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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」23.Storm Riders


「なあ、スコット。あんたって、この街が好きか?」


 暮れてゆくポート・ディスカバリーの片隅で、ふと投げかけられたその問いに、どう答えたら良かったのだろう。隣でぼんやりと煙草を喫みながら、ふと、そう思い返した。



……

 毎月二十五日は給料日で、その日の昼はデイビスと摂ると決めている。いや、正確にはどちらが決めた訳でもなかったが、なしくずしにそのような習慣になっていた。いつも懐が寒い寒いと嘆く部下も、この日ばかりはホクホク顔で、よく磨かれた全面ガラス、それに赤銅色の鉄骨の二つで建築された、遠目に見ても美しい元ヨットクラブ、ホライズン・ベイに吸い込まれてゆく。そこが彼のお気に入りの場所で、今日も先月見たのと同様、磯の前で待っていて、浅瀬に開放されたピロティに打ち震えているゼリーのように柔い光の波紋を、汐風を浴びつつ、ぼーっと眺めている。潮の観察かね、と話しかけると、いや、不思議だなって、と呟き、まだ無言で眺めていた。何が面白いかはさっぱり分かりかねるが、何か思うことがあるのであろう。

 会議が長引いて、遅い昼だった。パイロット・ウォッチは、英国であるなら、紅茶が底を尽きかけている時刻を指している。蒸し暑いほどの湯気が、洗ったばかりの食器の、やや食べ残しを含んだ暖かい匂いを吸った。採光を高めるために吹き抜けになっている頭上からは、銅色と黄金に塗装された、前回の海底グランプリ優勝潜水艇サンフィッシュ・サブ、Mola8が、窓から溢れる外光に洗われつつ、空中に吊り下げられている。靴音を反響させてその下を歩くデイビスは、教会の中を歩く信仰者のように映る。

「何にする?」

「ハンバーグ!」

「お前……毎回それだな」

「スコットは、またサーモン? あんただって人のこと言えねえだろ」

「ダイエット中なんだ」

「ハッハ! 中年のオッサンは、腹が出てくる頃だもんな」

 くつくつと喉を鳴らしながら、トレーを手に取るデイビス。スコットは大いに気を悪くして、皿を受け取る列に並んだ。

「失礼な奴だな。毎日鍛えている」

「はいはい」

「お前ももっと健康に気を遣え。禁煙はどうなった」

「どうなったんでしょうねえ」

 デイビスは上機嫌なのか、透き通るように小さく歌を歌いながら、前へさらさらと流れていった。

「よお、ユリア。元気か?」

 レジにいる金髪の女性に、へら、と笑いかけ——星が飛んだ。はて、まだ天体観測には早い時刻だったが。いってー、と右頬にくっきりと浮かびあがる赤い手形に顔を顰め、テラス席に座るデイビスの後に、スコットも続く。

「……また、手を出したのか」

「仕方ねーだろ、向こうから誘ってきたんだから」

 ひりひりと痛む頬を押さえ、奥歯を噛み締めるデイビス。その理由にさしたる興味も湧かず、さっさと皿の上のサーモンを切り分けた。

 いつも当たり前のようにテラス席を選ぶのは、彼らが喫煙者だからで、特にデイビスは重度のヘビースモーカーであった。娘に倦厭されることもあって、スコットは最近はやや控えているが、その日の食後ばかりは煙草をふかす。ライターを借りようとすると、へらへらとお辞儀を繰り返して重役の機嫌を取る、平社員の物真似をしながら火を点けてきた。こいつはバカか。スコットは溜め息をついて、その薄い唇から美しい白煙を流し、ぼんやりと夕空を見上げた。

「綺麗だなあ——」

 ぴこぴこと、口に咥えたストローを上下させながら、デイビスが独りごちた。半身に黄昏を浴び、その眼差しは、茫洋と宙に凝ごっていた。

「今何時?」

「十六時近く」

「疲れたよな。会議、何も決まらなかったし」

「ああ」

「明日は、続きか」

「ああ」

「つまんねえな。トレーニングの方がいいよ」

「ああ」

 生暖かい汐風が流れて、デイビスの髪を乱した。一本一本が風に揉まれて、とりどりに靡く音すら聞き取れそうだった。睫毛の長い横顔が、霞みがかった金盞花色の大空に照らされていた。天使のように見えた。

 長い前髪を払って、少し鬱陶しげに顔を顰めていたのが、ふと、自分の見つめられているのに気づくと、優しい、というか、手負いの鳥のような不思議な微笑を浮かばせる。そして、赤い舌が口の中でひらめいた。

「なあ、スコット。あんたって、この街が好きか?」

「好きだ」

 言下に答えてみせたスコットへ向けて、デイビスは流眄を細め、軽く肩をすくめた。

「へえ、そんなに即答できるほど、他の街と違うもんかねえ。俺、ポート・ディスカバリー以外の場所に住んだことないからさ、わっかんねえや」

「比較しなくても、好き嫌いくらい言えるだろ」

「うん、まあ俺も、ここが好きよ。街も好きだし、住人も愛してる」

「意外だな」

「んー? なんだ、どういう意味だよ」

「何とも思っていないから、女に殴られてもへらへらしているのだと思った」

 明るく笑って、デイビスはその返しを微妙にずらした。

「なーんか、うまくいかないんだよな。なんでかなあ。俺って、そんなにダメ男かな?」

「ダメだろ」

「辛辣ぅー」

「酒も煙草も激しく、ギャンブルはするわ、財布はすっからかんだわ、あちこちの女を泣かせるわ。お前の利点は顔と、パイロットであることくらいだよ」

 ハッハッハッ、と大きな声を出し、デイビスはおかしそうに背凭れに肘を預けた。どうしようもない若造だと知っているが、この腹の底から響き渡る、テノールの笑い声が好きだった。帽子を吹き飛ばす潮風のような爽快さがある。

「違いねえな」

 そして笑い声が止んだ後に、二人とも、繊維を漉かしたような薄い巻雲を目に入れ、その潤んだ瞳の奥底に、気怠い青を映し取った。どこか膨大な陽射しだった。同じような角度で首を傾げ、二人で、陽を浴びて切り立つように反射するCWCの黄金のアンテナが突き立つのを見ていた。交わされる会話に現実味は伴わない。話しながら、風を浴びながら、ぼうっと空だけを眺めていた。

「お前は、ちっとも懲りない男だな。その女癖の悪さは、何とかならんのか」

「無理だよー、天性のモノだもん」

「欲望の問題だろ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「確かに俺って、年がら年中遊んでないと、生きていけないかもー」

「それが欲望だと言っている」

「はは、じゃーさ、スコット先生。俺が普通の人と同じように生きてゆくには、どうすりゃいいの?」

 微笑を滲ませながら、その目に物哀しげな光が射した。
 カカオ色の逞ましい二本指に挟まれていた煙草は、細長く撚られた白煙を棚引かせていた。その穂先から、灰皿の底へと塵を落として、スコットは黒い片眉を跳ねあげる。

「そういう奴はな」

「んー?」

「……英雄になるしか、ないんだよ」

 目を丸くした後、げらげら笑い転げるデイビス。

「はっはー! キャプテン・アメリカになれってか? それともヘラクレス? ミスター・インクレディブル?」

「おい。私は、真面目に言っている」

 デイビスは、スコットの煙草の箱から勝手に一本引き抜くと、挑戦的に奥歯に咥え、橙の炎を底光らせてから、大きな吐息とともに煙を燻らせる。

「おかしなこと言うね、あんた。どういう理屈?」

 苦笑とともに、薄い焦げ臭さが充満した。スコットもデイビスを見て、煙草を灰皿で捻るように押し潰す。しばらくの沈黙の後で、前触れなく言った。

「英雄というのは、一対一の関係でなくて、一対多の関係を結ぶ存在だから」

「うおっ。思った以上に真面目な回答だった」

「街も人も好きだというのなら。お前はストームライダーのパイロットとして、できることがあるだろ」

「うーん、そうかもぉー。俺ってば、天才パイロットだしー」

 棒読みの返事をするデイビス。その目は、手許で弄んでいるスコットの煙草の、ネイティブ・アメリカンが描かれた美しいパッケージに落とされ、初めて積み木に触れた子どもの如く、長い指でくるくるとひっくり返している。

「でもさあ、俺が指揮官をやったところで、あんた以外のCWCの奴とは、きっと軋轢起こすよ。まあ、まだマネジメントやったことないんだけどさ」

「杞憂だ。当分やらせるつもりはない」

「え、やらせろよ。俺もう副官飽きちゃったよ」

「お前のキャリアプランは、ベースと相談して決めている。お前はあと数年、私の下で研鑽を積め」

「ひょえー、アラサーになっちまうなあ。そんなに学ぶことあんの?」

「協調性、リーダーシップ、タイムマネジメント、目標設定スキル、アセスメントスキル、コーチングスキル、経営方針の理解」

「あー、見事に全部ゼロだなぁ。でもさ、頑張ったってゼロだよ。向いてねーもん」

「指揮官になりたくないのか?」

「努力するけど、それと結果は別じゃん」

「努力して、失敗してから言えよ」

 スコットから盗んだ煙草の甘さが口に合わなかったのか、早々に嫌な顔をして火を揉み消したデイビスは、おもむろに新しい自分の煙草を咥えて火を点けながら、


「そういう、ダメな部下でもさ。
 あんた、俺のこと、受け入れてくれんの?」


 ふっ、と風が、二人の間を吹いた。スコットは、猫のように切れ長のデイビスの眼を捉えた。デイビスの眼は飄然として、寂しく睫毛を反射させながら、夕日の方を向いていた。

 永遠のように流れた沈黙を、気に介することもなく。灰皿の上で燃えさしを叩いたデイビスは、潮風を浴びながら、長い煙を吐く。その動作は、すべてが見惚れるほど自然だった。まるで、先ほどの問いかけなど、何も存在しなかったかのように。

「ヒーローの器じゃねえよ、俺なんて。あちこちをふらふらしてる、だらしねえ男だ。そうだろう?」

「さあな」

「頷いてくれよー、そこは」

「やればできる男だ。やる気がないだけで」

 デイビスはようやく、つまらなそうにスコットを見つめ、それから肩を鳴らしつつ空を見あげて、ぼんやりと呟いた。

「そりゃどーも。そんな色気のない言葉で口説いてくるのは、地球上で、あんただけだな」

 頭上を、飛んできたカモメが鳴いた。子どもがその脚を掴もうとして、橋の上で飛んだり、跳ねたりしていた。浅瀬とテラスを隔てる銀のポールが、暮れ始めた太陽に光り、潮騒がその後に続いた。

 二人して煙草をふかしながら、何とも言えぬ無為を過ごす、その時間が好きだった。あまりに傍にいすぎて、冗談ばかりを交わす時期も過ぎ去り、ただ互いが、ぬるま湯に浸かりながら生きているだけ。それでも、そこにはすべてがあったと信じている。人と人が、心を通い合わせるためのすべてが。

 まだ空から女の子も降ってこない——そんな、暖かい日暮れのこと。
 もっと印象深い事件も、重要な会話もあったはずなのに、なぜかその一日に満ちている胸を締めつけるような懐かしさが、妙に心に残っている。






……

 紫紺の不吉な翳を纏わせて廻転する巨大なストームを見下ろしていると、不意に、ストームライダーIIからの無線が入った。

『あー、こちらキャプテン・デイビス。キャプテン・スコット、聞こえるか?』

「こちらキャプテン・スコット、通信状態は良好なり。指揮をどうぞ」

『ああ、それじゃ、ストーム突入の作戦を伝える。と言っても、奥底まで突入するのは俺だけで、あんたは浅く目を掠める程度に留まるが——チッ、飛来物が鬱陶しいな』

 言い捨てると、右方向舵を踏みながら操縦桿を傾け、軽く位置を移動させたようだった。レーダーの位置が少し動く。

『アレッタ、障害物は?』

 スコットは通信越しに、彼の与り知らぬ名前を聞いた。無線を聞く限り、フライトの途中で拾った鳥のようだが——しかし、あまりに当然のようにデイビスの呟く様子が、まるで何年も人生をともにした傍えに訊ねるようで、驚いた。どのようなやりとりが交わされたかは知れないが、いい子だ、という低い囁きに混じって、短く甘えた鳥の鳴き声が、篭もるように聞こえる。

