる機体。デイビスは片手で、その金属の表面を愛おしげに撫ぜた。

 異常は、ない。
 天気も快晴。
 離陸時、太陽光に気をつけなければ、目を焼かれる。懸念事項といえばそれだけ。

 ———後はすべて、機体コイツにかかっている。

 悪意に満ちた顔でベースに目配せすると、デイビスはこれみよがしに無線機を取りあげ、通話を開始した。この時のためにこそ、デイビスは延々とベースとの会話を引き延ばしたのだ。彼の通信に応答したのは、現在、管制塔にいる職員——つまり、ベース以外の人間・・・・・・・・・である。

『Contact, Base. WR 94 request taxi, at the epron.』

『Taxi via C to holding point C1.』

『Base, WR 94, on you frequency.』

『Runway 12R line up and wait.』

『Roger. WR 94, Runway 12R line up and wait.』

 嬉しくて堪らないのだろう。顔の半分をゴーグルで隠しているにせよ、嫣然として吊り上がった唇、愉悦を抑え切れない頬、それに無線でやりとりするその声色には、例えようもない快楽が漲っていた。無線から聞こえてくる通話の内容に沿って、プロペラの轟音、そして辺りに撒き散らす砂混じりの風とともに、彼は規定の進入ラインまでウインドライダーを地上走行タキシングさせてゆく。しばらく操縦していなかったにも関わらず、それは自分の手足を動かすよりも、五感に馴染んだ。

 ベースが、何か、彼に向かって叫んだ。最後の警告だったのだろうか。あるいは何らかの、重要な意味を持つ一言だったのだろうか。デイビスは一瞬、流れてゆくベースの目を見つめた。深い青の瞳だ。けれども地上にいる者は、ますます遠くなり——この時点でウインドライダーは、すでに近づくことの許されない領域に入っている——後には、飛び立つ用意を整える者だけが残された。

 ———フライト・コントロール・チェック、開始。
 ———方向舵ラダー・チェック、オーバー。
 ———昇降舵エレベーター・チェック、オーバー。
 ———二次操縦翼面スポイラー・チェック、オーバー。
 ———高揚力装置フラップ・セット、オーバー。

 デイビスは顔を上げた。ここから先は、誘導員の指示に従うことになる。舵を切れ、と遠くに立つペコが左腕を回している。彼の腕の速さに呼吸を合わせ、デイビスは吸いつくようにウインドライダーの前輪を転がした。だんだんと小さくなってゆく、腕の振り。飛行機の速度は徐行するほどに落ちて、最後に、その場にゆっくりと停止する。

「大丈夫です、デイビスさん。ライン、ぴったりですよお」

 遠くから聞き慣れた声がした。本来、マーシャラーは声で指示を送りはしないのだが、オープン・コックピットということもあり、嬉しくて声をかけたのだろう。パドルは「止まれ」の合図を示していた。デイビスは、少し座席の横へと身をずらし、ペコに向かって親指を立てる。

「はい。いってらっしゃい」

 マーシャラーは綺麗にお辞儀をして——これで彼の任務は完了である——それから立ち退きざまに、カメリアがイタリアの出自であることを思い出したのか、ボン・ビアッジョー、と気の抜けた声で付け足した。

 鈍行を続けた果てに、ゆっくりと目の前に開けている滑走路。灰色のコンクリートの道——海に向かって張り出したそれは、大空への入り口なのだ。鏡面のような暗い虹色のゴーグルにさえ、その道は真っ直ぐに映り込み、意識を高揚させる。夜間には灯器がオレンジ色に光り、ストームライダーを始め、多くのパイロットを帰還へと導く。けれども今は、離陸決心速度に至るまでの距離と、それを中止した場合の停止に必要な距離、それを合わせた長大な舗装が、ざっと千メートル強、滑らかに外界の光を浴びていた。滑走路番号、十二。これは北を起点にして、十度ごとに数字を振られたものだ。従ってこの場合、ウインドライダーは南東の方角への助走を挟み、飛翔することになる。

「カメリア」

 唐突に、デイビスが声を投げる。今までとは違う覇気のある口調に、カメリアは一瞬、反応が遅れた。慌てて我に返り、前を向いたままの彼に返事をする。

「シートベルトは、つけているよな」

「え、ええ。ずっとつけているわ」

「黄色い紐を引っ張っても、取れないか」

「黄色い紐?」

 狼狽するカメリア。それを声色から感じ取ったデイビスは、声量を抑え、ゆっくりと落ち着いた声で指示した。

「左の腰の方に、あるだろう」

 言われた通りに左を見ると、バックルのそばに、輪になった黄色いストラップが括られていた。数度、それを強く引っ張ってみたが、ベルトは僅かに突っ張るだけで、依然として彼女を固定したままである。

「大丈夫よ、デイビス。引っ張ったけど、取れないわ」

「上出来だ」

 短く返すと、長い指でカツカツと機体を弾いたっきり、項垂れたままで動かなくなった。深い沈黙。プロペラの旋回音以外、何も聞こえてこないにも関わらず、彼は無言で耳を傾けている。離陸の許可を待っているのだ、とカメリアは推察した。これよりパイロットは、「魔の十一分」とも呼ばれる、最も航空事故の多い時間に入ってゆくのである。こうべを垂れて、祈るような姿勢のまま、微動だにすることのない彼の姿は、一瞬、手持ち無沙汰を持て余しているのかとも思ったが——しかしその背中は、凄まじい鋭気に支配されていた。先ほどのふざけていた様子からは、信じられないほどの集中である。当然だ。そもそもパイロットとは、乗客の生命の全責任を負う重圧の中で、唯一、操縦桿を握らなければならない職業のことなのだから。それは通常の人間にはけして与えられるはずのない、真に耐える力量のある者だけが課せられる任務。新人ならば吐くような重圧と緊迫の中、自身の判断だけを頼りに、決死の飛行を続けなければならない。それほどの至上命令を背負って、なお——小枝が割れても響くほどに集約された意識は、粛然と無線の先に向けられている。覚えず気圧されたカメリアは、ただ息を潜めて、デイビスの様子をうかがうしかなかった。その極限状態は、踏み込んではならない、自分にとって未知の領域だった。集中を妨げてはならないと思う一方で、吸い込まれるように、その光景を見つめていたいと願う自分がいる。

 しかし、その時————

 突然、彼はふっと顔をあげ、頭上に広がっている青空を仰いだ。そして、黄金の陽を浴びて光っている綿雲を視野に入れると、ゴーグルの下から微かに透けている目を、柔和に細めた。

 明日も晴れそうだ、とでもいうように。

 なぜだろう。その横顔が妙に心に残った。
 何か胸騒ぎのような、彼が遠くに行ってしまうような、それでいてとても優しく、切ないような。
 彼の背中は、藍色に透き通った空がよく似合い、そのまま鳥のように飛び立つ力を秘めているように思えた。

 なら、私は? とカメリアは自問する。
 いずれこの人の背中に——飛行の夢を託せる?
 今、自分にできることを完成に持っていき、次の世代の、次の未来に、意味のある成果を渡すことができる?

 彼女の脳裏に、数年前に父親が建立した博物館が過ぎった。大好きなあの場所。父親の愛と敬意が満ち溢れているような、あの神聖な場所——

 夢のような光景だと思った。世界中の、古今東西の、そして数々の軌跡を集めた、色鮮やかなロタンダ。あの神秘的な空間に囲まれていると、精神は舞いあがり、空想の翼に乗って、勇気を貰えた。どんなに泣いていても、実験で負った傷が痛んでも、空を目指しているのは自分ひとりではないと、そう信じられた。

 私の夢を引き継ぐ子孫たちも、今はもうここにはいない人たちも、みんなみんな、情熱を持ってそこへ辿り着こうとしたのだと。
 描かれているのは、人類が永遠に上昇することになる階段、自由への系譜、自由への歴史だ。私も、その一員になりたい。

 ああ、絵画に描かれたあの人たちのように、私も未来の人々を奮い立たせることができるのなら——
 私は、力になりたい。役に立ちたい。


 この人たちのいる、未来のために————


 やがて霧が晴れたように、遠くから無線の声が聞こえてくる。

『WR 94, wind 020 degrees at 5 knots. Runway 12R cleared for take off.』

 それを聞いたデイビスは、敢然たる様子で頭を上げると、ゴーグルの下から強烈なグリーンの眼差しを閃かせる。

『Roger. WR 94, cleared for take off.』

 ———離陸許可、返答リード・バック
 ———ブレーキ、解除リリース

 ——————スロットル、オン!