『悪いな、続きを言うぞ。

 内部観測は俺の仕事だ。ストームライダーIからもちったぁ観測できているようだが、微々たる量でしかねえな。俺が観測している間、ストームライダーIは待機だ。暇させてすまないが、ストームライダーIIがロストした場合には、すぐに確認できる位置にいてくれ。

 ガソリンはどうだ、まだ残っているか? もうディメンション・スタビライザーを起動して良いぞ。俺の観測時間はおよそ二十分間を予定している。観測終了時点で俺が高度を伝えるから、命令があり次第、そこまで到達しろ。二十五分経っても通信できなかったと思ったら、まあ、察してくれ。その場合は、通常のミッション・モデルと同様の流れで進めてもらえれば結構だ。

 それと、ストームディフューザーだがな、座標修正機能はオフにしろ』

「何?」

『今の仕様は同時発射を想定されていない。多少座標がずれても、この風速だ、瞬く間に散布プログラムの流通量は均一化するから問題ない。他、不要な機能はすべて切って、発射は手動に切り替える。警告アナウンスは要らない。起爆インターバルは五〇〇〇ミリ秒にセット。エネルギー充填中は、電圧を最低まで落とせよ』

「デイビス、手動で発射など、やはり無理があるのではないか。ストームディフューザーの耐性に不安はあっても、お前一人で発射し、オートに任せた方がいい」

『やるんだよ』

 有無を言わさぬ調子で、デイビスが言った。

『消滅に必要なエネルギー量は、耐久検証の条件を超過しすぎている。発射後にストームディフューザー一発では不可能だと判明しても、残るサブは一機しかないから、即終了だ。

 賭けにはタイミングってものがあるんだ。最後の最後で、偶然に運を譲り渡すな。それに、ブラックボックスのシステムに命を賭けるより、自分たちの腕に賭けた方が、例え死に際でも、気分良いだろ』

 カツカツ、と指でコントロールパネルを弾く、デイビスの癖。特に相手の反応を待つ時にこそ、その何気ない仕草は無線から聞き取れることが多かった。

『キャプテン・スコット、どうだ?』

「貴官の判断はすべて信頼していると、すでに申しあげたはずだが?」

 こともなげに返答すると、苦笑が聞こえてきた。大方、態度の悪い副官だな、とでも思っているのであろう。

『あー、それともう一人、用がある。

 ドクター・コミネ、生きているか?』

「ああ……なんとか」

 後ろの方で、ごそりと音がした。この調子では相当顔色が蒼いはずだが、無線の声に答えるには支障がないらしかった。

『ミッション最高指揮官として、貴君のご協力に感謝する。最後までキャプテン・スコットを支えてやってくれ。彼を守れるのは、貴方一人だけだ』

「りょーかい。お守役は任せてくれ。できる範囲だがね」

『ああ。よろしく頼む』

 すべての指示を伝え終わると、デイビスは硬いサファイアのような声色で、ベース・コントロールにフェーズの推移を告げた。

『ミッション最高指揮官より、ベース・コントロールへ。ストームライダーII、降下開始。ディメンション・スタビライザー、オン』

『了解。内部観測、開始。現在の演算処理残り時間は、三十分、五十三秒』

「ストームライダーIよりストームライダーIIへ。貴機に最大の栄誉と幸運を祈る」

 両機のティルトジェットの角度が、水平方向から垂直方向へと変じてゆく。これもまた、ストームライダーの操縦の難易度を跳ね上げる要因だった。パイロットは水平方向、垂直方向の双方における操縦スキルを修めなければならない。

 デイビスもよくよくその事実を知っているため、最大限の集中を傾けた。常の操縦は、水平方向だ。垂直方向のホバリングについては、圧倒的に経験値が不足する。僅かな動きの機微も調整し辛く、パイロットを苦しめる操縦であることは間違いない。着陸、離陸を上回るほどに難儀なのは、実はこのフェーズであった。

 ストームの内部観測の恐ろしさは、ストームライダーの機動性が剥奪されるという、まさにその一点に尽きる。外部観測は自由に飛び回ることが可能だが、内部では、それは封じられるのである。裸で、自然現象の中に隔離される。障害物ひとつとて、外で受ける場合と内で受ける場合では、まったく意味合いが違ってくる。ゆえにその生存確率は、大いに偶然が握るのである。

 ストームライダーIIが、おもむろに降下し始める。機体の底部が軋んだ。一秒たりとも注意を欠かさず、デイビスは凄まじい緊迫の中で、静かに、スロットルを絞り続ける。

 振り返ると、ビューポート越しに、ストームライダーIの姿が見えた。綺麗だ、と思った。荒れ狂う積乱雲の中でも、その白銀は目に浮かぶように鮮やかで、上空から影を落とし、滲みる光芒を放っていた。風音は聞こえるのに、何もかもが沈黙していると感じた。静かにパイロット・ゴーグルを額までずりあげ、己の眼でその光景を見つめる。機首にあるビューポートに守られるようにして、操縦席に座っているスコットの姿が見えた。彼もまた、ゴーグルを外して、その揺るぎのない眼差しを、ストームライダーIIに送っていた。

 ゆっくりと、離れてゆく。
 その瞬間からふっと、粘つくような、焦れったいような、永遠に引き延ばされた時間が、耳に取り憑いた。現実から剥がれ落ちたような、あの虚無の感覚。ぬるま湯にも似たあの鈍磨の空気がやってくる時、人は言葉を失う。何も思いを交わせず、何も語り合うことのないまま、その眼差しだけが、すべてだった。

 無性に切なかった。激しい風音が鼓膜を領した。
 デイビスは、スコットを。スコットは、デイビスを見た。
 互いの眼差しは、奇妙に遣る瀬なく、絶望とも希望とも無縁の、耐え難い感情に彩られていた。

 がくん、と機内が揺れた。風のすじが累々と乱れ、その衝撃で、ストームライダーIIは、幾度も白銀の光を揺らめかせた。スコットを見あげるデイビスの顔は、藍色に輝くビューポートの内側に閉じ込められて、酷く幼い顔つきに見えた。揺れる髪も、微かに見開かれた目も、あらゆる音から取り残され、緩慢に降りてゆく。瞬きひとつすら、あり得ないほど長大な夢に思えた。そしてただひとつ、胸に迫るのは、互いの網膜に焼きつく目の色だった。何度も、あの目を見て言葉を交わした。そしてそれらの日々は、もう二度と戻ってはこないであろう。喧嘩したり、笑い転げたり、煙草を吸い合った時間は、永遠に過去の方角へと消え去っていった。

「なあ、スコット。俺さ」

 デイビスの唇が、不意に動いた。

「どのくらい頑張れば、あんたに追いつけるかな?」

 それは、少年が大人に問いかける語り口と酷似していた。
 何よりも純粋で、何よりも平明。それゆえにそれは、一個の真理である。

 ストームの底から、上空を飛行するストームライダーIを見つめ続け。互いの姿は、どんどん小さくなってゆく。

「————デイビス」

「俺さ。誰かを守る人になりたかったんだ。

 俺は、俺のことが嫌いで。でもあんたは、そんな俺を知っていて、何も言わずに、ずっと俺のことを見守り続けてくれただろ。

 それでさ、あんたを追いかけている時、俺は俺のことを、ほんの少しだけ、好きになれた気がしたんだよ」

「…………」

「どうすればいい? どうすれば、あんたに届く?
 俺だって、人を守れる人間になりたい。

 俺には、好きなものがたくさんある。ヘラヘラしていて、中身が空っぽな男で、どうせ何も考えていないんだろうって言われるけど、でも本当は、そんなことない。

 本当は、空も、ストームライダーも、ポート・ディスカバリーも、俺と出会ったすべての人たちも、どうしようもなく大好きで。どうやって愛したら良いのか、分からなかった。この世界のことが、好きすぎて。愛おしくて、愛おしくて、まともに向かい合ったら、俺ひとりじゃ堪えきれないほどだったんだ。

 教えてくれ、どうすれば、みんなを守ることができるのか。
 あんたは俺を救ってくれた。だから、教えてくれよ。こんなにも膨大な世界を、どうやって愛したら良い?

 ———本物のヒーローに、なりたいんだよ」

 風の中から問うあいだ、時の止まったかの如く、何もかもが音を失くしていた。彼らには、この世の一切が克明に見えていた。七つの海を呑み込み、少しずつ、僅かずつ、前へもがこうとする無限の命。地上で足掻く人々、敗北してゆく人間、そしてなおも果てを目指そうとして、遙かな意志を継いでゆく人類たち。

 それは今も切々と積まれてゆく。
 嵐の最前線にいるのは、彼らだけではなかった。

 泣きながら衛星画像を分析する、CWCの職員。
 猛烈な風の観測を続ける、風力発電所の所員。
 避難所で、眠れぬ夜を過ごす多くの住民。

 みな、遅々として進み、時の針が緩やかに打ち震える中で、その身を切り刻まれながら、生の営みを果たそうとしている。

 哀しいほどに透明な人類の愚かさの中で、あまりに儚すぎるその努力を目にして、何もかもが分からないのだというように。
 胸の奥から湧き起こる強烈な愛を慰撫する術が、彼の中には残されていなかった。本人たちでさえ悟ることのない、その薄い光のように輝く何かを、ずっと愛してきた。だがどこにも、愛おしさの出口はない。泣き叫んだり、性交を求めたり、この身を壁に打ちつけてくれれば良かった。けれども、もはやそれですらも抱え切れまい。全身に溢れるこの狂おしさをごまかすことは、誰の手にも不可能であった。

 デイビスがスコットに投げかけたのは、その末に結晶した、拙劣な問いである。嵐を切り裂くようなその言葉は、あの深々と太陽を吸う紺碧、そしてその上を飛翔する、真っ直ぐな白い鳥を思わせる。紛れもなくそれは、一個の答えを求めていた。しかし何者が、答えを出せたものだろう? もし何かが結論づけられるのであれば、我々が愛し、憎み、未来を目指す意味など、どこにもない。

 白銀に光り輝くストームライダーの中で、スコットは身動ぎもせずに、彼の言葉を聞いた。囂々と鳴り響く烈風が、二人の合間の虚空を侵していた。

「超えろ」

 スコットの言葉は、ただ一言に尽きた。


「超えろ、デイビス。私を超えろ」

 デイビスは酷く傷ついたような、泣き出しそうな眼で相棒を見つめる。


「お前は、私如きで終わる人間ではない。

 その先へ、遙か彼方へ。霊感に従って、突き進め。情熱とともに、どこまでも歩んでゆけ」

 永遠に熱いものが、何か一筋、その力強い命令から齎されたようであった。いつかの杏子色の夕暮れの陽射しと、甘ったるい煙草の香りが、光に乗って一筋、漂ってきた。そしてそれは、手を伸ばす隙もなく、雲の合間に吸い取られ、どこにも存在しなくなった。

 デイビスは、孤独を呑んだ海のように瞳を揺らめかせた。二度と帰ってきはしない、この一瞬。この暴風の狭間に刻まれた、彼との絆を、何者にも奪われたくはない。沈黙は、永遠に続くようだった。
 しかし出し抜けに、彼は額にあったゴーグルを装着すると、敬礼の手を挙げ、その整った顔へ、輝くばかりの笑みを咲き誇らせて言った。


「行ってくるぜえ、スコット! お土産フンパツしてやっからな、期待していてくれよー?」


 スコットは何も言わずに、ゆっくりと微笑を形作った。それが彼と直接交わす、最後の会話になった。

 通信が切られても、スコットはただそこで待ち続けた。見届けることが、自分の使命だと感じた。声もなく、身動ぎもない。永劫のような静寂が、辺りを押し包んだ。

(お前は、もっと大きな夢を見たのか)