 空気が、変わった。
 動き出す。変じてゆく。静から動へ。しかし——確実に後続する加速を念頭に置いた初速。明らかに今までとは違う、圧倒的な集中とプレッシャーのさなかで、ウインドライダーは滑走を開始する。ちいさな、予兆じみた音が音響となり、さらには耳をつんざく轟音と化して、全身を振動させる。追撃のスロットルが叩き込まれる。神経質な、けれども苛酷さを要求される加速。緩む気配は一切なく、機体は指示者に導かれるがままに、暴風との死闘へ縺れ込もうとしていた。車輪は耳障りな軋みを放ち、やがて高まる不協和音とともに、目にも鮮やかな火花を散らし始める。張り出した翼は風を切り裂き、さらなる風圧にびりびりと震え出す。ただただ、爆発的な推進力の坩堝の中心で、加速を命じるエンジンに拝跪して。

 張り詰めてゆく——張り詰めてゆく——張り詰めてゆく——……

 すべてが、一点に。海へ向かって張り出された、滑走路の、その向こうへと。引き返すことのできない勢いで、鋭利な、強暴な意志が世界を書き換えてゆく。まさに独裁的な科学の管掌だった。自然界に蔓延していた複雑怪奇な諸現象は、局地的にフライトのために服従させられ、その暴政に慷慨の声を上げていた。離陸に失敗すれば命はない——地面に叩きつけられ、燃料を餌に燃え拡がる炎が、瞬く間に彼らを骨へと変えるだろう。離陸が最も危険、とは、その死の未来に最も近いフェーズだということだ。おぞましいほどの情報量から、限界ぎりぎりの瞬間を見逃さぬよう、究極にまで神経を研ぎ澄まし、かまびすしい車輪の音の中で、スピード計器のモニタリングを続行する。これこそが、操縦士の最大の使命だった。まんじりと生きているだけではけしてありえない集中力と、背筋を駆け登るおぞましいまでの昂揚感。際限なく高まるプレッシャーは、重ければ重いほど、残酷であればあるほど、痺れるような価値を伝えていた。
 急速にうねる空気は、目に見えるほど凶悪に。切り裂かれ、悲鳴をあげる颶風。凄まじい揺れと風圧、それに爆音が機体を襲っていた。もはや耳は薄膜を張ったように鈍く、どれほどの音量が辺りを支配しているのか、想像もつかない。弾丸の如く、機体が地面を駆け抜ける。激しくシートに押し付けられ、カメリアはベルトにしがみついた。構わずにスピードは冴え渡ってゆき、恐れ知らずの、驚異的な衝撃耐性を見せつける。自然ではありえないレベルで上昇してゆく巨体の加速度は、彼女がまったく知ることのない領域だった。科学の結晶だけが実現できる、爆発的な疾走感。いや、もはや意志を持った金属が、猛烈な怒りを元に駆け抜けていると言ってもいい。にも関わらず、センターラインは、恐ろしいほどにキープされている。機体は雷撃を受けたように小刻みに震え、一瞬、風切り音に競り負けたそれが、何もかもが木っ端微塵になりそうな胸騒ぎが駆け登った。けれどもスピードは緩まない——けして緩めない——スロットルのレバーは大きく倒されたままだ。わななくような、体の芯から静寂に満ちるような、あの冷たい上昇気流の感じが、早くも身ぬちを掴んでくる。今はただ、自分の命運を目の前の人間に預けるしかない。壮絶なまでに機体が悲鳴を上げる——石ころひとつでも未来が狂うような、そんな圧倒的な危急感———

 うなぎ上りに増してゆくスピードの中で、デイビスは初めて、手袋をした手で操縦桿を握った。

 ———スロットル、フル!
 ———ラダーペダル、ステップ!
 ———速度、50kt オーバー!
 ———V1スピード、リーチ!
 ———スロットル、ホールド!

 ———速度、70kt オーバー!
 ———V2スピード、リーチ!
 ———プリペア・フォー・テイクオフ!
 ———操縦桿レバー、プル!



 ——————離陸(ナウ・テイク・オフ)



 大地が押しあげるように位置を変え、上から押しつけられる感覚と同時に、独特の浮遊感が身を包む。膝から下を失い、たったひとり、上空に放り出されたような錯覚は、瞬く間に轟々たる乱気流に呑み込まれていった。粘っこい空気と、水蒸気にまみれて音程を上げてゆく機械音——より一層高度を上げるにつれて、急速にぬかるんでゆく気流の重み——重力がおかしな方向からやってくる——ただ前に、高く、大きく旋回しながら——Gが斜めから襲ってくる——平衡感覚が歪み、遠い青と白が滲み出す——目に染みるように、空が青い——靴で踏み縛った床の裏面を、囂々と烈風が通り過ぎる振動が伝わる——明るい——まだ太陽は高い位置にある——ああ、世界のすべてが明るいのだ——Gがゆっくりとずり下がってゆく——どうだろう——今は真っ直ぐに飛べているのか?——分からない——ただ、飛んでいることだけしか——そして大きく傾いた機体の遥か下に、カメリアはマグネシウムのような強烈さで陽射しを反射させている、無限の海の光を見た。

 弾かれたように、天地の感覚がよみがえってくる。
 ウインドライダーは、海上を旋回して、マリーナを見下ろしていた。

 そして悟る。自分が、宙に浮いているのだということを。
 カメリアは思わず、息を呑んだ。

 覚えている——あの日、気球に乗ったあの光景。

 初めて、空に舞い上がる感覚を経験した。そしてそこからは、地上に生きる人々の、すべてが見えたのだ。

 今はあの日と同じ。
 けれどもこんなに自由に飛べたりはしなかった。
 すべては風任せで——こんな、人間の手でフライトを制圧するなどと——

 私のやっていることは間違いじゃない。
 過去も、そして未来の人間も、同じように夢を見続け、航空技術を発展させてきたのだ。

 みんな、自由になりたくて————
 大空の一部になりたくて————

 カメリアの胸を貫く確信が、彼女の瞳に涙を滲ませた。青と白がぼんやりと混じり合い、幻想的な別世界を提示する。
 喉を詰まらせるカメリアに向かって、デイビスは悠然と笑みを浮かべたまま、その声を張り上げた。

「よお、カメリア、まさか離陸の衝撃で漏らしてなんかいやしねえだろうな?」

 離陸する以前の、飄々とした調子へ戻っている。それにほっと安堵したカメリアは、馬鹿ね、冗談言わないで、と高揚して叫び返した。どこにも響くものがなく、プロペラは相変わらずの轟音だ。大声を出さなければ、とても会話などできたものではない。だが、その怒鳴り声も——はしゃいだ声に、すり替わってしまう。飛行中でなければ、彼の首に抱きつきたくて仕方ないのに。

「飛んでる! 信じられないわ。私たち、飛んでるのよ!」

「ああ、飛んでいるさ、カメリア。あんたが見たかったのは、これだろ?」

「ええ、なんて素晴らしいの! あれがあなたの生きている街ね、あなたの見てきた海なのね。ああ、デイビス、あなたって凄いわ。私たち、完璧に自由よ!」

 抑え切れない喜びに上げた声も、蒼穹のさなかに吸い込まれてゆく。それを笑って聞きながら、ふと、金糸雀みたいだな、とデイビスは思った。籠から解き放たれ、本来の生きるべき世界を享楽している鳥のようだと。