 それは、幻のようだったろう。
 吐息に揺れ動くほど儚くて、遠くて、涙の滲むほどに懐かしかったろう。

 まるで生まれる前に見た原風景のような。
 そして、すべての人間がそこに辿り着くことを、彼は夢想したに違いない。

 思い描いたのが、全人類の希望だと言うのなら。彼の生きる道は、たった今、決したのだろうか。さらなる険しく光輝に溢れた道へと、孤高の光を携えてゆくのであろうか。

 その時、視界から消え去る寸前で、猛り狂う嵐に立ち向かうそのストームライダーIIが、なにか異質な黎明を放っているように見えた。

 幻覚かと思い、スコットは目を細めた。破格のエネルギーを伴う稲妻の閃光とは異なり、それは貧窮していて、追い詰められ、消え入るばかりに薄い光である。しかしそこには、天から打ち捨てられ、見捨てられた者たちの意志が宿っている。恐らくは、人類の栄光、のようなものだったのかもしれない。暴風の底から薄明るく照らし返す、有限者だけの発揮する光。はためく襤褸切れのように震えおののく中、ストームライダーIIは飛行をやめない。やがてそれは、存在という存在からあらゆる生の意志を励起させるかの如く、揺るぎなく、狂おしく、かつ皓々とした。

 デイビスは栄光に鎧われた、ひとつの銃弾だった。常に世界を突き進んでゆく、孤独な正義をともなう銃弾だった。虚無、災害、破滅、孤立——人々が怖れるものに、彼は全霊をそそいで接近しようとしていた。

 スコットは、その真摯さを、哀れに感じていた。しかし彼の魂は、それを見つめざるを得ない。あまりに世界は広いから。あまりに人間は儚いから。それらを傷つけさせないために、この真摯さのなかに埋没して死んでゆきたいと願う姿は、聖者のような清らかな慈悲なのではなく、単なる愛、しかも切実に嵐を超えてゆく愛であろう。彼はそれほどのものを抱えて、この大空の下を征服しつつある。

 スコットは、己れの命運の一切をキャプテン・デイビスに託していた。例えこの瞬間、海に飛び込めと命じられても、無言で指揮官の命令に従っただろう。それはとりもなおさず、自分は確かに、このデイビスの孤独な情熱を信じているという事実からであった。これほどまでに世界に愛をそそぐ彼が、口から発することを決意した言葉には、千金の価値があろう。それを踏み躙る選択肢など、己れに、はなから存在するはずがない。

 この暴風吹き荒れる深淵を前に、彼は何を考えていたのか。それを勝手に想像して、共感を寄せることはすまい、と禁じた。重荷をともに背負えないのであれば、この境界線上で、ここに立ち続ける必要がある。彼の生き様の証人となり、最後まで目撃し続ける——それが副官たるキャプテン・スコットの使命であった。

 そして、かつてフランスで早逝した世紀の哲学者が、孤独の極致で書きつけた、このような言葉が胸を過ぎる。



 ————だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。



(デイビス——!)

 拳を強く握り締め、スコットは嵐の底を見据えた。怒濤の感情が、彼に押し寄せてゆくのを感じた。数々の後悔、憐憫、罪責、情愛、思い出、そしてそれらすべてを吹き飛ばす、彼だけが背負い続けねばならない、測り知れぬほどの信念。すべてが感情に呑まれ、震える唇から、その名前を呼びたくなるのを、スコットはけして許そうとしなかった。

 お前に、「人類」などの物々しい言葉を使いたくなかった。
 だがお前は、その階段を登ってゆく。自らの性に抗えぬように。限りない光に拘束されたように。

 お前がその道を選ぶなら、舌を噛み千切ってでも、お前を引き留めることなどするまい。

 栄光は今もお前に取り憑く。
 その果てを、その生き様を、お前を侮る者に見せてやれ。

 行け、この先へ。
 私を超克しろ。


(お前は、その巨大な夢を。

 ————人類に関わる夢を、叶えにゆけ)







 ————死、か。
 そういや、今までまともに考えたことなかったな。

 ぼんやりと意識してみれば、それは不思議な事実だったかもしれない。パイロットという特殊な職業についている以上、あらゆる危険性が頭をめぐるはずなのだが、事故のリスクや回避方法を叩き込んでいるとはいえ、それを自らに迫りくるものとして捉えたことは、皆無だった。

 なぜだろう。
 若さゆえの、無謀な自信ゆえか。
 いや、恐らくはそうでないだろう。自分はただ単に、死を、知らなかっただけだ。その現象に纏わる膨大な虚無の重みを、一度も引き受けたことはなかった。

(怖いか?)

 ふと、誰かが彼に問いかけた。明らかに自分の声ではない。押し殺された呻きのような声だった。

「怖か、ねえよ」

 酷く淡白に、デイビスはそれに答えた。

(本当に、これで満足か?)

 ちりっと、胸に痛みが走る。

(お前は嵐と向き合い、悶えながら死ぬだろう。お前をここに駆り立てた者たち、闘いに背を向けて震えているだけの者たちは、のうのうと避難して生き延びる。

 それが、お前の望みなのか。
 本当に、そんな奴らのために、死力を尽くして闘いたかったのか。

 お前が欲しかったのは、自分の居場所なのだろう。才能のあるがゆえに、それは叶わなかったな。死後に祀りあげられたところで、何も浮かばれはしないだろう)

「悪いが俺は、もう腹くくっているんでね。ちなみに、死ぬ気はさらさらないぜ。隙ありゃ、抜け目を掻い潜って、生還の道を嗅ぎつける。俺みたいな屑は、そういうずる賢いのが得意でね」

 能う限りの慎重さでストームライダーIIを降下させながら、デイビスは応答する。

 この鉄の巨体の一切を、ストームの目の外に出してはならない。少しでも風速の異なる箇所に一部が飛び出れば、たちまちフラット・スピンを起こして、回復不能となるであろう。刻々と変わるストームの勢力や移動速度の中で、下降流のみを見出し、スロットルを調整しながら機体を委ねる。障害物を回避し続けるのが動の操縦なら、降下し続けるのは、静の操縦であった。息を潜めて集中するうちに、その名も知れぬ声の息吹が、妖しくふきかかってくる。

(虚勢か)

「んー。ま、そんなとこかもな」

(あんな街の、どこが良いんだ?)

「愛は、すべてに勝つ。主人公の常識だぜ?」

 からかうように語尾を持ちあげて言うと、氷のような声が囁いた。

(お前は、英雄の器じゃない)

 初めて、デイビスが眉根を寄せた。不快げに、辛辣な口調で吐き捨てる。

「お前が決めることじゃない。俺が決めることだ」

(それは、単なる自己欺瞞にしか——)

「黙れよ!」

 デイビスの眼はぎらぎらと燃え盛り、荒げた声の余韻も止まぬうちに宣告した。

「それは、俺がカメリアに言った言葉だ。それでもあいつは俺を助けに、この時代にやってきた。あいつはやがて、本物の英雄になる。それなら、どうして俺がなれないはずがある?」

 力が。
 ありえない力が、その拳に込められる。
 痛みが、火傷するように指に宿った。その指の先まで、鼓動が脈搏った。

「あいつは俺を夢見た。あいつの夢は、俺のものだ。だから俺は、あいつの分も背負って、夢を叶えなきゃいけない。勝手に捨てるわけにはいかない。俺には、守らなきゃいけないものがあるんだよ」

 焰の如く気炎を吐くデイビスに、鬼火のような嘲笑が返される。

(それが、お前の出した答えか。馬鹿だな。こんな鉄の中で何をしようと、彼女に何も伝わるはずがない。お前のやっていることは、すべて無意味だ)

「…………ああ。そうだな——」

 デイビスは皮肉げに笑うと、静かに首を傾け、その切れ長の眼を哀しそうに歪めた。

「ま、これが終わったら、デートにでも誘うかな。頬っぺた引っ叩かれるかもしんねえけど」

 外では、異次元のレベルの烈風が轟いていた。恐ろしい慟哭の鳴り響くような、臨終を迎えた者たちの煉獄と見える。雨、風、そして雷。まさしくこの世の果て。しかしストームライダーは、そこからも浮いている。

 比較的穏やかな目の中、というが、その根源は、無性に寂しい。窒息するような、しかし同時に空気に溺れるような、果てしもなく続く空無の感覚。徐々にそれは明度を増してきて、森羅万象からの冷たい吐息を、その無機質の機体に吹きつけるかのようである。

 ああ、ここには、生の意志が介在しない。
 徹底的な、自然現象。宇宙が、そうであることを当然として、この風を渦巻かせる。それ以上の意味など、どこにもなかった。

 また、ひとりになっちまったのか——

 彼はそう思いかけて、疲れたように笑った。

 いや、これでいい。
 この深淵には、俺ひとりが行けばいいんだ。
 他のどんな人間も、道連れにしようとは思わない。

「なあ、アレッタ」

 デイビスは、舌に馴染むその名を呼びかけた。アレッタはビューポートに映り込む自らの影の反射を見つめながら、きゅい、と鳴き声をあげた。この嵐の底で、生きている者は、もはやその一羽しか残っていなかった。

「どうすりゃいいのかねえ」

 絶えず無色透明な風に押され、みな、虚無の道へと歩いている。それは絶えざる風に亡んで、死んでゆく。この暴風の渦は、その無限の死の運動を代表するものであった。

 しかし果たして、彼らが命を落とすのは、ストームだけだったのであろうか。みな、時代の香りに包まれながら、一様にこの死の道を歩いているのではないか。

 彼らの過ごすのは、死に照らされてこそ、あんなにも黄昏を恐れない、美しい街なのではないだろうか。このとりとめのない光芒の中で、例えば波紋の揺るぎにも満たないほど微かな笑い声を漏らし、生きること、まるで死を知らぬように生きることは、なぜ、この世の果てのように、無意義な希望すら湛えて見えるのであろうか。それは永遠の中で煌めき続ける、埃のようなものだった。世界は、若く、儚かった。真理そのものは立ち尽くし、梯子へと至る絶頂を失っていた。あちらからもこちらからも射してくる光、それはこの世の何ものも語らず、ただ示そうとしては、炸裂のさなかに消えてゆく。過去もなく、未来もなく、無言のさなかに沈むあのほとりで、人々はしがみつくように遅刻しながら、今日も、明日も、有限の先を信じている。


 では、ストームライダーとは、いったい何なのか?


 デイビスの胸が、波打つように揺れた。その問いは、けして救えないものを前にしながら、ただひとつ、かけがえのない零度の光を待ち続けるかのようである。自分には、嵐を消滅させる以外に、何も力はない。光が欲しい。時は過ぎる。彼もまた、一秒ずつ着実に老いてゆく。

「俺、みんなのことを守れればそれでいいんだ。ほんと、それ以外、何もいらねえんだよ。

 なあ、欲張りなのかな。なんで俺は、ストームライダーに乗ることしかできねえのかなあ。

 もっともっと、誰かを助けられる人間に、なりてえよ————」

 ドリームフライヤーに乗って、荒れ狂う風の中で世界を目にした時の、溢れんばかりの畏敬と驚嘆。

 その意味が、すべてすべて、自分の中に流れ込んでくる。
 このまま永遠に空の中を飛んでいたいと思った、あの切ないばかりに濃く願った瞬間が、きっと、自分の信じられるうちで最後のものだ。きっとあの時、空の光の中で、俺は、俺の根源に触れたんだ。

 愛したい。この世に繰り広げられるもののすべてを。

 魂の奥底から湧き起こる、空気にも似た万物への愛おしさが、胸を締めつける。だが、どうしたら良い? 誰がこの心臓に触れられる? どうやってこの思いを還元したら良い?
 無智である人間たちの威厳に対して、もっと深く、低くなりたい。物哀しい、黄ばみ始めたこの同じ血の人々を、それ以外にどうしたら良いか、悟れることはあるのだろうか。それまではどうか、俺に呼吸をさせてくれ。この地の片隅で。

 急き立てられるような愛に憑かれて、生きるのも苦しいほどに鼓動するデイビスは、そこでゆくりなく、思い当たった。

 ああ、それじゃこれが、飛行士とは別の、俺の新しい夢なのか————

 はたはたと鳴り響くような風の音もなく、あの魔法の無線機で、親しみ深い甲高い鼻声と会話した時。声は予言した——自分の未来は、やがて二つの夢に支えられるであろう、と。


(でもデイビス、君にはまだ、君自身が気づいていない夢がある。だから僕は君に、教えてあげたかったんだ。どんなに素敵な可能性が、君の中に眠っているかって)


「……おいおい、ミッキー、こんなところで謎が解けても、洒落になんねえよ。タイミング悪すぎるぜ、もっと未練がましくなっちまうだろ」

 口角を引きながら、どこまでも孤独に、デイビスは微笑んだ。

 膨大なものが、嵐とともに浮かびあがり、二度と帰ってはこない原子の渦を創り出す。生きてゆく命、死んでゆく命。それらは、螺旋を描くようにして舞いあがり、歴史を刻印する。

 明日はきっと、晴れるだろう。
 その太陽の光を、いったい何人が浴びられるだろうか。

 グローブを脱ぎ捨てた手で、ぼんやりと夜の闇に触れようとすると、掌の乾いた感触が、さら、と伝わった。







 泥水に足を取られ、転倒した。ドレスの裾の破けた音がした。カメリアは舌打ちし、血の滲んだ膝を一瞥することなく、破けた部分を引きちぎって、立ちあがった。

 ドリームフライヤーは守れなくてもいい。また作り直せる。何度でも。今は、自分の身を守ることが先決だった。

 岬から見下ろしたマリーナは、すべてが闇に沈んでいた。灯火は消え、人の声もあり得ない。今更、門戸を叩いたところで、誰一人として屋根の下に迎え入れてくれることもなかろう。夜の中に射し込んでくる、あの青い異次元的な街のライトは、今はひとすじも見出せず、ただ廃墟のような建築物がうずくまっている。

 豪雨の中で、もう何時間も、こうしていた。何日、なのかもしれない。どれだけの時間が経ったか、分からなかった。一晩中雨に打たれれば、肺炎を起こすかもしれない。それだけでなく、雷や、嵐に舞いあげられた飛来物、風に飛ばされて崖から落下など、様々な危険が考えられた。現に、ポート・ディスカバリーの野外にい続けるのは、彼女ひとりだけだった。他は全員、避難しているか、屋内で嵐のデータと闘っている。けれども異邦人たる彼女には、どこにも行き場がない。

(……アレッタが、デイビスを守ってくれれば)

 それでも、彼女の胸の中には希望があった。燦然たる希望というよりは、ほとんど執念に近いほど鬼気迫る類いではあったが。

 その点では、アレッタはこの嵐の中で、自分よりも遙かに価値がある。一方の自分はただ、地上ですべてが終わるのを待つだけで、何の有用性もない。それゆえに——まあいいか、最悪、死ぬことになったとしても。カメリアは溜め息を吐いて、樹の根元に座り込んだ。それまで考えていた人生からは少し狂うが、デイビスが死んだら、元よりそんな予定に意味などない。ドレスが泥水を吸って、幽霊のような惨たらしさになっていた。社交界の連中に見られたら、間違いなく貴族としての生命も終わるな、とぼんやり考えたが、そもそもが社交界から締め出されている身ではあった——そういえば、彼に出会うまで、自分はずっと独りだったんだな、と思い返す。

 祈り。
 現実的な苦難を前にして、それはどれほど無益な行為であろう。心細く、自己欺瞞的で、その割に無闇に時間を奪う。しかし、他に差し出せるものは何もない。

 雨に濡れそぼり、カメリアはぬかずいた。怒濤の水に打ちつけられ、ひれ伏すほどに頭を垂れながら——さて、何を口にしようと思い、ふと思い浮かんだのが、旧約聖書の有名な箇所である。

 跪けば、そこが、自然の聖堂になった。
 地上のどこでも、神に祈ることはできる。
 それは信仰心が形を取った営みというよりも、絶えず現状を相対化し、非現実の存在を産み出す、人間の摂理と言った方が良かった。

 ゆえに、神それ自体が、超越の概念である。
 運命に縛られた人間は、神に救いを求める。
 そこに解決があろうがなかろうが、紛れもなく、祈りは、一つの創造であった。

 カメリアは朗々として、祈りの言葉を唱えた。
 その声は強烈な光と翳に彩られ、あちこちから血を噴き出した肌は、幻の光栄に灼かれていた。その跪いて祈る姿は、赦しを乞うようにも、救済者そのものにも見える。

 イザヤ書四十三章より、絶望の淵にあるユダヤの民へ。創造主が、慰めの言葉を語る。


「たとえ水の中をくぐり、
 大きな困難にぶつかっても、
 わたしは共にいる。
 悩みの川を渡るときも、
 おぼれはしない。
 迫害の火の手が上がり、
 そこを通り抜けていくときも心配はない。
 炎はあなたを焼き殺さないからだ。

 わたしは主、あなたの神、あなたの救い主、イスラエルの聖なる神だ。
 わたしはあなたを自由の身とする代わりに、エジプトとエチオピヤとセバを与えた。

 あなたを生かすために他の者が犠牲になった。
 あなたのいのちを買い戻すため、他の者のいのちと交換した。
 わたしにとって、あなたは高価で尊いからだ」


 この言葉から、なにか宿命的な、畏怖と危険の香りのする、生涯を圧倒するようなあの狂的で埃っぽい力を、いったい誰が引き出してくるのだろうか?

 なぜ、この言葉は深淵においても、永遠の如く響くのか。
 宇宙の極致で、このような慰めが、どれほどの価値を持つのだろうか?




「————"わたしはあなたを、愛している"」




 心を埋め尽くすざわめきが晴れあがるように、神からのその言葉が、彼女の心を幾ばくか慰めた。

 凄まじい音響をともなって、稲妻が疾駆する。海が輝いた。ほとんど無感情に、カメリアはそれを一瞥した。

 愛している?
 彼女は笑った。実に陳腐ながら、切実な言葉である。

 もちろん、愛している。結婚だの、駆け落ちだの、ぽんぽんと軽薄なことを言って、そのたびに彼は呆れ返っていた。彼の言動に胸を高鳴らせたし、腹が立ったり、傷つきもした。あの輝くような笑顔が大好きで、こちらまで笑顔になった。これ以上、どんな愛の理由がある? 一緒にいて、本当に楽しかった。

 けれども、初めて————

 祈りに似つかわしくない確信が、迸り出た。その熱っぽさがあまりに凄絶にすぎたため、自分の感情ながら、見知らぬそれのように驚いた。しかしそれは、どこか冷たく、達観した感情でもあった。激しい音で叩きつける冷雨に打たれながら、カメリアはぼんやりと麻痺した顔つきで、その事実に辿り着いた。

(……私、好きなんだ。デイビスのこと)

 それは、「恋」なのだと。
 世間の人間たちが語るように、出会い、語らい、命を尽くすほどに燃える——古代から未来に至る時の流れの中で、ありとあらゆる人間に育まれ、幾億の物語に謳われつつ継がれていった、あの甘く残酷、面映く叙情的な「恋」と同じなのだと、思い知る。

 戯れではなく、子どものようでも、憧憬でも、憐憫でも、博愛的な精神でもない。
 焰のように燃えあがる感情だった。自分が、これほどまでの情熱に培われているなどと知らなかった。暖炉の前で、農村の片隅で、後宮の陰で、賑やかな市場で、父母の胸の中で、多くの人間たちに語り継がれてきた、あの数々の恋愛譚の人物たちと、今、同じ激しさに身を焦がしている。

 笑い飛ばせるような恋ではない。
 すべてが崩れ、打ちひしがれる恋だ。
 生涯に一度しか、こんな恋はすまい。

 だから————



(————もう一度、世界を見に行こう、カメリア。一緒に空を飛んで、冒険しよう。この世の果てまで、ずっとずっと一緒に)



 この人の未来を守ろうと決めた。
 それができれば、どうでもいい。他に、何もいらない。
 それは、本能からの叫びだった。彼が生きることを、魂が求めている。抱き締められたい、口付けられたいという思いよりも、その欲望の方が、地を揺るがすほどに強かった。

 ————本当に、構わないのだね?

 元の時代を発つ際、父親がそう語るのを、他の思いをすべて灼き払うような眼差しで見つめた。やがて溢れた笑みは、この上なく静謐だったのではないかと思う。

 ————お前は、未来に命を捧げるために、この時代に生まれてきたのか。

 それは叱責ではなく、彼女の魂から誓いを引き出すための言葉である。カメリアは父親に配慮するように、その微笑を深めた。

 ————私に自由を教えてくださり、有り難うございました、お父様。人間は何に命を賭けるのか、何に真理を見出すのか、己れで決断する力を持っています。もしも貴族としての道を選んだのであれば、私はつまらぬ流行にうつつを抜かす貴婦人として、この生涯を終えたことでしょう。しかし今や私は、過去も、未来も捉えることができる。大いなる世界の歴史の中で、人々がいかに小さく、尊いかを学びました。それは私の人生の光です。私はこの光輝に照らされ、運命でも、皇帝でもなく、自分の意志で道を選ぶのです。

 カメリアは、その波打つ巻き髪をいつものシニョンに結いあげながら、自らの父親に向かって昂然と宣言する。

 ————私も英雄になりにゆくのです。誰もが恐れる闘いに乗り出してゆく英雄もあれば、人知れずに役目を果たし、草葉の陰に斃れる英雄もあります。けれども、目指すものはみな同じ。英雄とはね、お父様、英雄とは……己れの下にある安楽椅子を蹴飛ばし、苦痛に喘ぐ人々に手を差し伸べる、そんな人間のことを言うのてすわ。

 今より遠く遙かな時代、私たちが生きる世界とは違う時代で、私は、光のような青年に会いました。それが例えほんの少しの間だとしても、ともに同じ時代で夢を見て、私にできることをしてやりたいのです。愚かとも思いませんわ、彼は多くの命を救う人。そしてこれからもずっと、未来の英雄となるべき人間です。その様子を見届けたなら、私はふたたびこの時代に帰り、私のなすべき仕事を果たしましょう。私は、私の選んだこの道が、いかに多くの人々に繋がっているのかを知っています。

 カメリアの僅かな身振りだけで、アレッタは飛翔した。吸いつくように腕に留まり、その小さな頭に頬を寄せながら、愛おしげに、翼へと指を滑らせる。

 ————だがお前の名を、未来の人々は記憶するまいね。その青年の功績は語り継がれても、お前の名は、未来の歴史書にはけして書かれるまいね。

 カメリアは哀しげに微笑んで、柔らかい光の中に立った。

 ————あなたが知っていてくだされば、それでよろしいのよ。どうか記憶なさって、この世の数々の光に目を見開き、それらを愛し抜いた、カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコのことを。


 視界が、真っ白になった。

 膝下まで飛沫をあげるほどの豪雨に鼓膜が痺れ、打たれ続けた肌もまた麻痺し、頭の中には彼以外のことなど何もなかった。冷えた呼吸を繰り返すと、熱い脳のうちに、空気が滑り込んでくる。

 カメリアは、辛うじて呼吸していた。
 闇がいつ明けるのか、雨がいつあがるのかは、嵐天を飛翔している彼の手に委ねられていた。

 前触れもなく訪れたそれは、譫妄だったのか。

 いきなり———鱗の落ちたかの如く、この世ならぬどこかを歩いているデイビスの姿が視えた。カメリアは厳格な眼差しを絞り、その幻視を、恐ろしい力で見つめた。それが何を意味するものなのかを、彼女は魂で知っていた。

 そこでは、激しい光が満ち、どこまでも天へ連なる境界が広がっている。黄金の雲と険しい光栄が溢れて重々しい。境涯はなく、果てもなく、ひたすらに遠大であった。虚空からありとあらゆる抽象が噴き出て、遙か彼方へと人間を誘なう。一切は生き、渦巻いて、無限の力が動いている。

(あなたは、そこへ行くのね)

 カメリアは、知る。デイビスの意志を。

 灼けるような愛おしさは、堪えかねるほどだった。とくとくと胸の中で脈搏つ鼓動を聞きつつ、黄金の光とともに長い道を歩む彼を見る。まもなく、薄い幽かな歓喜——デイビスは生きるつもりだ——に支えられて、物哀しいほどに溢れてくる安堵が、カメリアの全身を包み込んだ。

 栄光は、寂しさに似ていた。ひとり歩む姿を誰も傷つけることがないようにと望みつつ、もはや何にむかって祈りを捧げられよう。彼の栄光は、彼ひとりのものだった。他の何者も、その道を左右できるはずがない。

「失敗しちゃったな。……誰かをこんなに好きになるはず、なかったんだけどな。

 私、どうしてここにいるんだろう——」

 ぽつりと独りごちて、襤褸雑巾のように濡れそぼったカメリアは、ゆっくりと髪を掻きあげながら笑った。

 体が寒くなってきて、ふと、掌の中にお守りのように握り締めていたそれを見つめる。
 金糸雀のピン・ブローチ。その翼はレモンイエローに輝きながら、限りない自由のさなかを飛翔している。初めて出会い、そしてこれを渡された日から、その美しさは何も変わっていない。あの時のデイビスの慌てたような赤面が、目の前によみがえってくるかのようだ。

 彼のそばにいたいか?