 彼自身も、晴れ晴れとした心情を抱いていた。これほどにフライトを珍しがってくれるゲストは、そうそういたものではない。何より、彼自身が求めていた世界——天空の、誰ひとりいない世界——それが全身を押し包むと、悩んでいたことのすべてが洗い流されて、青空と同化してしまうのだ。

 彼は計測機を見た。高度は安定して上昇中。すべて順調な数値を示している。

「よおし、飛ばすぜ。今さら降ろしてくれだなんて、言うなよな」

「そっちこそ、高所恐怖症なんて言わないでしょう?」

 デイビスは微笑して、その軽口に付け足した。

「まさか。本当に高所恐怖症なのは、地上にいる可哀そうな連中だけだよ」

 そう言って、彼は地上を見下ろした。目眩のするほど遥か彼方、眼下には大海原とマリーナの港が広がっている。あそこは、彼の愛している街だ。明日は今日よりも明るいと、疑いなく信じている街だ。よく目を凝らせば、細々と、人々が生を営む様子も窺えただろう。そして彼らは、日々何事かに挑戦しながら、自分たちの世界を前へ進めようとしている。

 俺たちもあそこにいたのだ、とデイビスは想像した。けれども——今は、まるで別の生き物であるかのよう。何もかもが違う。出発と同時に、あそこは見下ろし、見つめるべきものとなったのだ。

 もう、離陸前の世界には戻れない。

 輝くばかりの緑色の目を、パイロット用のゴーグルで覆ったデイビスは。遠ざかりゆくCWCの、陽射しを受けてまばゆい発着場に向かって、ひらりと右手を持ち上げてみせる。


「————じゃあな」


 美しい——としか言いようのない、薄くどこまでも晴れ渡った青空を背景に、完璧な敬礼を見せたその表情は。
 逆光でよく見えなかったにも関わらず——

 きっと彼は、誰よりも不敵に微笑んでいるのだろうと。カメリアはそう思った。



……

 ベースはゆっくりと双眼鏡を下ろした。

「苦虫を噛み潰した——というのが相応しい顔だな」

 いつのまにかそばに佇んでいたスコットが、横槍を入れる。まるで接戦のフットボール・ゲームを観戦しているような含み笑いを湛えていた彼は、遠く見えなくなってゆく飛行機に、ふたたびその眼差しを向けていた。

「あれを、どうする?」

「どうするも何も……何らかの処罰を下したいところですが、こちらは、彼という人質を取られていますからね」

 ベースは力なく言って、首を振る。スコットは、心なしか白髪の増えたような彼女の後ろ姿を見ながら、彼女自身の夢と、自分に与えられた仕事に板挟みになるしかない、苦しいまでの彼女の立場を哀れんだ。

「いずれにせよ、解雇はできません。どんなに懲罰を与えたくても」

「大した問題児だ」

「ええ、問題児ですよ。何をどうしたらあんな風になるのか。上官の顔を見てみたいわ、まったく」

 スコットは肩を揺らして笑った。くっきりと地面に落ちている影も、同じように揺れていた。太陽を遮るものが何もない証拠だ。一点の曇りもなく、陽射しは彼らの足下を照らし出し、彼らの前に蒼穹を露わにしている。

「今日は、絶好のフライト日和だな。俺も、ウインドライダーに乗ってトレーニングするか」

 片手を上げ、太陽を陰らせる庇を作りながら、スコットは言った。彼らしからぬ呑気な発言に、ベースは聞き捨てならぬように眉を跳ね上げる。

「あなたも……いよいよポート・ディスカバリー人らしい、お気楽な気質を帯びてきましたね。フライトのトレーニングは、会議が終わってからにして頂戴」

「やれやれ、早く終わるといいんだが」

 口先だけでやりとりしながらも、彼らはしばらく青空を見上げている。年間、稀に見る快晴を心に焼きつけ、立ち去ることを惜しむかのように。

 風、南東の方向より風速5ノット、晴天。時間、14:24。
 ウインドライダーは、飛行機雲を描いて、マリーナの大空を飛翔していった。




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