 自分には、その答えが分からなかった。ただ、彼が生きてさえいればいい、そんな思いが判断を眩ませる。それで良いのかもしれない。これもまた、ひとつの恋の仕方なのかもしれない。自分のすべてを捧げてでも誰かの生を死守する、それほどに情熱をそそぐ愛が、時には人の上にやってくることもあるものだ。

 カメリアは目を閉じて、絶え間なく雨を降りそそがせる天を仰ぎ、そっと唇を綻ばせた。



「この雨がやんで、空が晴れたら。
 ドリームフライヤーで、世界をめぐりたいなぁ————」



 透明な声が、雨に冷えた空気を震わせる。

 けして美人でないにも関わらず、秘やかに夢を見るカメリアの微笑は、天使のように、あるいは静かな虹のように、美しかった。







 パン、と小さな音が、どこからか響いた。

「なんだ、今の音は?」

 デイビスは顔をあげた。甲高い爆発音ではない——しかし、何かが爆ぜたかのような音。障害物が当たった訳でもない。しかし、鋭く鼓膜に残っている。

『ベース・コントロールより、ストームライダーIIへ。機内気圧に変動が生じています。気圧維持装置は正常に作動していますか?』

「何?」

 確かに、耳の中の空気が太くなったような異常を感じた。計器を確認する。

 セーフティ・バルブが、オープンになっている?

 そのバルブは、故障用のバッファとして取り付けられた安全弁のはずであった。それがオープンになっているということは、すなわち、すでに与圧機能に狂いが生じている。

 その瞬間。

 デイビスは躊躇いもなく、コントロール・パネルの一角のガラスを叩き割り、緊急信号ボタンを押した。セーフティライトが目まぐるしい赤の点滅に変更され、全動作が、緊急用のそれへと切り替わる。警告音がけたたましく響き、最小限の操縦系統以外はすべてオートになった。

「こちらストームライダーII、空気圧コントロール、アウトフロー・バルブに異常あり」

『セーフティ・バルブも正常ですか?』

「いや——おかしい。機体の損傷だろう、恐らく、どこかから空気が漏れている」

『緊急降下を。現在高度から一切、上昇しないでください』

「なら、ストームディフューザーの爆心地グラウンド・ゼロからの脱出は——」

『着水で回避できませんか?』

「フロートは、もう切り捨てているんだ。この風速では、胴体着水も期待できない」

 一瞬の沈黙が、ベースとデイビスの間で、素早い現状認識を交差させた。

 ストーム内に、閉じ込められた——

 消滅させるまでは、この暴風雨の渦の外に出ることは不可能だ。

 先ほどの音は、金属疲労による壁の断裂か? 急減圧には至っていないのか? 何も分からなかった。もし急減圧が発生すれば、このまま機体が爆発する可能性すらある。

(あと少しだというのに——!)

 パイロットの酸素マスクはもう使い切り、再利用することはできない。意識すると、荒い息遣いが、犬のようにデイビスの肺から絞り出される。その瞬間、ぞっと本能的な危機を感じた。全身から血の気が引き、自分という命の結晶が、たった一つの息で、呆気なくくずれた気がした。

 異変を知ったアレッタが、ばさり、と翼をはためかせた。なるべく呼吸を使わないよう、デイビスは囁くようにして、低い声で隼に指示した。

「アレッタ、観測デッキの乗客用酸素マスクを稼働できるか? 全部で百二十二ある。慌てずに、端から順番にチューブを引っ張って、酸素を生成するんだ」

 酸素マスクは、およそ十八分、酸素を生成し続ける。大した量ではないが、それでも、出てゆく酸素量を少しでも賄えれば、御の字である。

「ベース、こちらストームライダーII、現在、乗客用酸素マスクの予備をすべて稼働させようとしている」

『与圧は?』

「追加していない。爆発が怖い」

『とにかく、下降して、気圧差を減らすことです。垂直飛行の現在では、操縦は難しいかもしれませんが、スロットルを慎重に絞ってください』

 機内の気圧はどんどんと下がり始めた。そして酸素マスクのプロセスによって、焦げつく臭いが立ち込めてくると、やがて、自分は火事の現場にいるのではないか、そんな妄想が脳に灼きつき、精神が真っ紅に染まっていった。たった十数秒で、滲み出る汗が頬を滴り、舌に滲みて、塩水を教えた。全存在が、彼ではないものに奪われ始めた。その主人は、気体であり、肺に滑り込む空気であった。なぜだろうか、失神には至らなかった。それが尚のこと、彼を一層追い詰めてゆく。

「ベース……ストームからの脱出が無理なら、このまま観測を続けようと思う。ディフューザー発射後の爆風については、ディメンション・スタビライザーで、飛行しながらやり過ごすしかない」

『ストームライダーIに観測を引き継ぎますか?』

「いや……どの道、俺はここにい続けなければならない。ストームライダーIは、まだサブとしてキープする。発射に辿り着かずにIIがロストしたら、最悪、Iだけでも発射してもらう」

『内部観測は、あと五分もあれば——ストームディフューザーのプロセス演算終了は、そこからさらに二分です。お願い、堪えて』

「あと、五分……」

 破滅的に長い時間が告げられて、デイビスは、足下の床を失ったように思った。一秒でさえ至極苦しいのに、動悸が鉄の如く全身を縛りつけ、無限に奈落の底へと落ちてゆくようだ。

 ———五分の忍耐で、ポート・ディスカバリーは助かる。
 ———七分の忍耐で、己れの命も救われる。

 だがその事実を遠ざけるように、呼吸に喘鳴が混じり始めた。胸がざわつくようで、力ない、虚ろなひゅうひゅうという音が、肺の合間にざわめき、気道を塞いでゆく。それがいかに忍耐を強いるものなのか、経験した者でなければ分かるまい。

(だめ、だ。まだ死ねない。あと少しだ。あとほんの少し、耐え続けなければ——)

 美しい顔は、近づいてくる死苦に歪み、酸欠により涙で霞んだが、この声が無線を通じてもう一人のパイロット、スコットにも届くのかと思うと、どうしても唇を噛んで、呻きを押し殺さずにはいられなかった。細い涎の糸が引き、ぜいぜいと肩が弾み、呼吸は芯を貫き轟いた。その眼は伽藍堂の太陽のように猛烈に輝いている。そしてその全身が、酸素、その一色を、天も裂けよとばかりに欲していた。まるで圧搾機にかけられているかのように、何もかもが消え去り、脳はその黄金の苦痛だけで、滅裂に爆発しそうだった。

『キャプテン・デイビス、失神してはいけません! 蹲踞姿勢を取り、両手を握り締めてください』

「分かっ、た……」

『こちらストームライダーI。キャプテン・デイビス、作戦に変更は』

「ない。当初の予定通り、このまま、続けるぞ。——いいな、キャプテン・スコット」

『……了解ラジャー、キャプテン・デイビス』

 呼吸は憤ろしく、彼を呑み込んでくる。
 操縦をすべてオートに切り替え、ハッチから身を投げれば、あるいはこの苦痛から解放されるかもしれない。泡立つ海。目も眩むような思いだった。場合によっては、うまく飛び込めば、命さえも助かるのかもしれない。だって、前回のミッションでは、ストームライダーごと海に飛び込んだ。それでも全員、助かったのだ。乗客は笑顔すら見せていた。怪我人も誰もいなかった——今回だって、そうなるかもしれない。何かの間違いで奇蹟が起きて、俺は笑って、またスコットやベースに小突かれて、CWCへと生還できるのかもしれない。


(神よ。どうか、俺を助けてください——)


 これ以上に強く、天に祈ったことなどない。

 よろけながら、壮烈に、デイビスはハーネスを外して、立ちあがろうとした。だが、無駄だった。派手な音を立てて床に倒れ込みながら、ただ笛の鳴るような喉の喘鳴とともに、一秒、一秒の地獄を推移する。それは暴れ馬のような轟音を立てて、彼の中を通り過ぎてゆく。

 外へ。
 酸素の逃げてゆく、外へ。

 もう何も、頭が働かなかった。ハッチを開けて、身を投げたいと思う。この酸素のめぐらない地獄から解放されるなら、ポート・ディスカバリーの行く末など、どうでも良い。胸につけた鷹のブローチが、きら、と光った。何かが鼻腔を伝う感覚がして、鼻血が溢れだした。化学プロセスの焦げくさい臭いに合わせて、ぼたり、ぼたりと垂れてゆく鉄錆の臭いを感じながら、なぜ今ここで、意志の力で死ぬことが許されないのか、とデイビスは自分自身を疑った。まるでこの世のすべてが、極限の悪夢を繰り広げて、己れを欺いているかのようである。そして錯乱のさなかで、初めて、明確な死を意識した声が、自分自身の声を模して射してきた。


 ———もう良いじゃないか。終わりにしよう、何もかも。ここまでが、俺の人生なんだ。全力を出したんだ、悔いはない。

 ———生きたい、生きたい、生きたい。俺の人生だ、誰にも譲り渡すものか。俺はまだ、この世で見たいものがあるんだ。


 極限の思考が、天地の落ちかかるように、彼の細く消えかかった意思をぐらつかせる。
 勝つか、負けるか。自然の暴虐は、砂嵐の中に潜む虫のようにのたくって、彼を玩んでくる。

 その中で————


 ———デイビスが決断したのは、七分だった。

 例えそれを選択することにより、さらなる苦痛が増大しようとも、絶望の果てで、彼は死を拒絶した。それがいかなる意思なのか、あるいは偶然に導かれたものなのかも、誰も語れることはない。とにかく、決された裁定は、より長い苦痛の方だったのである。

 ボタンひとつで、操縦をオートに切り替えることはなく。
 錯乱して、海に飛び込むこともない。
 
 強く掴む。あと少し。あと少しなんだ。シートから降りたとはいえ、操縦系統は必ず、自分の手許に死守し続ける——そんな彼の上へ、いたぶることを娯楽とするかのように、雷撃はのたうち回りつつ、矮小な人間一人に狙いを定める。

 彼が床に這いつくばった、その先。
 小窓の向こうで、目を抉るような閃光が、間近にまで押し迫ってきた。







『ぐ、あああああああああ————ッ!!!』




 スコットははっと顔をあげた。激しい絶叫。張り裂けるような落雷の音が、それに続き、一挙に冷や水を浴びせられたように感じる。

 ストームライダーIIは、墜落していない。高度は保たれたままでいた。しかし、たった今無線から聞こえてきた悲鳴に、背筋が凍りつくようだった。目を灼かれたのだろうか? それとも、まさか、直撃したのか?

『あぐ……あ』

「デイビス——!」

『来るな!』

 張り詰めた声が耳を震わせ、スコットは目を見開いた。
 十数秒の沈黙の後で、喘ぐようにデイビスは語りかけた。

『だ……大丈夫だ。……ゴーグル越しだから、問題、ない』

「問題ない訳があるか! デイビス、私と観測を代われ! それ以上は、本当にお前の命が——」

『そこにいろ! 俺が死んだら、あんた一人でストームディフューザーを発射しなければならないんだ。ストームライダーIIのロストが確定するまで、今の地点から、けして高度を下げるな!』

 悲痛な声が響き渡り、胸が千切れたように感じる。スコットは絶句した。これは、夢なのだろうか。かつて、これほどまでに痛めつけられた相棒の声を、聞いたことがあっただろうか。

 ストームディフューザーの威力を知るスコットは、彼から下された命令の意味をよくよく理解していた。もしも一発のディフューザーでこのストームを消滅させる場合、同時発射の八倍の起爆剤を消費する。爆発四散したストームライダーIIは、破片しか残らず、遺体の回収すら不可能になるであろう。

 スコットの胸に、初めて迷いが生じた。
 殉死した相棒を、家族に引き渡すこともできず、その亡骸を粉々に撃ち砕くなど。

 その引き鉄など、とても引けない。
 この男を守るためなら、いくらでも引き鉄を引く。だが、その反対など、ありえない。

『どうした。……怖いのか』

 喘鳴を携えた息の下から、無線の向こうの声は、挑戦的にちいさく笑った。そして、子どもに言い聞かせでもするように、ゆっくりと、穏やかなテノールで語りかけた。

『怖くない、こんなものは。落ち着け、スコット。大丈夫なんだ』

「デイビス。こんなところで死んだら、貴様を張り飛ばすぞ!」

『それが、あんたの本心か』

 静かな鼻笑いが、無線に響いた。

『びっくりした。あんたも、動揺することなんてあるんだな』

 震える唇の端が、濡れていた。やがてスコットは、自分の頬を、涙が伝ってゆくことに気づいた。

『怖くねえよ。平気だ、このくらい。……あんたにできるのは、そこから十字を切って、祈ってくれることだけだよ』

「お前がまた、女に頬を叩かれて、私に泣きつくことにか」

 微かに髪が滑り落ちる音がして、それから、限りなく優しい声が、息吹に乗せるように、そっと呟いた。

『世界平和に、さ』

 スコットは、彼になんと言ったら良いか分からなかった。徐々にデイビスは、自分の知らない誰かへと変貌していってしまう気がする。

 ぜいぜいという荒い呼吸だけが、気のおかしくなりそうなほどに無線を犯していた。しかしこの音がまさに、己れからデイビスを隔て、人ならざる存在へと押しあげてゆく。にじみ出る汗、苦痛に喘ぐしかないその哀れさの中にこそ、異常なまでの威厳が輝いている。それはさながら、神聖な境地に辿り着くには、その傷口をえぐり広げてゆく岩の階段を、身ひとつで登り尽くさねばならぬかのようであった。そして実際に、彼に与えられた一秒は、その階の一段であった。時が経つこと、それ自体は、彼から運命を絞りあげ、真の姿へと変えてゆく拷問機であった。

『ベースより、ミッション最高指揮官へ。……応答は、可能ですか?』

 あまりの喘息に、無駄なことと分かっているとはいえ、ベースも声をかけざるをえない。デイビスは薄く目を開けて、荒い息の下から、柔らかに微笑んだ。

『ああ、構わない。……用件を、伝えろ』

『起爆プロセス計算システム修正プログラムのレビューまで完了しました。デプロイ許可を要請します』

『レビュアーは……何人だ』

『三人。判定はAです』

『よし、デプロイしてくれ!』

『こちらベース・コントロール、デプロイ完了。ログ内のエラー、ワーニングともにゼロ。現状、異常動作は見当たりません』

『了解。……片機ロスト段階には、指示がなくても、プログラムを切り戻せ。引き続き……起爆プロセス計算システムの監視を、継続しろ』

了解ラジャー、キャプテン・デイビス』

 そのデプロイ許可により、スコットは、彼が生きようとしている意志を強く感じ取った。同時発射の可能性を、彼はまだ諦めていない。

 後は、彼の命の灯火が、間に合うかどうか——

 だがそれはいったい、何の因子に作用されるのだろう。
 頑張れ、とも言えない。
 負けるな、とも言えない。
 少なくとも、それらの言葉はより一層、デイビスの精神を追い詰めるであろう。

 この土壇場で、なぜ自分は、彼を守れるような言葉ひとつ吐けないのか。
 本当に自分は、彼の副官と言えるのか?
 何を、どうすれば、手を差し伸べることができるというのか。

(誰でも良い。私の声を聞いてくれ)

 スコットは、祈り始めた。
 何に向かって?
 それを、神、と一言で終わらせて良いものかなのだろうか。

(あいつは、まだ若い。彼の身に、不相応なものを背負わせないでくれ)

 切実に。
 スコットは、この世で初めて、救いを求める。

 自ら以外に、頼みを持たない男だった。
 その男が、念じる。自分よりも絶大なもの、何か巨大な権力を秘めたもの、自らの願いを聞き遂げてくれるものへと。
 胸に滾る火は、薪となり、魂に取り憑く焰となった。

(誰か、お願いだ。聞いてくれ。どうにかして、あいつを救ってほしいんだ)

 刻一刻と、死は近づいていた。
 デイビスは、高度を落として、その重々しい気配から逃げ去ろうとする。しかし手が震えて、スロットルレバーにかけようとした重みが崩れた。

 その途端————

 すべてが奈落の底に投げ出され、宇宙はめくるめく虚無となり、背筋が無くなるような墜落。床があるのに、床は意味をなさなかった。天も地もなくなった。果たして、それは何秒だったのか。しかし永劫に感じられた。恐怖の隙間に吸い込まれてゆく、果てしない転落の中で、握り締めたままのレバーを押し込み、一気にスロットルを戻す。

 突如として、床全面に振動する支えが走り、すべてが重力を思い出す。異常から、正常へ。その一瞬の転換は、今までの一切を嘘へと沈めた。そのおぞましい落下を経験して、デイビスはふたたび、胃液を吐いた。けれども、先ほどよりも確かに、空気の漏出は抑えられてきている。それに、アレッタが酸素を回復させた量が優って——幾らかは、まだ呼吸できる。ぽた、ぽた、と汗の滴がしたたった。

『デイビス、今のはなんだ! 墜落か!?』

「だ——大丈夫、緊急降下に失敗しただけだ。俺は、生きている」

 生きている。
 自らの放った言葉に、例えようもない勇気が生まれた。生きている。生きている限り、俺はこの世で、何でもできる。死んだ後では何もできなくても、俺はまだできる。どんなことだって。

 アレッタが、彼の肩に帰ってきた。これで、観測デッキ内にあるすべての酸素マスクが、酸素を生成していることになる。荒い息遣いを繰り返すデイビスは、床に向かってがなり立てるように、ヘッドマイクの先へと叫ぶ。

「ベース! 演算終了まで、あと何秒だ!?」

『内部観測のおかげで、大分短縮されました——残り時間は、百八秒です』

 その言葉に、デイビスは体が熱くなるのを感じた。僅か二分。その時間で、雌雄が決まる。

 どくん、と心臓が鳴った。

 もはや、計算終了まで待ってから、発射準備開始——などと、悠長なことをしている余裕はない。確実に、ここで殺し切る。賭けるなら、今しかない。

 何が正常で、何が異常なのかの判断もつかない、死刑宣告のような嵐の中。

 デイビスは決心すると、這うようにして、ふたたび、パイロット席に腰掛けることを望んだ。座礁したような這いずり方で、震えながら椅子の背を掴み、淵源には、執念と混濁が入り混じっていた。それはもはや、人ではなかった。そこにあるのは、ただ満遍の焰、おぞましいほどに清冽な焰であって、見ることも憚るばかりの薄光だった。焰は寸毫ずつずりあがり、撫でるようにシートに腕を滑らせ、ハーネスを固定する。そして、意識と肉体が完全に同一化し、何か、身の竦むような物凄まじい力が、追い風として背筋に迫ってきた。どこまでも落下してゆくような緊張感と同時に、めくるめく称揚感が、同時に心臓を貫き、神経を焼き切るような思いがした。飛行士として。ひとりのパイロットとして、彼はそこで操縦桿を握る。片手に生を、片手に死を握り続けたまま。そしてその重みは、確かに、彼の命を脈搏たせていた。

 その時の彼の、鬼気迫る眼差しひとつ、煮え滾る執念に満ちた瞳のひとつで、人の意識さえ刈り取ることができたかもしれない。これほどに集中が世界を凍てつかせることなど、ありえない。もはや知覚は闇で、何も見えはしなかった。そして、途方もない静寂の深淵から、泡が浮かぶように、揺れながら脳へとのぼってくるように。それが聞こえた。確かに、胸いっぱいに聞こえた。

 勝て。

 そう命じた声は、誰のものだったのか。

(まさか——)

 デイビスは語りかけた。

(お前なのか、ストームライダーII。お前は、まだ——)






——————勝て。




 傲岸な王者の如く。
 ストームライダーは、はっきりと、彼にそれを命じた。


「         」




 血の気が引く。五感が研ぎ澄まされる。時が止まったように沈黙が響いて、瞬きひとつできない。それが、最後の力だったのかもしれない。唇が緩慢に動き、その呼び声に辛うじて応答する、その次の瞬間には、破裂するように力がよみがえった。量り知れぬ、甚大な力。指先まで血が鼓動し、逸るような衝動が駆け抜け、並々ならぬ息遣いで満たした。すべては生き返った。生きて、彼に情熱を齎した。この世の一切が、彼の目には見えていた。

 口許へ向けられているマイクのチャンネルを、気象コントロールセンター全域に切り替える。何をすべきかは、もう分かっていた。自分だけが、そこに到達する。血を吐き、泥を啜るように、デイビスは叫ぶ。すべてのCWC職員が、顔をあげて、紫電の走るようなその無線の音を聞く。恐怖に泣き叫ぶ者にも、絶望的なデータと格闘し続ける者にも、迫りくる死を受け入れ始めた者にも、一筋の光のように、等しく闇を切り裂いて響く声。それは暴風雨の中で闘う、一人の天才パイロットからの、最後の希望の合図なのだった。

「こちらストームライダーII、キャプテン・デイビス! ミッション最高指揮官より、CWC総員に告ぐ! これより、ストームディフューザー発射準備段階に移行する。現在時刻、二二ツーツー二八ツーエイト四〇フォアゼロ。ストーム予定消滅時刻、二二ツーツー三五ツリーファイフ〇六ゼロシックス。総員、持ち場にてスタンバイを維持。最大の警戒をもって任務にあたれ!

 ストームライダーI、安全装置を解除せよ!」

了解ラジャー、キャプテン・デイビス』

「エネルギー充填開始スタート! コックピット内の電圧を下げろ! ベース、起爆プロセス計算終了まで、カウントダウンだ!」

了解ラジャー、ストームライダーII。プロセス計算終了まで、あと八十秒』

 叩きつけるような豪風の中で、ストームディフューザーの先端に、凄まじい色の紫電が走り始めた。コロナ放電による聖エルモの火だが、すでに設計段階で織り込み済みの事象だ、ストームライダーが堪えられぬはずはない。ティルトジェットを僅かに起こし、ストームライダーの機動力を取り戻す。嵐の中で一瞬ずつ白く灼きつき、眩ゆくのたくるプラズマが視界を奪わぬよう、デイビスは音のみで障害物の有無を判断した。しかし放電に伴う、視界を叩き割るような雷撃と、火花の煮え滾るノイズだけはどうしようもない。それはまるで、激しい稲妻に拷問されるストームライダーIIの苦悶のようだった。周囲に落ちてくる雨粒が、鉄板に落ちたような音を立てて消滅し、強烈な輝きがデイビスの横顔を照らし出す。ストームライダーの尾翼に近づいてきていた鉄屑を、機尾を振って回避し、それによって暴風に引きずり回されそうになる機体を、無理に操縦桿を引き倒して、ふたたび起こした。胃酸が喉に焼きつき、コックピット内の重力が、船のように大きく揺らいだ。けれども、すべてがゆっくり動くように見える。時間が、無音のまま、彼の指の合間をすり抜けてゆく。アレッタがバランスを崩し、翼をばたつかせながらよろめく。それを肩で受け止めて支えながら、彼は口許のマイクに決然たる声で命じる。

「ストームライダーI、機首を四時の方向へ! 高度四一〇〇〇フィートまで降りてこい!」

『くっ……』

 スコットもまた、上空を覆う激しい雷雲と苦闘しているようだった。整備明けで、耐稲妻の性能も付されたとはいえ、これほどの雷撃の檻の中で操縦するのは、未知の領域である。特に雷は、高所に集まりやすい。稲妻それ自体よりも、視界を剥奪されて状況を見失うことの方が怖い。脳神経を灼き切るような膨大量の光に、ストームライダーIはなんとか抗いつつ下降を試みているようだ。後はスコットの操縦技術に賭けるしかない。まるで、そうすれば彼の魂を引き寄せることができるかの如く、耳を聾するほどの気狂いじみた声で、デイビスはスコットを呼ばい続けた。

「来い、ストームライダーI! ForeignF ObjectO DamageDを警戒し、視界に細心の注意を払え! ドクター・コミネ、目的高度まで、援護を頼む!」

了解ラジャー。いったん、応答を打ち切るぞ』

「ベース——ストームライダーIの降下率を監視し続けてくれ。ロストが危ぶまれた段階で、直ちに俺に報告を」

了解ラジャー。今のところ、高度は一定速度で下降中。異常はありません』

 荒れ狂うストームのうちに閉じ込められた、二体の小竜のような飛行型観測ラボと同じく、ベース・コントロールもまたこの勢力に翻弄されていた。二つのストームライダーの監視と同時に、観測データ収集状況と、起動プロセス計算も確認し続けねばならない。刻々と更新されてゆく手許の数値データは、ざっと六十以上。しかしベースは、同時並行で進めながら、その複雑な状況を脳内に展開し、理解に喰らいついていた。もはや彼女自身が、計算し続ける知の体系であると言って良い。

 今、嵐の下を飛んでいる二機。ストームライダーは、彼女の全てだった。父親の死に泣き伏した幼少期を過ぎて、コミネと知り合い、CWCを立ちあげ、スコットやデイビスとめぐり会う。何ひとつとして失くすことのできない、彼女の彼女たる所以。それを誇りというには、あまりにこの飛行機が齎したものは重すぎる。

(神よ。こんなことをあなたに求めるのは筋違いだと分かっています。

 けれども、どうか——)


 ———どうか、この夢を抱いたことが正しかったのか否かを、私にお教えください。


 魂を突きあげるように沸騰するこの思いは、救済を連れてきたのか、地獄の扉を叩いただけだったのか。それを判断する役は、いったい誰が担うのだろう。

「あと六十秒!」

 彼女は数える。残り時間を。救いまでのタイム・リミットを。
 それが答えだ。一人でも死者を出したら、この夢は間違っていた。この世に存在しない方が良かった。私は罪を犯した。贖罪など、けしてできるものではない。

(神よ、私はどれだけ人々に罰せられても良いです。しかし、ストームライダーに乗る飛行士たちは、どうかあなたの手でお守りください。

 どうか、どうか、彼らだけは————)

 突然、切り裂くようなアレッタの鳴き声が入り、デイビスは操縦桿を掴んだ。咄嗟に、彼はストームライダーを回転させ、左翼側のハッチを犠牲にした。身も凍るような衝突音。寸分違わず狙い通りの箇所に激突し、耳を劈くけたたましい金属音の響き方で、直撃は免れたことを理解するが、開閉機能は潰されたかもしれない。これで出入り口は消え果て、ストームライダーは完全な監獄となった。通常のパイロットならば生命の灯火が掻き消えたと確信するだろうが、しかしデイビスは逆に命拾いを悟り、掠れた息を漏らした。いざとなれば、緊急脱出用の斧でビューポートを叩き割り、ガラスの隙間から外へ這い出すことができる。けれども精密機械をやられたら、一巻の終わりだ。

 ストームライダーIIは、手足を切り落とすように、じわじわと潰れ、装甲が剥がれ、内部が飛び出て、ひしゃげられ、破損していった。機械としての死は迫っていた。しかし彼は、すべてを把握していた。元より、無傷で帰れるなどとは思っていない。それに、肝腎の操縦系統とストームディフューザー周辺は守り切っている。本来、パイロットとしては越権行為だが、彼は以前にストームライダーの設計図を秘密裏に入手して、内部構造をすべて把握していた。搭載されているシステムについても、逆コンパイルしてソースコードをすべてを読み込み、詳細設計書にまで目を通していた。文字通り、彼は一切を理解していたのだ。知りたかった、ストームライダーのことを。その世界を、その魂を、すべて自分の手で掌握したかった。その執念は努力家だなどという範疇には到底収まらず、ほとんど狂気の沙汰に踏み込んでいると言って良い。ストームライダーは、俺の・・飛行機だ。例え嵐であろうと、この飛行機を好きにさせはしない。誰よりも知悉して、最大限の力を引き出してやるのは、世界でたった一人、この俺だ。軽薄だ、問題児だと笑われてきた日々。果たして、CWCのいったい誰が、彼の常軌を逸するまでの執着心、そしてそれを支える、血反吐を吐くような研鑽に気づいていただろう? それはあらゆる未知を猛烈に燃やし尽くし、冷たい無機物の隅々にまで自身の血肉を吹き込み、ともに心臓を鼓動させ、深く深くまで魂を染み込ませたいと渇望する、気違いじみた独占欲である。ストームライダーIIは、俺なんだ・・・・。スロットルを叩き込む。信管の鋭い震えさえ、彼の脊髄を痺れさせる。この大空を飛行して、掌握するのは、俺だ。俺だけが、ストームライダーIIと一体になれる。ここまで回避してきた、数々の飛来物。幾らかは衝突を免れなかったとはいえ、まだストームライダーIIが大空を飛行していること、それ自体がどれほど天文学的な確率であるかという事実を、彼は把握しているのだろうか? まさしく、天才の所業だった。他の何者にも到達は許されない、絶対的な無我の境地。吹き荒れるような強靭な集中力が、彼の周囲を閉ざし切り、針一本刺し貫けないほどの威圧を宿していた。しかし、例えどれほどの才能があろうと、たった一度のミスがあれば、何の意味もない。死は、目前に控えていた。じわじわと蝕むその冷たさに体温を奪われ、ぽっかりと口を開いた空虚に足先を触れさせながら、デイビスはふたたび、あの薄暗い死神の声が、耳許で囁かれるのを感じた。

 ——————生きたいか?

 その問いに、答えてはならない。
 生きるかどうかを決めるのは、お前ではなく、この俺だ。

 恐ろしい破裂音とともに、剛風の渦の中が照らされ尽くす。鼓膜を聾する霹靂が海の上に轟き、そしてその音量に比すればあまりにも細い、しかし巨万のエネルギーを集結させた強烈な光源が疾駆する。視界を剥ぎ取る、マグネシウムを燃焼させたような光が、一瞬、周囲の温度を数度跳ねあげ、そして暴虐の餌食となる生贄を、真下の海面に定め、激越な電流を注ぎこんだ。すっ——と意識が削がれる。その圧倒的な威力もスケールも、けして人間の手では触れられえぬもの。破滅的な反響が、響くもののない海上をどこまでも制圧してゆく。それは、個々の生命が繰り広げる次元ではない、もっと巨体を引きずった、森羅万象の属する世界だった。ここまで達してしまえば、もはや、回避すらもできず、ただ直撃せぬように祈るしかない。しかし震える意志を何度でも鼓舞して、この嵐の中に留まり続けなければならない。デイビスは乾いた喉を鳴らし、唾も出ない口で奥歯を噛み締めた。

 震えが止まらない。それは何を恐れているのだろう。自らの死か? ポート・ディスカバリーの壊滅か? いや——自然現象それ自体への、けして超克することのできない畏怖なのだろうか。今や、自分が何と対峙しているのかも分からない。盲滅法の緊迫が、彼の神経を灼いていた。

 炸裂する爆雷のように時空を押し潰す稲妻は、震える一個の人間とは裏腹の、いかなる目的にも加担しない輝きに満ちて、しかも恍惚としていた。それは、何の従属も、逃げ道もない、至高の放つ光輝である。その光に一切の余念はなく、それがゆえに、あらゆる人権が引き剥がされ、零落する叫びの中に追いやられるのである。呻きも、喜びも、死体も見えない。それはただの実験室、苦痛の可能性を検討されたこともなく、非人類的なものとしてほとばしる、異次元からの爆弾の光なのであった。

 それを前に、たったひとりで対峙することは、言葉を失うばかりか、人間たる資格ですらも失う。この地獄の何者も、彼を「人間」として扱わない。すでに彼は物理であり、物体であり、それ以下の、意識すらも扱われない自然の一部である。今、どよめくような自然の奔流とともに、彼がもはや「彼」でなくなってゆくのを感じた。すべての概念が消失し、掴んでいた指をすり抜けてゆく。正義と悪の戦いなのではない。人類と自然の抗争なのでもない。それはひたすらに原初に還った鬩ぎ合い、力と力とが、法則の諸体系と諸体系とが、ただこの世を蹂躙し合う、それだけの事象であった。

 アレッタの掠れたような唸り声で、デイビスは辛うじて意識を繋いだ。物凄い熱と、物凄い冷感が、同時に彼の身体を支えていた。その両極端で正常性を奪われるせいで、夜空さえも冷酷にくすみ、全ては奇妙な色合いへと変じていった。

「アレッタ、大丈夫だ。……お前だけは必ず、この機内から生きて帰してやる」

 アレッタは、吸い込まれそうなほどに澄んだその人間の、蝶の鱗粉をまぶしたように薄明るい眼を見つめた。彼は気づいていないことだったが、アレッタは、この暴風雨の中でも彼だけしか見ていなかった。そして次第にその真っ黒な眼の底は、嵐と相対する冷徹な強い意志を、静かに渦巻かせていったのだ。

 脱出不可能な豪風の地獄の中で、夥しい量の雨が打ちつけ、海が上から降ってくるかのように感じる。全世界がひっくり返り、そして叩きつけられ、哀れにもストームライダーは、大空から逃げようとする羽虫の如く、無力な存在でしかありえない。

 誰も見る者のない薄闇に、しかし緑の瞳は皓々と輝いていた。それは嵐を駆け抜ける稲妻と同じ、強い意志を宿した雷撃のようだった。奥歯を噛み締め、死を予感させる暴風の中、凍るような集中力をかけてビューポートの彼方を凝視し続ける。計器の針に塗られたラジウム塗料が、無気味に光りながら、彼に生死を握るデータを示し続ける。燃料も、残り少なかった。連続してエンジン出力を制御しているせいだが、彼は首を振った。まだ飛べる。いや、ストームライダーIIは確実に、飛びたがっている。驚くほど鮮明に、その振動が鋼鉄の奥から伝わってきた。息衝き、はっきりと脈搏つように、機体のすべてが彼に共鳴し続ける。エンジンは心臓であり、ガソリンは血液であり、金属の震動は、彼の肉体とともに鼓動していた。恐らくは、異常なまでに冴えた意識が、超巨体の重金属を感じ取り、その節々までも掌中に収めたのだろう。震える息を吐くと、ぞくりと背筋に悪寒が走った。何か重大な合一感が、彼の軀を支配し尽くし、雨に濡れたストームライダーを自分のものとした。それは徹底的な、貫徹された征服だった。そして、嵐とともに逆巻く意識は遠ざかり、世界には彼一人が取り残され、肉体感覚は麻痺し、暗黒の淵。水を打ったような静寂の中で、すべてが、彼の思いに従った。自分さえも存在が定かではない中、手は、足は、針の上に佇むようなストームライダーの行き先を、完璧に掌握した。

 ————お前が強い意志を持つ限り、嵐の中でも、ストームライダーは応えるだろう。俺は最初から、お前が選ばれると思っていた。

 あの夜、薄暗いバーで酒を交わしながら、そう言った相棒の言葉を、けして忘れはしない。デイビスは、眼を見開いたまま、スコットからの応答を待ち続けた。このまま声が返ってこなければ、それはすなわち、彼の機の墜落を意味していた。しかし、この異様なまでの緊迫の中で、ストームライダーIの影を自分が見逃すはずもない。スコットは生きている。それは希望でも何でもなく、状況がそのことを告げていた。


 ————なあ、スコット。強い意志ってなんだ?
 ————俺たちは、無限の人々の物語を背負って、嵐に向かってる。ポート・ディスカバリーだけじゃない。数多くの人々が、無残に命を落としながら、叶わない夢を見たんだ。

 ————人はこの未来に、何を望み、何を託した? 俺たちは、誰だ。どうして、空を飛ぶんだ? ストームライダーって、一体何なんだ?


 薄暗く、稲妻の駆け抜ける沈黙のうちに、どれほどの時間が経っただろう。やがて、あの低く冷静な声が、無線に乗って聞こえてくる。

『こちらストームライダーI、目標地点に到達。Flight Level 410フォアワンゼロ, heading 120ワンツーゼロ

「よし、よくやった、ストームライダーI!
 ストームライダーIIよりベースへ、両機に起爆プロセス計算結果、順次ポート九〇へ送信開始! ストームライダーI、ベース・コントロールとの疎通を確認せよ!」

『こちらベース・コントロール、プロセス計算結果をストームライダー両機へ転送開始。計算終了まで、残り三十二秒』

『ストームライダーIより、ストームライダーIIへ。ベース・コントロールからのSDSへの受信、ポート九〇より確認。ステータスコード、二〇〇。ディレイ、三五〇ミリ秒以下。現在のプロセス計算結果、二二一一八。総計算結果の二分の一をマークしており、問題なしです』

「ストームライダーIIよりベース・コントロールへ、両機疎通確認。このまま発射態勢に入る」

了解ラジャー、ストームライダーII。計算終了まで、あと二十秒です』

 目に見えないものが、デイビスとスコット、ベースの魂を結びつける。それはまるで、ポート・ディスカバリーを儚い未来へと手繰り寄せる、一本の糸だった。それは確かに細い。けれども、彼らがCWCで過ごした多くの思い出が、そのか細い中に込められていた。それは、自然がどれほど猛威を振るおうとも、けして過去から消し去ることのできない、人間同士の繋がりだ。何度否定されても、例え痕跡を根絶されても、彼らが生きていたという事実は、けして存在しなかったことにはならない。そしてそれこそが、たったそれだけが、人類が未来へと挑み続けるに値する、真の意義なのだ。

 彼の脳裏の奥底を、初めてスコットと言葉を交わした瞬間が掠めていった。


 ————君がキャプテン・デイビスか、よろしく。私は上官を担当する、キャプテン・スコットだ。

 ————あんたを知ってるぜ、スコット。ストームライダーのパイロットを目指す奴は、誰もがあんたを夢見てる。俺もその一人だ。

 ————お褒めいただき、光栄だ。いずれは、誰に追い越されるかも分からんがな。


「ストームライダーI、ディメンション・スタビライザーに異常動作は?」

『こちらストームライダーI、計器の値はすべて正常範囲に収まっています』

「未曾有の衝撃波がくる。万全の体制を整えろ」

了解ラジャー、キャプテン・デイビス』

 ストームディフューザーの弾頭に集約されてゆく、エネルギー充填のまばゆい光線に照らされながら、息を荒げるデイビスの身ぬちを、激しい衝動が駆け巡った。まるで、もう一度、かつての燃えあがる夢をよみがえらせるかのように。




 ———最後に、もう一度お聞きします。あなたの選んだ職業は、人々の生命と期待が一心にかかっています。お遊びではありません。これは、未曾有の力との対決であり、人類の未来を象徴するものです。
 もしもミッションに失敗した場合、あなたの人生は大きく様変わりするでしょう。できる限りの補償はしますが、あなたの心に広がる絶望だけはどうしようもありません。それでも、あなたはCWCに入り、ストームライダーのパイロットを志願するというのですね、デイビス?

 ———ええ、気持ちに変わりはありません。幼い頃からずっと、飛行士になりたかった。その時は、ただ空を飛べればいい、自由を味わいたいと思っていた。けれども大人になった今、俺は、ポート・ディスカバリーを愛している。だからこれは、人々の期待に応えるためじゃなくて、俺の、俺自身が叶えるべき夢なんです。




『残り十秒!』

「ドクター・コミネ、頭を防御し、耐ショック姿勢を取れ! ストームライダーI、行くぞ!」

了解ラジャー、キャプテン。Ready to fire!』

『五!』

「最終安全装置、解除! ストームディフューザー、発射用意!」

『三、二、一、—————!』






「———————発射!」



 完全に同期したタイミングで、二人のキャプテンがストームライダーからディフューザーを発出させる。そして設定されたインターバルを正確に挟んで、火薬に着火、一気に起爆。紛れもないストーム自身が、その爆発の推進力を、中心へ運んだ。

 それはまるで、凄まじい颶風に溺れて暴れ回る毒蛇の化身だった。暴発するエネルギーは衝撃波となって襲いかかり、ストームライダーを呑み込み尽くす。

 デイビスがストームライダーIに命じていた高度は、安全圏内に飛び出すのに容易な範囲。この未曾有の状況においても、通常のミッションと同様、比較的暴風の少ない高度を守らせたのは、厳格な命令の中に紛れ込ませた、唯一、デイビスからスコットへの恩返しの証だった。

 だが、ストームに完全に包囲され、逃げ道の存在しないストームライダーIIは、もろにその衝撃波に巻き込まれる。元より、デイビスはそれを予期していた。ストームライダーIとの同時発射により、ストームライダーIIのロストがリスクではなくなった。その瞬間から、彼はパイロットの生存確率よりも、ミッションの成功確率の方に賭けていたのである。

 四方から鉄板を叩きつけられ、床や天井がひっくり返り、天地が翻転するほどの猛烈な衝撃の中で、アレッタは、自分の体が強く抱き締められたのを感じた。けして押し潰すことのないように、けれども力強く覆い被さるような抱擁。綾も見えぬほどの闇と轟音の中で、その敏感な嗅覚は、流れ出る血の臭いを感じ取った。同時に、雨風の音が強くなるのが聞こえる。僅かばかり、窓が開けてあったのだ。ちょうど、鳥が身を潜らせれば出られるほどの細さだったが、しかし今は、そこから超々高温の爆風が流れ込み、アレッタを抱き寄せる者の皮膚を、無残にも炙ろうとしていた。

 ストームライダーの装甲の外側で、すべては連鎖反応を繰り広げていた。それは破壊神が解放の声をあげ、己れの畏怖をその颶風と稲妻に刻み込むかのようだった。あらん限りの反抗勢力が発生し、激突へと臨んだその暴風の巣窟は、あらゆる自然現象を煮え滾らせながら、凄惨なプラズマの悲鳴も、横殴りの雨の慟哭も道連れにし、そして暴発させる。幾らかの雨粒は瞬時に蒸発し、耳障りな音とともに湯気を撒き散らした。ストームディフューザーに込められた威力は、それだけでは終わらなかった。嵐の内部から死刑宣告を撒き散らし、ストームを自滅へと引き摺り込む。風は、引きちぎられるようにその勢力範囲を狭め、奈落の一点へと吸い寄せられ、その引力から逃げることもできない。暴力の渦に閉じ込められたまま、ストームに見放され、死を待つしかなかった。雨雲は掻き乱され、衝撃によってその氷の粒が結ばれ合い、宙に絞り落とされた。それらは起爆によって熱せられた高温の空気と混じり合い、目まぐるしいスパンで雲霞の生成滅々を繰り返す。風によって吹き散らされてゆく水の粒は、飽和百パーセントに達した大気をすり抜け、海に無数の穴を開けつつ、耳を聾する喝采に似た大音量で大量の水を降りそそがせた。超局所的なスコールが、海を蜂の巣にし、通常では考えられない波模様を叩き込む。稲妻は挽き肉のように握り潰され、最後の猛威を振るっていたが、もはやその激しい点滅は悪足掻きとしか見えなかった。雷撃の残す爪痕が、ゆうに数分は搔き消えぬほどに網膜を焦がし、真っ白にその視力を奪う。それは神が煮え滾らせた、おぞましいフラスコと言えよう。凄まじい化学反応を呼び起こして、内部から破壊に引き摺り込む魔の手が、海に大浪を生み、逆巻かせた。激しく攪拌されながら、苦しみ悶えるストームの、それが哀れな末路であった。

「ベースよりストームライダーIIへ、応答せよ! キャプテン・デイビス、聞こえますか!? おふざけはやめて応答なさい! デイビス!」

 半狂乱になって叫ぶベースの声が、ベース・コントロール中に響き渡る。常の冷静さはかけらもなく、ただ、パイロットの生存のみを確認しようと願い、血走った眼で叫び続けていた。

「ベース、落ち着いてください! ストームライダーIIからは、何の反応もありません!」

「メーデーは!?」

「ありません。それどころか、現在位置の座標すらも——!」

「まさか! レーダーから消えたというのですか!?」

 では、機体ごと木っ端微塵に——!?

 急いでレーダースクリーンを確認しようとしたベースの耳に、冷酷な、まるで揺らぎのない長い機械音が鳴り響いた。

 それは、無線はおろか、一切の通信疎通が確認できない場合に発せられる、メイン・システムからの警告音。CWCの管制塔内に響き渡るそれは、まるで心臓が停止し、手遅れとなった心電図を思わせる。

 警告音が切れると、辺りは沈黙に閉ざされた。誰も、何も言わない。まるで世界中が、一斉に沈黙したかのように。

 夜闇の中で、すべては変貌していた。すでにストームは水蒸気の塊となり、どこまでも薄らとした白煙が漂っている。その範囲、半径一キロ以上。遙かまで茫洋とした霧は、さながら世界が生まれる前の渾沌のようであった。まだ、微かに轟音の余韻の残るような錯覚を覚えるが、実際はこの白霧が音響を吸い、不気味なまでに静かである。そして、海。莫大な地平線が、雲霧の彼方に広がり、たった数分前の爆発が虚構であったかの如く、波のうちに、あらゆる過去を沈めた。しかし、ストームライダーIIは、その海面に影も形もない。あれほどの巨体が、どこにも視認できない。

『ストームライダーIからベース・コントロールへ、ゲスト、パイロット両名、負傷なしです。ただ、帰還するにはガソリンが不足しています。

 ストームライダーIIについては、フライトおよび着水の痕跡も見えません。機体の破片すら確認できません』

「キャプテン・スコット……ただちに救助隊を向かわせます。可能であれば、そのまま海面へ着水してください」

了解ラジャー、ベース』

 ベースは嘆息した。これで少なくとも、キャプテン・スコットとドクター・コミネの生命は守られたわけである。この白煙のうちに響いた着水音が、何よりも雄弁にそれを語っている。

 だがいくら待っても、指揮官の放つ、あの明るい太陽のような声は、少しも聞こえてこなかった。無線の疎通が回復する兆しすらない。前回のミッションでは、ほら、見直したか、と得意げに語りかける声すらしたのに、今はもう、沈黙、それ以外に何もない。

 そしてベースの脳裏に、前回のミッションの後の彼の姿が蘇ってきた。ストームを消滅させて帰還した後、彼女の叱責にも何も言わずにこうべを垂れ、静かに司令室を出てゆく後ろ姿。あの背中が、彼の示した、最初で最後の服従だった。

「ベース・コントロールより、全ミッションメンバーに告ぐ。ストームの消滅を確認。これより、救命活動に移ります。ストームライダーI、搭乗者二名の救助を。そして、破損したストームライダーIIの機体と……」


 


「————キャプテン・デイビスの遺体を捜索してください」







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